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aozora_Harada-1960のコンテキスト表示

title:Die Verwandlung (Henshin)
author:Kafka, Franz (translator: Harada, Yoshito)
date:1915 (1960)
source:Kafka Zenshu; Aozora Bunko (http://www.aozora.gr.jp/cards/001235/card49866.html)
genre:fiction
subcorpus:Aozora Bunko
terms of use:Creative Commons license


 1変身
 2DIEVERWANDLUNG
 3フランツ・カフカ
 4FranzKafka
 5原田義人 訳
 6ある 朝 、 グレゴール・ザムザ が 気がかり な 夢 から 目ざめ た とき 、 自分 が ベッド の 上 で 一 匹 の 巨大 な 毒虫 に 変っ て しまっ て いる の に 気づい た 。
 7彼 は 甲殻 の よう に 固い 背中 を 下 に し て 横たわり 、 頭 を 少し 上げる と 、 何 本 も の 弓形 の すじ に わかれ て こんもり と 盛り上がっ て いる 自分 の 茶色 の 腹 が 見え た 。
 8腹 の 盛り上がり の 上 に は 、 かけぶとん が すっかり ずり落ち そう に なっ て 、 まだ やっと もちこたえ て い た 。
 9ふだん の 大きさ に 比べる と 情けない くらい かぼそい たくさん の 足 が 自分 の 眼 の 前 に しょんぼり と 光っ て い た 。
 10「 おれ は どう し た の だろう ? 」 と 、 彼 は 思っ た 。
 11夢 で は なかっ た 。
 12自分 の 部屋 、 少し 小さ すぎる が まとも な 部屋 が 、 よく 知っ て いる 四 つ の 壁 の あいだ に あっ た 。
 13テーブル の 上 に は 布地 の 見本 が 包み を とい て 拡げ られ て い た が ―― ザムザ は 旅廻り の セールスマン だっ た ―― 、 その テーブル の 上方 の 壁 に は 写真 が かかっ て いる 。
 14それ は 彼 が つい さきごろ ある グラフ雑誌 から 切り取り 、 きれい な 金ぶち の 額 に 入れ た もの だっ た 。
 15写っ て いる の は 一人 の 婦人 で 、 毛皮 の 帽子 と 毛皮 の えり巻 と を つけ 、 身体 を きちんと 起こし 、 肘 まで すっぽり 隠れ て しまう 重 そう な 毛皮 の マフ を 、 見る 者 の ほう に 向っ て かかげ て い た 。
 16グレゴール の 視線 は つぎ に 窓 へ 向け られ た 。
 17陰鬱 な 天気 は ―― 雨だれ が 窓わく の ブリキ を 打っ て いる 音 が 聞こえ た ―― 彼 を すっかり 憂鬱 に し た 。
 18「 もう 少し 眠り つづけ て 、 ばかばかしい こと は みんな 忘れ て しまっ たら 、 どう だろう 」 と 、 考え た が 、 全然 そう は いか なかっ た 。
 19というのは 、 彼 は 右下 で 眠る 習慣 だっ た が 、 この 今 の 状態 で は そういう 姿勢 を 取る こと は でき ない 。
 20いくら 力 を こめ て 右下 に なろ う と し て も 、 いつ でも 仰向け の 姿勢 に もどっ て しまう の だ 。
 21百 回 も それ を 試み 、 両眼 を 閉じ て 自分 の もぞもぞ 動い て いる たくさん の 脚 を 見 ない で も すむ よう に し て い た が 、 わき腹 に これ まで まだ 感じ た こと の ない よう な 軽い 鈍痛 を 感じ 始め た とき に 、 やっと そんな こと を やる の は やめ た 。
 22「 ああ 、 なん という 骨 の 折れる 職業 を おれ は 選ん で しまっ た ん だろう 」 と 、 彼 は 思っ た 。
 23「 毎日 、 毎日 、 旅 に 出 て いる の だ 。
 24自分 の 土地 で の 本来 の 商売 における よりも 、 商売上 の 神経 の 疲れ は ずっと 大きい し 、 その 上 、 旅 の 苦労 という もの が かかっ て いる 。
 25汽車 の 乗換え連絡 、 不規則 で 粗末 な 食事 、 たえず 相手 が 変っ て 長つづき せ ず 、 けっして 心 から うちとけ 合う よう な こと の ない 人づき合い 。
 26まったく いまいましい こと だ ! 」
 27彼 は 腹 の 上 に 軽い かゆみ を 感じ 、 頭 を もっと よく もたげる こと が できる よう に 仰向け の まま 身体 を ゆっくり と ベッド の 柱 の ほう へ ずらせ 、 身体 の かゆい 場所 を 見つけ た 。
 28その 場所 は 小さな 白い 斑点 だけ に 被わ れ て い て 、 その 斑点 が 何 で ある の か 判断 を 下す こと は でき なかっ た 。
 29そこで 、 一 本 の 脚 で その 場所 に さわろ う と し た が 、 すぐ に 脚 を 引っこめ た 。
 30さわっ たら 、 身体 に 寒気 が し た の だ 。
 31彼 は また 以前 の 姿勢 に もどっ た 。
 32「 この 早起き という の は 」 と 、 彼 は 思っ た 、
 33「 人間 を まったく 薄ばか に し て しまう の だ 。
 34人間 は 眠り を もた なけれ ば なら ない 。
 35ほか の セールスマンたち は まるで ハレム の 女たち の よう な 生活 を し て いる 。
 36たとえば おれ が まだ 午前中 に 宿 へ もどっ て き て 、 取っ て き た 注文 を 書きとめ よう と する と 、 やっと あの 連中 は 朝食 の テーブル に つい て いる ところ だ 。
 37そんな こと を やっ たら おれ の 店主 が なんて いう か 、 見 たい もの だ 。
 38おれ は すぐさま くび に なっ て しまう だろう 。
 39ところで 、 そんな こと を やる の が おれ にとって あんまり いい こと で ない かどうか 、 だれ に だって わかり は し ない 。
 40両親 の ため に そんな こと を ひかえ て いる の で なけれ ば 、 もう とっく に 辞職 し て しまっ て いる だろう 。
 41店主 の 前 に 歩み出 て 、 思う こと を 腹 の 底 から ぶちまけ て やっ た こと だろう 。
 42そう し たら 店主 は 驚い て 机 から 落っこち て しまう に ちがい なかっ た の だ !
 43机 の 上 に 腰かけ て 、 高い ところ から 店員 と 話 を する という の も 、 奇妙 な やりかた だ 。
 44おまけに 店員 の ほう は 、 店主 の 耳 が 遠い と き て いる ので 近く に よっ て いか なけれ ば なら ない の だ 。
 45まあ 、 希望 は まだ すっかり 捨て られ て しまっ た わけ で は ない 。
 46両親 の 借金 を すっかり 店主 に 払う だけ の 金 を 集め たら ―― まだ 五 、 六 年 は かかる だろう が ―― きっと それ を やっ て みせる 。
 47とはいっても 、 今 の ところ は まず 起き なけれ ば なら ない 。
 48おれ の 汽車 は 五 時 に 出る の だ 」
 49そして 、 たんす の 上 で カチカチ 鳴っ て いる 目ざまし時計 の ほう に 眼 を やっ た 。
 50「 しまった ! 」 と 、 彼 は 思っ た 。
 51もう 六 時 半 で 、 針 は 落ちつき払っ て 進ん で いく 。
 52半 も すぎ て 、 もう 四十五 分 に 近づい て いる 。
 53目ざまし が 鳴ら なかっ た の だろう か 。
 54ベッド から 見 て も 、 きちんと 四 時 に 合わせ て あっ た こと が わかっ た 。
 55きっと 鳴っ た の だ 。
 56だが 、 あの 部屋 の 家具 を ゆさぶる よう な ベル の 音 を 安らか に 聞きのがし て 眠っ て い た なんていう こと が あり うる だろう か 。
 57いや 、 けっして 安らか に 眠っ て い た わけ で は ない が 、 おそらく それだけ に いっそう ぐっすり 眠っ て い た の だ 。
 58だが 、 今 は どう し たら いい の だろう 。
 59つぎ の 汽車 は 七 時 に 出る 。
 60その 汽車 に 間に合う ため に は 、 気ちがい の よう に 急が なけれ ば なら ない だろう 。
 61そして 、 商品見本 は まだ 包装 し て ない し 、 彼 自身 が それほど 気分 が すぐれ ない し 、 活溌 な 感じ も し ない の だ 。
 62そして 、 たとい 汽車 に 間に合っ た として さえ 、 店主 の 雷 は 避ける こと が でき ない の だ 。
 63というのは 、 店 の 小使 は 五 時 の 汽車 に 彼 が 乗る もの と 思っ て 待っ て い て 、 彼 が 遅れ た こと を とっく に 報告 し て しまっ て いる はず だ 。
 64あの 男 は 店主 の 手先 で 、 背骨 も なけれ ば 分別 も ない 。
 65ところで 、 病気 だ と いっ て 届け出 たら どう だろう か 。
 66だが 、 そんな こと を し たら 、 ひどく 面倒 に なる し 、 疑い も かかる だろう 。
 67なにしろ 、 グレゴール は 五 年間 の 勤め の あいだ に まだ 一 度 だって 病気 に なっ た こと が ない の だ 。
 68きっと 店主 は 健康保険医 を つれ て やってき て 、 両親 に 向っ て なまけ者 の 息子 の こと を 非難 し 、 どんな に 異論 を 申し立て て も 、 保険医 を 引合い に 出し て それ を さえぎっ て しまう こと だろう 。
 69その 医師 にとって は 、 およそ まったく 健康 な くせ に 仕事 の 嫌い な 人間たち という もの しか い ない の だ 。
 70それに 、 今 の 場合 、 医者 の 考え も それほど まちがっ て いる だろう か 。
 71事実 、 グレゴール は 、 長く 眠っ た のに ほんとう に 眠気 が 残っ て いる こと を 別 に すれ ば 、 まったく 身体 の 調子 が いい 気 が する し 、 とくに 強い 空腹 さえ 感じ て いる の だっ た 。
 72ベッド を 離れる 決心 を する こと が でき ない まま に 、 そうした すべて の こと を ひどく 急い で 考え て いる と ―― ちょうど 目ざまし時計 が 六 時 四十 分 を 打っ た ―― 、 彼 の ベッド の 頭 の ほう に ある ドア を ノック する 音 が し た 。
 73「 グレゴール 」 と 、 その 声 は 叫ん だ
 74―― 母親 だっ た ――
 75「 六 時 四十五 分 よ 。
 76出かける つもり じゃ ない の かい ? 」
 77ああ 、 あの やさしい 声 !
