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aozora_Edogawa-1929のコンテキスト表示

title:Oshie to tabi suru otoko
author:Edogawa, Ranpo
date:1929
source:Shinseinen, June edition; Aozora Bunko (http://www.aozora.gr.jp/cards/001779/card56645.html)
genre:fiction
subcorpus:Aozora Bunko
terms of use:Creative Commons license


 1押絵 と 旅 する 男
 2江戸川乱歩
 3この 話 が 私 の 夢 か 私 の 一時的狂気 の 幻 で なかっ た ならば 、 あの 押絵 と 旅 を し て い た 男 こそ 狂人 で あっ た に 相違 ない 。
 4だが 、 夢 が 時として 、 どこ か この 世界 と 喰違っ た 別 の 世界 を 、 チラリと 覗か せ て くれる 様 に 、 又 狂人 が 、 我々 の 全く 感じ 得 ぬ 物事 を 見 たり 聞い たり する と 同じ に 、 これ は 私 が 、 不可思議 な 大気 の レンズ仕掛け を通して 、 一 刹那 、 この世 の 視野 の 外 に ある 、 別 の 世界 の 一隅 を 、 ふと 隙見 し た の で あっ た かも 知れ ない 。
 5いつ と も 知れ ぬ 、 ある 暖かい 薄曇っ た 日 の こと で ある 。
 6その 時 、 私 は 態々 魚津 へ 蜃気楼 を 見 に 出掛け た 帰り途 で あっ た 。
 7私 が この 話 を する と 、 時々 、 お前 は 魚津 なんか へ 行っ た こと は ない じゃ ない か と 、 親しい 友達 に 突っ込ま れる こと が ある 。
 8そう 云わ れ て 見る と 、 私 は 何 時 の 何 日 に 魚津 へ 行っ た の だ と 、 ハッキリ 証拠 を 示す こと が 出来 ぬ 。
 9それでは やっぱり 夢 で あっ た の か 。
 10だが 私 は 嘗て 、 あの よう に 濃厚 な 色彩 を 持っ た 夢 を 見 た こと が ない 。
 11夢 の 中 の 景色 は 、 映画 と 同じ に 、 全く 色彩 を 伴わ ぬ もの で ある のに 、 あの 折 の 汽車 の 中 の 景色 丈け は 、 それも あの 毒々しい 押絵 の 画面 が 中心 に なっ て 、 紫 と 臙脂 の 勝 た 色彩 で 、 まるで 蛇 の 眼 の 瞳孔 の 様 に 、 生々しく 私 の 記憶 に 焼つい て いる 。
 12着色映画 の 夢 という もの が ある の であろう か 。
 13私 は その 時 、 生れ て 初めて 蜃気楼 という もの を 見 た 。
 14蛤 の 息 の 中 に 美しい 龍宮城 の 浮ん で いる 、 あの 古風 な 絵 を 想像 し て い た 私 は 、 本物 の 蜃気楼 を 見 て 、 膏汗 の にじむ 様 な 、 恐怖 に 近い 驚き に 撃た れ た 。
 15魚津 の 浜 の 松並木 に 豆粒 の 様 な 人間 が ウジャウジャ と 集まっ て 、 息 を 殺し て 、 眼界一杯 の 大空 と 海面 と を 眺め て い た 。
 16私 は あんな 静か な 、 唖 の 様 に だまっ て いる 海 を 見 た こと が ない 。
 17日本海 は 荒海 と 思い込ん で い た 私 に は 、 それ も ひどく 意外 で あっ た 。
 18その 海 は 、 灰色 で 、 全く 小波 一 つ なく 、 無限 の 彼方 に まで 打続く 沼 か と 思わ れ た 。
 19そして 、 太平洋 の 海 の 様 に 、 水平線 は なくて 、 海 と 空 と は 、 同じ 灰色 に 溶け合い 、 厚さ の 知れ ぬ 靄 に 覆い つくさ れ た 感じ で あっ た 。
 20空 だ と ばかり 思っ て い た 、 上部 の 靄 の 中 を 、 案外 に も そこ が 海面 で あっ て 、 フワフワ と 幽霊 の 様 な 、 大きな 白帆 が 滑っ て 行っ たり し た 。
 21蜃気楼 とは 、 乳色 の フィルム の 表面 に 墨汁 を たらし て 、 それ が 自然 に ジワジワ と にじん で 行く の を 、 途方 も なく 巨大 な 映画 に し て 、 大空 に 映し出し た 様 な もの で あっ た 。
 22遙か な 能登半島 の 森林 が 、 喰違っ た 大気 の 変形レンズ を通して 、 すぐ 目 の 前 の 大空 に 、 焦点 の よく 合わ ぬ 顕微鏡 の 下 の 黒い 虫 みたい に 、 曖昧 に 、 しかも 馬鹿馬鹿しく 拡大 さ れ て 、 見る 者 の 頭上 に おしかぶさっ て 来る の で あっ た 。
 23それ は 、 妙 な 形 の 黒雲 と 似 て い た けれど 、 黒雲 なれ ば その 所在 が ハッキリ 分っ て いる に反し 、 蜃気楼 は 、 不思議 に も 、 それ と 見る 者 と の 距離 が 非常 に 曖昧 な の だ 。
 24遠く の 海上 に 漂う 大入道 の 様 で も あり 、 ともすれば 、 眼前 一 尺 に 迫る 異形 の 靄 か と 見え 、 はては 、 見る 者 の 角膜 の 表面 に 、 ポッツリ と 浮ん だ 、 一 点 の 曇り の 様 に さえ 感じ られ た 。
 25この 距離 の 曖昧さ が 、 蜃気楼 に 、 想像以上 の 不気味 な 気違いめい た 感じ を 与える の だ 。
 26曖昧 な 形 の 、 真黒 な 巨大 な 三角形 が 、 塔 の 様 に 積重なっ て 行っ たり 、 またたく 間 に くずれ たり 、 横 に 延び て 長い 汽車 の 様 に 走っ たり 、 それ が 幾 つ か に くずれ 、 立並ぶ 檜 の 梢 と 見え たり 、 じっと 動か ぬ 様 で い ながら 、 いつとはなく 、 全く 違っ た 形 に 化け て 行っ た 。
 27蜃気楼 の 魔力 が 、 人間 を 気違い に する もの で あっ た なら 、 恐らく 私 は 、 少くとも 帰り途 の 汽車 の 中 まで は 、 その 魔力 を 逃れる こと が 出来 なかっ た の であろう 。
 28二 時間 の 余 も 立ち尽し て 、 大空 の 妖異 を 眺め て い た 私 は 、 その 夕方 魚津 を 立っ て 、 汽車 の 中 に 一夜 を 過ごす まで 、 全く 日常 と 異っ た 気持 で い た こと は 確 で ある 。
 29若しかしたら 、 それ は 通り魔 の 様 に 、 人間 の 心 を かすめ冒す 所 の 、 一時的狂気 の 類 で でも あっ た であろう か 。
 30魚津 の 駅 から 上野 へ の 汽車 に 乗っ た の は 、 夕方 の 六 時 頃 で あっ た 。
 31不思議 な 偶然 で あろ う か 、 あの 辺 の 汽車 は いつ でも そう な の か 、 私 の 乗っ た 二 等車 は 、 教会堂 の 様 に ガランと し て い て 、 私 の 外 に たった 一人 の 先客 が 、 向う の 隅 の クッション に 蹲っ て いる ばかり で あっ た 。
 32汽車 は 淋しい 海岸 の 、 けわしい 崕 や 砂浜 の 上 を 、 単調 な 機械 の 音 を 響か せ て 、 際しもなく 走っ て いる 。
 33沼 の 様 な 海上 の 、 靄 の 奥 深く 、 黒血 の 色 の 夕焼 が 、 ボンヤリ と 感じ られ た 。
 34異様 に 大きく 見える 白帆 が 、 その 中 を 、 夢 の 様 に 滑っ て い た 。
 35少し も 風 の ない 、 むしむし する 日 で あっ た から 、 所々 開か れ た 汽車 の 窓 から 、 進行 につれて 忍び込む そよ風 も 、 幽霊 の 様 に 尻切れとんぼ で あっ た 。
 36沢山 の 短い トンネル と 雪除け の 柱 の 列 が 、 広漠 たる 灰色 の 空 と 海 と を 、 縞目 に 区切っ て 通り過ぎ た 。
 37親不知 の 断崖 を 通過 する 頃 、 車内 の 電燈 と 空 の 明るさ と が 同じ に 感じ られ た 程 、 夕闇 が 迫っ て 来 た 。
 38丁度 その 時分 向う の 隅 の たった 一人 の 同乗者 が 、 突然 立上っ て 、 クッション の 上 に 大きな 黒繻子 の 風呂敷 を 広げ 、 窓 に 立てかけ て あっ た 、 二 尺 に 三 尺 程 の 、 扁平 な 荷物 を 、 その 中 へ 包み 始め た 。
