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aozora_Akutagawa-1922のコンテキスト表示

title Torokko
author Akutagawa, Ryunosuke
date 1922
source Aozora Bunko (https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/card43016.html)
genre fiction
subcorpus Aozora Bunko
terms of use Creative Commons license


 1トロッコ
 2芥川龍之介
 3小田原 熱海(あたみ) 間 に 、 軽便鉄道敷設(ふせつ) の 工事 が 始まっ た の は 、 良平(りょうへい) の 八 つ の 年 だっ た 。
 4良平 は 毎日 村外(はず)れ へ 、 その 工事 を 見物 に 行っ た 。
 5工事 を ―― といったところが 、 唯(ただ) トロッコ で 土 を 運搬 する ―― それ が 面白さ に 見 に 行っ た の で ある 。
 6トロッコ の 上 に は 土工 が 二人 、 土 を 積ん だ 後(うしろ) に 佇(たたず)ん で いる 。
 7トロッコ は 山 を 下(くだ)る の だ から 、 人手 を 借り ずに 走っ て 来る 。
 8煽(あお)る よう に 車台 が 動い たり 、 土工 の 袢天(はんてん) の 裾(すそ) が ひらつい たり 、 細い 線路 が しなっ たり ―― 良平 は そんな けしき を 眺(なが)め ながら 、 土工 に なり たい と 思う 事 が ある 。
 9せめて は 一 度 で も 土工 と 一しょ に 、 トロッコ へ 乗り たい と 思う 事 も ある 。
 10トロッコ は 村外れ の 平地 へ 来る と 、 自然 と 其処(そこ) に 止まっ て しまう 。
 11と同時に 土工たち は 、 身軽 に トロッコ を 飛び降りる が早いか 、 その 線路 の 終点 へ 車 の 土 を ぶちまける 。
 12それから 今度 は トロッコ を 押し 押し 、 もと 来 た 山 の 方 へ 登り 始める 。
 13良平 は その 時 乗れ ない までも 、 押す 事 さえ 出来 たら と 思う の で ある 。
 14或(ある) 夕方 、―― それ は 二 月 の 初旬 だっ た 。
 15良平 は 二 つ 下 の 弟 や 、 弟 と 同じ 年 の 隣 の 子供 と 、 トロッコ の 置い て ある 村外れ へ 行っ た 。
 16トロッコ は 泥だらけ に なっ た まま 、 薄明るい 中 に 並ん で いる 。
 17が 、 その 外(ほか) は 何処(どこ) を 見 て も 、 土工たち の 姿 は 見え なかっ た 。
 18三 人 の 子供 は 恐る恐る 、 一番 端(はし) に ある トロッコ を 押し た 。
 19トロッコ は 三 人 の 力 が 揃(そろ)う と 、 突然 ごろりと 車輪 を まわし た 。
 20良平 は この 音 に ひやりと し た 。
 21しかし 二 度目 の 車輪 の 音 は 、 もう 彼 を 驚かさ なかっ た 。
 22ごろり 、 ごろり 、 ―― トロッコ は そう云う 音 と共に 、 三 人 の 手 に 押さ れ ながら 、 そろそろ 線路 を 登っ て 行っ た 。
 23その 内 に かれこれ 十 間(けん) 程 来る と 、 線路 の 勾配(こうばい) が 急 に なり 出し た 。
 24トロッコ も 三 人 の 力 で は 、 いくら 押し て も 動か なく なっ た 。
 25どう か すれ ば 車 と 一しょ に 、 押し戻さ れ そう に も なる 事 が ある 。
 26良平 は もう 好(よ)い と 思っ た から 、 年下 の 二人 に 合図 を し た 。
 27「 さあ 、 乗ろ う ! 」
 28彼等 は 一 度 に 手 を はなす と 、 トロッコ の 上 へ 飛び乗っ た 。
 29トロッコ は 最初 徐(おもむ)ろに 、 それから 見る見る 勢(いきおい)よく 、 一息 に 線路 を 下(くだ)り 出し た 。
 30その 途端 に つき当り の 風景 は 、 忽(たちま)ち 両側 へ 分かれる よう に 、 ずんずん 目 の 前 へ 展開 し て 来る 。
 31顔 に 当る 薄暮(はくぼ) の 風 、 足 の 下 に 躍(おど)る トロッコ の 動揺 、 ――
 32良平 は 殆(ほとん)ど 有頂天(うちょうてん) に なっ た 。
 33しかし トロッコ は 二三 分 の 後(のち) 、 もう もと の 終点 に 止まっ て い た 。
 34「 さあ 、 もう 一 度 押す じゃあ 」
 35良平 は 年下 の 二人 と 一しょ に 、 又 トロッコ を 押し上げ に かかっ た 。
 36が 、 まだ 車輪 も 動か ない 内 に 、 突然 彼等 の 後(うしろ) に は 、 誰 か の 足音 が 聞え 出し た 。
 37のみならず それ は 聞え 出し た と 思う と 、 急 に こう云う 怒鳴り声 に 変っ た 。
 38「 この 野郎 !