 78グレゴール は 返事 を する 自分 の 声 を 聞い た とき 、 ぎくりと し た 。
 79それ は たしか に まぎれ も なく 彼 の 以前 の 声 で あっ た が 、 その なか に 下 の ほう から 、 抑える こと の でき ない 苦し そう な ぴいぴい いう 音 が まじっ て い た 。
 80その 音 は 、 明らか に ただ 最初 の 瞬間 において だけ は 言葉 の 明瞭さ を 保た せ て おく の だ が 、 その 余韻 を すっかり 破壊 し て しまっ て 、 正しく 聞き取っ た かどうか わから ない よう に する ほど だっ た 。
 81グレゴール は くわしく 返事 し て 、 すべて を 説明 し よう と 思っ て い た の だっ た が 、 こうした 事情 で は 、 「 ええ 、 わかり まし た よ 、 ありがとう 、 お母さん 、 もう 起き ます よ 」 と 、 いう に とどめ た 。
 82木 の ドア が 距て て いる ため 、 グレゴール の 声 の 変化 は 外 で は きっと 気づか れ なかっ た の だろう 。
 83というのは 、 母親 は この 説明 で 満足 し て 、 足 を ひきずっ て 立ち去っ た 。
 84ところが 、 この ちょっとした 対話 によって 、 グレゴール が 期待 に反して まだ 家 に いる の だ 、 という こと が 家族 の ほか の 者たち の 注意 を ひい て しまっ た 。
 85そして 、 早く も 父親 が わき の ドア を 、 軽く で は ある が 拳 で ノック し た 。
 86「 グレゴール 、 グレゴール 」 と 、 父 は 叫ん だ 。
 87「 いったい 、 どう し た の だ ? 」
 88そして 、 ちょっと たっ て から 、 もっと 低い 声 で もう 一 度 注意 する の だっ た 。
 89「 グレゴール ! グレゴール ! 」
 90もう 一 つ の わき の ドア で は 、 妹 が 低い 声 で 嘆く よう に いっ た 。
 91「 グレゴール 、 どう し た の ?
 92かげん が 悪い の ?
 93何 か 欲しい もの は ない の ? 」
 94グレゴール は 両方 に 向っ て いっ た 。
 95「 もう すん だ よ 」
 96そして 、 発音 に 大いに 気 を 使い 、 一つ一つ の 言葉 の あいだ に 長い 間 を はさむ こと によって いっさい の 目立つ 点 を 取り除こ う と 努め た 。
 97父親 は それ を 聞い て 朝食 へ もどっ て いっ た が 、 妹 は ささやく の だっ た 。
 98「 グレゴール 、 開け て ちょうだい な 。
 99ね 、 お願い 」
 100だが 、 グレゴール は ドア を 開ける こと など 考え て も み ず 、 旅 に 出る 習慣 から 身につける よう に なっ た 家 で も すべて の ドア に 夜 の あいだ 鍵 を かけ て おく という 用心 を よかっ た と 思っ た 。
 101はじめ は 、 落ちつき払っ て 、 だれ に も じゃま さ れ ずに 起き上がり 、 服 を 着 て 、 まず 何より さき に 朝食 を 取ろ う 、 それから 、 はじめて それ から の こと を 考え よう と 思っ た の だっ た 。
 102というのは 、 ベッド の なか に い た の で は 、 あれこれ 考え た ところ で 理 に かなっ た 結論 に 到達 する こと は ある まい 、 と はっきり と 気づい た の だっ た 。
 103これ まで しょっちゅう ベッド の なか で 、 おそらく は まずい 寝かた を し た ため だろう が 、 その ため に 起っ た 軽い 痛み を 感じ た 、 という こと を 彼 は 思い出し た 。
 104その 痛み は 、 やがて 起き上がっ て みる と まったくの 空想 だ と わかっ た の だっ た 。
 105そして 、 自分 の きょう の さまざま な 考えごと も だんだん 消え去る こと だろう 、 と 大いに 期待 し た 。
 106声 の 変化 は 旅廻り の セールスマン の 職業病 で ある ひどい 風邪 の 前ぶれ に すぎ ない の だ 、 という こと を 彼 は 少し も 疑わ なかっ た 。
 107かけぶとん を はねのける の は 、 まったく 簡単 だっ た 。
 108ただ ちょっと 腹 を ふくらま せる だけ で 、 ふとん は 自然 と ずり落ち た 。
 109だが 、 その あと が 面倒 な こと に なっ た 。
 110その 理由 は ことに 彼 の 身体 の 幅 が ひどく 広かっ た から だ 。
 111身体 を 起こす ため に は 、 手足 を 使う はず だっ た 。
 112ところが 、 人間 の 手足 の かわり に たくさん の 小さな 脚 が つい て い て 、 それ が たえず ひどく ちがっ た 動きかた を し て 、 おまけ に それら を 思う よう に 動かす こと が でき ない 。
 113やっと 一 本 の 脚 を 曲げ よう と する と 、 最初 に 起こる こと は 、 自分 の 身体 が のび て しまう こと だっ た 。
 114やっと その 脚 で 自分 の 思う よう に する こと に 成功 し た か と 思う と 、 その あいだ に ほか の すべて の 脚 が まるで 解放 さ れ た か の よう に 、 なんと も 工合 の 悪い 大さわぎ を やる の だっ た 。
 115「 ともかく ベッド の なか に 意味 も なく とどまっ て い ない こと だ 」 と 、 グレゴール は 自分 に 言い聞かせ た 。
 116まず 彼 は 身体 の 下 の 部分 を 動かし て ベッド から 出 よう と し た が 、 まだ 自分 で 見 て も い ない し 、 正しい 想像 を めぐらす こと も でき ない で いる この 下半身 の 部分 は 、 ひどく 動かす こと が むずかしい と わかっ た 。
 117動作 は のろのろ 進む だけ だっ た 。
 118とうとう 、 まるで 半狂乱 に なっ て 、 力 を こめ 、 むちゃくちゃ に 身体 を 前 へ 突き出し た が 、 方角 を 誤っ て しまい 、 足 の ほう の ベッド柱 に はげしく ぶつかり 、 その とき 感じ た 痛み で 、 まさに 自分 の 身体 の 下 の 部分 が 今 の ところ いちばん 敏感 な 部分 な の だ 、 という こと が わかっ た 。
 119そこで 、 まず 最初 に 上体 を ベッド の 外 に 出そ う と 試み 、 用心深く 頭 を ベッド の へり の ほう に 向け た 。
 120これ は 思っ た とおり うまく いき 、 身体 の 幅 が 広く 、 体重 も 重い にもかかわらず 、 ついに 身体 全体 が 頭 の 転回 に のろのろ と つい て 廻っ た 。
 121だが 、 頭 を とうとう ベッド の 外 の 宙 に 浮かべ て みる と 、 この やりかた で さらに 前 へ 乗り出し て いく こと が 不安 に なっ た 。
 122というのは 、 こう やっ て 最後 に 身体 を 下 へ 落し て しまう と 、 頭 を 傷つけ まい と する ならば 奇蹟 でも 起こら なけれ ば できる もの で は ない 。
 123そして 、 とくに 今 は どんな こと が あっ て も 正気 を 失う わけ に は いか ない の だ 。
 124そこで 、 むしろ ベッド に とどまっ て い よう と 心 に きめ た 。
 125だが 、 また 同じ よう に 骨 を 折っ て 、 溜息 を もらし ながら 、 さっき の よう に 身体 を 横たえ 、 またもや 自分 の たくさん の 小さな 脚 が おそらく さっき よりも いっそう ひどく 争い合っ て いる の を ながめ 、 この 勝手 な 争い に 静けさ と 秩序 と を もちこむ こと が 不可能 だ と わかっ た とき に 、 もう ベッド の なか に とどまっ て いる こと は でき ない 、 たとい ベッド から 出 られる という 希望 が ほんの ちょっと しか ない にしても 、 いっさい を 犠牲 に し て 出 よう と 試みる の が いちばん 賢明 な やりかた な の だ 、 と また 自分 に 言い聞かせ た 、
 126だが 同時 に 、 やけ に なっ て 決心 する よりも 冷静 に 、 きわめて 冷静 に 思いめぐらす ほう が ずっと いい の だ 、 と ときどき 思い出す こと を 忘れ なかっ た 。
 127そんな こと を 考え て いる 瞬間 に 、 眼 を できるだけ 鋭く 窓 の ほう へ 向け た が 、 狭い 通り の むこう側 さえ 見え なく し て いる 朝もや を ながめ て い て も 、 残念 ながら ほとんど 確信 も 元気 も 取りもどす わけ に は いか なかっ た 。
 128「 もう 七 時 だ 」 と 、 目ざまし が 新た に 打つ の を 聞い て 、 彼 は 自分 に 言い聞かせ た 。
 129「 もう 七 時 だ というのに 、 まだ こんな 霧 だ 」
 130そして 、 完全 に 静か に し て いれ ば おそらく ほんとう の あたりまえ の 状態 が もどっ て くる の で は ない か と いわ ん ばかり に 、 しばらく の あいだ 、 静か に 、 微か な 息づかい を し ながら 、 横たわっ て い た 。
 131だが 、 やがて 自分 に 言い聞かせ た 。
 132「 七 時 十五 分 を 打つ 前 に 、 おれ は どう あっ て も ベッド を 完全 に 離れ て しまっ て い なけれ ば なら ない ぞ 。
 133それに また 、 それ まで に は 店 から おれ の こと を きき に だれ か が やってくる だろう 。
 134店 は 七 時 前 に 開け られる ん だ から 」
 135そして 、 今度 は 、 身体 全体 を 完全 に むら なく 横 へ ゆすっ て ベッド から 出る 動作 に 取りかかっ た 。
 136もし こんな ふう に し て ベッド から 落ちる ならば 、 頭 は 落ちる とき に ぐっと 起こし て おこ う と 思う から 、 傷つか ない で すむ 見込み が ある 。
 137背中 は 固い よう だ 。
 138だから 、 絨毯 の 上 に 落ち た とき に 、 背中 に けが を する こと は きっと ない だろう 。
 139落ちる とき に 立てる に ちがい ない 大きな 物音 の こと を 考える と 、 それ が いちばん 気 に かかっ た 。
 140その 音 は 、 どの ドア の むこう でも 、 驚き と まで は いか ない にしても 、 心配 を ひき起こす こと だろう 。
 141だが 、 思いきっ て やら なけれ ば なら ない の だ 。
 142グレゴール が すでに 半分 ベッド から 乗り出し た とき ―― この 新しい やりかた は 、 骨 の 折れる 仕事 というより も むしろ 遊び の よう な もの で 、 いつ まで も ただ 断続的 に 身体 を ゆすっ て さえ いれ ば よかっ た ―― 、 自分 を 助け に やってき て くれる 者 が いれ ば 万事 は どんな に 簡単 に すむ だろう 、 という 考え が ふと 頭 に 浮かん だ 。
 143力 の 強い 者 が 二人 いれ ば ―― 彼 は 父親 と 女中 と の こと を 考え た ―― それ だけ で 完全 に 十分 な の だ 。
 144その 二人 が ただ 腕 を 彼 の 円味 を おび た 背中 の 下 に さし入れ 、 そう やっ て 彼 を ベッド から はぎ取る よう に 離し 、 この 荷物 を もっ た まま 身体 を こごめ 、 つぎ に 彼 が 床 の 上 で 寝返り を 打つ の を 用心深く 待っ て い て くれ さえ すれ ば よい の だ 。
 145床 の 上 で なら おそらく これら の たくさん の 脚 も 存在意義 が ある こと に なる だろう 。
 146ところで 、 すべて の ドア に 鍵 が かかっ て いる こと は まったく 別問題 として も 、 ほんとう に 助け を 求める べき だろう か 。
 147まったく 苦境 に ある にもかかわらず 、 彼 は こう 考える と 微笑 を 抑える こと が でき なかっ た 。
 148この 作業 は 進行 し て 、 もっと 強く 身体 を ゆすれ ば もう ほとんど 身体 の 均衡 が 保て ない という ところ に まで き て い た 。
 149もうすぐ 最後 の 決断 を し なけれ ば なら ない 。
 150というのは 、 あと 五 分 で 七 時 十五 分 に なる 。
 151―― その とき 、 玄関 で ベル が 鳴っ た 。
 152「 店 から だれ か が き た ん だ 」 と 、 彼 は 自分 に 言い聞かせ 、 ほとんど 身体 が こわばる 思い が し た 。
