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aozora_Akutagawa-1921のコンテキスト表示

title Aguni no Kami
author Akutagawa, Ryunosuke
date 1921
source Aozora Bunko (https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/card43014.html)
genre fiction
subcorpus Aozora Bunko
terms of use Creative Commons license


 1アグニの神
 2芥川龍之介
 3
 4支那 の 上海 の 或 町 です 。
 5昼 で も 薄暗い 或 家 の 二 階 に 、 人相 の 悪い 印度人 の 婆さん が 一人 、 商人 らしい 一人 の 亜米利加人 と 何 か 頻に 話し 合っ て い まし た 。
 6「 実は 今度 も お婆さん に 、 占い を 頼み に 来 た の だ が ね 、 ―― 」
 7亜米利加人 は そう 言い ながら 、 新しい 巻煙草 へ 火 を つけ まし た 。
 8「 占い です か ?
 9占い は 当分 見 ない こと に し まし た よ 」
 10婆さん は 嘲る よう に 、 じろり と 相手 の 顔 を 見 まし た 。
 11「 この頃 は 折角 見 て 上げ て も 、 御礼 さえ 碌 に し ない 人 が 、 多く なっ て 来 まし た から ね 」
 12「 そりゃ 勿論 御礼 を する よ 」
 13亜米利加人 は 惜しげ も なく 、 三百 弗 の 小切手 を 一 枚 、 婆さん の 前 へ 投げ て やり まし た 。
 14「 差当り これ だけ 取っ て 置く さ 。
 15もし お婆さん の 占い が 当れ ば 、 その 時 は 別 に 御礼 を する から 、 ―― 」
 16婆さん は 三百 弗 の 小切手 を 見る と 、 急 に 愛想 が よく なり まし た 。
 17「 こんな に 沢山 頂い て は 、 反って 御気の毒 です ね 。
 18―― そうして 一体 又 あなた は 、 何 を 占っ て くれろ と おっしゃる ん です ? 」
 19「 私 が 見 て 貰い たい の は 、 ―― 」
 20亜米利加人 は 煙草 を 啣え た なり 、 狡猾 そう な 微笑 を 浮べ まし た 。
 21「 一体 日米戦争 は いつ ある か という こと な ん だ 。
 22それ さえ ちゃんと わかっ て いれ ば 、 我々 商人 は 忽ち の 内 に 、 大金儲け が 出来る から ね 」
 23「 じゃ 明日 いらっしゃい 。
 24それ まで に 占っ て 置い て 上げ ます から 」
 25「 そう か 。
 26じゃ 間違い の ない よう に 、 ―― 」
 27印度人 の 婆さん は 、 得意 そう に 胸 を 反ら せ まし た 。
 28「 私 の 占い は 五十 年来 、 一 度 も 外れ た こと は ない の です よ 。
 29何しろ 私 の は アグニ の 神 が 、 御自身 御告げ を なさる の です から ね 」
 30亜米利加人 が 帰っ て しまう と 、 婆さん は 次の間 の 戸口 へ 行っ て 、 「 恵蓮 。 恵蓮 」 と 呼び立て まし た 。
 31その 声 に 応じ て 出 て 来 た の は 、 美しい 支那人 の 女の子 です 。
 32が 、 何 か 苦労 でも ある の か 、 この 女の子 の 下ぶくれ の 頬 は 、 まるで 蝋 の よう な 色 を し て い まし た 。
 33「 何 を 愚図々々 し て いる ん だ え ?
 34ほんとう に お前 位 、 ずうずうしい 女 は ありゃ し ない よ 。
 35きっと 又 台所 で 居睡り か 何 か し て い た ん だろう ? 」
 36恵蓮 は いくら 叱ら れ て も 、 じっと 俯向い た まま 黙っ て い まし た 。
 37「 よく お聞き よ 。
 38今夜 は 久しぶり に アグニ の 神 へ 、 御伺い を 立てる ん だ から ね 、
 39その つもり で いる ん だ よ 」
 40女の子 は まっ黒 な 婆さん の 顔 へ 、 悲し そう な 眼 を 挙げ まし た 。
 41「 今夜 です か ? 」
 42「 今夜 の 十二 時 。
 43好い かえ ?