 39誰 に 断(ことわ)っ て トロ に 触(さわ)っ た ? 」
 40其処 に は 古い 印袢天(しるしばんてん) に 、 季節外れ の 麦藁帽(むぎわらぼう) を かぶっ た 、 背 の 高い 土工 が 佇ん で いる 。
 41―― そう云う 姿 が 目 に はいっ た 時 、 良平 は 年下 の 二人 と 一しょ に 、 もう 五六 間 逃げ出し て い た 。
 42―― それ ぎり 良平 は 使 の 帰り に 、 人気 の ない 工事場 の トロッコ を 見 て も 、 二 度 と 乗っ て 見 よう と 思っ た 事 は ない 。
 43唯 その 時 の 土工 の 姿 は 、 今 で も 良平 の 頭 の 何処 か に 、 はっきり し た 記憶 を 残し て いる 。
 44薄明り の 中 に 仄(ほの)めい た 、 小さい 黄色 の 麦藁帽 、
 45―― しかし その 記憶 さえ も 、 年毎(としごと) に 色彩 は 薄れる らしい 。
 46その 後(のち) 十 日 余り たっ て から 、 良平 は 又 たった 一人 、 午(ひる)過ぎ の 工事場 に 佇み ながら 、 トロッコ の 来る の を 眺め て い た 。
 47すると 土 を 積ん だ トロッコ の 外(ほか) に 、 枕木(まくらぎ) を 積ん だ トロッコ が 一 輛(りょう) 、
 48これ は 本線 に なる 筈(はず) の 、 太い 線路 を 登っ て 来 た 。
 49この トロッコ を 押し て いる の は 、 二人 とも 若い 男 だっ た 。
 50良平 は 彼等 を 見 た 時 から 、 何だか 親しみ易(やす)い よう な 気 が し た 。
 51「 この 人たち ならば 叱(しか) られ ない 」
 52―― 彼 は そう 思い ながら 、 トロッコ の 側(そば) へ 駈(か)け て 行っ た 。
 53「 おじさん 。
 54押し て やろ う か ? 」
 55その 中 の 一人 、 ―― 縞(しま) の シャツ を 着 て いる 男 は 、 俯向(うつむ)き に トロッコ を 押し た まま 、 思っ た 通り 快い 返事 を し た 。
 56「 おお 、 押し てく よう 」
 57良平 は 二人 の 間 に はいる と 、 力一杯 押し 始め た 。
 58「 われ は 中中(なかなか) 力 が ある な 」
 59他(た) の 一人 、 ―― 耳 に 巻煙草(まきたばこ) を 挟(はさ)ん だ 男 も 、 こう 良平 を 褒(ほ)め て くれ た 。
 60その 内 に 線路 の 勾配 は 、 だんだん 楽 に なり 始め た 。
 61「 もう 押さ なく とも 好(よ)い 」
 62―― 良平 は 今 に も 云わ れる か と 内心 気がかり で なら なかっ た 。
 63が 、 若い 二人 の 土工 は 、 前 より も 腰 を 起し た ぎり 、 黙黙 と 車 を 押し 続け て い た 。
 64良平 は とうとう こらえ 切れ ずに 、 怯(お)ず怯(お)ず こんな 事 を 尋ね て 見 た 。
 65「 何時(いつ) まで も 押し て い て 好(い)い ? 」
 66「 好い とも 」
 67二人 は 同時 に 返事 を し た 。
 68良平 は 「 優しい 人たち だ 」 と 思っ た 。
 69五六 町 余り 押し 続け たら 、 線路 は もう 一 度 急勾配 に なっ た 。
 70其処 に は 両側 の 蜜柑畑(みかんばたけ) に 、 黄色い 実 が いく つ も 日 を 受け て いる 。