 39それ が 私 に 何とやら 奇妙 な 感じ を 与え た の で ある 。
 40その 扁平 な もの は 、 多分 額 に 相違 ない の だ が 、 それ の 表側 の 方 を 、 何 か 特別 の 意味 でも ある らしく 、 窓ガラス に 向け て 立てかけ て あっ た 。
 41一 度 風呂敷 に 包ん で あっ た もの を 、 態々 取出し て 、 そんな 風 に 外 に 向け て 立てかけ た もの と しか 考え られ なかっ た 。
 42それ に 、 彼 が 再び 包む 時 に チラと 見た 所 によると 、 額 の 表面 に 描か れ た 極彩色 の 絵 が 、 妙 に 生々しく 、 何となく 世 の 常 なら ず 見え た こと で あっ た 。
 43私 は 更めて 、 この 変てこ な 荷物 の 持主 を 観察 し た 。
 44そして 、 持主 その 人 が 、 荷物 の 異様さ に も まし て 、 一段 と 異様 で あっ た こと に 驚かさ れ た 。
 45彼 は 非常 に 古風 な 、 我々 の 父親 の 若い 時分 の 色あせ た 写真 で しか 見る こと の 出来 ない 様 な 、 襟 の 狭い 、 肩 の すぼけ た 、 黒 の 背広服 を 着 て い た が 、 併し それ が 、 背 が 高く て 、 足 の 長い 彼 に 、 妙 に シックリ と 合っ て 、 甚だ 意気 に さえ 見え た の で ある 。
 46顔 は 細面 で 、 両眼 が 少し ギラギラ し 過ぎ て い た 外 は 、 一体 に よく 整っ て い て 、 スマート な 感じ で あっ た 。
 47そして 、 綺麗 に 分け た 頭髪 が 、 豊 に 黒々 と 光っ て いる ので 、 一見 四十 前後 で あっ た が 、 よく 注意 し て 見る と 、 顔中 に 夥しい 皺 が あっ て 、 一飛び に 六十 位 に も 見え ぬ こと は なかっ た 。
 48この 黒々 と し た 頭髪 と 、 色白 の 顔面 を 縦横 に きざん だ 皺 と の 対照 が 、 初めて それ に 附気い た 時 、 私 を ハッと さ せ た 程 も 、 非常 に 不気味 な 感じ を 与え た 。
 49彼 は 叮嚀 に 荷物 を 包み 終る と 、 ひょいと 私 の 方 に 顔 を 向け た が 、 丁度 私 の 方 でも 熱心 に 相手 の 動作 を 眺め て い た 時 で あっ た から 、 二人 の 視線 が ガッチリ と ぶっつかっ て しまっ た 。
 50すると 、 彼 は 何 か 恥かし 相 に 唇 の 隅 を 曲げ て 、 幽か に 笑っ て 見せる の で あっ た 。
 51私 も 思わず 首 を 動かし て 挨拶 を 返し た 。
 52それから 、 小駅 を 二 三 通過 する 間 、 私達 は お互 の 隅 に 坐っ た まま 、 遠く から 、 時々 視線 を まじえ て は 、 気まずく 外方 を 向く こと を 、 繰返し て い た 。
 53外 は 全く 暗闇 に なっ て い た 。
 54窓ガラス に 顔 を 押しつけ て 覗い て 見 て も 、 時たま 沖 の 漁船 の 舷燈 が 遠く 遠く ポッツリ と 浮ん で いる 外 に は 、 全く 何 の 光り も なかっ た 。
 55際涯 の ない 暗闇 の 中 に 、 私達 の 細長い 車室 丈け が 、 たった 一 つ の 世界 の 様 に 、 いつ まで も いつ まで も 、 ガタンガタン と 動い て 行っ た 。
 56その ほの暗い 車室 の 中 に 、 私達 二 人 丈け を 取り残し て 、 全世界 が 、 あらゆる 生き物 が 、 跡方 も なく 消え失せ て しまっ た 感じ で あっ た 。
 57私達 の 二 等車 に は 、 どの 駅 から も 一人 の 乗客 も なかっ た し 、 列車ボーイ や 車掌 も 一 度 も 姿 を 見せ なかっ た 。
 58そういう 事 も 今 に なっ て 考え て 見る と 、 甚だ 奇怪 に 感じ られる の で ある 。
 59私 は 、 四十 歳 に も 六十 歳 に も 見える 、 西洋 の 魔術師 の 様 な 風采 の その 男 が 、 段々 怖く なっ て 来 た 。
 60怖さ という もの は 、 外 に まぎれる 事柄 の ない 場合 に は 、 無限 に 大きく 、 身体中 一杯 に 拡がっ て 行く もの で ある 。
 61私 は 遂に は 、 産毛 の 先 まで も 怖さ が 満ち て 、 たまら なく なっ て 、 突然 立上る と 、 向う の 隅 の その 男 の 方 へ ツカツカ と 歩い て 行っ た 。
 62その 男 が いとわしく 、 恐ろしけれ ば こそ 、 私 は その 男 に 近づい て 行っ た の で あっ た 。
 63私 は 彼 と 向き合っ た クッション へ 、 そっと 腰 を おろし 、 近寄れ ば 一層 異様 に 見える 彼 の 皺だらけ の 白い 顔 を 、 私 自身 が 妖怪 で でも ある 様 な 、 一種 不可思議 な 、 顛倒 し た 気持 で 、 目 を 細く 息 を 殺し て じっと 覗き込ん だ もの で ある 。
 64男 は 、 私 が 自分 の 席 を 立っ た 時 から 、 ずっと 目 で 私 を 迎える 様 に し て い た が 、 そうして 私 が 彼 の 顔 を 覗き込む と 、 待ち受け て い た 様 に 、 顎 で 傍ら の 例の 扁平 な 荷物 を 指し示し 、 何 の 前置き も なく 、 さも それ が 当然 の 挨拶 で でも ある 様 に 、 「 これ で ござい ます か 」 と 云っ た 。
 65その 口調 が 、 余り 当り前 で あっ た ので 、 私 は 却て 、 ギョッと し た 程 で あっ た 。
 66「 これ が 御覧になり たい の で ござい ましょ う 」
 67私 が 黙っ て いる ので 、 彼 は もう 一 度 同じ こと を 繰返し た 。
 68「 見せ て 下さい ます か 」
 69私 は 相手 の 調子 に 引込ま れ て 、 つい 変 な こと を 云っ て しまっ た 。
 70私 は 決して その 荷物 を 見 たい 為 に 席 を 立っ た 訳 で は なかっ た の だ けれど 。
 71「 喜ん で 御見せ 致し ます よ 。
 72わたくし は 、 さっき から 考え て い た の で ござい ます よ 。
 73あなた は きっと これ を 見 に お出で なさる だろう と ね 」
 74男 は ―― 寧ろ 老人 と 云っ た 方 が ふさわしい の だ が ―― そう 云い ながら 、 長い 指 で 、 器用 に 大風呂敷 を ほどい て 、 その 額 みたい な もの を 、 今度 は 表 を 向け て 、 窓 の 所 へ 立てかけ た の で ある 。
 75私 は 一目 チラッと 、 その 表面 を 見る と 、 思わず 目 を とじ た 。
 76何故 で あっ た か 、 その 理由 は 今 でも 分ら ない の だ が 、 何となく そう し なけれ ば なら ぬ 感じ が し て 、 数 秒 の 間 目 を ふさい で い た 。
 77再び 目 を 開い た 時 、 私 の 前 に 、 嘗て 見 た こと の ない 様 な 、 奇妙 な もの が あっ た 。
 78と云って 、 私 は その 「 奇妙 」 な 点 を ハッキリ と 説明 する 言葉 を 持た ぬ の だ が 。
 79額 に は 歌舞伎芝居 の 御殿 の 背景 みたい に 、 幾 つ も の 部屋 を 打抜い て 、 極度 の 遠近法 で 、 青畳 と 格子天井 が 遙か 向う の 方 まで 続い て いる 様 な 光景 が 、 藍 を 主 と し た 泥絵具 で 毒々しく 塗りつけ て あっ た 。
 80左手 の 前方 に は 、 墨黒々 と 不細工 な 書院風 の 窓 が 描か れ 、 同じ 色 の 文机 が 、 その 傍 に 角度 を 無視 し た 描き方 で 、 据え て あっ た 。
 81それら の 背景 は 、 あの 絵馬札 の 絵 の 独特 な 画風 に 似 て い た と 云え ば 、 一番 よく 分る であろう か 。
 82その 背景 の 中 に 、 一 尺 位 の 丈 の 二人 の 人物 が 浮き出し て い た 。