 44忘れ ちゃ いけ ない よ 」
 45印度人 の 婆さん は 、 脅す よう に 指 を 挙げ まし た 。
 46「 又 お前 が この 間 の よう に 、 私 に 世話 ばかり 焼か せる と 、 今度 こそ お前 の 命 は ない よ 。
 47お前 なんぞ は 殺そ う と 思え ば 、 雛っ仔 の 頸 を 絞める より ―― 」
 48こう 言い かけ た 婆さん は 、 急 に 顔 を しかめ まし た 。
 49ふと 相手 に 気がつい て 見る と 、 恵蓮 は いつ か 窓際 に 行っ て 、 丁度 明い て い た 硝子窓 から 、 寂しい 往来 を 眺め て いる の です 。
 50「 何 を 見 て いる ん だ え ? 」
 51恵蓮 は 愈 色 を 失っ て 、 もう 一 度 婆さん の 顔 を 見上げ まし た 。
 52「 よし 、 よし 、 そう 私 を 莫迦 に する ん なら 、 まだ お前 は 痛い目 に 会い 足り ない ん だろう 」
 53婆さん は 眼 を 怒ら せ ながら 、 そこ に あっ た 箒 を ふり上げ まし た 。
 54丁度 その 途端 です 。
 55誰 か 外 へ 来 た と 見え て 、 戸 を 叩く 音 が 、 突然 荒々しく 聞え 始め まし た 。
 56
 57その 日 の かれこれ 同じ 時刻 に 、 この 家 の 外 を 通りかかっ た 、 年 の 若い 一人 の 日本人 が あり ます 。
 58それ が どう 思っ た の か 、 二 階 の 窓 から 顔 を 出し た 支那人 の 女の子 を 一目 見る と 、 しばらく は 呆気にとられ た よう に 、 ぼんやり 立ちすくん で しまい まし た 。
 59そこ へ 又 通りかかっ た の は 、 年 を とっ た 支那人 の 人力車夫 です 。
 60「 おい 。
 61おい 。
 62あの 二 階 に 誰 が 住ん で いる か 、 お前 は 知っ て い ない かね ? 」
 63日本人 は その 人力車夫 へ 、 いきなり こう 問いかけ まし た 。
 64支那人 は 楫棒 を 握っ た まま 、 高い 二 階 を 見上げ まし た が 、 「 あすこ です か ? あすこ に は 、 何 とか いう 印度人 の 婆さん が 住ん で い ます 」 と 、 気味悪 そう に 返事 を する と 、 匆々 行き そう に する の です 。
 65「 まあ 、 待っ て くれ 。
 66そうして その 婆さん は 、 何 を 商売 に し て いる ん だ ? 」
 67「 占い者 です 。
 68が 、 この 近所 の 噂 じゃ 、 何でも 魔法 さえ 使う そう です 。
 69まあ 、 命 が 大事 だっ たら 、 あの 婆さん の 所 なぞ へ は 行か ない 方 が 好い よう です よ 」
 70支那人 の 車夫 が 行っ て しまっ て から 、 日本人 は 腕 を 組ん で 、 何 か 考え て いる よう でし た が 、 やがて 決心 でも つい た の か 、 さっさと その 家 の 中 へ はいっ て 行き まし た 。
 71すると 突然 聞え て 来 た の は 、 婆さん の 罵る 声 に 交っ た 、 支那人 の 女の子 の 泣き声 です 。
 72日本人 は その 声 を 聞く が早いか 、 一 股 に 二三 段 ずつ 、 薄暗い 梯子 を 駈け上り まし た 。
 73そうして 婆さん の 部屋 の 戸 を 力一ぱい 叩き 出し まし た 。
 74戸 は 直ぐ に 開き まし た 。
 75が 、 日本人 が 中 へ はいっ て 見る と 、 そこ に は 印度人 の 婆さん が たった 一人 立っ て いる ばかり 、 もう 支那人 の 女の子 は 、 次の間 へ でも 隠れ た の か 、 影 も 形 も 見当り ませ ん 。
 76「 何 か 御用 です か ? 」
 77婆さん は さも 疑わし そう に 、 じろじろ 相手 の 顔 を 見 まし た 。
 78「 お前さん は 占い者 だろう ? 」
 79日本人 は 腕 を 組ん だ まま 、 婆さん の 顔 を 睨み返し まし た 。
 80「 そう です 」
 81「 じゃ 私 の 用 なぞ は 、 聞か なくて も わかっ て いる じゃ ない か ?
