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aozora_Dazai-1-1940のコンテキスト表示

title:Sake-girai
author:Dazai, Osamu
date:1940
source:Chisei Vol. 3, No. 3; Aozora Bunko (http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/card18350.html)
genre:fiction
subcorpus:Aozora Bunko
terms of use:Creative Commons license


 1酒ぎらい
 2太宰治
 3二 日 つづけ て 酒 を 呑ん だ の で ある 。
 4おととい の 晩 と 、 きのう と 、 二 日 つづけ て 酒 を 呑ん で 、 けさ は 仕事 し なけれ ば なら ぬ ので 早く 起き て 、 台所 へ 顔 を 洗い に 行き 、 ふと 見る と 、 一升瓶 が 四 本 から に なっ て いる 。
 5二 日 で 四 升 呑ん だ わけ で ある 。
 6勿論 、 私 ひとり で 四 升 呑みほし た わけ で は 無い 。
 7おととい の 晩 は めずらしい お客 が 三 人 、 この 三鷹 の 陋屋 に やって来る こと に なっ て い た ので 、 私 は 、 その 二三 日 まえ から そわそわ し て 落ちつか なかっ た 。
 8一人 は 、 W君 と いっ て 、 初対面 の 人 で ある 。
 9いやいや 、 初対面 で は 無い 。
 10お互い 、 十 歳 の ころ に 一 度 、 顔 を 見合せ て 、 話 も せ ず 、 それ っきり 二十 年間 、 わかれ て い た の で ある 。
 11一 つき ほど まえ から 、 私 の ところ へ 、 ちょいちょい 日刊工業新聞 という 、 私 など と は 、 とても 縁 の 遠い 新聞 が 送ら れ て 来 て 、 私 は 、 ちょっと ひらい て みる の で ある が 、 一向に 読む ところ が 無い 。
 12なぜ 私 に 送っ て 下さる の か 、 その 真意 を 解し かね た 。
 13下劣 な 私 は 、 これ を 押売り で は ない か と さえ 疑っ た 。
 14家内 に も 言いきかせ 、 とにかく 之 は 怪しい から 、 そっくり 帯封 も 破ら ず その まま に し て 保存 し て 置く よう 、 あと で 代金 を 請求 し て 来 たら 、 ひとまとめ に し て 返却 する よう 、 手筈 を きめ て 置い た の で ある 。
 15その うち に 、 新聞 の 帯封 に 差出人 の 名前 を 記し て 送っ て くる よう に なっ た 。
 16W で ある 。
 17私 の 知ら ぬ お名前 で あっ た 。
 18私 は 、 幾度となく 首 ふっ て 考え た が 、 わから なかっ た 。
 19その うち に 、 「 金木町 の W 」 と 帯封 に 書い て よこす よう に なっ た 。
 20金木町 という の は 、 私 の 生れ た 町 で ある 。
 21津軽平野 の まんなか の 、 小さい 町 で ある 。
 22同じ 町 の 生れ ゆえ 、 それ で 自社 の 新聞 を 送っ て 下さっ た の だ 、 という こと は 、 判明 する に 到っ た が 、 やはり 、 どんな お人 で ある か 、 それ を 思い出す こと が でき ない の で ある 。
 23とにかく 御好意 の ほど は 、 わかっ た の で ある から 、 私 は 、 すぐ に お礼 を ハガキ に 書い て 出し た 。
