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aozora_Dazai-2-1940のコンテキスト表示

title:Hashire Merosu
author:Dazai, Osamu
date:1940
source:Shincho, May edition; Aozora Bunko (http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/card1567.html)
genre:fiction
subcorpus:Aozora Bunko
terms of use:Creative Commons license


 1走れメロス
 2太宰治
 3メロス は 激怒 し た 。
 4必ず 、 かの 邪智暴虐 の 王 を 除か なけれ ば なら ぬ と 決意 し た 。
 5メロス に は 政治 が わから ぬ 。
 6メロス は 、 村 の 牧人 で ある 。
 7笛 を 吹き 、 羊 と 遊ん で 暮し て 来 た 。
 8けれども 邪悪 に対して は 、 人 一 倍 に 敏感 で あっ た 。
 9きょう 未明 メロス は 村 を 出発 し 、 野 を 越え 山 越え 、 十 里 はなれ た 此の シラクス の 市 に やって来 た 。
 10メロス に は 父 も 、 母 も 無い 。
 11女房 も 無い 。
 12十六 の 、 内気 な 妹 と 二人暮し だ 。
 13この 妹 は 、 村 の 或る 律気 な 一 牧人 を 、 近々 、 花婿 として 迎える 事 に なっ て い た 。
 14結婚式 も 間近か な の で ある 。
 15メロス は 、 それゆえ 、 花嫁 の 衣裳 やら 祝宴 の 御馳走 やら を 買い に 、 はるばる 市 に やって来 た の だ 。
 16先ず 、 その 品々 を 買い集め 、 それから 都 の 大路 を ぶらぶら 歩い た 。
 17メロス に は 竹馬の友 が あっ た 。
 18セリヌンティウス で ある 。
 19今 は 此の シラクス の 市 で 、 石工 を し て いる 。
 20その 友 を 、 これ から 訪ね て みる つもり な の だ 。
 21久しく 逢わ なかっ た の だ から 、 訪ね て 行く の が 楽しみ で ある 。
 22歩い て いる うち に メロス は 、 まち の 様子 を 怪しく 思っ た 。
 23ひっそり し て いる 。
 24もう 既に 日 も 落ち て 、 まち の 暗い の は 当りまえ だ が 、 けれども 、 なんだか 、 夜 の せい ばかり で は 無く 、 市 全体 が 、 やけ に 寂しい 。
 25のんき な メロス も 、 だんだん 不安 に なっ て 来 た 。
 26路 で 逢っ た 若い衆 を つかまえ て 、 何 か あっ た の か 、 二 年 まえ に 此の 市 に 来 た とき は 、 夜 で も 皆 が 歌 を うたっ て 、 まち は 賑やか で あっ た 筈 だ が 、 と 質問 し た 。
 27若い衆 は 、 首 を 振っ て 答え なかっ た 。
 28しばらく 歩い て 老爺 に 逢い 、 こんど は もっと 、 語勢 を 強く し て 質問 し た 。
 29老爺 は 答え なかっ た 。
 30メロス は 両手 で 老爺 の からだ を ゆすぶっ て 質問 を 重ね た 。
 31老爺 は 、 あたり を はばかる 低声 で 、 わずか 答え た 。
 32「 王様 は 、 人 を 殺し ます 。 」
 33「 なぜ 殺す の だ 。 」
 34「 悪心 を 抱い て いる 、 と いう の です が 、 誰 も そんな 、 悪心 を 持っ て は 居り ませ ぬ 。 」
 35「 たくさん の 人 を 殺し た の か 。 」
 36「 はい 、 はじめ は 王様 の 妹婿さま を 。
 37それから 、 御自身 の お世嗣 を 。
 38それから 、 妹さま を 。
 39それから 、 妹さま の 御子さま を 。
 40それから 、 皇后さま を 。
 41それから 、 賢臣 の アレキス様 を 。 」
 42「 おどろい た 。
 43国王 は 乱心 か 。 」
 44「 いいえ 、 乱心 で は ござい ませ ぬ 。
 45人 を 、 信ずる 事 が 出来 ぬ 、 と いう の です 。
 46このごろ は 、 臣下 の 心 を も 、 お疑い に なり 、 少しく 派手 な 暮し を し て いる 者 に は 、 人質 ひとり ずつ 差し出す こと を 命じ て 居り ます 。
 47御命令 を 拒め ば 十字架 に かけ られ て 、 殺さ れ ます 。
 48きょう は 、 六 人 殺さ れ まし た 。 」
 49聞い て 、 メロス は 激怒 し た 。
 50「 呆れ た 王 だ 。
 51生かし て 置け ぬ 。 」
 52メロス は 、 単純 な 男 で あっ た 。
 53買い物 を 、 背負っ た まま で 、 のそのそ 王城 に はいっ て 行っ た 。
 54たちまち 彼 は 、 巡邏 の 警吏 に 捕縛 さ れ た 。