 82私 も 一 つ お前さん の 占い を 見 て 貰い に やって来 た ん だ 」
 83「 何 を 見 て 上げる ん です え ? 」
 84婆さん は 益 疑わし そう に 、 日本人 の 容子 を 窺っ て い まし た 。
 85「 私 の 主人 の 御嬢さん が 、 去年 の 春 行方知れず に なっ た 。
 86それ を 一 つ 見 て 貰い たい ん だ が 、 ―― 」
 87日本人 は 一 句 一 句 、 力 を 入れ て 言う の です 。
 88「 私 の 主人 は 香港 の 日本領事 だ 。
 89御嬢さん の 名 は 妙子さん と おっしゃる 。
 90私 は 遠藤 という 書生 だ が ――
 91どう だ ね ?
 92その 御嬢さん は どこ に いらっしゃる 」
 93遠藤 は こう 言い ながら 、 上衣 の 隠し に 手 を 入れる と 、 一 挺 の ピストル を 引き出し まし た 。
 94「 この 近所 に いらっしゃり は し ない か ?
 95香港 の 警察署 の 調べ た 所 じゃ 、 御嬢さん を 攫っ た の は 、 印度人 らしい という こと だっ た が 、 ―― 隠し立て を する と 為 に なら ん ぞ 」
 96しかし 印度人 の 婆さん は 、 少し も 怖がる 気色 が 見え ませ ん 。
 97見え ない どころか 唇 に は 、 反って 人 を 莫迦 に し た よう な 微笑 さえ 浮べ て いる の です 。
 98「 お前さん は 何 を 言う ん だ え ?
 99私 は そんな 御嬢さん なんぞ は 、 顔 を 見 た こと も ありゃ し ない よ 」
 100「 嘘 を つけ 。
 101今 その 窓 から 外 を 見 て い た の は 、 確 に 御嬢さん の 妙子さん だ 」
 102遠藤 は 片手 に ピストル を 握っ た まま 、 片手 に 次の間 の 戸口 を 指さし まし た 。
 103「 それでも まだ 剛情 を 張る ん なら 、 あすこ に いる 支那人 を つれ て 来い 」
 104「 あれ は 私 の 貰い子 だ よ 」
 105婆さん は やはり 嘲る よう に 、 にやにや 独り 笑っ て いる の です 。
 106「 貰い子 か 貰い子 で ない か 、 一目 見りゃ わかる こと だ 。
 107貴様 が つれ て 来 なけれ ば 、 おれ が あすこ へ 行っ て 見る 」
 108遠藤 が 次の間 へ 踏みこも う と する と 、 咄嗟 に 印度人 の 婆さん は 、 その 戸口 に 立ち塞がり まし た 。
 109「 ここ は 私 の 家 だ よ 。
 110見ず知らず の お前さん なんぞ に 、 奥 へ はいら れ て たまる もの か 」
 111「 退け 。
 112退か ない と 射殺す ぞ 」
 113遠藤 は ピストル を 挙げ まし た 。
 114いや 、 挙げ よう と し た の です 。
 115が 、 その 拍子 に 婆さん が 、 鴉 の 啼く よう な 声 を 立て た か と 思う と 、 まるで 電気 に 打た れ た よう に 、 ピストル は 手 から 落ち て しまい まし た 。
 116これ に は 勇み立っ た 遠藤 も 、 さすが に 胆 を ひしが れ た の でしょう 、
 117ちょいと の 間 は 不思議 そう に 、 あたり を 見廻し て い まし た が 、 忽ち 又 勇気 を とり直す と 、 「 魔法使め 」 と 罵り ながら 、 虎 の よう に 婆さん へ 飛びかかり まし た 。
 118が 、 婆さん も さる もの です 。
 119ひらり と 身 を 躱す が早いか 、 そこ に あっ た 箒 を とっ て 、 又 掴みかかろ う と する 遠藤 の 顔 へ 、 床 の 上 の 五味 を 掃きかけ まし た 。
 120すると 、 その 五味 が 皆 火花 に なっ て 、 眼 と いわ ず 、 口 と いわ ず 、 ばらばら と 遠藤 の 顔 へ 焼きつく の です 。
 121遠藤 は とうとう たまり 兼ね て 、 火花 の 旋風 に 追わ れ ながら 、 転げる よう に 外 へ 逃げ出し まし た 。
 122
 123その 夜 の 十二 時 に 近い 時分 、 遠藤 は 独り 婆さん の 家 の 前 に たたずみ ながら 、 二 階 の 硝子窓 に 映る 火影 を 口惜し そう に 見つめ て い まし た 。
 124「 折角 御嬢さん の 在りか を つきとめ ながら 、 とり戻す こと が 出来 ない の は 残念 だ な 。
 125一そ 警察 へ 訴え よう か ?