 71「 登り路(みち) の 方 が 好い 、
 72何時(いつ) まで も 押さ せ て くれる から 」
 73―― 良平 は そんな 事 を 考え ながら 、 全身 で トロッコ を 押す よう に し た 。
 74蜜柑畑 の 間 を 登りつめる と 、 急 に 線路 は 下(くだ)り に なっ た 。
 75縞 の シャツ を 着 て いる 男 は 、 良平 に 「 やい 、 乗れ 」 と 云っ た 。
 76良平 は 直(すぐ) に 飛び乗っ た 。
 77トロッコ は 三 人 が 乗り移る と同時に 、 蜜柑畑 の 匂(におい) を 煽(あお)り ながら 、 ひた辷(すべ)り に 線路 を 走り 出し た 。
 78「 押す より も 乗る 方 が ずっと 好い 」
 79―― 良平 は 羽織 に 風 を 孕(はら)ま せ ながら 、 当り前 の 事 を 考え た 。
 80「 行き に 押す 所 が 多けれ ば 、 帰り に 又 乗る 所 が 多い 」
 81―― そう も また 考え たり し た 。
 82竹藪(たけやぶ) の ある 所 へ 来る と 、 トロッコ は 静か に 走る の を 止(や)め た 。
 83三 人 は 又 前 の よう に 、 重い トロッコ を 押し 始め た 。
 84竹藪 は 何時か 雑木林 に なっ た 。
 85爪先(つまさき)上り の 所所(ところどころ) に は 、 赤錆(あかさび) の 線路 も 見え ない 程 、 落葉 の たまっ て いる 場所 も あっ た 。
 86その 路 を やっと 登り 切っ たら 、 今度 は 高い 崖(がけ) の 向う に 、 広広 と 薄ら寒い 海 が 開け た 。
 87と同時に 良平 の 頭 に は 、 余り 遠く 来 過ぎ た 事 が 、 急 に はっきり と 感じ られ た 。
 88三 人 は 又 トロッコ へ 乗っ た 。
 89車 は 海 を 右 に し ながら 、 雑木 の 枝 の 下 を 走っ て 行っ た 。
 90しかし 良平 は さっき の よう に 、 面白い 気もち に は なれ なかっ た 。
 91「 もう 帰っ て くれれ ば 好(い)い 」
 92―― 彼 は そう も 念じ て 見 た 。
 93が 、 行く 所 まで 行きつか なけれ ば 、 トロッコ も 彼等 も 帰れ ない 事 は 、 勿論(もちろん) 彼 に も わかり 切っ て い た 。
 94その 次 に 車 の 止まっ た の は 、 切崩(きりくず)し た 山 を 背負っ て いる 、 藁屋根 の 茶店 の 前 だっ た 。
 95二人 の 土工 は その 店 へ はいる と 、 乳呑児(ちのみご) を おぶっ た 上(かみ)さん を 相手 に 、 悠悠(ゆうゆう) と 茶 など を 飲み 始め た 。
 96良平 は 独(ひと)り いらいら し ながら 、 トロッコ の まわり を まわっ て 見 た 。
 97トロッコ に は 頑丈(がんじょう) な 車台 の 板 に 、 跳(は)ねかえっ た 泥 が 乾(かわ)い て い た 。
 98少時(しばらく) の 後(のち) 茶店 を 出 て 来 しな に 、 巻煙草 を 耳 に 挟(はさ)ん だ 男 は 、 ( その 時 は もう 挟ん で い なかっ た が ) トロッコ の 側 に いる 良平 に 新聞紙 に 包ん だ 駄菓子 を くれ た 。
 99良平 は 冷淡 に 「 難有(ありがと)う 」 と 云っ た 。
 100が 、 直(すぐ) に 冷淡 に し て は 、 相手 に すま ない と 思い 直し た 。