 153一方 、 小さな 脚 の ほう は ただ それ だけ せわしげ に ばたばた する の だっ た 。
 154一瞬 、 あたり は しんと し て い た 。
 155「 ドア を 開け ない の だ な 」 と 、 グレゴール は 何 か ばかげ た 期待 に とらわれ ながら 思っ た 。
 156だが 、 むろん すぐ いつも の よう に 女中 が しっかり し た 足取り で ドア へ 出 て いき 、 ドア を 開け た 。
 157グレゴール は ただ 訪問者 の 最初 の 挨拶 を 聞い た だけ で 、 それ が だれ か 、 早く も わかっ た 。
 158―― それ は 支配人 自身 だっ た 。
 159なぜ グレゴール だけ が 、 ほんの ちょっと 遅刻 し た だけ で すぐ 最大 の 疑い を かける よう な 商会 に 勤める よう に 運命づけ られ た の だろう か 。
 160いったい 使用人 の すべて が 一人 の 除外 も なく やくざ な の だろう か 。
 161たとい 朝 の たった 一 、 二 時間 は 仕事 の ため に 使わ なかっ た にせよ 、 良心 の 苛責 の ため に 気ちがいじみ た 有様 に なっ て 、 まさに その ため に ベッド を 離れ られ ない よう な 忠実 で 誠実 な 人間 が 、 使用人たち の あいだ に は い ない と いう の だろう か 。
 162小僧 に きき に こ させる だけ で ほんとう に 十分 で は ない だろう か
 163―― そもそも こう やっ て 様子 を たずねる こと が 必要 だ として の こと だ が ―― 。
 164支配人 が 自身 で やってこ なけれ ば なら ない の だろう か 。
 165そして 、 支配人 が やってくる こと によって 、 この 疑わしい 件 の 調査 は ただ 支配人 の 分別 に だけ しか まかせ られ ない の だ 、 という こと を 罪 の ない 家族 全体 に 見せつけ られ なくて は なら ない の か 。
 166ほんとう に 決心 が つい た ため というより も 、 むしろ こうした もの思い によって 置か れ た 興奮 の ため に 、 グレゴール は 力いっぱい に ベッド から 跳び下り た 。
 167どすん と 大きな 音 が し た が 、 それ ほど ひどい 物音 で は なかっ た 。
 168絨毯 が しい て ある ため 、 墜落 の 力 は 少し は 弱め られ た し 、 背中 も グレゴール が 考え て い た より は 弾力 が あっ た 。
 169そこで そう 際立っ て 大きな 鈍い 物音 は し なかっ た 。
 170ただ 、 頭 は 十分 用心 し て しっかり と もたげ て い なかっ た ので 打ちつけ て しまっ た 。
 171彼 は 怒り と 痛み と の あまり 頭 を 廻し て 、 絨毯 に こすっ た 。
 172「 あの 部屋 の なか で 何 か 落ちる 音 が し まし た ね 」 と 左側 の 隣室 で 支配人 が いっ た 。
 173グレゴール は 、 けさ 自分 に 起っ た よう な こと が いつ か 支配人 に も 起こら ない だろう か 、 と 想像 し よう と し た 。
 174そんな こと が 起こる 可能性 は みとめ ない わけ に は いか ない の だ 。
 175だが 、 まるで グレゴール の こんな 問い に 乱暴 に 答える か の よう に 、 隣室 の 支配人 は 今度 は 一 、 二 歩 しっかり し た 足取り で 歩い て 、 彼 の エナメル靴 を きゅうきゅう 鳴らし た 。
 176グレゴール に 知らせる ため 、 右側 の 隣室 から は 妹 の ささやく 声 が し た 。
 177「 グレゴール 、 支配人 が き て いる の よ 」
 178「 わかっ て いる よ 」 と 、 グレゴール は つぶやい た 。
 179しかし 、 妹 が 聞く こと が できる ほど に あえて 声 を 高め よう と は し なかっ た 。
 180「 グレゴール 」 と 、 今度 は 父親 が 左側 の 隣室 から いっ た 。
 181「 支配人さん が おいで に なっ て 、 お前 は なぜ 朝 の 汽車 で たた なかっ た か 、 と きい て おら れる 。
 182なん と 申し上げ たら いい の か 、 わしら に は わから ん 。
 183それに 、 支配人さん は お前 と じか に 話し たい と いっ て おら れる よ 。
 184だから 、 ドア を 開け て くれ 。
 185部屋 が 取り散らし て ある こと は お許し 下さる さ 」
 186「 おはよう 、 ザムザ君 」 と 、 父親 の 言葉 に はさん で 支配人 は 親しげ に 叫ん だ 。
 187「 あの 子 は 身体 の 工合 が よく ない ん です 」 と 、 母親 は 父親 が まだ ドア の ところ で しゃべっ て いる あいだ に 支配人 に 向っ て いっ た 。
 188「 あの 子 は 身体 の 工合 が よく ない ん です 。
 189ほんとう な ん です 、 支配人さん 。
 190そう で なけれ ば どうして グレゴール が 汽車 に 乗り遅れ たり する でしょう !
 191あの 子 は 仕事 の こと 以外 は 頭 に ない ん です もの 。
 192夜分 に ちっとも 外 へ 出かけ ない こと を 、 わたし は すでに 腹 を 立て て いる くらい な ん です 。
 193これ で 一 週間 も 町 に いる のに 、 あれ は 毎晩 家 に こもり きり でし た 。
 194わたしたち の テーブル に 坐っ て 、 静か に 新聞 を 読む とか 、 汽車 の 時間表 を 調べる とか し て いる ん です 。
 195糸のこ細工 でも やっ て いれ ば 、 あの 子 に は もう 気ばらし な ん です から ね 。
 196たとえば この あいだ も 二 晩 か 三 晩 かかっ て 小さな 額ぶち を つくり まし た 。
 197どんな に うまく でき た か 、 ごらん に なれ ば 驚か れる でしょう よ 。
 198あの 部屋 に かけ て あり ます 。
 199グレゴール が ドア を 開け まし たら 、 すぐ ごらん に なり ます よ 。
 200ともかく 、 あなた が おいで 下すっ て 、 ほんと に よかっ た と わたし は 思っ て おり ます 、 支配人さん 。
 201わたしたち だけ で は グレゴール に ドア を 開け させる わけ に は いか なかっ た でしょう 。
 202あの 子 は とても 頑固者 でし て ねえ 。
 203でも 、 朝 に は なん で も ない と 申し て おり まし た が 、 あの 子 は きっと 工合 が 悪い の です よ 」
 204「 すぐ いき ます よ 」 と 、 グレゴール は ゆっくり と 用心深く いっ た が 、 むこう の 対話 を ひとこと でも 聞きもらす まい と し て 、 身動き を し なかっ た 。
 205「 奥さん 、 私 に も それ 以外 に は 考えよう が あり ませ ん ね 」 と 、 支配人 は いっ た 。
 206「 たいした こと で ない と いい ん です が 。
 207とはいえ 、 一面 で は 、 われわれ 商売人 という もの は 、 幸 か 不幸 か は どちら でも いい の です が 、 少し ぐらい かげん が 悪い なんていう の は 、 商売 の こと を 考える と あっさり 切り抜け て しまわ なけれ ば なら ぬ こと が しょっちゅう あり まし て ね 」
 208「 では 、 支配人さん に 入っ て いただい て かまわ ない ね 」 と 、 いらいら し た 父親 が たずね 、 ふたたび ドア を ノック し た 。
 209「 いけ ませ ん 」 と 、 グレゴール は いっ た 。
 210左側 の 隣室 で は 気まずい 沈黙 が おとずれ た 。
 211右側 の 隣室 で は 妹 が しくしく 泣き 始め た 。
 212なぜ 妹 は ほか の 連中 の ところ へ いか ない の だろう 。
 213きっと 今 やっと ベッド から 出 た ばかり で 、 まだ 服 を 着 始め て い なかっ た の だろう 。
 214それに 、 いったい なぜ 泣く の だろう 。
 215おれ が 起き ず 、 支配人 を 部屋 へ 入れ ない から か 。
 216おれ が 地位 を 失う 危険 が あり 、 そう なる と 店主 が 古い 借金 の こと を もち出し て 、 またもや 両親 を 追求 する から だろう か 。
 217しかし 、 そんな こと は 今 の ところ は 不必要 な 心配 という もの だ 。
 218まだ グレゴール は ここ に い て 、 自分 の 家族 を 見捨て よう など と は 、 ほんの 少し だって 考え て は い ない の だ 。
 219今 の ところ 絨毯 の 上 に のうのう と 寝 て いる し 、 彼 の 状態 を 知っ た 者 ならば だれ だって 本気 で 支配人 を 部屋 に 入れろ など と 要求 する はず は ない の だ 。
 220だが 、 あと に なれ ば 適当 な 口実 が たやすく 見つかる はず の こんな ちょっとした 無礼 な ふるまい の ため に 、 グレゴール が すぐ に 店 から 追い払わ れる など という こと は あり え ない 。
 221そして 、 泣い たり 説得 し よう と し たり し て 支配人 の 気 を 悪く さ せる より は 、 今 は 彼 を そっと し て おく ほう が ずっと 賢明 な やりかた だ 、 という よう に グレゴール に は 思わ れ た 。
 222だが 、 ほか の 人びと を 当惑 さ せ 、 彼ら の ふるまい が むり も ない と 思わ せ た の は 、 まさに この グレゴール の 決心 の つか ない 態度 だっ た 。
 223「 ザムザ君 」 と 、 支配人 は 今度 は 声 を 高め て 叫ん だ 。
 224「 いったい 、 どう し た ん だ ね ?
 225君 は 自分 の 部屋 に バリケード を 築い て 閉じこもり 、 ただ 、 イエス とか ノー と だけ しか 返事 を し ない 。
 226ご両親 に いら ぬ 大変 な ご心配 を かけ 、 ―― これ は ただ ついで に いう ん だ が ―― 君 の 商売上 の 義務 を まったく あきれはて た やりかた で おこたっ て いる 。
 227君 の ご両親 と 社長 と に かわっ て 話し て いる ん だ が 、 どうか まじめ に なっ て すぐ はっきり し た 説明 を し て もらい たい 。
 228私 は 驚い て いる よ 、
 229まったく 。
 230君 という 人 は 冷静 な 分別 ある 人間 だ と 思っ て い た が 、 急 に 奇妙 な 気まぐれ を 見せつけ て やろう と 思い 始め た よう だ ね 。
 231社長 は けさ 、 君 の 欠勤 の 理由 は あれ だろう と ほのめかし て 聞か せ て くれ は し た が ―― つまり 最近 君 に まかせ た 回収金 の こと だ ―― 、 私 は この 説明 が 当っ て いる はず は ない 、 と ほんとう に ほとんど 誓い を 立て ん ばかり に し て 取りなし て おい た 。
 232ところが 、 こう やっ て 君 の 理解 し がたい 頑固さ を 見せつけ られ て は 、 ほんの 少し でも 君 の 味方 を する 気 に は まったく なれ ない よ 。
 233それに 、 君 の 地位 は けっして それ ほど 安定 し た もの じゃ ない 。
 234ほんとう は 君 に こうした こと を 二人 きり で いう つもり だっ た が 、 君 が こう やっ て 無益 に 私 に 手間取ら せる ん だ から 、 ご両親 に も 聞か れ て いけ ない と は 思わ れ なく なっ た 。
 235つまり 君 の 最近 の 成績 は ひどく 不満足 な もの だっ た 。
 236今 は かくべつ 商売 が うまく いく 季節 で は ない 、 という こと は われわれ も みとめる 。
 237しかし 、 全然 商売 が でき ん なんていう 季節 は ある もの で は ない よ 。
 238ザムザ君 、 そんな もの は ある はず が ない よ 」
 239「 でも 、 支配人さん 」 と 、 グレゴール は われ を 忘れ て 叫び 、 興奮 の あまり ほか の すべて は 忘れ て しまっ た 。
 240「 すぐ 、 今 すぐ 開け ます よ 。
 241ちょっと 身体 の 工合 が 悪い ん です 。
 242目まい が し た ん です 。
 243それで 起きる こと が でき ませ ん でし た 。
 244今 も まだ ベッド に 寝 て いる ん です 。
 245でも 、 もう すっかり さっぱり し まし た 。
 246今 、 ベッド から 降りる ところ です 。
 247ちょっと ご辛抱 下さい !