 126いや 、 いや 、 支那 の 警察 が 手ぬるい こと は 、 香港 で もう 懲り懲り し て いる 。
 127万一 今度 も 逃げ られ たら 、 又 探す の が 一苦労 だ 。
 128といって あの 魔法使 に は 、 ピストル さえ 役 に 立た ない し 、 ―― 」
 129遠藤 が そんな こと を 考え て いる と 、 突然 高い 二 階 の 窓 から 、 ひらひら 落ち て 来 た 紙切れ が あり ます 。
 130「 おや 、 紙切れ が 落ち て 来 た が 、
 131―― もしや 御嬢さん の 手紙 じゃ ない か ? 」
 132こう 呟い た 遠藤 は 、 その 紙切れ を 、 拾い上げ ながら そっと 隠し た 懐中電燈 を 出し て 、 まん円 な 光 に 照らし て 見 まし た 。
 133すると 果して 紙切れ の 上 に は 、 妙子 が 書い た の に 違いない 、 消え そう な 鉛筆 の 跡 が あり ます 。
 134「 遠藤サン 。
 135コノ 家 ノ オ婆サン ハ 、 恐シイ 魔法使 デス 。
 136時々 真夜中 ニ 私 ノ 体 ヘ 、 『 アグニ 』 トイウ 印度 ノ 神 ヲ 乗リ移ラ セ マス 。
 137私 ハ ソノ 神 ガ 乗リ移ッ テ イル 間中 、 死ン ダ ヨウ ニ ナッ テ イル ノ デス 。
 138デスカラ ドンナ 事 ガ 起ル カ 知リ マセ ン ガ 、 何デモ オ婆サン ノ 話 デ ハ 、 『 アグニ 』 ノ 神 ガ 私 ノ 口 ヲ 借リ テ 、 イロイロ 予言 ヲ スル ノ ダ ソウ デス 。
 139今夜 モ 十二 時 ニ ハ オ婆サン ガ 又 『 アグニ 』 ノ 神 ヲ 乗リ移ラ セ マス 。
 140イツモ ダ ト 私 ハ 知ラズ知ラズ 、 気 ガ 遠ク ナッ テ シマウ ノ デス ガ 、 今夜 ハ ソウ ナラ ナイ 内 ニ 、 ワザト 魔法 ニ カカッ タ 真似 ヲ シ マス 。
 141ソウシテ 私 ヲ オ父様 ノ 所 ヘ 返サ ナイ ト 『 アグニ 』 ノ 神 ガ オ婆サン ノ 命 ヲ トル ト 言ッ テ ヤリ マス 。
 142オ婆サン ハ 何ヨリ モ 『 アグニ 』 ノ 神 ガ 怖イ ノ デス カラ 、 ソレ ヲ 聞ケ バ キット 私 ヲ 返ス ダロウ ト 思イ マス 。
 143ドウカ 明日 ノ 朝 モウ 一 度 、 オ婆サン ノ 所 ヘ 来 テ 下サイ 。
 144コノ 計略 ノ 外 ニ ハ オ婆サン ノ 手 カラ 、 逃ゲ出ス ミチ ハ アリ マセ ン 。
 145サヨウナラ 」
 146遠藤 は 手紙 を 読み 終る と 、 懐中時計 を 出し て 見 まし た 。
 147時計 は 十二 時 五 分 前 です 。
 148「 もう そろそろ 時刻 に なる な 、
 149相手 は あんな 魔法使 だ し 、 御嬢さん は まだ 子供 だ から 、 余程 運 が 好く ない と 、 ―― 」
 150遠藤 の 言葉 が 終ら ない 内 に 、 もう 魔法 が 始まる の でしょう 。
 151今 まで 明るかっ た 二 階 の 窓 は 、 急 に まっ暗 に なっ て しまい まし た 。
 152と同時に 不思議 な 香 の 匂 が 、 町 の 敷石 に も 滲みる 程 、 どこ から か 静 に 漂っ て 来 まし た 。
 153
 154その 時 あの 印度人 の 婆さん は 、 ランプ を 消し た 二 階 の 部屋 の 机 に 、 魔法 の 書物 を 拡げ ながら 、 頻に 呪文 を 唱え て い まし た 。
 155書物 は 香炉 の 火 の 光 に 、 暗い 中 で も 文字 だけ は 、 ぼんやり 浮き上ら せ て いる の です 。