 101彼 は その 冷淡さ を 取り繕う よう に 、 包み菓子 の 一 つ を 口 へ 入れ た 。
 102菓子 に は 新聞紙 に あっ た らしい 、 石油 の が しみつい て い た 。
 103三 人 は トロッコ を 押し ながら 緩(ゆる)い 傾斜 を 登っ て 行っ た 。
 104良平 は 車 に 手 を かけ て い て も 、 心 は 外(ほか) の 事 を 考え て い た 。
 105その 坂 を 向う へ 下(お)り 切る と 、 又 同じ よう な 茶店 が あっ た 。
 106土工たち が その 中 へ はいっ た 後(あと) 、 良平 は トロッコ に 腰 を かけ ながら 、 帰る 事 ばかり 気にし て い た 。
 107茶店 の 前 に は 花 の さい た 梅 に 、 西日 の 光 が 消え かかっ て いる 。
 108「 もう 日 が 暮れる 」
 109―― 彼 は そう 考える と 、 ぼんやり 腰かけ て も い られ なかっ た 。
 110トロッコ の 車輪 を 蹴(け)っ て 見 たり 、 一人 で は 動か ない の を 承知 し ながら うんうん それ を 押し て 見 たり 、―― そんな 事 に 気もち を 紛らせ て い た 。
 111ところが 土工たち は 出 て 来る と 、 車 の 上 の 枕木(まくらぎ) に 手 を かけ ながら 、 無造作(むぞうさ) に 彼 に こう 云っ た 。
 112「 われ は もう 帰んな 。
 113おれたち は 今日 は 向う 泊り だ から 」
 114「 あんまり 帰り が 遅く なる と われ の 家(うち) で も 心配 する ずら 」
 115良平 は 一瞬間 呆気(あっけ)にとられ た 。
 116もう かれこれ 暗く なる 事 、 去年 の 暮 母 と 岩村 まで 来 た が 、 今日 の 途(みち) は その 三四 倍 ある 事 、 それ を 今 から たった 一人 、 歩い て 帰ら なけれ ば なら ない 事 、 ―― そう云う 事 が 一時 に わかっ た の で ある 。
 117良平 は 殆(ほとん)ど 泣き そう に なっ た 。
 118が 、 泣い て も 仕方 が ない と 思っ た 。
 119泣い て いる 場合 で は ない と も 思っ た 。
 120彼 は 若い 二人 の 土工 に 、 取って附け た よう な 御時宜(おじぎ) を する と 、 どんどん 線路伝い に 走り 出し た 。
 121良平 は 少時(しばらく) 無我夢中 に 線路 の 側 を 走り 続け た 。
 122その 内 に 懐(ふところ) の 菓子包み が 、 邪魔 に なる 事 に 気がつい た から 、 それ を 路側(みちばた) へ 抛(ほ)り出す 次手(ついで) に 、 板草履(いたぞうり) も 其処 へ 脱ぎ捨て て しまっ た 。
 123すると 薄い 足袋(たび) の 裏 へ じか に 小石 が 食いこん だ が 、 足 だけ は 遙(はる)か に 軽く なっ た 。
 124彼 は 左 に 海 を 感じ ながら 、 急 な 坂路(さかみち) を 駈(か)け登っ た 。
 125時時 涙 が こみ上げ て 来る と 、 自然 に 顔 が 歪(ゆが)ん で 来る 。
 126―― それ は 無理 に 我慢 し て も 、 鼻 だけ は 絶えず くうくう 鳴っ た 。
 127竹藪 の 側 を 駈け抜ける と 、 夕焼け の し た 日金山(ひがねやま) の 空 も 、 もう 火照(ほて)り が 消え かかっ て い た 。