 248まだ 思っ た ほど 調子 が よく あり ませ ん 。
 249でも 、 もう なおり まし た 。
 250病気 という もの は なんて 急 に 人間 を 襲っ て くる もの でしょう !
 251ゆうべ は まだ まったく 調子 が よかっ た ん です 。
 252両親 が よく 知っ て い ます 。
 253でも 、 もっと 正確 に いう と 、 ゆうべ すでに ちょっとした 予感 が あっ た ん です 。
 254人 が 見れ ば 、 きっと 私 の そんな 様子 に 気がつい た はず です 。
 255なぜ 店 に 知ら せ て おか なかっ た ん でしょう !
 256でも 、 病気 なんて 家 で 寝 なく たって なおる だろう 、 と いつ でも 思っ て いる もの です から 。
 257支配人さん !
 258両親 を いたわっ て やっ て 下さい !
 259あなた が 今 、 私 に おっしゃっ て いる 非難 は 、 みんな いわれ が あり ませ ん 。
 260これ まで に そんな こと は 一こと だって いわ れ た こと は あり ませ ん 。
 261あなた は おそらく 、 私 が お送り し た 最近 の 注文書類 を まだ 読ん で は おら れ ない の でしょう 。
 262ともあれ 、 これ から 八 時 の 汽車 で 商用 の 旅 に 出かけ ます 。
 263一 、 二 時間 休ん だ ので 、 元気 に なり まし た 。
 264どうか お引き取り 下さい 、 支配人さん 。
 265私 は すぐ 自分 で 店 へ いき ます 。
 266そして 、 すみ ませ ん が どうか 社長 に この こと を 申し上げ て 下さい 」
 267そして 、 グレゴール は こうした こと を 急い で しゃべり まくり 、 自分 が 何 を いっ て いる の か ほとんど わから なかっ た が 、 きっと ベッド で すでに 習いおぼえ た 練習 の おかげ だろう か 、 たやすく たんす へ 近づい て 、 それ に すがっ て 起き上がろ う と し た 。
 268ほんとう に ドア を 開け 、 ほんとう に 姿 を 見せ て 、 支配人 と 話そ う と 思っ た の だっ た 。
 269今 こんな に 自分 に 会い た がっ て いる 人たち が 、 自分 を 見 て なん と いう か 、 彼 は それ を 知り たく て たまら なかっ た 。
 270もし 彼ら が びっくり し た ならば 、 もう グレゴール に は 責任 が ない わけ で 、 落ちつい て いる こと が できる 。
 271ところで 、 もし みんな が 平気 で いる ならば 、 彼 として も 興奮 する 理由 は ない し 、 急げ ば 八 時 に は ほんとう に 駅 へ いける はず だ 。
 272最初 、 彼 は 二 、 三 回 すべすべ し た たんす から 滑り落ち た が 、 ついに 最後 の 一 跳び を やっ て 立ち上がっ た 。
 273下半身 の 痛み は 燃える よう に 痛ん だ が 、 もう 全然 気 に も かけ なかっ た 。
 274今度 は 、 近く に あっ た 椅子 の もたれ に 身体 を 倒し 、 小さな 脚 を 使っ て その へり に しがみつい た 。
 275それ によって 自分 を 抑える こと が でき た ので 、 しゃべる こと も やめ た 。
 276というのは 、 今 で は 支配人 の いう こと に 耳 を 傾ける こと が できる よう に なっ て い た 。
 277「 息子さん の いわ れる こと が 一 こと でも わかり まし た か 」 と 、 支配人 は 両親 に たずね た 。
 278「 われわれ を ばか に し て いる ん じゃ ない でしょう ね ? 」
 279「 とんでも ない こと です 」 と 、 母親 は もう 泣き ながら 叫ん だ 。
 280「 あの 子 は きっと 大病 な ん です 。 それ な のに わたしたち は あの 子 を 苦しめ たり し て 。 グレーテ ! グレーテ ! 」 と 、 母親 は 大声 で いっ た 。
 281「 なあに ? 」 と 、 妹 が 別 な 側 から 叫ん だ 。
 282両方 は グレゴール の 部屋越し に 言葉 を 交わし て い た の だ 。
 283「 すぐ お医者様 の ところ へ いっ て おくれ 。
 284グレゴール が 病気 な ん だ よ 。
 285グレゴール が 今 しゃべっ た の を 聞い た かい ? 」
 286「 ありゃあ 、 まるで けもの の 声 だっ た 」 と 、 支配人 が いっ た が 、 その 言葉 は 母親 の 叫び声 に 比べる と 目立っ て 低かっ た 。
 287「 アンナ ! アンナ ! 」 と 、 父親 は 玄関 の 間越し に 台所 へ 向っ て 叫び 、 手 を たたい た 。
 288「 すぐ 鍵屋 を 呼ん で き て くれ ! 」
 289すぐさま 、 二人 の 娘 は スカート の 音 を 立て ながら 玄関 の 間 を かけ 抜け て いっ た
 290―― いったい 妹 は どうやって あんな に 早く 服 を 着 た の だろう ―― 。
 291そして 、 玄関 の ドア を さっと 開け た 。
 292ドア の 閉じる 音 は 全然 聞こえ なかっ た 。
 293二人 は きっと ドア を 開け放し に し て いっ た の だ 。
 294大きな 不幸 が 起っ た 家 で は そうした こと は よく ある もの だ 。
 295だが 、 グレゴール は ずっと 平静 に なっ て い た 。
 296それでは 、 人びと は もう 彼 が 何 を いっ て いる の か わから なかっ た の だ 。
 297自分 の 言葉 は はっきり と 、 さっき よりも はっきり と し て いる よう に 思え た の だ が 、 おそらく それ は 耳 が 慣れ た ため な の だろう 。
 298それにしても 、 ともかく 今 は もう 、 彼 の 様子 が 普通 で ない という こと は みんな も 信じ て おり 、 彼 を 助ける つもり で いる の だ 。
 299最初 の 処置 が とら れ た とき の 確信 と 冷静さ と が 、 彼 の 気持 を よく し た 。
 300彼 は また 人間 の 仲間 に 入れ られ た と 感じ 、 医師 と 鍵屋 と を きちんと 区別 する こと なし に 、 この 両者 から すばらしく 驚く べき 成果 を 期待 し た 。
 301さし迫っ て いる 決定的 な 話合い の ため に できるだけ はっきり し た 声 を 準備 し て おこう と 思っ て 、 少し 咳払い し た が 、 とはいえ すっかり 音 を 抑え て やる よう に 努力 は し た 。
 302おそらく この 物音 も 人間 の 咳払い と は ちがっ た ふう に 響く だろう と 思わ れ た から だっ た 。
 303彼 自身 、 それ を 判断 できる という 自信 は もう なくなっ て い た 。
 304その あいだ に 、 隣室 は すっかり 静まり返っ て い た 。
 305おそらく 両親 は 支配人 と いっしょ に テーブル の ところ に 坐り 、 ひそひそ 話し て いる の だろう 。
 306それとも 、 みんな ドア に 身 を よせ て 、 聞き耳 を 立て て いる の かも しれ ない 。
 307グレゴール は 椅子 と いっしょ に ゆっくり と ドア へ 近づい て いき 、 そこ で 椅子 を 放し 、 ドア に 身体 を ぶつけ て 、 それ に すがっ て まっすぐ に 立ち上がっ た
 308―― 小さな 足 の 裏 の ふくらみ に は 少し ねばる もの が つい て い た から だ 。 ――
 309そして 、 そこ で 一瞬 の あいだ 、 これ まで 骨 の 折れ た 動作 の 休憩 を し た 。
 310それから 、 鍵穴 に はまっ て いる 鍵 を 口 で 廻す 仕事 に 取りかかっ た 。
 311残念 な こと に 、 歯 らしい もの が ない よう だっ た
 312―― なん で すぐ 鍵 を つかん だら いい の だろう か ―― 。
 313ところが 、 そのかわり 顎 は むろん ひどく 頑丈 で 、 その 助け を 借り て 実際 に 鍵 を 動かす こと が でき た が 、 疑い も なく 身体 の どこ か を 傷つけ て しまっ た こと に は 気づか なかっ た 。
 314傷つい た という の は 、 褐色 の 液体 が 口 から 流れ出し 、 鍵 の 上 を 流れ て 床 へ したたり落ち た の だっ た 。
 315「 さあ 、 あの 音 が 聞こえ ませ ん か 」 と 、 隣室 の 支配人 が いっ た 。
 316「 鍵 を 廻し て い ます よ 」
 317その 言葉 は 、 グレゴール にとって は 大いに 元気づけ に なっ た 。
 318だが 、 みんな が 彼 に 声援 し て くれ たって いい はず な の だ 。
 319父親 も 母親 も そう だ 。
 320「 グレゴール 、 しっかり 。 頑張っ て ! 鍵 に しっかり と つかまれ よ 」 と 、 両親 も 叫ん で くれ たって いい はず だ 。
 321そして 、 みんな が 自分 の 努力 を 緊張 し て 見守っ て いる の だ 、 と 思い描き ながら 、 できるだけ の 力 を 振りしぼっ て 気 が 遠く なる ほど 鍵 に かみつい た 。
 322鍵 の 回転 が 進行 する につれ 、 彼 は 鍵穴 の まわり を 踊る よう に し て 廻っ て いっ た 。
 323今 は ただ 口 だけ で 身体 を まっすぐ に 立て て い た 。
 324そして 、 必要 に 応じ て 鍵 に ぶらさがっ たり 、 つぎ に また 自分 の 身体 の 重み を 全部 かけ て それ を 押し下げ たり し た 。
 325とうとう 開い た 鍵 の ぱちり という 澄ん だ 音 が 、 夢中 だっ た グレゴール を はっきり 目ざませ た 。
 326ほっと 息 を つき ながら 、 彼 は 自分 に 言い聞かせ た 。
 327「 これ なら 鍵屋 は いら なかっ た わけ だ 」
 328そして 、 ドア を すっかり 開け よう と し て 、 ドア の 取手 の 上 に 頭 を のせ た 。
 329彼 は こんな ふう に し て ドア を 開け なけれ ば なら なかっ た ので 、 ほんとう は ドア が もう かなり 開い た のに 、 彼 自身 の 姿 は まだ 外 から は 見え なかっ た 。
 330まず ゆっくり と ドア板 の まわり を 伝わっ て 廻っ て いか なけれ ば なら なかっ た 。
 331しかも 、 部屋 へ 入る 前 に どさり と 仰向け に 落ち まい と 思う ならば 、 用心 し て やら なけれ ば なら なかっ た 。
 332彼 は まだ その 困難 な 動作 に かかり きり に なっ て い て 、 ほか の こと に 注意 を 向ける ひま が なかっ た が 、 その とき 早く も 支配人 が 声高く 「 おお ! 」 と 叫ぶ の を 聞い た
 333―― まるで 風 が さわぐ とき の よう に 響い た ―― 。
 334そこで 支配人 の 姿 も 見 た が 、 ドア の いちばん 近く に い た 支配人 は ぽかりと 開け た 口 に 手 を あて て 、 まるで 目 に 見え ない 一定 の 強さ を 保っ た 力 に 追い払わ れる よう に 、 ゆっくり と あとしざり し て いっ た 。