 156婆さん の 前 に は 心配 そう な 恵蓮 が 、 ―― いや 、 支那服 を 着せ られ た 妙子 が 、 じっと 椅子 に 坐っ て い まし た 。
 157さっき 窓 から 落し た 手紙 は 、 無事 に 遠藤さん の 手 へ はいっ た であろう か ?
 158あの 時 往来 に い た 人影 は 、 確 に 遠藤さん だ と 思っ た が 、 もし や 人違い で は なかっ た であろう か ?
 159―― そう 思う と 妙子 は 、 い て も 立っ て も い られ ない よう な 気 が し て 来 ます 。
 160しかし 今 うっかり そんな 気ぶり が 、 婆さん の 眼 に でも 止まっ た が 最後 、 この 恐しい 魔法使い の 家 から 、 逃げ出そ う という 計略 は 、 すぐ に 見破ら れ て しまう でしょう 。
 161ですから 妙子 は 一生懸命 に 、 震える 両手 を 組み合せ ながら 、 かねて たくん で 置い た 通り 、 アグニ の 神 が 乗り移っ た よう に 、 見せかける 時 の 近づく の を 今 か 今 か と 待っ て い まし た 。
 162婆さん は 呪文 を 唱え て しまう と 、 今度 は 妙子 を めぐり ながら 、 いろいろ な 手ぶり を し 始め まし た 。
 163或 時 は 前 へ 立っ た まま 、 両手 を 左右 に 挙げ て 見せ たり 、 又 或 時 は 後 へ 来 て 、 まるで 眼かくし でも する よう に 、 そっと 妙子 の 額 の 上 へ 手 を かざし たり する の です 。
 164もし この 時 部屋 の 外 から 、 誰 か 婆さん の 容子 を 見 て い た と すれ ば 、 それ は きっと 大きな 蝙蝠 か 何 か が 、 蒼白い 香炉 の 火 の 光 の 中 に 、 飛びまわっ て でも いる よう に 見え た でしょう 。
 165その 内 に 妙子 は いつも の よう に 、 だんだん 睡気 が きざし て 来 まし た 。
 166が 、 ここ で 睡っ て しまっ て は 、 折角 の 計略 に かける こと も 、 出来 なく なっ て しまう 道理 です 。
 167そうして これ が 出来 なけれ ば 、 勿論 二 度 と お父さん の 所 へ も 、 帰れ なく なる の に 違いありません 。
 168「 日本 の 神々様 、 どうか 私 が 睡ら ない よう に 、 御守り なすっ て 下さい まし 。
 169その 代り 私 は もう 一 度 、 たとい 一目 で も お父さん の 御顔 を 見る こと が 出来 た なら 、 すぐ に 死ん で も よろしゅう ござい ます 。
 170日本 の 神々様 、 どうか お婆さん を 欺せる よう に 、 御力 を 御貸し 下さい まし 」
 171妙子 は 何 度 も 心 の 中 に 、 熱心 に 祈り を 続け まし た 。
 172しかし 睡気 は おいおい と 、 強く なっ て 来る ばかり です 。
 173と同時に 妙子 の 耳 に は 、 丁度 銅鑼 でも 鳴らす よう な 、 得体 の 知れ ない 音楽 の 声 が 、 かすか に 伝わり 始め まし た 。
 174これ は いつ でも アグニ の 神 が 、 空 から 降り て 来る 時 に 、 きっと 聞える 声 な の です 。
 175もう こう なっ て は いくら 我慢 し て も 、 睡ら ずに いる こと は 出来 ませ ん 。
 176現に 目 の 前 の 香炉 の 火 や 、 印度人 の 婆さん の 姿 でさえ 、 気味 の 悪い 夢 が 薄れる よう に 、 見る見る 消え失せ て しまう の です 。
 177「 アグニ の 神 、 アグニ の 神 、 どうか 私 の 申す こと を 御聞き入れ 下さい まし 」