 83浮き出し て い た と 云う の は 、 その 人物 丈け が 、 押絵細工 で 出来 て い た から で ある 。
 84黒天鵞絨 の 古風 な 洋服 を 着 た 白髪 の 老人 が 、 窮屈 そう に 坐っ て いる と 、 ( 不思議 な こと に は 、 その 容貌 が 、 髪 の 色 を 除く と 、 額 の 持主 の 老人 に その まま な ばかりか 、 着 て いる 洋服 の 仕立方 まで そっくり で あっ た ) 緋鹿の子 の 振袖 に 、 黒繻子 の 帯 の 映り の よい 十七八 の 、 水 の たれる 様 な 結綿 の 美少女 が 、 何 と も 云え ぬ 嬌羞 を 含ん で 、 その 老人 の 洋服 の 膝 に しなだれかかっ て いる 、 謂わば 芝居 の 濡れ場 に 類する 画面 で あっ た 。
 85洋服 の 老人 と 色娘 の 対照 と 、 甚だ 異様 で あっ た こと は 云う までも ない が 、 だが 私 が 「 奇妙 」 に 感じ た という の は その こと で は ない 。
 86背景 の 粗雑 に 引かえ て 、 押絵 の 細工 の 精巧 な こと は 驚く ばかり で あっ た 。
 87顔 の 部分 は 、 白絹 は 凹凸 を 作っ て 、 細い 皺 まで 一 つ 一 つ 現わし て あっ た し 、 娘 の 髪 は 、 本当 の 毛髪 を 一 本 一 本 植えつけ て 、 人間 の 髪 を 結う 様 に 結っ て あり 、 老人 の 頭 は 、 これ も 多分 本物 の 白髪 を 、 丹念 に 植え た もの に 相違 なかっ た 。
 88洋服 に は 正しい 縫い目 が あり 、 適当 な 場所 に 粟粒 程 の 釦 まで つけ て ある し 、 娘 の 乳 の ふくらみ と云い 、 腿 の あたり の 艶めい た 曲線 と云い 、 こぼれ た 緋縮緬 、 チラと 見える 肌 の 色 、 指 に は 貝殻 の 様 な 爪 が 生え て い た 。
 89虫眼鏡 で 覗い て 見 たら 、 毛穴 や 産毛 まで 、 ちゃんと 拵え て ある の で は ない か と 思わ れ た 程 で ある 。
 90私 は 押絵 と 云え ば 、 羽子板 の 役者 の 似顔 の 細工 しか 見 た こと が なかっ た が 、 そして 、 羽子板 の 細工 に も 、 随分 精巧 な もの も ある の だ けれど 、 この 押絵 は 、 そんな もの と は 、 まるで 比較 に も なら ぬ 程 、 巧緻 を 極め て い た の で ある 。
 91恐らく その 道 の 名人 の 手 に 成っ た もの で あろ う か 。
 92だが 、 それ が 私 の 所謂 「 奇妙 」 な 点 で は なかっ た 。
 93額 全体 が 余程 古い もの らしく 、 背景 の 泥絵具 は 所々 はげ落 て い た し 、 娘 の 緋鹿の子 も 、 老人 の 天鵞絨 も 、 見る 影 も なく 色あせ て い た けれど 、 はげ落ち 色あせ た なり に 、 名状し 難き 毒々しさ を 保ち 、 ギラギラ と 、 見る 者 の 眼底 に 焼つく 様 な 生気 を 持っ て い た こと も 、 不思議 と 云え ば 不思議 で あっ た 。
 94だが 、 私 の 「 奇妙 」 という 意味 は それ で も ない 。
 95それ は 、 若し 強て 云う ならば 、 押絵 の 人物 が 二 つ とも 、 生き て い た こと で ある 。
 96文楽 の 人形芝居 で 、 一 日 の 演技 の 内 に 、 たった 一 度 か 二 度 、 それ も ほんの 一瞬間 、 名人 の 使っ て いる 人形 が 、 ふと 神 の 息吹 を かけ られ でも し た 様 に 、 本当 に 生き て いる こと が ある もの だ が 、 この 押絵 の 人物 は 、 その 生き た 瞬間 の 人形 を 、 命 の 逃げ出す 隙 を 与え ず 、 咄嗟 の 間 に 、 そのまま 板 に はりつけ た という 感じ で 、 永遠 に 生きながらえ て いる か と 見え た の で ある 。
 97私 の 表情 に 驚き の 色 を 見 て 取っ た から か 、 老人 は 、 いと たのもしげ な 口調 で 、 殆ど 叫ぶ 様 に 、 「 アア 、 あなた は 分っ て 下さる かも 知れ ませ ん 」 と 云い ながら 、 肩 から 下げ て い た 、 黒革 の ケース を 、 叮嚀 に 鍵 で 開い て 、 その 中 から 、 いとも 古風 な 双眼鏡 を 取り出し て それ を 私 の 方 へ 差出す の で あっ た 。
 98「 コレ 、 この 遠眼鏡 で 一 度 御覧 下さい ませ 。
 99イエ 、 そこ から で は 近 すぎ ます 。
 100失礼 です が 、 もう 少し あちら の 方 から 。
 101左様 丁度 その 辺 が よう ござい ましょ う 」
 102誠 に 異様 な 頼み で は あっ た けれど 、 私 は 限りなき 好奇心 の とりこ と なっ て 、 老人 の 云う が まま に 、 席 を 立っ て 額 から 五六 歩 遠ざかっ た 。
 103老人 は 私 の 見 易い 様 に 、 両手 で 額 を 持っ て 、 電燈 に かざし て くれ た 。
 104今 から 思う と 、 実に 変てこ な 、 気違いめい た 光景 で あっ た に 相違 ない の で ある 。
 105遠眼鏡 と云う の は 、 恐らく 二三十 年 も 以前 の 舶来品 で あろ う か 、 私達 が 子供 の 時分 、 よく 眼鏡屋 の 看板 で 見かけ た 様 な 、 異様 な 形 の プリズム双眼鏡 で あっ た が 、 それ が 手摺れ の 為 に 、 黒い 覆皮 が はげ て 、 所々 真鍮 の 生地 が 現われ て いる という 、 持主 の 洋服 と 同様 に 、 如何に も 古風 な 、 物懐かしい 品物 で あっ た 。
 106私 は 珍らしさ に 、 暫く その 双眼鏡 を ひねくり廻し て い た が 、 やがて 、 それ を 覗く 為 に 、 両手 で 眼 の 前 に 持っ て 行っ た 時 で ある 。
 107突然 、 実に 突然 、 老人 が 悲鳴 に 近い 叫声 を 立て た ので 、 私 は 、 危く 眼鏡 を 取落す 所 で あっ た 。
 108「 いけ ませ ん 。
 109いけ ませ ん 。
 110それ は さかさ です よ 。
 111さかさ に 覗い て は いけ ませ ん 。
 112いけ ませ ん 」
 113老人 は 、 真青 に なっ て 、 目 を まんまる に 見開い て 、 しきりと 手 を 振っ て い た 。
 114双眼鏡 を 逆 に 覗く こと が 、 何ぜ それ 程 大変 な の か 、 私 は 老人 の 異様 な 挙動 を 理解 する こと が 出来 なかっ た 。
 115「 成程 、 成程 、 さかさ でし た っけ 」
 116私 は 双眼鏡 を 覗く こと に 気 を 取ら れ て い た ので 、 この 老人 の 不審 な 表情 を 、 さして 気 に も とめ ず 、 眼鏡 を 正しい 方向 に 持ち直す と 、 急い で それ を 目 に 当て て 押絵 の 人物 を 覗い た の で ある 。
 117焦点 が 合っ て 行く に従って 、 二 つ の 円形 の 視野 が 、 徐々に 一 つ に 重なり 、 ボンヤリ と し た 虹 の 様 な もの が 、 段々 ハッキリ し て 来る と 、 びっくり する 程 大きな 娘 の 胸 から 上 が 、 それ が 全世界 で でも ある 様 に 、 私 の 眼界 一杯 に 拡がっ た 。
 118あんな 風 な 物 の 現われ方 を 、 私 は あと に も 先 に も 見 た こと が ない ので 、 読む 人 に 分ら せる の が 難儀 な の だ が 、 それ に 近い 感じ を 思い出し て 見る と 、 例えば 、 舟 の 上 から 、 海 に もぐっ た 蜑 の 、 ある 瞬間 の 姿 に 似 て い た と でも 形容 す べき であろう か 。
 119蜑 の 裸身 が 、 底 の 方 に ある 時 は 、 青い 水 の 層 の 複雑 な 動揺 の 為 に 、 その 身体 が 、 まるで 海草 の 様 に 、 不自然 に クネクネ と 曲り 、 輪廓 も ぼやけ て 、 白っぽい お化 みたい に 見え て いる が 、 それ が 、 つうッと 浮上っ て 来る に従って 、 水 の 層 の 青さ が 段々 薄く なり 、 形 が ハッキリ し て 来 て 、 ポッカリ と 水上 に 首 を 出す と 、 その 瞬間 、 ハッと 目 が 覚め た 様 に 、 水中 の 白い お化 が 、 忽ち 人間 の 正体 を 現わす の で ある 。