 24「 私 は 、 十 年 も 故郷 へ 帰ら ず 、 また 、 いま は 肉親たち と 音信 さえ 不通 の 有様 な ので 、 金木町 の W様 を 、 思い出す こと が 、 でき ず 、 残念 に 存じ て 居り ます 。 どなたさま で 、 ござい まし た でしょう か 。 おついで の 折 は 、 汚い 家 です が 、 お立ち寄り 下さい 。 」 という よう な こと を 書きしたため た 筈 で ある 。
 25相手 の 人 の 、 おとし の 程 も わから ず 、 或いは 故郷 の 大先輩 かも 知れ ぬ の だ から 、 失礼 に 当ら ぬ よう 、 言葉使い に も 充分 に 注意 し た 筈 で ある 。
 26折返し 長い お手紙 を 、 いただい た 。
 27それで 、 わかっ た 。
 28裏 の 登記所 の お坊ちゃん な の で ある 。
 29固苦しく 言え ば 、 青森県区裁判所金木町登記所 々長 の 長男 で ある 。
 30子供 の ころ は 、 なん の こと か わから ず 、 ただ 、 トキショ 、 トキショ と 呼ん で い た 。
 31私 の 家 の すぐ 裏 で 、 W君 は 、 私 より 一 年 、 上級生 だっ た ので 、 直接 、 話 を し た こと は 無かっ た けれど 、 たった いち ど 、 その 登記所 の 窓 から 、 ひょいと 顔 を 出し た 、 その 顔 を ちらりと 見 て 、 その 顔 だけ が 、 二十 年後 の いま と なっ て も 、 色あせ ずに 、 はっきり 残っ て い て 、 実に 不思議 な 気 が し た 。
 32W という 名前 を 覚え て い ない し 、 それこそ 、 なん の 恩怨 も ない の だ し 、 私 は 高等学校時代 の 友人 の 顔 でさえ 忘れ て いる こと が 、 まま ある くらい の 健忘症 な のに 、 W君 の 、 その 窓 から 、 ひょいと 出し た 丸い 顔 だけ は 、 まっくらい 舞台 に 一 箇所 スポットライト を 当て た よう に あざやか に 眼 に 見え て いる の で ある 。
 33W君 も 、 内気 な お人 らしい から 、 私 同様 、 外 へ 出 て 遊ぶ こと は 、 あまり 無かっ た の で は ある まい か 。
 34その とき 、 たった いち ど だけ 、 私 は W君 を 見掛け て 、 それ が 二十 年後 の いま に なっ て も 、 まるで 、 ちゃんと 天然色写真 に とっ て 置い た みたい に 、 映像 が ぼやけ ずに 胸 に 残っ て 在る の で ある 。
 35私 は 、 その 顔 を ハガキ に 画い て み た 。
 36胸 の 映像 の とおり に 画く こと が でき た ので 、 うれしかっ た 。
 37たしか に 、 ソバカス が 在っ た の で ある 。
 38その ソバカス も 、 点々 と 散らし て 画い た 。
 39可愛い 顔 で ある 。
 40私 は 、 その ハガキ を W君 に 送っ た 。
 41もし 、 間違っ て い たら 、 ごめんなさい 、 と 大いに 非礼 を 謝し て 、 それでも 、 やはり その 画 を 、 お目 に 掛け ずに は 、 居 られ なかっ た 。
 42そうして 、 「 十一 月 二 日 の 夜 、 六 時 ごろ 、 やはり 青森県出身 の 旧友 が 二人 、 拙宅 へ 、 来る 筈 です から 、 どうか 、 その 夜 は 、 おいで 下さい 。 お願い いたし ます 。 」 と 書き添え た 。
 43Y君 と 、 A君 と 二 人 さそい合せ て 、 その 夜 、 私 の 汚い 家 に 遊び に 来 て くれる こと に なっ て い た の で ある 。
 44Y君 と も 、 十 年 ぶり で 逢う わけ で ある 。
 45Y君 は 、 立派 な 人 で ある 。
 46私 の 中学校 の 先輩 で ある 。
 47もと から 、 情 の 深い 人 で あっ た 。
 48五 、 六 年間 、 い なく なっ た 。