 178やがて あの 魔法使い が 、 床 の 上 に ひれ伏し た まま 、 嗄れ た 声 を 挙げ た 時 に は 、 妙子 は 椅子 に 坐り ながら 、 殆ど 生死 も 知ら ない よう に 、 いつ か もう ぐっすり 寝入っ て い まし た 。
 179
 180妙子 は 勿論 婆さん も 、 この 魔法 を 使う 所 は 、 誰 の 眼 に も 触れ ない と 、 思っ て い た の に 違いありません 。
 181しかし 実際 は 部屋 の 外 に 、 もう 一人 戸 の 鍵穴 から 、 覗い て いる 男 が あっ た の です 。
 182それ は 一体 誰 でしょう か ?
 183―― 言う までも なく 、 書生 の 遠藤 です 。
 184遠藤 は 妙子 の 手紙 を 見 て から 、 一時 は 往来 に 立っ た なり 、 夜明け を 待と う か と も 思い まし た 。
 185が 、 お嬢さん の 身の上 を 思う と 、 どう し て も じっと し て は い られ ませ ん 。
 186そこで とうとう 盗人 の よう に 、 そっと 家 の 中 へ 忍びこむ と 、 早速 この 二 階 の 戸口 へ 来 て 、 さっき から 透き見 を し て い た の です 。
 187しかし 透き見 を する と言っても 、 何しろ 鍵穴 を 覗く の です から 、 蒼白い 香炉 の 火 の 光 を 浴び た 、 死人 の よう な 妙子 の 顔 が 、 やっと 正面 に 見える だけ です 。
 188その 外 は 机 も 、 魔法 の 書物 も 、 床 に ひれ伏し た 婆さん の 姿 も 、 まるで 遠藤 の 眼 に は はいり ませ ん 。
 189しかし 嗄れ た 婆さん の 声 は 、 手 に とる よう に はっきり 聞え まし た 。
 190「 アグニ の 神 、 アグニ の 神 、 どうか 私 の 申す こと を 御聞き入れ 下さい まし 」
 191婆さん が こう 言っ た と 思う と 、 息 も し ない よう に 坐っ て い た 妙子 は 、 やはり 眼 を つぶっ た まま 、 突然 口 を 利き 始め まし た 。
 192しかも その 声 が どう し て も 、 妙子 の よう な 少女 と は 思わ れ ない 、 荒々しい 男 の 声 な の です 。
 193「 いや 、 おれ は お前 の 願い なぞ は 聞か ない 。
 194お前 は おれ の 言いつけ に 背い て 、 いつも 悪事 ばかり 働い て 来 た 。
 195おれ は もう 今夜限り 、 お前 を 見捨て よう と 思っ て いる 。
 196いや 、 その 上 に 悪事 の 罰 を 下し て やろ う と 思っ て いる 」
 197婆さん は 呆気にとられ た の でしょう 。
 198暫く は 何 と も 答え ずに 、 喘ぐ よう な 声 ばかり 立て て い まし た 。
 199が 、 妙子 は 婆さん に 頓着 せ ず 、 おごそか に 話し 続ける の です 。
 200「 お前 は 憐れ な 父親 の 手 から 、 この 女の子 を 盗ん で 来 た 。
 201もし 命 が 惜しかっ たら 、 明日 と も 言わ ず 今夜 の 内 に 、 早速 この 女の子 を 返す が 好い 」
 202遠藤 は 鍵穴 に 眼 を 当て た まま 、 婆さん の 答 を 待っ て い まし た 。
 203すると 婆さん は 驚き でも する か と 思いの外 、 憎々しい 笑い声 を 洩らし ながら 、 急 に 妙子 の 前 へ 突っ立ち まし た 。
 204「 人 を 莫迦 に する の も 、 好い加減 に おし 。
 205お前 は 私 を 何 だ と 思っ て いる の だ え 。