 335母親 は ―― 支配人 が いる にもかかわらず 、 ゆうべ から とい て ある 逆立っ た 髪 の まま で そこ に 立っ て い た が ―― まず 両手 を 合わせ て 父親 を 見つめ 、 つぎ に グレゴール の ほう に 二 歩 進み 、 身体 の まわり に ぱっと 拡がっ た スカート の まんなか に へなへな と 坐りこん で しまっ た 。
 336顔 は 胸 へ 向っ て うなだれ て おり 、 まったく 見え なかっ た 。
 337父親 は 敵意 を こめ た 表情 で 拳 を 固め 、 まるで グレゴール を 彼 の 部屋 へ 突きもどそ う と する よう だっ た 。
 338そして 、 落ちつか ぬ 様子 で 居間 を 見廻し 、 つぎ に 両手 で 眼 を おおう と 、 泣き 出し た 。
 339そこで 父親 の 頑強 そう な 大きな 胸 が うちふるえる の だっ た 。
 340グレゴール は むこう の 部屋 へ は 入っ て いか ず 、 しっかり かけ金 を かけ て ある ドア板 に 内側 から よりかかっ て い た ので 、 彼 の 身体 は 半分 しか 見え ず 、 その 上 に のっ て いる 斜め に かしげ た 頭 が 見える の だっ た 。
 341彼 は その 頭 で ほか の 人びと の ほう を のぞい て い た 。
 342その あいだ に 、 あたり は 前 よりも ずっと 明るく なっ て い た 。
 343通り の むこう側 に は 、 向かい合っ て 立っ て いる 限りなく 長い 黒灰色 の 建物 の 一部分 が 、 はっきり と 見え て い た
 344―― 病院 な の だ ―― 。
 345その 建物 の 前面 は 規則正しく 並ん だ 窓 によって ぽかりぽかり と 孔 を あけ られ て い た 。
 346雨 は まだ 降っ て い た が 、 一 つ 一 つ 見わける こと の できる ほど の 大きな 雨粒 で 、 地上 に 落ちる しずく も 一 つ 一 つ はっきり と 見え た 。
 347テーブル の 上 に は 朝食用 の 食器 が ひどく たくさん のっ て い た 。
 348というのは 、 父親 にとって は 朝食 は 一 日 の いちばん 大切 な 食事 で 、 いろいろ な 新聞 を 読み ながら 何 時間 でも 引き延ばす の だっ た 。
 349ちょうど まむかい の 壁 に は 、 軍隊時代 の グレゴール の 写真 が かかっ て いる 。
 350中尉 の 服装 を し て 、 サーベル に 手 を かけ 、 のんき な 微笑 を 浮かべ ながら 、 自分 の 姿勢 と 軍服 と に対して 見る 者 の 敬意 を 要求 し て いる よう だ 。
 351玄関 の 間 へ 通じる ドア は 開い て おり 、 玄関 の ドア も 開い て いる ので 、 ドア の 前 の たたき と 建物 の 下 へ 通じる 階段 の 上 の ほう と が 見え た 。
 352「 それでは 」 と 、 グレゴール は いっ た が 、 自分 が 冷静さ を 保っ て いる ただ 一人 の 人間 な の だ という こと を はっきり と 意識 し て い た 。
 353「 すぐ 服 を 着 て 、 商品見本 を 荷造り し 、 出かける こと に し ます 。
 354あなたがた は 、 私 を 出かけ させる つもり でしょう ね ?
 355ところで 、 支配人さん 、 ごらん の とおり 、 私 は 頑固 じゃ あり ませ ん し 、 仕事 は 好き な ん です 。
 356商用旅行 は 楽 じゃ あり ませ ん が 、 旅行 し ない で は 生きる こと は でき ない でしょう よ 。
 357ところで 、 支配人さん 、 どちら へ いらっしゃい ます か ?
 358店 へ です か ?
 359万事 を ありのまま に 伝え て 下さる でしょう ね ?
 360だれ だって 、 ちょっと の あいだ 働く こと が でき なく なる こと が あり ます が 、 そういう とき こそ 、 それ まで の 成績 を 思い出し て 、 その あと で 障害 が 除か れれ ば きっと それ だけ 勤勉 に 、 それ だけ 精神 を 集中 し て 働く だろう 、 という こと を 考える べき 時 な の です 。
 361私 は 実際 、 社長さん を とても ありがたい と 思っ て い ます 。
 362それ は あなた も よく ご存じ の はず です 。
 363一方 、 両親 と 妹 と の こと も 心配 し て い ます 。
 364私 は 板ばさみ に なっ て いる わけ です が 、 きっと また 切り抜ける でしょう 。
 365今 でも むずかしい こと に なっ て いる のに 、 もう これ 以上 私 の 立場 を むずかしく は し ない で 下さい 。
 366店 で も 私 の 味方 に なっ て 下さい ませ ん か 。
 367旅廻り の セールスマン なんて 好か れ ませ ん 。
 368それ は 私 に も よく わかっ て い ます 。
 369セールスマン は しこたま もうけ て 、 それで いい 暮し を やっ て いる 、 と 考え られ て いる ん です 。
 370そして 、 現実 の 姿 も こうした 偏見 を 改める よう に うながす もの で は ない こと も 、 私 に は わかっ て い ます 。
 371でも 、 支配人さん 、 あなた は ほか の 店員たち よりも 事情 を よく 見抜い て おら れ ます 。
 372いや 、 それ どころか 、 ないしょ の 話 です が 、 社長 自身 よりも よく 見抜い て おら れる ん です 。
 373社長 は 事業主 として の 立場 が ある ため 、 判断 を 下す 場合 に 一人 の 使用人 にとって 不利 な まちがい を 犯す もの な ん です 。
 374あなた も よく ご存じ の よう に 、 ほとんど 一 年じゅう 店 の 外 に いる 旅廻り の セールスマン は 、 かげ口 や 偶然 や いわれ の ない 苦情 の 犠牲 に なり やすく 、 そうした もの を 防ぐ こと は まったく でき ない ん です 。
 375というのも 、 そういう こと の 多く は 全然 耳 に 入っ て こ ず 、 ただ 疲れはて て 旅 を 終え て 帰宅 し た とき に だけ 、 原因 なんか もう わから ない よう な 悪い 結果 を 自分 の 身体 に 感じる こと が できる ん です から ね 。
 376支配人さん 、 どうか お帰り に なる 前 に は 、 少なくとも 私 の 申し上げ た ほんの 一部分 だけ でも もっとも だ 、 と 思っ て 下すっ て いる こと を 見せ て 下さる よう な 言葉 を 一 こと おっしゃっ て 下さい 」
 377だが 支配人 は 、 グレゴール の 最初 の 言葉 を 聞く と 早く も 身体 を そむけ 、 ただ ぴくぴく 動く 肩 越し に 、 唇 を そっくり返ら し て グレゴール の ほう を 見返る だけ だっ た 。
 378そして 、 グレゴール が しゃべっ て いる あいだじゅう 、 一瞬 の あいだ も じっと 立っ て は い ず 、 グレゴール から 眼 を はなさ ずに ドア の ほう へ 遠ざかっ て いく の だっ た 。
 379とはいっても 、 まるで この 部屋 を 出 て いっ て は なら ない という 秘密 の 命令 でも ある か の よう に 、 急が ずに じわじわ と 離れ て いく 。
 380彼 は ついに 玄関 の 間 まで いっ た 。
 381そして 、 彼 が 最後 の 一足 を 居間 から 引き抜い た すばやい 動作 を 見 た ならば 、 この 人 は その とき かかと に やけど を し た の だ 、 と 思い かね ない ほど だっ た 。
 382で 、 玄関 の 間 で は 、 右手 を ぐっと 階段 の ほう に のばし 、 まるで 階段 で は この世 の もの で は ない 救い が 自分 を 待っ て くれ て いる の だ 、 という よう な 恰好 だっ た 。
 383支配人 を どんな こと が あっ て も こんな 気分 で 立ち去ら せ て は なら ない 。
 384そんな こと を やっ たら 店 における 自分 の 地位 は きっと ぎりぎり まで あぶなく なる に ちがい ない 、 と グレゴール は 見 て 取っ た 。
 385両親 に は そうした こと が 彼 ほど に は わかっ て い ない の だ 。
 386両親 は 永年 の うち に 、 グレゴール は この 店 で 一生 心配 が ない の だ 、 という 確信 を 築き上げ て しまっ て いる し 、 おまけ に 今 は 当面 の 心配ごと に あんまり かかり きり に なっ て いる ので 、 先 の こと など 念頭 に は ない 始末 だっ た 。
 387だが 、 グレゴール は この 先 の こと を 心配 し た の だ 。
 388支配人 を 引きとめ 、 なだめ 、 確信 さ せ 、 最後 に は 味方 に し なけれ ば なら ない 。
 389グレゴール と 家族 と の 未来 は なん と いっ て も その こと に かかっ て いる の だ !
 390ああ 、 妹 が この 場 に い て くれ たら いい のに !
 391妹 は りこう者 だ 。
 392さっき も 、 グレゴール が 落ちつき払っ て 仰向け に 寝 て い た とき 、 泣い て い た 。
 393それに 、 女 に は 甘い あの 支配人 も 、 妹 に くどか れれ ば 意見 を 変える だろう 。
 394妹 なら 玄関 の ドア を 閉め 、 玄関 の 間 で 支配人 の 驚き を 何とか なだめ た こと だろう 。
 395ところが 、 妹 は ちょうど 居合わせ ず 、 グレゴール 自身 が やら なけれ ば なら ない の だ 。
 396そこで 、 身体 を 動かす 自分 の 現在 の 能力 が どの くらい ある か も まだ 全然 わから ない という こと を 忘れ 、 また 自分 の 話 は おそらく は 今度 も きっと 相手 に 聞き取っ て は もらえ ない だろう という こと も 忘れ て 、 ドア板 から 離れ 、 開い て いる 戸口 を 通っ て 身体 を ずらし て いき 、 支配人 の ところ へ いこ う と し た 。
 397支配人 は もう 玄関 の 前 の たたき に ある 手すり に 滑稽 な 恰好 で 両手 で しがみつい て い た の だっ た 。
 398ところが 、 グレゴール は たちまち 、 何 か つかまる もの を 求め ながら 小さな 叫び を 上げ て 、 たくさん の 小さな 脚 を 下 に し た まま ばたり と 落ち た 。
 399そう なる か なら ぬ とき に 、 彼 は この 朝 はじめて 身体 が 楽 に なる の を 感じ た 。
 400たくさん の 小さな 脚 は しっかと 床 を 踏まえ て い た 。
 401それら の 脚 は 完全 に 思う まま に 動く の だ 。
 402それ に 気づく と 、 うれしかっ た 。
 403それら の 脚 は 、 彼 が いこ う と する ほう へ 彼 を 運ん で いこ う と さえ する の だっ た 。
 404そこで 彼 は 早く も 、 いっさい の 悩み は もう これ で すっかり 解消 する ばかり に なっ た ぞ 、 と 思っ た 。
 405だが 、 その 瞬間 、 抑え た 動き の ため に 身体 を ぶらぶら ゆすり ながら 、 母親 から いくら も 離れ て い ない ところ で 母親 と ちょうど 向かい合っ て 床 の 上 に 横たわっ た とき に 、 まったく 放心状態 に ある よう に 見え た 母親 が がば と 高く 跳び上がり 、 両腕 を 大きく 拡げ 、 手 の 指 を みんな 開い て 、 叫ん だ の だっ た 。
 406「 助け て !