 49大試錬 で ある 。
 50その 間 、 独房 にて ずいぶん 堂々 の 修行 を なさ れ た こと と 思う 。
 51いま は 或る 書房 の 編輯部 に 勤め て 居 られる 。
 52A君 は 、 私 と 中学校同級 で あっ た 。
 53画家 で ある 。
 54或る 宴会 で 、 これ も 十 年 ぶり くらい で 、 ひょいと 顔 を 合せ 、 大いに 私 は 興奮 し た 。
 55私 が 中学校 の 三 年 の とき 、 或る 悪質 の 教師 が 、 生徒 を 罰し て 得意顔 の 瞬間 、 私 は 、 その 教師 に 軽蔑 を こめ た 大拍手 を 送っ た 。
 56たまっ た もの で ない 。
 57こんど は 私 が 、 さんざん に 殴ら れ た 。
 58この とき 、 私 の ため に 立っ て くれ た の が 、 A君 で ある 。
 59A君 は 、 ただちに 同志 を 糾合 し て 、 ストライキ を 計っ た 。
 60全学級 の 大騒ぎ に なっ た 。
 61私 は 、 恐怖 の ため に わなわな 震え て い た 。
 62ストライキ に なり かけ た とき 、 その 教師 が 、 私たち の 教室 に こっそり やって来 て 、 どもり ながら 陳謝 し た 。
 63ストライキ は 、 とりやめ と なっ た 。
 64A君 と は 、 そんな 共通 の 、 なつかしい 思い出 が ある 。
 65Y君 に 、 A君 と 、 二 人 そろっ て 私 の 家 に 遊び に 来 て くれる こと だけ でも 、 私 にとって 、 大きな 感激 な のに 、 いま また 、 W君 と 二十 年 ぶり に 相逢う こと の できる の で ある から 、 私 は 、 三 日 も まえ から 、 そわそわ し て 、 「 待つ 」 という こと は 、 なかなか 、 つらい 心理 で ある と 、 いまさら ながら 痛感 し た の で ある 。
 66よそ から 、 もらっ た お酒 が 二 升 あっ た 。
 67私 は 、 平常 、 家 に 酒 を 買っ て 置く という こと は 、 きらい な の で ある 。
 68黄色く 薄濁り し た 液体 が 一ぱい つまっ て 在る 一升瓶 は 、 どう にも 不潔 な 、 卑猥 な 感じ さえ し て 、 恥ずかしく 、 眼ざわり で なら ぬ の で ある 。
 69台所 の 隅 に 、 その 一升瓶 が ある ばっかりに 、 この 狭い 家 全体 が 、 どろり と 濁っ て 、 甘酸っぱい 、 へん な 匂い さえ 感じ られ 、 なんだか 、 うしろ暗い 思い な の で ある 。
 70家 の 西北 の 隅 に 、 異様 に 醜怪 の 、 不浄 の もの が 、 とぐろ を 巻い て ひそん で 在る よう で 、 机 に 向っ て 仕事 を し て い ながら も 、 どう も 、 潔白 の 精進 が 、 でき ない よう な 不安 な 、 うしろ髪 ひか れる 思い で 、 やりきれない の で ある 。
 71どう にも 、 落ちつか ない 。
 72夜 、 ひとり 机 に 頬杖 つい て 、 いろんな こと を 考え て 、 苦しく 、 不安 に なっ て 、 酒 でも 呑ん で その 気持 を 、 ごまかし て しまい たく なる こと が 、 時々 あっ て 、 その とき に は 、 外 へ 出 て 、 三鷹駅ちかく の 、 すしや に 行き 、 大急ぎ で 酒 を 呑む の で ある が 、 そんな とき に は 、 家 に 酒 が 在る と 便利 だ と 思わ ぬ こと も ない が 、 どう も 、 家 に 酒 を 置く と 気がかり で 、 そんな に 呑み たく も ない のに 、 ただ 、 台所 から 酒 を 追放 し たい 気持 から 、 がぶがぶ 呑ん で 、 呑みほし て しまう ばかり で 、 常住 、 少量 の 酒 を 家 に 備え て 、 機 に 臨ん で 、 ちょっと 呑む という 落ちつき澄まし た 芸 は 、 でき ない の で ある から 、 自然 、 AllorNothing の 流儀 で 、 ふだん は 家 の 内 に 一 滴 の 酒 も 置か ず 、 呑み たい 時 は 、 外 へ 出 て 思うぞんぶん に 呑む 、 という 習慣 が 、 つい て しまっ た の で ある 。