 206私 は まだ お前 に 欺さ れる 程 、 耄碌 は し て い ない 心算 だ よ 。
 207早速 お前 を 父親 へ 返せ
 208―― 警察 の 御役人 じゃ ある まい し 、 アグニ の 神 が そんな こと を 御言いつけ に なっ て たまる もの か 」
 209婆さん は どこ から とり出し た か 、 眼 を つぶっ た 妙子 の 顔 の 先 へ 、 一 挺 の ナイフ を 突きつけ まし た 。
 210「 さあ 、 正直 に 白状 おし 。
 211お前 は 勿体なく も アグニ の 神 の 、 声色 を 使っ て いる の だろう 」
 212さっき から 容子 を 窺っ て い て も 、 妙子 が 実際 睡っ て いる こと は 、 勿論 遠藤 に は わかり ませ ん 。
 213ですから 遠藤 は これ を 見る と 、 さては 計略 が 露顕 し た か と 思わず 胸 を 躍ら せ まし た 。
 214が 、 妙子 は 相変らず 目蓋 一 つ 動かさ ず 、 嘲笑う よう に 答える の です 。
 215「 お前 も 死に時 が 近づい た な 。
 216おれ の 声 が お前 に は 人間 の 声 に 聞える の か 。
 217おれ の 声 は 低く とも 、 天上 に 燃える 炎 の 声 だ 。
 218それ が お前 に は わから ない の か 。
 219わから なけれ ば 、 勝手 に する が 好い 。
 220おれ は 唯 お前 に 尋ねる の だ 。
 221すぐ に この 女の子 を 送り返す か 、
 222それとも おれ の 言いつけ に 背く か ―― 」
 223婆さん は ちょいと ためらっ た よう です 。
 224が 、 忽ち 勇気 を とり直す と 、 片手 に ナイフ を 握り ながら 、 片手 に 妙子 の 襟髪 を 掴ん で 、 ずるずる 手もと へ 引き寄せ まし た 。
 225「 この 阿魔め 。
 226まだ 剛情 を 張る 気 だ な 。
 227よし 、 よし 、 それなら 約束 通り 、 一思いに 命 を とっ て やる ぞ 」
 228婆さん は ナイフ を 振り上げ まし た 。
 229もう 一 分間 遅れ て も 、 妙子 の 命 は なくなり ます 。
 230遠藤 は 咄嗟 に 身 を 起す と 、 錠 の かかっ た 入口 の 戸 を 無理無体 に 明け よう と し まし た 。
 231が 、 戸 は 容易 に 破れ ませ ん 。
 232いくら 押し て も 、 叩い て も 、 手 の 皮 が 摺り剥ける ばかり です 。
 233
 234その 内 に 部屋 の 中 から は 、 誰 か の わっ と 叫ぶ 声 が 、 突然 暗やみ に 響き まし た 。
 235それから 人 が 床 の 上 へ 、 倒れる 音 も 聞え た よう です 。
 236遠藤 は 殆ど 気違い の よう に 、 妙子 の 名前 を 呼びかけ ながら 、 全身 の 力 を 肩 に 集め て 、 何 度 も 入口 の 戸 へ ぶつかり まし た 。
 237板 の 裂ける 音 、
 238錠 の はね飛ぶ 音 、
 239―― 戸 は とうとう 破れ まし た 。
 240しかし 肝腎 の 部屋 の 中 は 、 まだ 香炉 に 蒼白い 火 が めらめら 燃え て いる ばかり 、 人気 の ない よう に しんと し て い ます 。
 241遠藤 は その 光 を 便り に 、 怯ず怯ず あたり を 見廻し まし た 。
 242すると すぐ に 眼 に はいっ た の は 、 やはり じっと 椅子 に かけ た 、 死人 の よう な 妙子 です 。
 243それ が 何故 か 遠藤 に は 、 頭 に 毫光 でも かかっ て いる よう に 、 厳か な 感じ を 起さ せ まし た 。