 55調べ られ て 、 メロス の 懐中 から は 短剣 が 出 て 来 た ので 、 騒ぎ が 大きく なっ て しまっ た 。
 56メロス は 、 王 の 前 に 引き出さ れ た 。
 57「 この 短刀 で 何 を する つもり で あっ た か 。
 58言え ! 」
 59暴君ディオニス は 静か に 、 けれども 威厳 を以て 問いつめ た 。
 60その 王 の 顔 は 蒼白 で 、 眉間 の 皺 は 、 刻み込ま れ た よう に 深かっ た 。
 61「 市 を 暴君 の 手 から 救う の だ 。 」 と メロス は 悪びれ ずに 答え た 。
 62「 おまえ が か ? 」
 63王 は 、 憫笑 し た 。
 64「 仕方 の 無い やつ じゃ 。
 65おまえ に は 、 わし の 孤独 が わから ぬ 。 」
 66「 言う な ! 」 と メロス は 、 いきり立っ て 反駁 し た 。
 67「 人 の 心 を 疑う の は 、 最も 恥ず べき 悪徳 だ 。
 68王 は 、 民 の 忠誠 を さえ 疑っ て 居 られる 。 」
 69「 疑う の が 、 正当 の 心構え な の だ と 、 わし に 教え て くれ た の は 、 おまえたち だ 。
 70人 の 心 は 、 あて に なら ない 。
 71人間 は 、 もともと 私慾 の かたまり さ 。
 72信じ て は 、 なら ぬ 。 」
 73暴君 は 落着い て 呟き 、 ほっと 溜息 を つい た 。
 74「 わし だって 、 平和 を 望ん で いる の だ が 。 」
 75「 なん の 為 の 平和 だ 。
 76自分 の 地位 を 守る 為 か 。 」
 77こんど は メロス が 嘲笑 し た 。
 78「 罪 の 無い 人 を 殺し て 、 何 が 平和 だ 。 」
 79「 だまれ 、 下賤 の 者 。 」
 80王 は 、 さっと 顔 を 挙げ て 報い た 。
 81「 口 で は 、 どんな 清らか な 事 でも 言える 。
 82わし に は 、 人 の 腹綿 の 奥底 が 見え透い て なら ぬ 。
 83おまえ だって 、 いま に 、 磔 に なっ て から 、 泣い て 詫び たって 聞か ぬ ぞ 。 」
 84「 ああ 、 王 は 悧巧 だ 。
 85自惚れ て いる が よい 。
 86私 は 、 ちゃんと 死ぬる 覚悟 で 居る のに 。
 87命乞い など 決して し ない 。
 88ただ 、 ― ― 」 と 言いかけ て 、 メロス は 足もと に 視線 を 落し 瞬時 ためらい 、 「 ただ 、 私 に 情 を かけ たい つもり なら 、 処刑 まで に 三 日間 の 日限 を 与え て 下さい 。
 89たった 一人 の 妹 に 、 亭主 を 持た せ て やり たい の です 。
 90三 日 の うち に 、 私 は 村 で 結婚式 を 挙げ させ 、 必ず 、 ここ へ 帰っ て 来 ます 。 」
 91「 ばか な 。 」 と 暴君 は 、 嗄れ た 声 で 低く 笑っ た 。
 92「 とんでもない 嘘 を 言う わい 。
 93逃がし た 小鳥 が 帰っ て 来る と いう の か 。 」
 94「 そう です 。
 95帰っ て 来る の です 。 」
 96メロス は 必死 で 言い張っ た 。
 97「 私 は 約束 を 守り ます 。
 98私 を 、 三 日間 だけ 許し て 下さい 。
 99妹 が 、 私 の 帰り を 待っ て いる の だ 。
 100そんな に 私 を 信じ られ ない ならば 、 よろしい 、 この 市 に セリヌンティウス という 石工 が い ます 。
 101私 の 無二 の 友人 だ 。
 102あれ を 、 人質 として ここ に 置い て 行こ う 。
 103私 が 逃げ て しまっ て 、 三 日目 の 日暮 まで 、 ここ に 帰っ て 来 なかっ たら 、 あの 友人 を 絞め殺し て 下さい 。
 104たのむ 、 そう し て 下さい 。 」
 105それ を 聞い て 王 は 、 残虐 な 気持 で 、 そっと 北叟笑ん だ 。
 106生意気 な こと を 言う わい 。
 107どうせ 帰っ て 来 ない に きまっ て いる 。
 108この 嘘つき に 騙さ れ た 振り し て 、 放し て やる の も 面白い 。
 109そうして 身代り の 男 を 、 三 日目 に 殺し て やる の も 気味 が いい 。
 110人 は 、 これ だ から 信じ られ ぬ と 、 わし は 悲しい 顔 し て 、 その 身代り の 男 を 磔刑 に 処し て やる の だ 。
 111世の中 の 、 正直者 とかいう 奴輩 に うんと 見せつけ て やり たい もの さ 。
 112「 願い を 、 聞い た 。
 113その 身代り を 呼ぶ が よい 。
 114三 日目 に は 日没 まで に 帰っ て 来い 。
 115おくれ たら 、 その 身代り を 、 きっと 殺す ぞ 。
 116ちょっと おくれ て 来る が いい 。