 73友人 が 来 て も 、 たいてい 外 へ 誘い出し て 呑む こと に し て いる 。
 74家 の 者 に 聞か せ たく ない 話題 など も 、 ひょいと 出る かも 知れ ぬ し 、 それに 、 酒 は 勿論 、 酒 の 肴 も 、 用意 が 無い ので 、 つい 、 めんどうくさく 、 外 へ 出 て しまう の で ある 。
 75大いに 親しい 人 ならば 、 そうして おいで に なる 日 が 予め わかっ て いる ならば 、 ちゃんと 用意 を し て 、 徹宵 、 くつろい で 呑み合う の で ある が 、 そんな 親しい 人 は 、 私 に 、 ほんの 数える ほど しか ない 。
 76そんな 親しい 人 ならば 、 どんな 貧しい 肴 でも 恥ずかしく ない し 、 家 の 者 に 聞か せ たく ない よう な 話題 も 出る 筈 は ない の で ある から 、 私 は 大威張り で 実に 、 たのしく 、 それ こそ 痛飲 できる の で ある が 、 そんな 好機会 は 、 二 月 に 一 度 くらい の もの で 、 あと は 、 たいてい 突然 の 来訪 に まごつき 、 つい 、 外 へ 出る こと に なる の で ある 。
 77なん と いって も 、 ほんとう に 親しい 人 と 、 家 で ゆっくり 呑む の に 越し た 楽しみ は 無い の で ある 。
 78ちょうど お酒 が 在る とき 、 ふら と 、 親しい 人 が たずね て 来 て くれ たら 、 実に 、 うれしい 。
 79友 あり 、 遠方 より 来る 、 という あの 句 が 、 おのずから 胸中 に 湧き上る 。
 80けれども 、 いつ 来る か 、 わから ない 。
 81常住 、 酒 を 用意 し て 待っ て いる の で は 、 とても 私 は 落ちつか ない 。
 82ふだん は 一 滴 も 、 酒 を 家 の 内 に 置き たく ない の だ から 、 その 辺 なかなか 、 うまく 行か ない の で ある 。
 83友人 が 来 た からと言って 、 何 も 、 ことさら に 酒 を 呑ま なくて も 、 よさ そう な もの で ある が 、 どう も 、 いけ ない 。
 84私 は 、 弱い 男 で ある から 、 酒 も 呑ま ずに 、 まじめ に 対談 し て いる と 、 三十 分 くらい で 、 もう 、 へとへと に なっ て 、 卑屈 に 、 おどおど し て 来 て 、 やりきれない 思い を する の で ある 。
 85自由濶達 に 、 意見 の 開陳 など 、 とても でき ない の で ある 。
 86ええ とか 、 はあ とか 、 生返事 し て い て 、 まるっきり 違っ た こと ばかり 考え て いる 。
 87心中 、 絶えず 愚か な 、 堂々めぐり の 自問自答 を 繰りかえし て いる ばかり で 、 私 は 、 まるで 阿呆 で ある 。
 88何 も 言え ない 。
 89むだ に 疲れる の で ある 。
 90どう にも 、 やりきれない 。
 91酒 を 呑む と 、 気持 を 、 ごまかす こと が でき て 、 でたらめ 言っ て も 、 そんな に 内心 、 反省 し なく なっ て 、 とても 助かる 。
 92そのかわり 、 酔 が さめる と 、 後悔 も ひどい 。
 93土 に まろび 、 大声 で 、 わあっ と 、 わめき叫び たい 思い で ある 。