 120丁度 それ と 同じ 感じ で 、 押絵 の 娘 は 、 双眼鏡 の 中 で 、 私 の 前 に 姿 を 現わし 、 実物大 の 、 一人 の 生き た 娘 として 、 蠢き 始め た の で ある 。
 121十九 世紀 の 古風 な プリズム双眼鏡 の 玉 の 向う側 に は 、 全く 私達 の 思い も 及ば ぬ 別世界 が あっ て 、 そこ に 結綿 の 色娘 と 、 古風 な 洋服 の 白髪男 と が 、 奇怪 な 生活 を 営ん で いる 。
 122覗い て は 悪い もの を 、 私 は 今 魔法使 に 覗か さ れ て いる の だ 。
 123といった 様 な 形容 の 出来 ない 変てこ な 気持 で 、 併し 私 は 憑か れ た 様 に その 不可思議 な 世界 に 見入っ て しまっ た 。
 124娘 は 動い て い た 訳 で は ない が 、 その 全身 の 感じ が 、 肉眼 で 見 た 時 と は 、 ガラリ と 変っ て 、 生気 に 満ち 、 青白い 顔 が やや 桃色 に 上気 し 、 胸 は 脈打ち ( 実際 私 は 心臓 の 鼓動 を さえ 聞い た ) 肉体 から は 縮緬 の 衣裳 を通して 、 むしむし と 、 若い 女 の 生気 が 蒸発 し て 居る 様 に 思わ れ た 。
 125私 は 一渡り 、 女 の 全身 を 、 双眼鏡 の 先 で 、 嘗め廻し て から 、 、 その 娘 が しなだれ掛っ て いる 仕合せ な 白髪男 の 方 へ 眼鏡 を 転じ た 。
 126老人 も 、 双眼鏡 の 世界 で 、 生き て い た こと は 同じ で あっ た が 、 見 た 所 四十 程 も 年 の 違う 、 若い 女 の 肩 に 手 を 廻し て 、 さも 幸福 そう な 形 で あり ながら 、 妙 な こと に は 、 レンズ 一杯 の 大きさ に 写っ た 、 彼 の 皺 の 多い 顔 が 、 その 何百 本 の 皺 の 底 で 、 いぶかしく 苦悶 の 相 を 現わし て いる の で ある 。
 127それ は 、 老人 の 顔 が レンズ の 為 に 眼前 一 尺 の 近さ に 、 異様 に 大きく 迫っ て い た から で も あっ た であろう が 、 見つめ て いれ ば いる 程 、 ゾッと 怖く なる 様 な 、 悲痛 と 恐怖 と の 混り合っ た 一種 異様 の 表情 で あっ た 。
 128それ を 見る と 、 私 は うなされ た 様 な 気分 に なっ て 、 双眼鏡 を 覗い て いる こと が 、 耐え 難く 感じ られ た ので 、 思わず 、 目 を 離し て 、 キョロキョロ と あたり を 見廻し た 。
 129すると 、 それ は やっぱり 淋しい 夜 の 汽車 の 中 で あっ て 、 押絵 の 額 も 、 それ を ささげ た 老人 の 姿 も 、 元 の まま で 、 窓 の 外 は 真暗 だ し 、 単調 な 車輪 の 響 も 、 変り なく 聞え て い た 。
 130悪夢 から 醒め た 気持 で あっ た 。
 131「 あなた様 は 、 不思議 相 な 顔 を し て おいで なさい ます ね 」
 132老人 は 額 を 、 元 の 窓 の 所 へ 立てかけ て 、 席 に つく と 、 私 に も その 向う側 へ 坐る 様 に 、 手真似 を し ながら 、 私 の 顔 を 見つめ て 、 こんな こと を 云っ た 。
 133「 私 の 頭 が 、 どう か し て いる 様 です 。
 134いやに 蒸し ます ね 」
 135私 は てれ隠し みたい な 挨拶 を し た 。
 136すると 老人 は 、 猫背 に なっ て 、 顔 を ぐっと 私 の 方 へ 近寄せ 、 膝 の 上 で 細長い 指 を 合図 でも する 様 に 、 ヘラヘラ と 動かし ながら 、 低い 低い 囁き声 に なっ て 、 「 あれら は 、 生き て 居り まし たろ う 」 と 云っ た 。
 137そして 、 さも 一大事 を 打開ける といった 調子 で 、 一層 猫背 に なっ て 、 ギラギラ し た 目 を まん丸 に 見開い て 、 私 の 顔 を 穴 の あく 程 見つめ ながら 、 こんな こと を 囁く の で あっ た 。
 138「 あなた は 、 あれら の 、 本当 の 身の上話 を 聞き 度い と は おぼしめし ませ ん かね 」
 139私 は 汽車 の 動揺 と 、 車輪 の 響 の 為 に 、 老人 の 低い 、 呟く 様 な 声 を 、 聞き 間違え た の で は ない か と 思っ た 。
 140「 身の上話 と おっしゃい まし た か 」
 141「 身の上話 で ござい ます よ 」
 142老人 は やっぱり 低い 声 で 答え た 。
 143「 殊に 、 一方 の 、 白髪 の 老人 の 身の上話 を で ござい ます よ 」
 144「 若い 時分 から の です か 」
 145私 も 、 その 晩 は 、 何故 か 妙 に 調子はずれ な 物 の 云い方 を し た 。
 146「 ハイ 、 あれ が 二十五 歳 の 時 の お話 で ござい ます よ 」
 147「 是非 うかがい たい もの です ね 」
 148私 は 、 普通 の 生き た 人間 の 身の上話 を でも 催促 する 様 に 、 ごく 何でもない こと の 様 に 、 老人 を うながし た の で ある 。
 149すると 、 老人 は 顔 の 皺 を 、 さも 嬉し そう に ゆがめ て 、 「 アア 、 あなた は 、 やっぱり 聞い て 下さい ます ね 」 と 云い ながら 、 さて 、 次 の 様 な 世 に も 不思議 な 物語 を 始め た の で あっ た 。
 150「 それ は もう 、 一生涯 の 大事件 です から 、 よく 記憶 し て 居り ます が 、 明治 二十八 年 の 四 月 の 、 兄 が あんな に ( と 云っ て 彼 は 押絵 の 老人 を 指さし た ) なり まし た の が 、 二十七 日 の 夕方 の こと で ござり まし た 。
 151当時 、 私 も 兄 も 、 まだ 部屋住み で 、 住居 は 日本橋通 三 丁目 でし て 、 親爺 が 呉服商 を 営ん で 居り まし た が ね 。
 152何でも 浅草 の 十二階 が 出来 て 、 間 も なく の こと で ござい まし た よ 。
 153だもんですから 、 兄 なんぞ は 、 毎日 の 様 に あの 凌雲閣 へ 昇っ て 喜ん で い た もの です 。
 154と 申し ます の が 、 兄 は 妙 に 異国物 が 好き で 、 新しがり屋 で ござんし た から ね 。
 155この 遠眼鏡 にしろ 、 やっぱり それ で 、 兄 が 外国船 の 船長 の 持物 だっ た という 奴 を 、 横浜 の 支那人町 の 、 変てこ な 道具屋 の 店先 で 、 めっけ て 来 まし て ね 。
 156当時 にしちゃあ 、 随分 高い お金 を 払っ た と 申し て 居り まし た っけ 」
 157老人 は 「 兄 が 」 と 云う たび に 、 まるで そこ に その 人 が 坐っ て でも いる 様 に 、 押絵 の 老人 の 方 に 目 を やっ たり 、 指さし たり し た 。
 158老人 は 、 彼 の 記憶 に ある 本当 の 兄 と 、 その 押絵 の 白髪 の 老人 と を 混同 し て 、 押絵 が 生き て 彼 の 話 を 聞い て でも いる 様 な 、 すぐ 側 に 第三 者 を 意識 し た 様 な 話し方 を し た 。
 159だが 、 不思議 な こと に 、 私 は それ を 少し も おかしい と は 感じ なかっ た 。
 160私達 は その 瞬間 、 自然 の 法則 を 超越 し た 、 我々 の 世界 と どこ か で 喰違っ て いる 処 の 、 別 の 世界 に 住ん で い た らしい の で ある 。
 161「 あなた は 、 十二階 へ 御昇り なすっ た こと が おあり です か 。
 162アア 、 おあり なさら ない 。
 163それ は 残念 です ね 。
 164あれ は 一体 どこ の 魔法使 が 建て まし た もの か 、 実に 途方 も ない 、 変てこれん な 代物 で ござい まし た よ 。