 407どうか 助け て ! 」
 408まるで グレゴール を よく 見 よう と する か の よう に 、 頭 を 下 に 向け て い た の だ が 、 その 恰好 と は 逆 に 思わず知らず うしろ へ すたすた と 歩い て いっ た 。
 409自分 の うしろ に は 食事 の 用意 が し て ある テーブル が ある こと を 忘れ て しまっ て い た 。
 410そして 、 テーブル の ところ へ いきつく と 、 放心 し た よう に なっ て 急い で それ に 腰 を 下ろし 、 自分 の すぐ そば で ひっくり返っ た 大きな コーヒー・ポット から だくだく コーヒー が 絨毯 の 上 へ こぼれ落ちる の に も 全然 気づか ない 様子 だっ た 。
 411「 お母さん 、 お母さん 」 と 、 グレゴール は 低い 声 で 言い 、 母親 の ほう を 見上げ た 。
 412一瞬 、 支配人 の こと は まったく 彼 の 念頭 から 去っ て い た 。
 413そのかわり 、 流れる コーヒー を ながめ て 、 何 度 か 顎 を ぱくぱく 動かさ ない で は い られ なかっ た 。
 414それ を 見 て 母親 は 改めて 大きな 叫び声 を 上げ 、 テーブル から 逃げ出し 、 かけ て いっ た 父親 の 両腕 の なか に 倒れ て しまっ た 。
 415しかし 、 今 は グレゴール に は 両親 を かまっ て いる ひま が なかっ た 。
 416支配人 は もう 玄関 の 外 の 階段 の 上 に い た 。
 417手すり の 上 に 顎 を のせ 、 最後 に こちら の ほう へ 振り返っ て いる 。
 418グレゴール は できるだけ 確実 に 追いつこ う と し て 、 スタート を 切っ た 。
 419支配人 は 何 か 勘づい た に ちがい なかっ た 。
 420というのは 、 彼 は 何 段 も 一足跳び に 降りる と 、 姿 を 消し て しまっ た の だっ た 。
 421逃げ て いき ながら も 、 「 ひゃあ ! 」 と 叫ん だ 。
 422その 叫び声 が 建物 の 階段部 じゅう に 響い た 。
 423まずい こと に 、 支配人 の この 逃亡 は 、 それ まで 比較的 落ちつい て い た 父親 を も 混乱 さ せ た よう だっ た 。
 424父親 は 自分 で も 支配人 の あと を 追っ て いく とか 、 あるいは 少なくとも 支配人 の あと を 追お う と する グレゴール の じゃま を し ない とかいう の で は なくて 、 支配人 が 帽子 と オーバー と いっしょ に 椅子 の 一 つ の 上 に 置き忘れ て いっ た ステッキ を 右手 で つかみ 、 左手 で は 大きな 新聞 を テーブル から 取っ て 、 足 を 踏み鳴らし ながら 、 ステッキ と 新聞 と を 振っ て グレゴール を 彼 の 部屋 へ 追い返す こと に 取りかかっ た 。
 425グレゴール が いくら 頼ん で も だめ だ し 、 いくら 頼ん で も 父親 に は 聞き入れ て もらえ なかっ た 。
 426どんな に へりくだっ て 頭 を 廻し て み て も 、 父親 は ただ いよいよ 強く 足 を 踏み鳴らす だけ だ 。
 427むこう で は 母親 が 、 寒い 天候 にもかかわらず 窓 を 一 つ 開け放ち 、 身体 を のり出し て 顔 を 窓 から ずっと 外 に 出し た まま 、 両手 の なか に 埋め て いる 。
 428通り と 階段部 と の あいだ に は 強く 吹き抜ける 風 が 立っ て 、 窓 の カーテン は 吹き まくら れ 、 テーブル の 上 の 新聞 は がさがさ いう し 、 何 枚 か の 新聞 は ばらばら に なっ て 床 の 上 へ 飛ばさ れ た 。
 429父親 は 容赦なく 追い立て 、 野蛮人 の よう に しっしっ と いう の だっ た 。
 430ところで 、 グレゴール は まだ あとしざり の 練習 は 全然 し て い なかっ た し 、 また 実際 、 ひどく のろのろ と しか 進め なかっ た 。
 431グレゴール が 向き を 変える こと さえ でき たら 、 すぐ に も 自分 の 部屋 へ いけ た こと だろう が 、 手間 の かかる 方向転換 を やっ て 父親 を いらいら さ せる こと を 恐れ た の だっ た 。
 432それに 、 いつ 父親 の 手 に にぎら れ た ステッキ で 背中 か 頭 か に 致命的 な 一撃 を くらう か わから なかっ た 。
 433だが 、 結局 の ところ 、 向き を 変える こと の ほか に 残さ れ た 手だて は なかっ た 。
 434というのは 、 びっくり し た こと に 、 あとしざり し て いく の で は けっして 方向 を きちんと 保つ こと が でき ない と わかっ た の だっ た 。
 435そこで 彼 は 、 たえず 不安げ に 父親 の ほう に 横眼 を 使い ながら 、 できるだけ すばやく 向き を 変え 始め た 。
 436しかし 、 実 の ところ その 動作 は ひどく のろのろ と しか でき なかっ た 。
 437おそらく 父親 も 彼 の 善意 に 気づい た の だろう 。
 438というのは 、 彼 の 動き の じゃま は し ない で 、 ときどき 遠く の ほう から ステッキ の 尖端 で その 方向転換 の 動作 の 指揮 を 取る よう な 恰好 を する の だっ た 。
 439父親 の あの 耐え がたい しっしっ という 追い立て の 声 さえ なかっ たら 、 どんな に よかっ たろ う !
 440それ を 聞く と 、 グレゴール は まったく 度 を 失っ て しまう 。
 441もう ほとんど 向き を 変え 終っ た というのに 、 いつ でも この しっしっ という 声 に 気 を 取ら れ て 、 おろおろ し て しまい 、 またもや 少し ばかり もと の 方向 へ もどっ て しまう の だ 。
 442だが 、 とうとう うまい 工合 に 頭 が ドア の 口 まで 達し た が 、 ところが 彼 の 身体 の 幅 が 広 すぎ て 、 すぐ に は 通り抜け られ ない という こと が わかっ た 。
 443グレゴール が 通る の に 十分 な 通り路 を つくる ため に 、 もう 一方 の ドア板 を 開け て やる など という こと は 、 今 の よう な 心 の 状態 に ある 父親 に は むろん の こと まったく 思いつく はず が なかっ た 。
 444父親 の 思いこん で いる こと は 、 ただ もう グレゴール を できるだけ 早く 部屋 へ いか せる という こと だけ だっ た 。
 445グレゴール は まず 立ち上がっ て 、 おそらく その 恰好 で ドア を 通り抜ける こと が できる の だろう が 、 その ため に グレゴール が し なけれ ば なら ない 廻りくどい 準備 も 、 父親 は けっして 許そ う と は し ない だろう 。
 446おそらく 、 まるで 障害 など は ない か の よう に 、 今 は 格別 に さわぎ立て て グレゴール を 追い立て て いる の だ 。
 447グレゴール の うしろ で 聞こえ て いる の は 、 もう この世 で ただ 一人 の 父親 の 声 の よう に は 響か なかっ た 。
 448そして 、 ほんとう の ところ 、 もう 冗談ごと で は なかっ た 。
 449そこで グレゴール は 、 どう と でも なれ という 気持 に なっ て 、 ドア に 身体 を 押しこん だ 。
 450身体 の 片側 が もち上がり 、 彼 は ドア口 に 斜め に 取りつい て しまっ た 。
 451一方 の わき腹 が すっかり すりむけ 、 白色 の ドア に いやらしい しみ が のこっ た 。
 452やがて 彼 は すっかり はさまっ て しまい 、 ひとり で は もう 動く こと も でき なかっ た 。
 453身体 の 一方 の 側 の 脚 は みな 宙 に 浮かび上がっ て しまい 、 もう 一方 の 側 の 脚 は 痛い ほど 床 に 押しつけ られ て いる 。
 454―― その とき 、 父親 が うしろ から 今 は ほんとう に 助かる 強い 一 突き を 彼 の 身体 に くれ た 。
 455そこで 彼 は 、 はげしく 血 を 流し ながら 、 部屋 の なか の 遠く の ほう まで すっ飛ん で いっ た 。
 456そこで ドア が ステッキ で ばたん と 閉じ られ 、 やがて 、 ついに あたり は 静か に なっ た 。
 457夕ぐれ の 薄明り の なか で グレゴール は やっと 重苦しい 失心 し た よう な 眠り から 目ざめ た 。
 458きっと 、 別に 妨げ が なく とも それ ほど 遅く 目ざめる という よう な こと は なかっ たろ う 。
 459というのは 、 十分 に 休ん だ し 、 眠りたり た 感じ で あっ た 。
 460しかし 、 すばやい 足音 と 玄関 の 間 に 通じる ドア を 用心深く 閉める 物音 と で 目 を さまさ れ た よう に 思える の だっ た 。
 461電気 の 街燈 の 光 が 蒼白く 天井 と 家具 の 上部 と に 映っ て い た が 、 下 に いる グレゴール の まわり は 暗かっ た 。
 462今 やっと ありがたみ が わかっ た 。
 463触角 で まだ 不器用げ に 探り ながら 、 身体 を のろのろ と ドア の ほう へ ずらし て いっ て 、 そこ で 起っ た こと を 見 よう と し た 。
 464身体 の 左側 は ただ 一 本 の 長い 不愉快 に 引きつる 傷口 の よう に 思え た が 、 両側 に 並ん で いる 小さな 脚 で 本格的 な びっこ を 引か なけれ ば なら なかっ た 。
 465それに 一 本 の 脚 は 午前 の 事件 の あいだ に 重傷 を 負っ て い た
 466―― ただ 一 本 しか 負傷 し て い ない こと は 、 ほとんど 奇蹟 だっ た ―― 。
 467そして 、 その 脚 は 死ん で うしろ へ ひきずら れ て い た 。
 468ドア の ところ で やっと 、 なんで そこ まで おびきよせ られ て いっ た の か 、 わかっ た 。
 469それ は 何 か 食べもの の 匂い だっ た 。
 470というのは 、 そこ に は 甘い ミルク を 容れ た 鉢 が あり 、 ミルク の なか に は 白パン の 小さな 一 切れ が 浮かん で い た 。
 471彼 は よろこび の あまり ほとんど 笑い 出す ところ だっ た 。
 472朝 よりも 空腹 は ひどく 、 すぐ 眼 の 上 まで 頭 を ミルク の なか に 突っこん だ 。
 473だが 、 間もなく 失望 し て 頭 を 引っこめ た 。
 474扱い にくい 身体 の 左側 の ため に 食べる こと が むずかしい ばかり で なく ―― そして 、 身体 全体 が ふうふう いい ながら 協力 し て やっと 食べる こと が でき た の だ ―― 、 その 上 、 ふだん は 彼 の 好物 の 飲みもの で あり 、 きっと 妹 が その ため に 置い て くれ た の だろう が 、 ミルク が 全然 うまく ない 。