 94胸 が 、 どきんどきん と 騒ぎ立ち 、 い て も 立っ て も 居 られ ぬ の だ 。
 95なん と も 言え ず 侘びしい の で ある 。
 96死に たく 思う 。
 97酒 を 知っ て から 、 もう 十 年 に も なる が 、 一向に 、 あの 気持 に 馴れる こと が でき ない 。
 98平気 で 居 られ ぬ の で ある 。
 99慚愧 、 後悔 の 念 に 文字どおり 転輾 する 。
 100それなら 、 酒 を 止せ ば いい のに 、 やはり 、 友人 の 顔 を 見る と 、 変 に もう 興奮 し て 、 おびえる よう な 震え を 全身 に 覚え て 、 酒 で も 呑ま なけれ ば 、 助から なく なる の で ある 。
 101やっかい な こと で ある と 思っ て いる 。
 102おととい の 夜 、 ほんとう に 珍しい 人 ばかり 三 人 、 遊び に 来 て くれる こと に なっ て 、 私 は 、 その 三 日 ばかり 前 から 落ちつか なかっ た 。
 103台所 に お酒 が 二 升 あっ た 。
 104これ は 、 よそ から いただい た もの で 、 私 は 、 その 処置 について 思案 し て い た 矢先 に 、 Y君 から 、 十一 月 二 日 夜 A君 と 二 人 で 遊び に 行く 、 という ハガキ を もらっ た ので 、 よし 、 この 機会 に W君 に も 来 て いただい て 、 四 人 で この 二 升 の 処置 を つけ て しまおう 、 どう も 家 の 内 に 酒 が 在る と 眼ざわり で 、 不潔 で 、 気 が 散っ て 、 いけ ない 、 四 人 で 二 升 は 、 不足 かも 知れ ない 。
 105談 たまたま 佳境 に 入っ た とたん に 、 女房 が 間抜顔 し て 、 もう 酒 は 切れ まし た と 報告 する の は 、 聞く ほう にとって は 、 甚だ 興覚め の もの で ある から 、 もう 一 升 、 酒屋 へ 行っ て 、 とどけ させ なさい 、 と 私 は 、 もっともらしい 顔 し て 家 の 者 に 言いつけ た 。
 106酒 は 、 三 升 ある 。
 107台所 に 三 本 、 瓶 が 並ん で いる 。
 108それ を 見 て は 、 どう し て も 落ちつい て いる わけ に は いか ない 。
 109大犯罪 を 遂行 する もの の 如く 、 心中 の 不安 、 緊張 は 、 極点 に まで 達し た 。
 110身のほど 知ら ぬ ぜいたく の よう に も 思わ れ 、 犯罪意識 が ひしひし と 身 に せまっ て 、 私 は 、 おととい は 朝 から 、 意味 も なく 庭 を ぐるぐる 廻っ て 歩い たり 、 また 狭い 部屋 の 中 を 、 のしのし 歩き まわっ たり 、 時計 を 、 五 分 毎 に 見 て 、 一図 に 日 の 暮れる の を 待っ た の で ある 。
 111六 時 半 に W君 が 来 た 。
 112あの 画 に は 、 おどろき まし た よ 。 感心 し まし た ね 。 ソバカス なんか 、 よく 覚え て い まし た ね 。 と 、 親しさ を 表現 する ため に 、 わざと 津軽訛 の 言葉 を 使っ て W君 は 、 笑い ながら 言う の で ある 。
 113私 も 、 久しぶり に 津軽訛 を 耳 に し て 、 うれしく 、 こちら も 大いに 努力 し て 津軽言葉 を 連発 し て 、 呑む べし や 、 今夜 は 、 死ぬ ほど 呑む べし や 、 という よう な 工合い で 、 一刻 も 早く 酔っぱらい たく 、 どんどん 呑ん だ 。
 114七 時 すこし 過ぎ に 、 Y君 と A君 と が 、 そろっ て やって来 た 。
 115私 は 、 ただ もう 呑ん だ 。