 244「 御嬢さん 、 御嬢さん 」
 245遠藤 は 椅子 へ 行く と 、 妙子 の 耳もと へ 口 を つけ て 、 一生懸命 に 叫び立て まし た 。
 246が 、 妙子 は 眼 を つぶっ た なり 、 何 と も 口 を 開き ませ ん 。
 247「 御嬢さん 。
 248しっかり おし なさい 。
 249遠藤 です 」
 250妙子 は やっと 夢 が さめ た よう に 、 かすか な 眼 を 開き まし た 。
 251「 遠藤さん ? 」
 252「 そう です 。
 253遠藤 です 。
 254もう 大丈夫 です から 、 御安心 なさい 。
 255さあ 、 早く 逃げ ましょ う 」
 256妙子 は まだ 夢現 の よう に 、 弱々しい 声 を 出し まし た 。
 257「 計略 は 駄目 だっ た わ 。
 258つい 私 が 眠っ て しまっ た もの だ から 、
 259―― 堪忍 し て 頂戴 よ 」
 260「 計略 が 露顕 し た の は 、 あなた の せい じゃ あり ませ ん よ 。
 261あなた は 私 と 約束 し た 通り 、 アグニ の 神 の 憑っ た 真似 を やり 了せ た じゃ あり ませ ん か ?
 262―― そんな こと は どう でも 好い こと です 。
 263さあ 、 早く 御逃げ なさい 」
 264遠藤 は もどかし そう に 、 椅子 から 妙子 を 抱き起し まし た 。
 265「 あら 、 嘘 。
 266私 は 眠っ て しまっ た の です もの 。
 267どんな こと を 言っ た か 、 知り は し ない わ 」
 268妙子 は 遠藤 の 胸 に 凭れ ながら 、 呟く よう に こう 言い まし た 。
 269「 計略 は 駄目 だっ た わ 。
 270とても 私 は 逃げ られ なくっ て よ 」
 271「 そんな こと が ある もの です か 。
 272私 と 一しょ に いらっしゃい 。
 273今度 しくじっ たら 大変 です 」
 274「 だって お婆さん が いる でしょう ? 」
 275「 お婆さん ? 」
 276遠藤 は もう 一 度 、 部屋 の 中 を 見廻し まし た 。
 277机 の 上 に は さっき の 通り 、 魔法 の 書物 が 開い て ある 、
 278―― その 下 へ 仰向き に 倒れ て いる の は 、 あの 印度人 の 婆さん です 。
 279婆さん は 意外 に も 自分 の 胸 へ 、 自分 の ナイフ を 突き立て た まま 、 血だまり の 中 に 死ん で い まし た 。
 280「 お婆さん は どうして ? 」
 281「 死ん で い ます 」
 282妙子 は 遠藤 を 見上げ ながら 、 美しい 眉 を ひそめ まし た 。
 283「 私 、 ちっとも 知ら なかっ た わ 。
 284お婆さん は 遠藤さん が ―― あなた が 殺し て しまっ た の ? 」
 285遠藤 は 婆さん の 屍骸 から 、 妙子 の 顔 へ 眼 を やり まし た 。
 286今夜 の 計略 が 失敗 し た こと が 、 ―― しかし その 為 に 婆さん も 死ね ば 、 妙子 も 無事 に 取り返せ た こと が 、 ―― 運命 の 力 の 不思議 な こと が 、 やっと 遠藤 に も わかっ た の は 、 この 瞬間 だっ た の です 。
 287「 私 が 殺し た の じゃ あり ませ ん 。
 288あの 婆さん を 殺し た の は 今夜 ここ へ 来 た アグニ の 神 です 」
 289遠藤 は 妙子 を 抱え た まま 、 おごそか に こう 囁き まし た 。