 475それどころか 、 ほとんど 厭気 を おぼえ て 鉢 から 身体 を そむけ 、 部屋 の 中央 へ はっ て もどっ て いっ た 。
 476グレゴール が ドア の すきま から 見る と 、 居間 に は ガス燈 が ともっ て い た 。
 477ふだん は この 時刻 に は 父親 が 午後 に 出 た 新聞 を 母親 に 、 そして ときどき は 妹 に も 声 を 張り上げ て 読ん で 聞か せる の を つね に し て い た の だ が 、 今 は まったく 物音 が 聞こえ なかっ た 。
 478妹 が いつも 彼 に 語っ たり 、 手紙 に 書い たり し て い た この 朗読 は 、 おそらく 最近 で は およそ すたれ て しまっ て い た よう だっ た 。
 479だが 、 たしか に 家 は 空 で は ない はず な のに 、 あたり も すっかり 静まり返っ て い た 。
 480「 家族 は なんと 静か な 生活 を 送っ て いる ん だろう 」 と 、 グレゴール は 自分 に 言い聞かせ 、 暗闇 の なか を じっと 見つめ ながら 、 自分 が 両親 と 妹 と に こんな りっぱ な 住居 で こんな 生活 を さ せる こと が できる こと に 大きな 誇り を おぼえ た 。
 481だが 、 もし 今 、 あらゆる 安静 や 幸福 や 満足 が 恐怖 で 終り を 告げる こと に なっ たら どう だろう か 。
 482こんな 考え に 迷いこん で しまわ ない よう に 、 グレゴール は むしろ 動き 出し 、 部屋 の なか を あちこち はい廻っ た 。
 483長い 夜 の あいだ に 、 一 度 は 一方 の 側 の ドア が 、 一 度 は もう 一方 の が 、 ちょっと だけ 開き 、 すぐ に また 閉め られ た 。
 484だれ か が きっと 部屋 の なか へ 入る 用事 が あっ た に ちがい ない の だ が 、 それ にしろ ためらい も あまり に 大きかっ た の だ 。
 485そこで グレゴール は 居間 へ 通じる ドア の すぐ そば に とまっ て い て 、 ためらっ て いる 訪問者 を 部屋 の なか へ 入れる か 、 あるいは 少なくとも その 訪問者 が だれ か を 知ろ う と 決心 し て い た 。
 486ところが 、 ドア は もう 二 度 と 開か れ ず 、 グレゴール が 待っ て い た こと も むなしかっ た 。
 487ドア が みな 閉ざさ れ て い た 朝 に は 、 みんな が 彼 の 部屋 へ 入ろ う と し た の だっ た が 、 彼 が 一 つ の ドア を 開け 、 ほか の ドア も 昼 の あいだ に 開け られ た よう な のに 、 今 と なっ て は だれ も やっ て は こ ず 、 鍵 も 外側 から さしこま れ て い た 。
 488夜 遅く なっ て から やっと 、 居間 の 明り が 消さ れ た 。
 489それで 、 両親 と 妹 と が そんな に 長い あいだ 起き て い た こと が 、 たやすく わかっ た 。
 490というのは 、 はっきり 聞き取る こと が でき た の だ が 、 その とき 三 人 全部 が 爪先 で 歩い て 遠ざかっ て いっ た の だっ た 。
 491それでは 朝 まで もう だれ も グレゴール の 部屋 へ は 入っ て こ ない という わけ だ 。
 492だから 、 自分 の 生活 を ここ で どういう ふう に 設計 す べき か 、 じゃま さ れ ずに とっくり 考える 時間 が たっぷり と ある わけ だ 。
 493だが 、 彼 が 今 べったり 床 に へばりつく よう に しい られ て いる 天井 の 高い ひろびろ と し た 部屋 は 、 なぜ か 理由 を 見出す こと は でき なかっ た けれども 、 彼 の 心 を 不安 に し た 。
 494なにしろ 五 年来 彼 が 住ん で い た 部屋 な ので 、 どうして そんな 気 に なる の か わから なかっ た 。
 495―― そして 、 半ば 無意識 に 身体 の 向き を 変え 、 ちょっと 恥かしい 気持 が ない わけ で は なかっ た が 、 急い で ソファ の 下 に もぐりこん だ 。
 496そこ で は 、 背中 が 少し 抑えつけ られる し 、 頭 を もう もたげる こと が でき ない にもかかわらず 、 すぐ ひどく 居心地 が よい よう に 思わ れ た 。
 497ただ 、 身体 の 幅 が 広 すぎ て 、 ソファ の 下 に すっぽり 入る こと が でき ない の が 残念 だっ た 。
 498そこ に 彼 は 一晩じゅう い た 。
 499その 夜 は 、 あるいは 空腹 の ため に たえず 目 を さまさ せ られ ながら も うとうと し たり 、 あるいは 心配 や はっきり し ない 希望 に 思いふけっ たり し ながら 、 過ごし た の だっ た 。
 500そんな 心配 や 希望 を 思っ て も 結論 は 同じ で 、 さしあたり は 平静 な 態度 を 守り 、 忍耐 と 細心 な 遠慮 と によって 家族 の 者たち に さまざま な 不快 を 耐え られる よう に し て やら ね ば なら ぬ という 結論 だっ た 。
 501そうした 不快 な こと を 彼 の 現在 の 状態 において は いつ か は 家族 の 者たち に 与え ない わけ に は いか ない の だ 。
 502つぎ の 朝早く 、 まだ ほとんど 夜 の うち だっ た が 、 グレゴール は 早く も 固め た ばかり の 決心 を ためし て みる 機会 を もっ た 。
 503というのは 、 玄関 の 間 の ほう から ほとんど 完全 に 身づくろい し た 妹 が ドア を 開け 、 緊張 し た 様子 で なか を のぞい た の だっ た 。
 504妹 は すぐ に は 彼 の 姿 を 見つけ なかっ た が 、 彼 が ソファ の 下 に いる の を みとめる と ―― どこ か に いる に きまっ て いる で は ない か 。 飛ん で 逃げる こと なんか でき なかっ た の だ ―― ひどく 驚い た ので 、 度 を 失っ て しまっ て 外側 から ふたたび ドア を ぴしゃり と 閉め て しまっ た 。
 505だが 、 自分 の 態度 を 後悔 し て でも いる か の よう に 、 すぐ また ドア を 開け 、 重病人 か 見知らぬ 人間 か の ところ に いる よう な 恰好 で 爪先 で 歩い て 部屋 の なか へ 入っ て き た 。
 506グレゴール は 頭 を ソファ の へり の すぐ 近く まで のばし て 、 妹 を ながめ た 。
 507ミルク を ほったらかし に し た の に 気づく だろう か 。
 508しかも けっして 食欲 が ない から で は なかっ た の だ 。
 509また 、 彼 の 口 に もっと 合う よう な 別 な 食べもの を もっ て くる の だろう か 。
 510妹 が 自分 で そう し て くれ ない だろう か 。
 511妹 に その こと を 注意 する くらい なら 、 飢え死 し た ほう が まし だ 。
 512それにもかかわらず 、 ほんとう は ソファ の 下 から 跳び出し て 、 妹 の 足もと に 身 を 投げ 、 何 か うまい もの を くれ と いい たく て たまら ない の だっ た 。
 513ところが 、 妹 は まだ いっぱい 入っ て いる ミルク の 鉢 に すぐ 気づい て 、 不思議 そう な 顔 を し た 。
 514鉢 から は 少し ばかり の ミルク が まわり に こぼれ て いる だけ だっ た 。
 515妹 は すぐ 鉢 を 取り上げ た が 、 それ も 素手 で は なくて 、 ぼろ切れ で やる の だっ た 。
 516そして 、 鉢 を もっ て 出 て いっ た 。
 517グレゴール は 、 妹 が かわり に 何 を もっ て くる だろう か と ひどく 好奇心 に 駆ら れ 、 それ について じつに さまざま な こと を 考え て み た 。
 518しかし 、 妹 が 親切心 から 実際 に もっ て き た もの を 、 考え た だけ で は あてる こと は でき なかっ た に ちがい ない 。
 519彼 の 嗜好 を ためす ため 、 いろいろ な もの を 選ん で き て 、 それ を 全部 、 古い 新聞紙 の 上 に 拡げ た の だっ た 。
 520半分 腐っ た 古い 野菜 、 固まっ て しまっ た 白ソース に くるまっ た 夕食 の 食べ残り の 骨 、 一 粒 二 粒 の 乾ぶどう と アーモンド 、 グレゴール が 二 日 前 に まずく て 食え ない と いっ た チーズ 、 何 も ぬっ て は ない パン 、 バター を ぬっ た パン 、 バター を ぬり 、 塩味 を つけ た パン 。
 521なお その ほか に 、 おそらく 永久 に グレゴール 専用 と きめ た らしい 鉢 を 置い た 。
 522それ に は 水 が つが れ て あっ た 。
 523そして 、 グレゴール が 自分 の 前 で は 食べ ない だろう という こと を 妹 は 知っ て いる ので 、 思いやり から 急い で 部屋 を 出 て いき 、 さらに 鍵 さえ かけ て しまっ た 。
 524それというのも 、 好き な よう に 気楽 に し て 食べ て も いい の だ 、 と グレゴール に わから せる ため な の だ 。
 525そこで 食事 に 取りかかる と 、 グレゴール の たくさん の 小さな 脚 は がさがさ いっ た 。
 526どう も 傷 は みな すでに 完全 に 癒っ た に ちがい なかっ た 。
 527もう 支障 は 感じ なかっ た 。
 528彼 は その こと に 驚き 、 一 月 以上 も 前 に ナイフ で ほんの 少し ばかり 指 を 切っ た が 、 その 傷 が おととい も まだ かなり 痛ん だ 、 という こと を 考え た 。
 529「 今 で は 敏感さ が 減っ た の かな 」 と 、 彼 は 思い 、 早く も チーズ を がつがつ 食べ 始め た 。
 530ほか の どの 食べもの よりも 、 この チーズ が 、 たちまち 、 彼 を 強く ひきつけ た の だっ た 。
 531つぎつぎ と 勢い きっ て 、 また 満足 の あまり 眼 に 涙 を 浮かべ ながら 、 彼 は チーズ 、 野菜 、 ソース と 食べ て いっ た 。
 532ところが 新鮮 な 食べもの は うまく なかっ た 。
 533その 匂い が まったく 我慢 でき ず 、 その ため に 食べ よう と 思う 品 を 少し ばかり わき へ 引きずっ て いっ た ほど だっ た 。
 534もう とっく に すべて を 平らげ て しまい 、 その 場 で のうのう と 横 に なっ て い た とき 、 妹 は 彼 に 引き下がる よう に と 合図 する ため 、 ゆっくり と 鍵 を 廻し た 。
 535彼 は もう ほとんど うとうと し て い た の にもかかわらず 、 その 音 で たちまち 驚かさ れ て しまっ た 。
 536彼 は また ソファ の 下 へ 急い で もぐっ た 。