 165表面 は 伊太利 の 技師 の バルトン と 申す もの が 設計 し た こと に なっ て い まし た が ね 。
 166まあ 考え て 御覧 なさい 。
 167その 頃 の 浅草公園 と云えば 、 名物 が 先ず 蜘蛛男 の 見世物 、 娘剣舞 に 、 玉乗り 、 源水 の 独楽廻し に 、 覗きからくり など で 、 せいぜい 変っ た 所 が 、 お富士さま の 作り物 に 、 メーズ と 云って 、 八陣隠れ杉 の 見世物 位 で ござい まし た から ね 。
 168そこ へ あなた 、 ニョキニョキ と 、 まあ 飛んでもない 高い 煉瓦造り の 塔 が 出来 ちまっ た ん です から 、 驚く じゃ ござんせ ん か 。
 169高さ が 四十六 間 と 申し ます から 、 半丁 の 余 で 、 八角型 の 頂上 が 、 唐人 の 帽子 みたい に 、 とんがっ て い て 、 ちょっと 高台 へ 昇り さえ すれ ば 、 東京中 どこ から でも 、 その 赤い お化 が 見 られ た もの です 。
 170今 も 申す 通り 、 明治 二十八 年 の 春 、 兄 が この 遠眼鏡 を 手 に 入れ て 間 も ない 頃 でし た 。
 171兄 の 身 に 妙 な こと が 起っ て 参り まし た 。
 172親爺 なんぞ 、 兄め 気 でも 違う の じゃ ない か って 、 ひどく 心配 し て 居り まし た が 、 私 も ね 、 お察し でしょう が 、 馬鹿 に 兄思い でし て ね 、 兄 の 変てこれん な そぶり が 、 心配 で 心配 で たまら なかっ た もの です 。
 173どんな 風 か と 申し ます と 、 兄 は ご飯 も ろくろく たべ ない で 、 家内 の 者 と も 口 を 利か ず 、 家 に いる 時 は 一 間 に とじ籠っ て 考え事 ばかり し て いる 。
 174身体 は 痩せ て しまい 、 顔 は 肺病やみ の 様 に 土気色 で 、 目 ばかり ギョロギョロ さ せ て いる 。
 175尤も 平常 から 顔色 の いい 方 じゃあ ござんせ ん でし た が ね 。
 176それ が 一倍 青ざめ て 、 沈ん で いる の です から 、 本当 に 気の毒 な 様 でし た 。
 177その 癖 ね 、 そんな で い て 、 毎日 欠かさ ず 、 まるで 勤め に でも 出る 様 に 、 おひる ッから 、 日暮れ時分 まで 、 フラフラ と どっ か へ 出掛ける ん です 。
 178どこ へ 行く の か って 、 聞い て 見 て も 、 ちっとも 云い ませ ん 。
 179母親 が 心配 し て 、 兄 の ふさい で いる 訳 を 、 手 を 変え 品 を 変え 尋ね て も 、 少し も 打開け ませ ん 。
 180そんな こと が 一 月 程 も 続い た の です よ 。
 181あんまり 心配 だ もの だ から 、 私 は ある 日 、 兄 が 一体 どこ へ 出掛る の か と 、 ソッと あと を つけ まし た 。
 182そう する 様 に 、 母親 が 私 に 頼む もん です から ね 。
 183兄 は その 日 も 、 丁度 今日 の 様 な どんより と し た 、 いや な 日 で ござんし た が 、 おひる過 から 、 その 頃 兄 の 工風 で 仕立て させ た 、 当時 として は 飛び切り ハイカラ な 、 黒天鵞絨 の 洋服 を 着 まし て ね 、 この 遠眼鏡 を 肩 から 下げ 、 ヒョロヒョロ と 、 日本橋通り の 、 馬車鉄道 の 方 へ 歩い て 行く の です 。
 184私 は 兄 に 気どら れ ぬ 様 に 、 つい て 行っ た 訳 です よ 。
 185よ ござんす か 。
 186しますとね 、 兄 は 上野行き の 馬車鉄道 を 待ち合わせ て 、 ひょいと それ に 乗り込ん で しまっ た の です 。
 187当今 の 電車 と 違っ て 、 次 の 車 に 乗っ て あと を つける という 訳 に は 行き ませ ん 。
 188何しろ 車台 が 少の ござんす から ね 。
 189私 は 仕方 が ない ので 母親 に 貰っ た お小遣い を ふんぱつ し て 、 人力車 に 乗り まし た 。
 190人力車 だって 、 少し 威勢 の いい 挽子 なれ ば 馬車鉄道 を 見失わ ない 様 に 、 あと を つける なんぞ 、 訳なかっ た もの で ござい ます よ 。
 191兄 が 馬車鉄道 を 降りる と 、 私 も 人力車 を 降り て 、 又 テクテク と 跡 を つける 。
 192そうして 、 行き つい た 所 が 、 なんと 浅草 の 観音様 じゃ ござい ませ ん か 。
 193兄 は 仲店 から 、 お堂 の 前 を 素通り し て 、 お堂裏 の 見世物小屋 の 間 を 、 人波 を かき分ける 様 に し て さっき 申上げ た 十二階 の 前 まで 来 ます と 、 石 の 門 を 這入っ て 、 お金 を 払っ て 「 凌雲閣 」 という 額 の 上っ た 入口 から 、 塔 の 中 へ 姿 を 消し た じゃあ ござい ませ ん か 。
 194まさか 兄 が こんな 所 へ 、 毎日毎日 通っ て い よう と は 、 夢 に も 存じ ませ ん ので 、 私 は あきれ て しまい まし た よ 。
 195子供心 に ね 、 私 は その 時 まだ 二十 に も なっ て ませ ん でし た ので 、 兄 は この 十二階 の 化物 に 魅入ら れ た ん じゃ ない か なんて 、 変 な こと を 考え た もの です よ 。
 196私 は 十二階 へ は 、 父親 に つれ られ て 、 一 度 昇っ た 切り で 、 その 後 行っ た こと が あり ませ ん ので 、 何だか 気味 が 悪い 様 に 思い まし た が 、 兄 が 昇っ て 行く もの です から 、 仕方 が ない ので 、 私 も 、 一 階 位 おくれ て 、 あの 薄暗い 石 の 段々 を 昇っ て 行き まし た 。
 197窓 も 大きく ござい ませ ん し 、 煉瓦 の 壁 が 厚う ござんす ので 、 穴蔵 の 様 に 冷々 と 致し まし て ね 。
 198それ に 日清戦争 の 当時 です から 、 その 頃 は 珍らしかっ た 、 戦争 の 油絵 が 、 一方 の 壁 に ずっと 懸け並べ て あり ます 。
 199まるで 狼 みたい な 、 おっそろしい 顔 を し て 、 吠え ながら 、 突貫 し て いる 日本兵 や 、 剣つき鉄砲 に 脇腹 を えぐら れ 、 ふき出す 血のり を 両手 で 押さえ て 、 顔 や 唇 を 紫色 に し て もがい て いる 支那兵 や 、 ちょんぎら れ た 辮髪 の 頭 が 、 風船玉 の 様 に 空高く 飛上っ て いる 所 や 、 何 と も 云え ない 、 毒々しい 血みどろ の 油絵 が 、 窓 から の 薄暗い 光線 で 、 テラテラ と 光っ て いる の で ござい ます よ 。
 200その 間 を 、 陰気 な 石 の 段々 が 、 蝸牛 の 殻 みたい に 、 上 へ 上 へ と 際限 も なく 続い て 居り ます 。
 201本当 に 変てこれん な 気持ち でし た よ 。
 202頂上 は 八角形 の 欄干 丈け で 、 壁 の ない 、 見晴らし の 廊下 に なっ て い まし て ね 、 そこ へ たどりつく と 、 俄 に パッと 明るく なっ て 、 今 まで の 薄暗い 道中 が 長う ござんし た だけに 、 びっくり し て しまい ます 。
 203雲 が 手 の 届き そう な 低い 所 に あっ て 、 見渡す と 、 東京中 の 屋根 が ごみ みたい に 、 ゴチャゴチャ し て い て 、 品川 の 御台場 が 、 盆石 の 様 に 見え て 居り ます 。
 204目まい が し そう な の を 我慢 し て 、 下 を 覗き ます と 、 観音様 の 御堂 だって ずっと 低い 所 に あり ます し 、 小屋掛け の 見世物 が 、 おもちゃ の 様 で 、 歩い て いる 人間 が 、 頭 と 足 ばかり に 見える の です 。
 205頂上 に は 、 十 人 余り の 見物 が 一 かたまり に なっ て おっかな 相 な 顔 を し て 、 ボソボソ 小声 で 囁き ながら 、 品川 の 海 の 方 を 眺め て 居り まし た が 、 兄 は と 見る と 、 それ と は 離れ た 場所 に 、 一人ぼっち で 、 遠眼鏡 を 目 に 当て て 、 しきりと 浅草 の 境内 を 眺め廻し て 居り まし た 。