 117おまえ の 罪 は 、 永遠 に ゆるし て やろ う ぞ 。 」
 118「 なに 、 何 を おっしゃる 。 」
 119「 はは 。
 120いのち が 大事 だっ たら 、 おくれ て 来い 。
 121おまえ の 心 は 、 わかっ て いる ぞ 。 」
 122メロス は 口惜しく 、 地団駄 踏ん だ 。
 123もの も 言い たく なく なっ た 。
 124竹馬の友 、 セリヌンティウス は 、 深夜 、 王城 に 召さ れ た 。
 125暴君 ディオニス の 面前 で 、 佳き 友 と 佳き 友 は 、 二 年 ぶり で 相逢う た 。
 126メロス は 、 友 に 一切 の 事情 を 語っ た 。
 127セリヌンティウス は 無言 で 首肯き 、 メロス を ひしと 抱きしめ た 。
 128友 と 友 の 間 は 、 それ で よかっ た 。
 129セリヌンティウス は 、 縄打た れ た 。
 130メロス は 、 すぐ に 出発 し た 。
 131初夏 、 満天 の 星 で ある 。
 132メロス は その 夜 、 一睡 も せ ず 十 里 の 路 を 急ぎ に 急い で 、 村 へ 到着 し た の は 、 翌る日 の 午前 、 陽 は 既に 高く 昇っ て 、 村人たち は 野 に 出 て 仕事 を はじめ て い た 。
 133メロス の 十六 の 妹 も 、 きょう は 兄 の 代り に 羊群 の 番 を し て い た 。
 134よろめい て 歩い て 来る 兄 の 、 疲労困憊 の 姿 を 見つけ て 驚い た 。
 135そうして 、 うるさく 兄 に 質問 を 浴びせ た 。
 136「 なん で も 無い 。 」
 137メロス は 無理 に 笑お う と 努め た 。
 138「 市 に 用事 を 残し て 来 た 。
 139また すぐ 市 に 行か なけれ ば なら ぬ 。
 140あす 、 おまえ の 結婚式 を 挙げる 。
 141早い ほう が よかろ う 。 」
 142妹 は 頬 を あからめ た 。
 143「 うれしい か 。
 144綺麗 な 衣裳 も 買っ て 来 た 。
 145さあ 、 これ から 行っ て 、 村 の 人たち に 知ら せ て 来い 。
 146結婚式 は 、 あす だ と 。 」
 147メロス は 、 また 、 よろよろ と 歩き出し 、 家 へ 帰っ て 神々 の 祭壇 を 飾り 、 祝宴 の 席 を 調え 、 間もなく 床 に 倒れ伏し 、 呼吸 も せ ぬ くらい の 深い 眠り に 落ち て しまっ た 。
 148眼 が 覚め た の は 夜 だっ た 。
 149メロス は 起き て すぐ 、 花婿 の 家 を 訪れ た 。
 150そうして 、 少し 事情 が ある から 、 結婚式 を 明日 に し て くれ 、 と 頼ん だ 。
 151婿 の 牧人 は 驚き 、 それ は いけ ない 、 こちら に は 未だ 何 の 仕度 も 出来 て い ない 、 葡萄 の 季節 まで 待っ て くれ 、 と 答え た 。
 152メロス は 、 待つ こと は 出来 ぬ 、 どうか 明日 に し て くれ 給え 、 と 更に 押し て たのん だ 。
 153婿 の 牧人 も 頑強 で あっ た 。
 154なかなか 承諾 し て くれ ない 。
 155夜明け まで 議論 を つづけ て 、 やっと 、 どうにか 婿 を なだめ 、 すかし て 、 説き伏せ た 。
 156結婚式 は 、 真昼 に 行わ れ た 。
 157新郎新婦 の 、 神々 へ の 宣誓 が 済ん だ ころ 、 黒雲 が 空 を 覆い 、 ぽつりぽつり 雨 が 降り出し 、 やがて 車軸 を 流す よう な 大雨 と なっ た 。
 158祝宴 に 列席 し て い た 村人たち は 、 何 か 不吉 な もの を 感じ た が 、 それでも 、 めいめい 気持 を 引きたて 、 狭い 家 の 中 で 、 むんむん 蒸し暑い の も 怺え 、 陽気 に 歌 を うたい 、 手 を 拍っ た 。
 159メロス も 、 満面 に 喜色 を 湛え 、 しばらく は 、 王 と の あの 約束 を さえ 忘れ て い た 。
 160祝宴 は 、 夜 に 入っ て いよいよ 乱れ 華やか に なり 、 人々 は 、 外 の 豪雨 を 全く 気にし なく なっ た 。
 161メロス は 、 一生 この まま ここ に い たい 、 と 思っ た 。
 162この 佳い 人たち と 生涯 暮し て 行き たい と 願っ た が 、 いま は 、 自分 の からだ で 、 自分 の もの で は 無い 。
 163ままなら ぬ 事 で ある 。
 164メロス は 、 わが 身 に 鞭打ち 、 ついに 出発 を 決意 し た 。
 165あす の 日没 まで に は 、 まだ 十分 の 時 が 在る 。
 166ちょっと 一眠り し て 、 それから すぐ に 出発 し よう 、 と 考え た 。
 167その 頃 に は 、 雨 も 小降り に なっ て い よう 。
 168少し でも 永く この 家 に 愚図愚図 とどまっ て い たかっ た 。