 116感激 を 、 なん と 言い伝え て いい か わから ぬ ので 、 ただ 呑ん だ 。
 117死ぬ ほど 呑ん だ 。
 118十二 時 に 、 みなさん 帰っ た 。
 119私 は 、 ぶったおれる よう に 寝 て しまっ た 。
 120きのう の 朝 、 眼 を さまし て すぐ 家 の 者 に たずね た 。
 121「 何 か 、 失敗 なかっ た かね 。
 122失敗 し なかっ た かね 。
 123わるい こと 言わ なかっ た かね 。 」
 124失敗 は 無い よう でし た 、 という 家 の 者 の 答え を 聞き 、 よかっ た 、 と 胸 を 撫で た 。
 125けれども 、 なんだか 、 みんな あんな に いい 人 ばかり な のに 、 せっかく 、 こんな 田舎 まで やって来 て 下さっ た のに 、 自分 は 何 も 、 もてなす こと が でき ず 、 みんな 一種 の 淋しさ 、 幻滅 を 抱い て 帰っ た の で は なかろ う か と 、 そんな 心配 が 頭 を もたげ 、 と みるみる その 心配 が 夕立雲 の 如く 全身 に ひろがり 、 やはり 床 の 中 で 、 い て も 立っ て も 居 られ ぬ 転輾 が はじまっ た 。
 126ことに も W君 が 、 私 の 家 の 玄関 に お酒 を 一 升 こっそり 置い て 行っ た の を 、 その 朝 はじめて 発見 し て 、 W君 の 好意 が 、 たまら ぬ ほど に 身 に しみ て 、 その 辺 を 裸足 で 走りまわり たい ほど に 、 苦痛 で あっ た 。
 127その とき 、 山梨県 吉田町 の N君 が 、 たずね て 来 た 。
 128N君 とは 、 去年 の 秋 、 私 が 御坂峠 へ 仕事 し に 行っ た とき から の 友人 で ある 。
 129こんど 、 東京 の 造船所 に 勤める こと に なり まし た 、 と 晴れやか に 笑っ て 言っ た 。
 130私 は N君 を 逃がす まい と 思っ た 。
 131台所 に 、 まだ 酒 が 残っ て 在る 筈 だ 。
 132それ に 、 ゆうべ W君 が 、 わざわざ 持っ て 来 て くれ た 酒 が 、 一 升 在る 。
 133整理 し て しまお う と 思っ た 。
 134きょう 、 台所 の 不浄 の もの を 、 きれい に 掃除 し て 、 そうして あす から 、 潔白 の 精進 を はじめ よう と 、 ひそか に 計画 し て 、 むりやり N君 に も 酒 を すすめ て 、 私 も 大いに 呑ん だ 。
 135そこ へ 、 ひょっこり 、 Y君 が 奥さん と 一緒 に 、 ちょっと ゆうべ の お礼 に 、 など と 固苦しい 挨拶 し に やって来 られ た の で ある 。
 136玄関 で 帰ろ う と する の を 、 私 は 、 Y君 の 手首 を 固く つかん で 放さ なかっ た 。
 137ちょっと で いい から 、 とにかく 、 ちょっと で いい から 、 奥さん も 、 どうぞ 、 と 、 ほとんど 暴力的 に 座敷 へ あがっ て もらっ て 、 なにかと 、 わがまま の 理窟 を 言い 、 とうとう Y君 を も 、 酒 の 仲間 に 入れる こと に 成功 し た 。
 138Y君 は 、 その 日 は 明治節 で 、 勤め が 休み な ので 、 二 、 三 親戚 へ 、 ごぶさた の おわび に 廻っ て 、 これ から 、 もう 一 軒 、 顔出し せ ね ば なら ぬ から 、 と 、 ともすれば 、 逃げ出そ う と する の を 、 いや 、 その 一 軒 を 残し て 置く ほう が 、 人生 の 味 だ 、 完璧 を 望ん で は 、 いけ ませ ん など と 屁理窟 言っ て 、 ついに 四 升 の お酒 を 、 一 滴 のこさ ず 整理 する こと に 成功 し た の で ある 。