 206それ を うしろ から 見 ます と 、 白っぽく どんよりどんより と し た 雲 ばかり の 中 に 、 兄 の 天鵞絨 の 洋服姿 が 、 クッキリ と 浮上っ て 、 下 の 方 の ゴチャゴチャ し た もの が 何 も 見え ぬ もの です から 、 兄 だ という こと は 分っ て い まし て も 、 何だか 西洋 の 油絵 の 中 の 人物 みたい な 気持 が し て 、 神々しい 様 で 、 言葉 を かける の も 憚ら れ た 程 で ござい まし た っけ 。
 207でも 、 母 の 云いつけ を 思い出し ます と 、 そう も し て い られ ませ ん ので 、 私 は 兄 の うしろ に 近づい て 『 兄さん 何 を 見 て いらっしゃい ます 』 と 声 を かけ た の で ござい ます 。
 208兄 は ビクッと し て 、 振向き まし た が 、 気拙い 顔 を し て 何 も 云い ませ ん 。
 209私 は 『 兄さん の 此頃 の 御様子 に は 、 御父さん も お母さん も 大変 心配 し て いらっしゃい ます 。 毎日毎日 どこ へ 御出掛 なさる の か と 不思議 に 思っ て 居り まし たら 、 兄さん は こんな 所 へ 来 て いらしっ た の で ござい ます ね 。 どうか その 訳 を 云っ て 下さい まし 。 日頃 仲よし の 私 に 丈け でも 打開け て 下さい まし 』 と 、 近く に 人 の い ない の を 幸い に 、 その 塔 の 上 で 、 兄 を かき口説い た もの です よ 。
 210仲々 打開け ませ ん でし た が 、 私 が 繰返し 繰返し 頼む もの です から 、 兄 も 根負け を し た と 見え まし て 、 とうとう 一 ヶ月来 の 胸 の 秘密 を 私 に 話し て くれ まし た 。
 211ところが 、 その 兄 の 煩悶 の 原因 と 申す もの が 、 これ が 又 誠 に 変てこれん な 事柄 だっ た の で ござい ます よ 。
 212兄 が 申し ます に は 、 一 月 ばかり 前 に 、 十二階 へ 昇り まし て 、 この 遠眼鏡 で 観音様 の 境内 を 眺め て 居り まし た 時 、 人込み の 間 に 、 チラッと 、 一人 の 娘 の 顔 を 見 た の だ 相 で ござい ます 。
 213その 娘 が 、 それ は もう 何 と も 云え ない 、 この世 の もの と も 思え ない 、 美しい 人 で 、 日頃 女 に は 一向 冷淡 で あっ た 兄 も 、 その 遠眼鏡 の 中 の 娘 丈け に は 、 ゾッと 寒気 が し た 程 も 、 すっかり 心 を 乱さ れ て しまっ た と 申し ます よ 。
 214その 時 兄 は 、 一目 見 た 丈け で 、 びっくり し て 、 遠眼鏡 を はずし て しまっ た もの です から 、 もう 一 度 見 よう と 思っ て 、 同じ 見当 を 夢中 に なっ て 探し た 相 です が 、 眼鏡 の 先 が 、 どう し て も その 娘 の 顔 に ぶっつかり ませ ん 。
 215遠眼鏡 で は 近く に 見え て も 実際 は 遠方 の こと です し 、 沢山 の 人混み の 中 です から 、 一 度 見え た からと云って 、 二 度目 に 探し出せる と 極まっ た もの で は ござい ませ ん から ね 。
 216それからと申すもの 、 兄 は この 眼鏡 の 中 の 美しい 娘 が 忘れ られ ず 、 極々 内気 な ひと でし た から 、 古風 な 恋わずらい を わずらい 始め た の で ござい ます 。
 217今 の お人 は お笑い なさる かも 知れ ませ ん が 、 その 頃 の 人間 は 、 誠 に おっとり し た もの でし て 、 行きずり に 一目 見 た 女 を 恋 し て 、 わずらいつい た 男 など も 多かっ た 時代 で ござい ます から ね 。
 218云う までも なく 、 兄 は そんな ご飯 も ろくろく たべ られ ない 様 な 、 衰え た 身体 を 引きずっ て 、 又 その 娘 が 観音様 の 境内 を 通りかかる こと も あろ う か と 悲しい 空頼み から 、 毎日毎日 、 勤め の 様 に 、 十二階 に 昇っ て は 、 眼鏡 を 覗い て い た 訳 で ござい ます 。
 219恋 という もの は 、 不思議 な もの で ござい ます ね 。
 220兄 は 私 に 打開け て しまう と 、 又 熱病やみ の 様 に 眼鏡 を 覗き 始め まし た っけ が 、 私 は 兄 の 気持 に すっかり 同情 致し まし て ね 、 千 に 一 つ も 望み の ない 、 無駄 な 探し物 です けれど 、 お止し なさい と 止めだて する 気 も 起ら ず 、 余り の こと に 涙ぐん で 、 兄 の うしろ姿 を じっと 眺め て い た もの です よ 。
 221すると その 時 …… ア 、 私 は あの 怪しく も 美しかっ た 光景 を 、 忘れる こと が 出来 ませ ん 。
 222三十 年 以上 も 昔 の こと です けれど 、 こうして 眼 を ふさぎ ます と 、 その 夢 の 様 な 色どり が 、 まざまざ と 浮ん で 来る 程 で ござい ます 。
 223さっき も 申し まし た 通り 、 兄 の うしろ に 立っ て い ます と 、 見える もの は 、 空 ばかり で 、 モヤモヤ と し た 、 むら雲 の 中 に 、 兄 の ほっそり と し た 洋服姿 が 、 絵 の 様 に 浮上っ て 、 むら雲 の 方 で 動い て いる の を 、 兄 の 身体 が 宙 に 漂う か と 見誤る ばかり で ござい まし た 。
 224が そこ へ 、 突然 、 花火 でも 打上げ た 様 に 、 白っぽい 大空 の 中 を 、 赤 や 青 や 紫 の 無数 の 玉 が 、 先 を 争っ て 、 フワリフワリ と 昇っ て 行っ た の で ござい ます 。
 225お話 し た の で は 分り ます まい が 、 本当 に 絵 の 様 で 、 又 何 か の 前兆 の 様 で 、 私 は 何 と も 云え ない 怪しい 気持 に なっ た もの でし た 。
 226何 で あろ う と 、 急い で 下 を 覗い て 見 ます と 、 どう か し た はずみ で 、 風船屋 が 粗相 を し て 、 ゴム風船 を 、 一 度 に 空 へ 飛ばし た もの と 分り まし た が 、 その 時分 は 、 ゴム風船 その もの が 、 今 より は ずっと 珍らしゅう ござんし た から 正体 が 分っ て も 、 私 は まだ 妙 な 気持 が し て 居り まし た もの です よ 。
 227妙 な もの で 、 それ が きっかけ に なっ た という 訳 で も あり ます まい が 、 丁度 その 時 、 兄 は 非常 に 興奮 し た 様子 で 、 青白い 顔 を ぽっ と 赤らめ 息 を はずま せ て 、 私 の 方 へ やっ て 参り 、 いきなり 私 の 手 を とっ て 『 さあ 行こ う 。 早く 行か ぬ と 間に合わ ぬ 』 と 申し て 、 グングン 私 を 引張る の で ござい ます 。
 228引張ら れ て 、 塔 の 石段 を かけ降り ながら 、 訳 を 尋ね ます と 、 いつ か の 娘さん が 見つかっ た らしい ので 、 青畳 を 敷い た 広い 座敷 に 坐っ て い た から 、 これ から 行っ て も 大丈夫 元 の 所 に いる と 申す の で ござい ます 。
 229兄 が 見当 を つけ た 場所 という の は 、 観音堂 の 裏手 の 、 大きな 松 の 木 が 目印 で 、 そこ に 広い 座敷 が あっ た と 申す の です が 、 さて 、 二人 で そこ へ 行っ て 、 探し て 見 まし て も 、 松 の 木 は ちゃんと あり ます けれど 、 その 近所 に は 、 家らしい 家 も なく 、 まるで 狐 に つまま れ た 様 な 鹽梅 な の です よ 。