 169メロス ほど の 男 に も 、 やはり 未練 の 情 という もの は 在る 。
 170今宵 呆然 、 歓喜 に 酔っ て いる らしい 花嫁 に 近寄り 、 「 おめでとう 。 私 は 疲れ て しまっ た から 、 ちょっと ご免 こうむっ て 眠り たい 。 眼 が 覚め たら 、 すぐ に 市 に 出かける 。 大切 な 用事 が ある の だ 。 私 が い なくて も 、 もう おまえ に は 優しい 亭主 が ある の だ から 、 決して 寂しい 事 は 無い 。 おまえ の 兄 の 、 一ばん きらい な もの は 、 人 を 疑う 事 と 、 それから 、 嘘 を つく 事 だ 。 おまえ も 、 それ は 、 知っ て いる ね 。 亭主 と の 間 に 、 どんな 秘密 でも 作っ て は なら ぬ 。 おまえ に 言い たい の は 、 それ だけ だ 。 おまえ の 兄 は 、 たぶん 偉い 男 な の だ から 、 おまえ も その 誇り を 持っ て いろ 。 」
 171花嫁 は 、 夢見心地 で 首肯い た 。
 172メロス は 、 それから 花婿 の 肩 を たたい て 、 「 仕度 の 無い の は お互さま さ 。 私 の 家 に も 、 宝 といっては 、 妹 と 羊 だけ だ 。 他 に は 、 何 も 無い 。 全部 あげ よう 。 もう 一 つ 、 メロス の 弟 に なっ た こと を 誇っ て くれ 。 」
 173花婿 は 揉み手 し て 、 てれ て い た 。
 174メロス は 笑っ て 村人たち に も 会釈 し て 、 宴席 から 立ち去り 、 羊小屋 に もぐり込ん で 、 死ん だ よう に 深く 眠っ た 。
 175眼 が 覚め た の は 翌る日 の 薄明 の 頃 で ある 。
 176メロス は 跳ね起き 、 南無三 、 寝過し た か 、 いや 、 まだまだ 大丈夫 、 これ から すぐ に 出発 すれ ば 、 約束 の 刻限 まで に は 十分 間に合う 。
 177きょう は 是非 と も 、 あの 王 に 、 人 の 信実 の 存する ところ を 見せ て やろう 。
 178そうして 笑っ て 磔 の 台 に 上っ て やる 。
 179メロス は 、 悠々 と 身仕度 を はじめ た 。
 180雨 も 、 いくぶん 小降り に なっ て いる 様子 で ある 。
 181身仕度 は 出来 た 。
 182さて 、 メロス は 、 ぶるん と 両腕 を 大きく 振っ て 、 雨中 、 矢 の 如く 走り出 た 。
 183私 は 、 今宵 、 殺さ れる 。
 184殺さ れる 為 に 走る の だ 。
 185身代り の 友 を 救う 為 に 走る の だ 。
 186王 の 奸佞邪智 を 打ち破る 為 に 走る の だ 。
 187走ら なけれ ば なら ぬ 。
 188そうして 、 私 は 殺さ れる 。
 189若い 時 から 名誉 を 守れ 。
 190さらば 、 ふるさと 。
 191若い メロス は 、 つらかっ た 。
 192幾度 か 、 立ちどまり そう に なっ た 。
 193えい 、 えい と 大声 挙げ て 自身 を 叱り ながら 走っ た 。
 194村 を 出 て 、 野 を 横切り 、 森 を くぐり抜け 、 隣村 に 着い た 頃 に は 、 雨 も 止み 、 日 は 高く 昇っ て 、 そろそろ 暑く なっ て 来 た 。
 195メロス は 額 の 汗 を こぶし で 払い 、 ここ まで 来れ ば 大丈夫 、 もはや 故郷 へ の 未練 は 無い 。
 196妹たち は 、 きっと 佳い 夫婦 に なる だろう 。
 197私 に は 、 いま 、 なん の 気がかり も 無い 筈 だ 。
 198まっすぐ に 王城 に 行き着け ば 、 それ で よい の だ 。
 199そんな に 急ぐ 必要 も 無い 。
 200ゆっくり 歩こ う 、 と 持ちまえ の 呑気さ を 取り返し 、 好き な 小歌 を いい 声 で 歌い出し た 。
 201ぶらぶら 歩い て 二 里 行き 三 里 行き 、 そろそろ 全里程 の 半ば に 到達 し た 頃 、 降っ て 湧い た 災難 、 メロス の 足 は 、 はたと 、 とまっ た 。
 202見よ 、 前方 の 川 を 。
 203きのう の 豪雨 で 山 の 水源地 は 氾濫 し 、 濁流滔々 と 下流 に 集り 、 猛勢一挙 に 橋 を 破壊 し 、 どうどう と 響き を あげる 激流 が 、 木葉微塵 に 橋桁 を 跳ね飛ばし て い た 。
 204彼 は 茫然 と 、 立ちすくん だ 。
 205あちこち と 眺めまわし 、 また 、 声 を 限り に 呼びたて て み た が 、 繋舟 は 残らず 浪 に 浚わ れ て 影 なく 、 渡守り の 姿 も 見え ない 。
 206流れ は いよいよ 、 ふくれ上り 、 海 の よう に なっ て いる 。
 207メロス は 川岸 に うずくまり 、 男泣き に 泣き ながら ゼウス に 手 を 挙げ て 哀願 し た 。
 208「 ああ 、 鎮め たまえ 、 荒れ狂う 流れ を !