 128良平 は 、 愈(いよいよ) 気が気でなかっ た 。
 129往(ゆ)き と 返(かえ)り と 変る せい か 、 景色 の 違う の も 不安 だっ た 。
 130すると 今度 は 着物 まで も 、 汗 の 濡(ぬ)れ通っ た の が 気 に なっ た から 、 やはり 必死 に 駈け 続け た なり 、 羽織 を 路側(みちばた) へ 脱い で 捨て た 。
 131蜜柑畑 へ 来る 頃 に は 、 あたり は 暗く なる 一方 だっ た 。
 132「 命 さえ 助かれ ば ―― 」
 133良平 は そう 思い ながら 、 辷(すべ)っ て も つまずい て も 走っ て 行っ た 。
 134やっと 遠い 夕闇(ゆうやみ) の 中 に 、 村外れ の 工事場 が 見え た 時 、 良平 は 一思い に 泣き たく なっ た 。
 135しかし その 時 も べそ は かい た が 、 とうとう 泣か ずに 駈け 続け た 。
 136彼 の 村 へ はいっ て 見る と 、 もう 両側 の 家家 に は 、 電燈 の 光 が さし 合っ て い た 。
 137良平 は その 電燈 の 光 に 、 頭 から 汗 の 湯気(ゆげ) の 立つ の が 、 彼 自身 に も はっきり わかっ た 。
 138井戸端 に 水 を 汲(く)ん で いる 女衆(おんなしゅう) や 、 畑 から 帰っ て 来る 男衆(おとこしゅう) は 、 良平 が 喘(あえ)ぎ喘ぎ 走る の を 見 て は 、 「 おい どう し た ね ? 」 など と 声 を かけ た 。
 139が 、 彼 は 無言 の まま 、 雑貨屋 だの 床屋 だの 、 明るい 家 の 前 を 走り過ぎ た 。
 140彼 の 家(うち) の 門口(かどぐち) へ 駈けこん だ 時 、 良平 は とうとう 大声 に 、 わっと 泣き 出さ ずに は い られ なかっ た 。
 141その 泣き声 は 彼 の 周囲(まわり) へ 、 一時 に 父 や 母 を 集まら せ た 。
 142殊(こと)に 母 は 何とか 云い ながら 、 良平 の 体 を 抱(かか)える よう に し た 。
 143が 、 良平 は 手足 を もがき ながら 、 啜(すす)り上げ啜り上げ 泣き 続け た 。
 144その 声 が 余り 激しかっ た せい か 、 近所 の 女衆 も 三四 人 、 薄暗い 門口 へ 集っ て 来 た 。
 145父母 は 勿論 その 人たち は 、 口口 に 彼 の 泣く 訣(わけ) を 尋ね た 。
 146しかし 彼 は 何 と 云わ れ て も 泣き立てる より 外 に 仕方 が なかっ た 。
 147あの 遠い 路 を 駈け 通し て 来 た 、 今 まで の 心細さ を ふり返る と 、 いくら 大声 に 泣き 続け て も 、 足り ない 気もち に 迫ら れ ながら 、 …………
 148良平 は 二十六 の 年 、 妻子(さいし) と 一しょ に 東京 へ 出 て 来 た 。
 149今 で は 或 雑誌社 の 二 階 に 、 校正 の 朱筆(しゅふで) を 握っ て いる 。
 150が 、 彼 は どう か する と 、 全然 何 の 理由 も ない のに 、 その 時 の 彼 を 思い出す 事 が ある 。
 151全然 何 の 理由 も ない のに ?
 152―― 塵労(じんろう) に 疲れ た 彼 の 前 に は 今 で も やはり その 時 の よう に 、 薄暗い 藪 や 坂 の ある 路 が 、 細細 と 一すじ 断続 し て いる 。 …………