 230兄 の 気 の 迷い だ と は 思い まし た が 、 しおれ返っ て いる 様子 が 、 余り 気の毒 だ もの です から 、 気休め に 、 その 辺 の 掛茶屋 など を 尋ね 廻っ て 見 まし た けれども 、 そんな 娘さん の 影 も 形 も あり ませ ん 。
 231探し て いる 間 に 、 兄 と 分れ分れ に なっ て しまい まし た が 、 掛茶屋 を 一巡 し て 、 暫く たっ て 元 の 松 の 木 の 下 へ 戻っ て 参り ます と ね 、 そこ に は 色々 な 露店 に 並ん で 、 一 軒 の 覗きからくり屋 が 、 ピシャンピシャン と 鞭 の 音 を 立て て 、 商売 を し て 居り まし た が 、 見 ます と 、 その 覗き の 眼鏡 を 、 兄 が 中腰 に なっ て 、 一生懸命 覗い て い た じゃ ござい ませ ん か 。
 232『 兄さん 何 を し て いらっしゃる 』 と 云っ て 、 肩 を 叩き ます と 、 ビックリ し て 振向き まし た が 、 その 時 の 兄 の 顔 を 、 私 は 今だ に 忘れる こと が 出来 ませ ん よ 。
 233何 と 申せ ば よろしい か 、 夢 を 見 て いる 様 な と でも 申し ます か 、 顔 の 筋 が たるん で しまっ て 、 遠い 所 を 見 て いる 目つき に なっ て 、 私 に 話す 声 さえ も 、 変 に うつろ に 聞え た の で ござい ます 。
 234そして 、 『 お前 、 私達 が 探し て い た 娘さん は この 中 に いる よ 』 と 申す の です 。
 235そう 云わ れ た もの です から 、 私 は 急い で おあし を 払っ て 、 覗き の 眼鏡 を 覗い て 見 ます と 、 それ は 八百屋お七 の 覗きからくり でし た 。
 236丁度 吉祥寺 の 書院 で 、 お七 が 吉三 に しなだれかかっ て いる 絵 が 出 て 居り まし た 。
 237忘れ も し ませ ん 。
 238からくり屋 の 夫婦者 は 、 しわがれ声 を 合せ て 、 鞭 で 拍子 を 取り ながら 、 『 膝 で つっらつい て 、 目 で 知らせ 』 と 申す 文句 を 歌っ て いる 所 でし た 。
 239アア 、 あの 『 膝 で つっらつい て 、 目 で 知らせ 』 という 変 な 節廻し が 、 耳 に つい て いる 様 で ござい ます 。
 240覗き絵 の 人物 は 押絵 に なっ て 居り まし た が 、 その 道 の 名人 の 作 で あっ た の でしょう ね 。
 241お七 の 顔 の 生々 と し て 綺麗 で あっ た こと 。
 242私 の 目 に さえ 本当 に 生き て いる 様 に 見え た の です から 、 兄 が あんな こと を 申し た の も 、 全く 無理 は あり ませ ん 。
 243兄 が 申し ます に は 『 仮令 この 娘さん が 、 拵えもの の 押絵 だ と 分っ て も 、 私 は どう も あきらめ られ ない 。 悲しい こと だ が あきらめ られ ない 。 たった 一 度 で いい 、 私 も あの 吉三 の 様 な 、 押絵 の 中 の 男 に なっ て 、 この 娘さん と 話 が し て 見 たい 』 と 云っ て 、 ぼんやり と 、 そこ に 突っ立っ た まま 、 動こ う と も し ない の で ござい ます 。
 244考え て 見 ます と その 覗きからくり の 絵 が 、 光線 を 取る 為 に 上 の 方 が 開け て ある ので 、 それ が 斜め に 十二階 の 頂上 から も 見え た もの に 違い あり ませ ん 。
 245その 時分 に は 、 もう 日 が 暮 かけ て 、 人足 も まばら に なり 、 覗き の 前 に も 、 二三 人 の おかっぱ の 子供 が 、 未練らしく 立去り 兼ね て 、 うろうろ し て いる ばかり でし た 。
 246昼間 から どんより と 曇っ て い た の が 、 日暮 に は 、 今 に も 一雨 来 そう に 、 雲 が 下っ て 来 て 、 一層 圧え つけ られる 様 な 、 気 でも 狂う の じゃ ない か と 思う 様 な 、 いや な 天候 に なっ て 居り まし た 。
 247そして 、 耳 の 底 に ドロドロ と 太鼓 の 鳴っ て いる 様 な 音 が 聞え て いる の です よ 。
 248その 中 で 、 兄 は 、 じっと 遠く の 方 を 見据え て 、 いつ まで も いつ まで も 、 立ちつくし て 居り まし た 。
 249その 間 が 、 たっぷり 一 時間 は あっ た 様 に 思わ れ ます 。
 250もう すっかり 暮 切っ て 、 遠く の 玉乗り の 花瓦斯 が 、 チロチロ と 美しく 輝き 出し た 時分 に 、 兄 は ハッと 目 が 醒め た 様 に 、 突然 私 の 腕 を 掴ん で 『 アア 、 いい こと を 思いつい た 。 お前 、 お頼み だ から 、 この 遠眼鏡 を さかさ に し て 、 大きな ガラス玉 の 方 を 目 に 当て て 、 そこ から 私 を 見 て おくれ で ない か 』 と 、 変 な こと を 云い 出し まし た 。
 251『 何故 です 』 って 尋ね て も 、 『 まあ いい から 、 そう し て お呉れ な 』 と 申し て 聞か ない の で ござい ます 。
 252一体 私 は 生れつき 眼鏡類 を 、 余り 好み ませ ん ので 、 遠眼鏡 にしろ 、 顕微鏡 にしろ 、 遠い 所 の 物 が 、 目 の 前 へ 飛びつい て 来 たり 、 小さな 虫けら が 、 けだもの みたい に 大きく なる 、 お化じみ た 作用 が 薄気味悪い の です よ 。
 253で 、 兄 の 秘蔵 の 遠眼鏡 も 、 余り 覗い た こと が なく 、 覗い た こと が 少い 丈け に 、 余計 それ が 魔性 の 器械 に 思わ れ た もの です 。
 254しかも 、 日 が 暮 て 人顔 も さだか に 見え ぬ 、 うすら淋しい 観音堂 の 裏 で 、 遠眼鏡 を さかさ に し て 、 兄 を 覗く なんて 、 気違いじみ て も い ますれ ば 、 薄気味悪く も あり まし た が 、 兄 が たって 頼む もの です から 、 仕方なく 云わ れ た 通り に し て 覗い た の です よ 。
 255さかさ に 覗く の です から 、 二三 間 向う に 立っ て いる 兄 の 姿 が 、 二 尺 位 に 小さく なっ て 、 小さい 丈けに 、 ハッキリ と 、 闇 の 中 に 浮出し て 見える の です 。
 256外 の 景色 は 何 も 映ら ない で 、 小さく なっ た 兄 の 洋服姿 丈け が 、 眼鏡 の 真中 に 、 チンと 立っ て いる の です 。
 257それが 、 多分 兄 が あとじさり に 歩い て 行っ た の でしょう 。
 258見る見る 小さく なっ て 、 とうとう 一 尺 位 の 、 人形 みたい な 可愛らしい 姿 に なっ て しまい まし た 。
 259そして 、 その 姿 が 、 ツーッと 宙 に 浮い た か と 見る と 、 アッ と 思う 間 に 、 闇 の 中 へ 溶け込ん で しまっ た の で ござい ます 。
 260私 は 怖く なっ て 、 ( こんな こと を 申す と 、 年甲斐 も ない と 思召 ましょ う が 、 その 時 は 、 本当 に ゾッと 、 怖さ が 身 に しみ た もの です よ ) いきなり 眼鏡 を 離し て 、 「 兄さん 」 と 呼ん で 、 兄 の 見え なく なっ た 方 へ 走り 出し まし た 。
 261ですが 、 どう し た 訳 か 、 いくら 探し て も 探し て も 兄 の 姿 が 見え ませ ん 。
 262時間 から 申し て も 、 遠く へ 行っ た 筈 は ない のに 、 どこ を 尋ね て も 分り ませ ん 。
 263なんと 、 あなた 、 こうして 私 の 兄 は 、 それ っきり 、 この世 から 姿 を 消し て しまっ た の で ござい ます よ
 264…… それ 以来 という もの 、 私 は 一層 遠眼鏡 という 魔性 の 器械 を 恐れる 様 に なり まし た 。
 265殊に も 、 この どこ の 国 の 船長 と も 分ら ぬ 、 異人 の 持物 で あっ た 遠眼鏡 が 、 特別 いや でし て 、 外 の 眼鏡 は 知ら ず 、 この 眼鏡 丈け は 、 どんな こと が あっ て も 、 さかさ に 見 て は なら ぬ さかさ に 覗け ば 凶事 が 起る と 、 固く 信じ て いる の で ござい ます 。