 209時 は 刻々 に 過ぎ て 行き ます 。
 210太陽 も 既に 真昼時 です 。
 211あれ が 沈ん で しまわ ぬ うち に 、 王城 に 行き着く こと が 出来 なかっ たら 、 あの 佳い 友達 が 、 私 の ため に 死ぬ の です 。 」
 212濁流 は 、 メロス の 叫び を せせら笑う 如く 、 ますます 激しく 躍り狂う 。
 213浪 は 浪 を 呑み 、 捲き 、 煽り立て 、 そうして 時 は 、 刻一刻 と 消え て 行く 。
 214今 は メロス も 覚悟 し た 。
 215泳ぎ 切る より 他 に 無い 。
 216ああ 、 神々 も 照覧 あれ !
 217濁流 に も 負け ぬ 愛 と 誠 の 偉大 な 力 を 、 いま こそ 発揮 し て 見せる 。
 218メロス は 、 ざんぶ と 流れ に 飛び込み 、 百 匹 の 大蛇 の よう に のた打ち 荒れ狂う 浪 を 相手 に 、 必死 の 闘争 を 開始 し た 。
 219満身 の 力 を 腕 に こめ て 、 押し寄せ 渦巻き 引きずる 流れ を 、 なんのこれしき と 掻きわけ 掻きわけ 、 めくらめっぽう 獅子奮迅 の 人 の 子 の 姿 に は 、 神 も 哀れ と 思っ た か 、 ついに 憐愍 を 垂れ て くれ た 。
 220押し流さ れ つつ も 、 見事 、 対岸 の 樹木 の 幹 に 、 すがりつく 事 が 出来 た の で ある 。
 221ありがたい 。
 222メロス は 馬 の よう に 大きな 胴震い を 一 つ し て 、 すぐ に また 先き を 急い だ 。
 223一刻 といえども 、 むだ に は 出来 ない 。
 224陽 は 既に 西 に 傾き かけ て いる 。
 225ぜいぜい 荒い 呼吸 を し ながら 峠 を のぼり 、 のぼり 切っ て 、 ほっとし た 時 、 突然 、 目 の 前 に 一隊 の 山賊 が 躍り出 た 。
 226「 待て 。 」
 227「 何 を する の だ 。
 228私 は 陽 の 沈ま ぬ うち に 王城 へ 行か なけれ ば なら ぬ 。
 229放せ 。 」
 230「 どっこい 放さ ぬ 。
 231持ちもの 全部 を 置い て 行け 。 」
 232「 私 に は いのち の 他 に は 何 も 無い 。
 233その 、 たった 一 つ の 命 も 、 これ から 王 に くれ て やる の だ 。 」
 234「 その 、 いのち が 欲しい の だ 。 」
 235「 さては 、 王 の 命令 で 、 ここ で 私 を 待ち伏せ し て い た の だ な 。 」
 236山賊たち は 、 もの も 言わ ず 一斉 に 棍棒 を 振り 挙げ た 。
 237メロス は ひょい と 、 からだ を 折り曲げ 、 飛鳥 の 如く 身近か の 一人 に 襲いかかり 、 その 棍棒 を 奪い取っ て 、 「 気の毒 だ が 正義 の ため だ ! 」 と 猛然 一撃 、 たちまち 、 三 人 を 殴り倒し 、 残る 者 の ひるむ 隙 に 、 さっさと 走っ て 峠 を 下っ た 。
 238一気 に 峠 を 駈け降り た が 、 流石 に 疲労 し 、 折 から 午後 の 灼熱 の 太陽 が まとも に 、 かっと 照っ て 来 て 、 メロス は 幾度となく 眩暈 を 感じ 、 これ で は なら ぬ 、 と 気 を 取り直し て は 、 よろよろ 二 、 三 歩 あるい て 、 ついに 、 がくり と 膝 を 折っ た 。
 239立ち上る 事 が 出来 ぬ の だ 。
 240天 を 仰い で 、 くやし泣き に 泣き出し た 。
 241ああ 、 あ 、 濁流 を 泳ぎ 切り 、 山賊 を 三 人 も 撃ち倒し 韋駄天 、 ここ まで 突破 し て 来 た メロス よ 。
 242真 の 勇者 、 メロス よ 。
 243今 、 ここ で 、 疲れ 切っ て 動け なく なる とは 情無い 。
 244愛する 友 は 、 おまえ を 信じ た ばかりに 、 やがて 殺さ れ なけれ ば なら ぬ 。
 245おまえ は 、 稀代 の 不信 の 人間 、 まさしく 王 の 思う 壺 だ ぞ 、 と 自分 を 叱っ て みる の だ が 、 全身 萎え て 、 もはや 芋虫 ほど に も 前進 かなわ ぬ 。
 246路傍 の 草原 に ごろりと 寝ころがっ た 。
 247身体 疲労 すれ ば 、 精神 も 共 に やら れる 。
 248もう 、 どう でも いい という 、 勇者 に 不似合い な 不貞腐れ た 根性 が 、 心 の 隅 に 巣喰っ た 。
 249私 は 、 これ ほど 努力 し た の だ 。
 250約束 を 破る 心 は 、 みじん も 無かっ た 。
 251神 も 照覧 、 私 は 精一ぱい に 努め て 来 た の だ 。
 252動け なく なる まで 走っ て 来 た の だ 。
 253私 は 不信 の 徒 で は 無い 。
 254ああ 、 できる 事 なら 私 の 胸 を 截ち割っ て 、 真紅 の 心臓 を お目 に 掛け たい 。
 255愛 と 信実 の 血液 だけ で 動い て いる この 心臓 を 見せ て やり たい 。
 256けれども 私 は 、 この 大事 な 時 に 、 精 も 根 も 尽き た の だ 。
 257私 は 、 よくよく 不幸 な 男 だ 。
 258私 は 、 きっと 笑わ れる 。
 259私 の 一家 も 笑わ れる 。
 260私 は 友 を 欺い た 。
 261中途 で 倒れる の は 、 はじめ から 何 も し ない の と 同じ 事 だ 。
 262ああ 、 もう 、 どう でも いい 。
 263これ が 、 私 の 定っ た 運命 な の かも 知れ ない 。
 264セリヌンティウス よ 、 ゆるし て くれ 。
 265君 は 、 いつ でも 私 を 信じ た 。
 266私 も 君 を 、 欺か なかっ た 。
 267私たち は 、 本当 に 佳い 友 と 友 で あっ た の だ 。
 268いち ど だって 、 暗い 疑惑 の 雲 を 、 お互い 胸 に 宿し た こと は 無かっ た 。
 269いま だって 、 君 は 私 を 無心 に 待っ て いる だろう 。
 270ああ 、 待っ て いる だろう 。
 271ありがとう 、 セリヌンティウス 。
 272よく も 私 を 信じ て くれ た 。
 273それ を 思え ば 、 たまら ない 。
 274友 と 友 の 間 の 信実 は 、 この世 で 一ばん 誇る べき 宝 な の だ から な 。
 275セリヌンティウス 、 私 は 走っ た の だ 。
 276君 を 欺く つもり は 、 みじん も 無かっ た 。
 277信じ て くれ !
 278私 は 急ぎ に 急い で ここ まで 来 た の だ 。
 279濁流 を 突破 し た 。
 280山賊 の 囲み から も 、 するりと 抜け て 一気 に 峠 を 駈け降り て 来 た の だ 。
 281私 だ から 、 出来 た の だ よ 。
 282ああ 、 この 上 、 私 に 望み 給う な 。
 283放っ て 置い て くれ 。
 284どう でも 、 いい の だ 。
 285私 は 負け た の だ 。
 286だらし が 無い 。
 287笑っ て くれ 。
 288王 は 私 に 、 ちょっと おくれ て 来い 、 と 耳打ち し た 。
 289おくれ たら 、 身代り を 殺し て 、 私 を 助け て くれる と 約束 し た 。
 290私 は 王 の 卑劣 を 憎ん だ 。
 291けれども 、 今 に なっ て みる と 、 私 は 王 の 言う まま に なっ て いる 。
 292私 は 、 おくれ て 行く だろう 。
 293王 は 、 ひとり 合点 し て 私 を 笑い 、 そうして 事 も 無く 私 を 放免 する だろう 。
 294そう なっ たら 、 私 は 、 死ぬ より つらい 。
 295私 は 、 永遠 に 裏切者 だ 。
 296地上 で 最も 、 不名誉 の 人種 だ 。
 297セリヌンティウス よ 、 私 も 死ぬ ぞ 。
 298君 と 一緒 に 死な せ て くれ 。
 299君 だけ は 私 を 信じ て くれる に ちがい 無い 。
 300いや 、 それ も 私 の 、 ひとりよがり か ?
 301ああ 、 もう いっそ 、 悪徳者 として 生き伸び て やろう か 。
 302村 に は 私 の 家 が 在る 。
 303羊 も 居る 。
 304妹夫婦 は 、 まさか 私 を 村 から 追い出す よう な 事 は し ない だろう 。
 305正義 だの 、 信実 だの 、 愛 だの 、 考え て みれ ば 、 くだらない 。
 306人 を 殺し て 自分 が 生きる 。
 307それ が 人間世界 の 定法 で は なかっ た か 。
 308ああ 、 何 もかも 、 ばかばかしい 。
 309私 は 、 醜い 裏切り者 だ 。
 310どう とも 、 勝手 に する が よい 。
 311やんぬる 哉 。
 312―― 四肢 を 投げ出し て 、 うとうと 、 まどろん で しまっ た 。
 313ふと 耳 に 、 潺々 、 水 の 流れる 音 が 聞え た 。
 314そっと 頭 を もたげ 、 息 を 呑ん で 耳 を すまし た 。
 315すぐ 足もと で 、 水 が 流れ て いる らしい 。
 316よろよろ 起き上っ て 、 見る と 、 岩 の 裂目 から 滾々 と 、 何 か 小さく 囁き ながら 清水 が 湧き出 て いる の で ある 。
 317その 泉 に 吸い込ま れる よう に メロス は 身 を かがめ た 。
 318水 を 両手 で 掬っ て 、 一 くち 飲ん だ 。
 319ほう と 長い 溜息 が 出 て 、 夢 から 覚め た よう な 気 が し た 。
 320歩ける 。
 321行こ う 。
 322肉体 の 疲労恢復 と共に 、 わずか ながら 希望 が 生れ た 。
 323義務遂行 の 希望 で ある 。
 324わが 身 を 殺し て 、 名誉 を 守る 希望 で ある 。
 325斜陽 は 赤い 光 を 、 樹々 の 葉 に 投じ 、 葉 も 枝 も 燃える ばかり に 輝い て いる 。
 326日没 まで に は 、 まだ 間 が ある 。
 327私 を 、 待っ て いる 人 が ある の だ 。
 328少し も 疑わ ず 、 静か に 期待 し て くれ て いる 人 が ある の だ 。
 329私 は 、 信じ られ て いる 。
 330私 の 命 なぞ は 、 問題 で は ない 。
 331死ん で お詫び 、 など と 気のいい 事 は 言っ て 居 られ ぬ 。
 332私 は 、 信頼 に 報い なけれ ば なら ぬ 。
 333いま は ただ その 一事 だ 。
 334走れ ! メロス 。
 335私 は 信頼 さ れ て いる 。
 336私 は 信頼 さ れ て いる 。
 337先刻 の 、 あの 悪魔 の 囁き は 、 あれ は 夢 だ 。
 338悪い 夢 だ 。
 339忘れ て しまえ 。
 340五臓 が 疲れ て いる とき は 、 ふい と あんな 悪い 夢 を 見る もの だ 。
 341メロス 、 おまえ の 恥 で は ない 。
 342やはり 、 おまえ は 真 の 勇者 だ 。
 343再び 立っ て 走れる よう に なっ た で は ない か 。
 344ありがたい !