 266あなた が さっき 、 これ を さかさ に お持ち なすっ た 時 、 私 が 慌て て お止め 申し た 訳 が お分り で ござい ましょ う 。
 267ところが 、 長い 間 探し疲れ て 、 元 の 覗き屋 の 前 へ 戻っ て 参っ た 時 でし た 。
 268私 は ハタと ある 事 に 気がつい た の です 。
 269と 申す の は 、 兄 は 押絵 の 娘 に 恋こがれ た 余り 、 魔性 の 遠眼鏡 の 力 を 借り て 、 自分 の 身体 を 押絵 の 娘 と 同じ 位 の 大きさ に 縮め て 、 ソッと 押絵 の 世界 へ 忍び込ん だ の で は ある まい か という こと でし た 。
 270そこ で 、 私 は まだ 店 を かたづけ ない で い た 覗き屋 に 頼み まし て 、 吉祥寺 の 場 を 見せ て 貰い まし た が 、 なんと あなた 、 案の定 、 兄 は 押絵 に なっ て 、 カンテラ の 光り の 中 で 、 吉三 の 代り に 、 嬉し 相 な 顔 を し て 、 お七 を 抱きしめ て い た で は あり ませ ん か 。
 271でもね 、 私 は 悲しい と は 思い ませ ん で 、 そうして 本望 を 達し た 、 兄 の 仕合せ が 、 涙 の 出る 程 嬉しかっ た もの です よ 。
 272私 は その 絵 を どんな に 高く て も よい から 、 必ず 私 に 譲っ て くれ と 、 覗き屋 に 固い 約束 を し て 、 ( 妙 な こと に 、 小姓 の 吉三 の 代り に 洋服姿 の 兄 が 坐っ て いる の を 、 覗き屋 は 少し も 気がつか ない 様子 でし た ) 家 へ 飛ん で 帰っ て 、 一伍一什 を 母 に 告げ まし た 所 、 父 も 母 も 、 何 を 云う の だ 。 お前 は 気 でも 違っ た の じゃ ない か と 申し て 、 何 と 云っ て も 取上げ て くれ ませ ん 。
 273おかしい じゃ あり ませ ん か 。
 274ハハハハハハ 」
 275老人 は 、 そこ で 、 さも さも 滑稽 だ と 云わ ぬ ばかり に 笑い 出し た 。
 276そして 、 変 な こと に は 、 私 も 亦 、 老人 に 同感 し て 、 一緒 に なっ て 、 ゲラゲラ と 笑っ た の で ある 。
 277「 あの 人たち は 、 人間 は 押絵 なんぞ に なる もの じゃ ない と 思い込ん で い た の です よ 。
 278でも 押絵 に なっ た 証拠 に は 、 その 後 兄 の 姿 が 、 ふっつり と 、 この世 から 見え なく なっ て しまっ た じゃ あり ませ ん か 。
 279それ を も 、 あの 人たち は 、 家出 し た の だ なんぞ と 、 まるで 見当違い な 当て推量 を し て いる の です よ 。
 280おかしい です ね 。
 281結局 、 私 は 何 と 云わ れ て も 構わ ず 、 母 に お金 を ねだっ て 、 とうとう その 覗き絵 を 手に入れ 、 それ を 持っ て 、 箱根 から 鎌倉 の 方 へ 旅 を し まし た 。
 282それ は ね 、 兄 に 新婚旅行 が さ せ て やり たかっ た から です よ 。
 283こうして 汽車 に 乗っ て 居り ます と 、 その 時 の こと を 思い出し て なり ませ ん 。
 284やっぱり 、 今日 の 様 に 、 この 絵 を 窓 に 立てかけ て 、 兄 や 兄 の 恋人 に 、 外 の 景色 を 見せ て やっ た の です から ね 。
 285兄 は どんな に か 仕合せ で ござい まし たろ う 。
 286娘 の 方 でも 、 兄 の これ 程 の 真心 を 、 どうして いや に 思い ましょ う 。
 287二人 は 本当 の 新婚者 の 様 に 、 恥かし 相 に 顔 を 赤らめ ながら 、 お互 の 肌 と 肌 と を 触れ合っ て 、 さも むつまじく 、 尽き ぬ 睦言 を 語り合っ た もの で ござい ます よ 。
 288その 後 、 父 は 東京 の 商売 を たたみ 、 富山近く の 故郷 へ 引込み まし た ので 、 それ につれて 、 私 も ずっと そこ に 住ん で 居り ます が 、 あれ から もう 三十 年 の 余 に なり ます ので 、 久々 で 兄 に も 変っ た 東京 が 見せ て やり 度い と 思い まし て ね 、 こうして 兄 と 一緒 に 旅 を し て いる 訳 で ござい ます よ 。
 289ところが 、 あなた 、 悲しい こと に は 、 娘 の 方 は 、 いくら 生き て いる と は 云え 、 元々 人 の 拵え た もの です から 、 年 を とる という こと が あり ませ ん けれど 、 兄 の 方 は 、 押絵 に なっ て も 、 それ は 無理やり に 形 を 変え た まで で 、 根 が 寿命 の ある 人間 の こと です から 、 私達 と 同じ 様 に 年 を とっ て 参り ます 。
 290御覧 下さい まし 、
 291二十五 歳 の 美少年 で あっ た 兄 が 、 もう あの 様 に 白髪 に なっ て 、 顔 に は 醜い 皺 が 寄っ て しまい まし た 。
 292兄 の 身 にとって は 、 どんな に か 悲しい こと で ござい ましょ う 。
 293相手 の 娘 は いつ まで も 若く て 美しい のに 、 自分 ばかり が 汚く 老込ん で 行く の です もの 。
 294恐ろしい こと です 。
 295兄 は 悲しげ な 顔 を し て 居り ます 。
 296数 年 以前 から 、 いつも あんな 苦し 相 な 顔 を し て 居り ます 。
 297それ を 思う と 、 私 は 兄 が 気の毒 で 仕様がない の で ござい ます よ 」
 298老人 は 暗然 と し て 押絵 の 中 の 老人 を 見やっ て い た が 、 やがて 、 ふと 気がつい た 様 に 、 「 アア 、 飛んだ 長話 を 致し まし た 。 併し 、 あなた は 分っ て 下さい まし た でしょう ね 。 外 の 人達 の 様 に 、 私 を 気違い だ と は おっしゃい ませ ん でしょう ね 。 アア 、 それ で 私 も 話甲斐 が あっ た と 申す もの です よ 。 どれ 、 兄さん達 も くたびれ た でしょう 。 それ に 、 あなた方 を 前 に 置い て 、 あんな 話 を し まし た ので 、 さぞかし 恥かしがっ て おいで でしょう 。 では 、 今 やすま せ て 上げ ます よ 」 と 云い ながら 、 押絵 の 額 を 、 ソッと 黒い 風呂敷 に 包む の で あっ た 。
 299その 刹那 、 私 の 気 の せい で あっ た の か 、 押絵 の 人形達 の 顔 が 、 少し くずれ て 、 一寸 恥かし 相 に 、 唇 の 隅 で 、 私 に 挨拶 の 微笑 を 送っ た 様 に 見え た の で ある 。
 300老人 は それ きり 黙り込ん で しまっ た 。
 301私 も 黙っ て い た 。
 302汽車 は 相も変らず 、 ゴトンゴトン と 鈍い 音 を 立て て 、 闇 の 中 を 走っ て い た 。
 303十 分 ばかり そう し て いる と 、 車輪 の 音 が のろく なっ て 、 窓 の 外 に チラチラ と 、 二 つ 三 つ の 燈火 が 見え 、 汽車 は 、 どこ と も 知れ ぬ 山間 の 小駅 に 停車 し た 。
 304駅員 が たった 一人 、 ぽっつり と 、 プラットフォーム に 立っ て いる の が 見え た 。
 305「 では お先 へ 、 私 は 一 晩 ここ の 親戚 へ 泊り ます ので 」
 306老人 は 額 の 包み を 抱 て ヒョイと 立上り 、 そんな 挨拶 を 残し て 、 車 の 外 へ 出 て 行っ た が 、 窓 から 見 て いる と 、 細長い 老人 の 後姿 は ( それ が 何と 押絵 の 老人 その まま の 姿 で あっ た か ) 簡略 な 柵 の 所 で 、 駅員 に 切符 を 渡し た か と 見る と 、 その まま 、 背後 の 闇 の 中 へ 溶け込む 様 に 消え て 行っ た の で ある 。