 345私 は 、 正義 の 士 として 死ぬ 事 が 出来る ぞ 。
 346ああ 、 陽 が 沈む 。
 347ずんずん 沈む 。
 348待っ て くれ 、 ゼウス よ 。
 349私 は 生れ た 時 から 正直 な 男 で あっ た 。
 350正直 な 男 の まま に し て 死な せ て 下さい 。
 351路行く 人 を 押しのけ 、 跳ねとばし 、 メロス は 黒い 風 の よう に 走っ た 。
 352野原 で 酒宴 の 、 その 宴席 の まっただ中 を 駈け抜け 、 酒宴 の 人たち を 仰天 さ せ 、 犬 を 蹴とばし 、 小川 を 飛び越え 、 少し ずつ 沈ん で ゆく 太陽 の 、 十 倍 も 早く 走っ た 。
 353一団 の 旅人 と 颯っと すれちがっ た 瞬間 、 不吉 な 会話 を 小耳 に はさん だ 。
 354「 いまごろ は 、 あの 男 も 、 磔 に かかっ て いる よ 。 」
 355ああ 、 その 男 、 その 男 の ため に 私 は 、 いま こんな に 走っ て いる の だ 。
 356その 男 を 死な せ て は なら ない 。
 357急げ 、 メロス 。
 358おくれ て は なら ぬ 。
 359愛 と 誠 の 力 を 、 いま こそ 知らせ て やる が よい 。
 360風態 なんか は 、 どう でも いい 。
 361メロス は 、 いま は 、 ほとんど 全裸体 で あっ た 。
 362呼吸 も 出来 ず 、 二 度 、 三 度 、 口 から 血 が 噴き出 た 。
 363見える 。
 364はるか向う に 小さく 、 シラクス の 市 の 塔楼 が 見える 。
 365塔楼 は 、 夕陽 を 受け て きらきら 光っ て いる 。
 366「 ああ 、 メロス様 。 」
 367うめく よう な 声 が 、 風 と共に 聞え た 。
 368「 誰 だ 。 」
 369メロス は 走り ながら 尋ね た 。
 370「 フィロストラトス で ござい ます 。
 371貴方 の お友達 セリヌンティウス様 の 弟子 で ござい ます 。 」
 372その 若い 石工 も 、 メロス の 後 に つい て 走り ながら 叫ん だ 。
 373「 もう 、 駄目 で ござい ます 。
 374むだ で ござい ます 。
 375走る の は 、 やめ て 下さい 。
 376もう 、 あの 方 を お助け に なる こと は 出来 ませ ん 。 」
 377「 いや 、 まだ 陽 は 沈ま ぬ 。 」
 378「 ちょうど 今 、 あの 方 が 死刑 に なる ところ です 。
 379ああ 、 あなた は 遅かっ た 。
 380おうらみ 申し ます 。
 381ほんの 少し 、 もう ちょっと でも 、 早かっ た なら ! 」
 382「 いや 、 まだ 陽 は 沈ま ぬ 。 」
 383メロス は 胸 の 張り裂ける 思い で 、 赤く 大きい 夕陽 ばかり を 見つめ て い た 。
 384走る より 他 は 無い 。
 385「 やめ て 下さい 。
 386走る の は 、 やめ て 下さい 。
 387いま は ご自分 の お命 が 大事 です 。
 388あの 方 は 、 あなた を 信じ て 居り まし た 。
 389刑場 に 引き出さ れ て も 、 平気 で い まし た 。
 390王様 が 、 さんざん あの 方 を からかっ て も 、 メロス は 来 ます 、 と だけ 答え 、 強い 信念 を 持ち つづけ て いる 様子 で ござい まし た 。 」
 391「 それだから 、 走る の だ 。
 392信じ られ て いる から 走る の だ 。
 393間に合う 、 間に合わぬ は 問題 で ない の だ 。
 394人 の 命 も 問題 で ない の だ 。
 395私 は 、 なんだか 、 もっと 恐ろしく 大きい もの の 為 に 走っ て いる の だ 。
 396つい て 来い ! フィロストラトス 。 」
 397「 ああ 、 あなた は 気 が 狂っ た か 。
 398それでは 、 うんと 走る が いい 。
 399ひょっと し たら 、 間に合わ ぬ もの で も ない 。
 400走る が いい 。 」
 401言う に や 及ぶ 。
 402まだ 陽 は 沈ま ぬ 。
 403最後 の 死力 を 尽し て 、 メロス は 走っ た 。
 404メロス の 頭 は 、 からっぽ だ 。
 405何一つ 考え て い ない 。
 406ただ 、 わけ の わから ぬ 大きな 力 に ひきずら れ て 走っ た 。
 407陽 は 、 ゆらゆら 地平線 に 没し 、 まさに 最後 の 一 片 の 残光 も 、 消え よう と し た 時 、 メロス は 疾風 の 如く 刑場 に 突入 し た 。
 408間に合っ た 。
 409「 待て 。
 410その 人 を 殺し て は なら ぬ 。
 411メロス が 帰っ て 来 た 。
 412約束 の とおり 、 いま 、 帰っ て 来 た 。 」 と 大声 で 刑場 の 群衆 に むかっ て 叫ん だ つもり で あっ た が 、 喉 が つぶれ て 嗄れ た 声 が 幽か に 出 た ばかり 、 群衆 は 、 ひとり として 彼 の 到着 に 気がつか ない 。
 413すでに 磔 の 柱 が 高々 と 立て られ 、 縄 を 打た れ た セリヌンティウス は 、 徐々に 釣り上げ られ て ゆく 。
 414メロス は それ を 目撃 し て 最後 の 勇 、 先刻 、 濁流 を 泳い だ よう に 群衆 を 掻きわけ 、 掻きわけ 、 「 私 だ 、 刑吏 ! 殺さ れる の は 、 私 だ 。 メロス だ 。 彼 を 人質 に し た 私 は 、 ここ に いる ! 」 と 、 かすれ た 声 で 精一ぱい に 叫び ながら 、 ついに 磔台 に 昇り 、 釣り上げ られ て ゆく 友 の 両足 に 、 齧りつい た 。
 415群衆 は 、 どよめい た 。
 416あっぱれ 。
 417ゆるせ 、 と 口々に わめい た 。
 418セリヌンティウス の 縄 は 、 ほどか れ た の で ある 。
 419「 セリヌンティウス 。 」
 420メロス は 眼 に 涙 を 浮べ て 言っ た 。
 421「 私 を 殴れ 。
 422ちから一ぱい に 頬 を 殴れ 。
 423私 は 、 途中 で 一 度 、 悪い 夢 を 見 た 。
 424君 が 若し 私 を 殴っ て くれ なかっ たら 、 私 は 君 と 抱擁 する 資格 さえ 無い の だ 。
 425殴れ 。 」
 426セリヌンティウス は 、 すべて を 察し た 様子 で 首肯き 、 刑場一ぱい に 鳴り響く ほど 音 高く メロス の 右頬 を 殴っ た 。
 427殴っ て から 優しく 微笑み 、 「 メロス 、 私 を 殴れ 。 同じ くらい 音高く 私 の 頬 を 殴れ 。 私 は この 三 日 の 間 、 たった 一 度 だけ 、 ちらと 君 を 疑っ た 。 生れ て 、 はじめて 君 を 疑っ た 。 君 が 私 を 殴っ て くれ なけれ ば 、 私 は 君 と 抱擁 でき ない 。 」
 428メロス は 腕 に 唸り を つけ て セリヌンティウス の 頬 を 殴っ た 。
 429「 ありがとう 、 友 よ 。 」
 430二 人 同時 に 言い 、 ひしと 抱き合い 、 それから 嬉し泣き に おいおい 声 を 放っ て 泣い た 。
 431群衆 の 中 から も 、 歔欷 の 声 が 聞え た 。
 432暴君ディオニス は 、 群衆 の 背後 から 二人 の 様 を 、 まじまじ と 見つめ て い た が 、 やがて 静か に 二人 に 近づき 、 顔 を あからめ て 、 こう 言っ た 。
 433「 おまえら の 望み は 叶っ た ぞ 。
 434おまえら は 、 わし の 心 に 勝っ た の だ 。
 435信実 とは 、 決して 空虚 な 妄想 で は なかっ た 。
 436どうか 、 わし を も 仲間 に 入れ て くれ まい か 。
 437どうか 、 わし の 願い を 聞き入れ て 、 おまえら の 仲間 の 一人 に し て ほしい 。 」
 438どっ と 群衆 の 間 に 、 歓声 が 起っ た 。
 439「 万歳 、 王様 万歳 。 」
 440ひとり の 少女 が 、 緋 の マント を メロス に 捧げ た 。
 441メロス は 、 まごつい た 。
 442佳き友 は 、 気 を きかせ て 教え て やっ た 。
 443「 メロス 、 君 は 、 まっぱだか じゃ ない か 。
 444早く その マント を 着る が いい 。
 445この 可愛い 娘さん は 、 メロス の 裸体 を 、 皆 に 見 られる の が 、 たまらなく 口惜しい の だ 。 」
 446勇者 は 、 ひどく 赤面 し た 。
 447( 古伝説 と 、 シルレル の 詩 から 。 )