 537だが 、 妹 が 部屋 に いる ほんの 短い 時間 で あっ て も 、 ソファ の 下 に とどまっ て いる の に は 、 ひどい 自制 が 必要 だっ た 。
 538というのは 、 たっぷり 食事 を し た ため 、 身体 が 少し ふくらん で 、 ソファ の 下 の 狭い 場所 で は ほとんど 呼吸 する こと が でき なかっ た 。
 539何 度 か 微か に 息 が つまり そう に なり ながら 、 いくら か 涙 が 出 て くる 眼 で 彼 は ながめ た の だ が 、 何 も 気づい て い ない 妹 は 箒 で 残りもの を 掃き集める ばかり で なく 、 グレゴール が 全然 手 を つけ なかっ た 食べもの まで 、 まるで もう 使え ない の だ という よう に 掃き集め た 。
 540そして 、 そうした もの を 全部 、 バケツ の なか へ 捨て 、 木 の 蓋 を し て 、 それから いっさい の もの を 部屋 の 外 へ 運び出し て いっ た 。
 541妹 が 向き を 変える か 変え ない か の うち に 、 グレゴール は 早く も ソファ の 下 から はい出 て 、 身体 を のばし 、 息 を 入れ た 。
 542こういう ふう に し て 毎日 グレゴール は 食事 を 与え られ た 。
 543一 回 は 朝 、 両親 と 女中 と が まだ 眠っ て いる とき で 、 二 回目 は みんな の 昼食 が 終っ た あと だ 。
 544というのは 、 食事後 、 両親 は しばらく 昼寝 を し 、 女中 は 妹 から 何 か 用事 を 言いつけ られ て 使い に 出さ れる 。
 545たしか に みんな は グレゴール を 飢え死 さ せ よう と は し なかっ た が 、 おそらく 彼 の 食事 について は ただ 妹 の 口 から 伝え聞く という 以上 の 我慢 は でき なかっ た の だろう 。
 546また きっと 妹 も 、 なにしろ ほんとう に 両親 は 十分 苦しん で いる の だ から 、 おそらく ほんの わずか な 悲しみ だけ で あっ て も はぶい て やろ う と し て いる の だろう 。
 547あの 最初 の 朝 、 どんな 口実 によって 医者 と 鍵屋 と を 家 から 追い返し た の か 、 グレゴール は 全然 知る こと が でき なかっ た 。
 548というのは 、 彼 の いう こと は 相手 に は 聞き取れ ない ので 、 だれ一人 として 、 そして 妹 まで も 、 彼 の ほう で は 他人 の いう こと が わかる 、 と は 思わ なかっ た の だ 。
 549そこで 、 妹 が 自分 の 部屋 に いる とき に も 、 ただ ときどき 妹 が 溜息 を もらし たり 、 聖人たち の 名前 を 唱える の を 聞く だけ で 満足 し なけれ ば なら なかっ た 。
 550のち に なっ て 妹 が 少し は すべて の こと に 慣れる よう に なっ た とき に はじめて 、 ―― 完全 に 慣れる という よう な こと は むろん けっして 問題 と は なら なかっ た ―― グレゴール は 親しさ を こめ た 言葉 とか 、 あるいは そう 解釈 さ れる 言葉 とか を ときどき 小耳 に はさむ こと が でき た 。
 551グレゴール が 食事 を さかん に 片づけ た とき に は 、 「 ああ 、 きょう は おいしかっ た の ね 」 と 、 妹 は 言い 、 しだい に 数しげく くり返さ れる よう に なっ た それ と 反対 に 手 を つけ て い ない 場合 に は 、 ほとんど 悲しげ に こう いう の が つね だっ た 。
 552「 また みんな 手 を つけ ない で ある わ 」
 553ところで 、 グレゴール は 直接 に は ニュース を 聞く こと が でき なかっ た けれども 、 隣室 の 話し声 を いろいろ 聞き取る の だっ た 。
 554人声 が 聞こえる と 、 彼 は すぐ それ に 近い ドア の ところ へ 急い で いき 、 身体 全体 を ドア に 圧しつける 。
 555ことに はじめ の うち は 、 たとい ただ こそこそ話 にしろ 、 何 か 彼 について の こと で ない よう な 話 は なかっ た 。
 556二 日 の あいだ 、 三 度 三 度 の 食事 に 、 どう し たら いい の だろう 、 という 相談 を やっ て いる の が 聞か れ た 。
 557ところで 、 食事 と 食事 と の あいだ の 時間 に も 、 同じ 話題 が 語ら れる の だっ た 。
 558というのは 、 だれ一人 として ひとり だけ 留守 を し よう と し なかっ た し 、 また どんな こと が あっ て も 住居 を すっかり 空 に する こと は でき なかっ た ので 、 いつ でも 家 に は 少なくとも 家族 の うち の 二人 が 残っ て いる の だ 。
 559女中 も 最初 の 日 に ―― 女中 が この できごと について 何 を 知っ て いる の か 、 また どの くらい 知っ て いる の か は 、 あまり 明らか で は なかっ た が ―― すぐ に ひま を くれる よう に と 膝 を つい て 母親 に 頼み 、 その 十五 分 後 に 家 を 出 て いく とき に は 、 涙ながら に ひま を 出し て もらっ た こと の 礼 を いっ た 。
 560まるで この 家 で 示し て もらっ た 最大 の 恩恵 だ と でも いう よう な 調子 だっ た 。
 561そして 、 だれ も 彼女 に 求め た わけ で も ない のに 、 ほんの 少し でも 人 に は もらし ませ ん から 、 など と ひどく 本気 で 誓う の だっ た 。
 562女中 が ひま を 取っ た ので 、 今 で は 妹 が 母親 と いっしょ に 料理 も し なけれ ば なら なかっ た 。
 563とはいっても 、 それ は たいして 骨 が 折れ なかっ た 。
 564なにしろ ほとんど 何 も 食べ なかっ た の だ 。
 565グレゴール は くり返し 聞い た の だ が 、 だれ か が ほか の 者 に 向っ て 食べる よう に と うながし て も むだ で 、 出 て くる 返事 といえば ただ 「 いや 、 たくさん 」 とかいう よう な 言葉 だけ に きまっ て い た 。
 566酒類 も おそらく 全然 飲ま ない よう だっ た 。
 567しょっちゅう 妹 は 父親 に 、 ビール を 飲み たく ない か と たずね 、 自分 で 取り に いく から 、 と 心 から 申し出る の だ が 、 それでも 父親 が 黙っ て いる と 、 父 が 世間態 を はばかっ て 心配 し て いる 気持 を 取り除こ う と し て 、 門番 の おかみさん に ビール を 取り に いっ て もらっ て も いい の だ 、 と いう の だっ た 。
 568ところが 父親 は 最後 に 大きな 声 で 「 いら ない 」 と 、 いう 。
 569そして 、 それ で もう 二 度 と ビール の こと は 話さ れ なかっ た 。
 570最初 の 日 の うち に 、 父親 は 早く も 母親 と 妹 と に 向っ て 財産状態 と これ から の 見通し と について すっかり 話し て 聞か せ た 。
 571ときどき テーブル から 立ち上がっ て 、 五 年 前 に 自分 の 店 が 破産 し た とき に 救い出し た 小さな 金庫 から 何 か 書きつけ や 帳簿 を もっ て くる の だっ た 。
 572手 の こん だ 鍵 を 開け 、 つぎ に 探し て いる もの を 取り出し た あと で 鍵 を 閉める 音 が 聞こえ て き た 。
 573父親 の その とき の 説明 は 、 一面 で は 、 グレゴール が 監禁生活 を する よう に なっ て 以来 はじめて うれしく 思っ た こと だっ た 。
 574グレゴール は それ まで 、 あの 店 から 父親 の 手 に 残さ れ た もの は 全然 ない の だ 、 と 考え て い た 。
 575少なくとも 父親 は グレゴール に対して その 反対 の こと は 全然 いわ なかっ た 。
 576もっとも グレゴール も その こと について 父親 に たずね た こと は なかっ た の で は あっ た 。
 577グレゴール が その ころ 気 を 使っ て い た こと は 、 家族 全員 を 完全 な 絶望 へ 追いこん だ 商売上 の 不幸 を できるだけ 早く 家族 の 者 たち に 忘れ させる ため に 全力 を つくす という こと だっ た 。
 578そこで あの 当時 彼 は 特別 に 熱心 に 働き 始め 、 ほとんど 一夜 にして つまら ぬ 店員 から 旅廻り の セールスマン と なっ た 。
 579セールスマン に は むろん 金もうけ の チャンス が いろいろ あり 、 仕事 の 成果 は すぐさま 歩合 の 形 で 現金 に 変わり 、 それ を 家 に もち帰っ て 、 驚き よろこぶ 家族 の 眼 の 前 の テーブル の 上 に ならべ て 見せる こと が でき た 。
 580あれ は すばらしい 時期 だっ た 。
 581グレゴール は あと に なっ て から も 、 家族 全体 の 経費 を まかなう こと が でき 、 また 、 事実 まかなっ た だけ の 金 を もうけ は し た が 、 あの はじめ の ころ の すばらしい 時期 は 、 少なくとも 、 あの ころ の 輝かしさ で 二 度 くり返さ れる こと は なかっ た 。
 582家人 も グレゴール も その こと に 慣れ 、 家人 は 感謝 し て 金 を 受け取り 、 彼 も よろこん で 金 を 出す の だっ た が 、 特別 な 気持 の 温かさ という もの は もう 起こら なかっ た 。
 583ただ 妹 だけ は グレゴール に対して まだ 近い 関係 を もち つづけ て い た 。
 584グレゴール と は ちがっ て 音楽 が 大好き で 、 感動的 な ほど に ヴァイオリン を 弾く こと が できる 妹 を 、 来年 に なっ たら 音楽学校 へ 入れ て やろ う 、 という の が 彼 の ひそか な 計画 だっ た 。
 585そう なる と ひどく 金 が かかる が 、 そんな こと は 考慮 し ない し 、 また その 金 も なんとか し て つくる こと が できる だろう 。
 586グレゴール が 町 に 帰っ て き て ちょっと 滞在 する あいだ に は 、 しょっちゅう 妹 と の 会話 に 音楽学校 の 話 が 出 て くる の だっ た が 、 いつ でも ただ 美しい 夢物語 に すぎ ず 、 その 実現 は 考え られ なかっ た 。
 587そして 、 両親 も けっして こんな 無邪気 な 話 を 聞く の を よろこび は し なかっ た 。
 588だが 、 グレゴール は きわめて はっきり と その こと を 考え て い た の で あり 、 クリスマス の 前夜 に は その こと を おごそか に 宣言 する つもり だっ た 。
 589ドア に へばりつい て 身体 を まっすぐ に 起こし 、 聞き耳 を 立て て いる あいだ に も 、 今 の 自分 の 状態 に は まったく 無益 な こうした 考え が 、 彼 の 頭 を 通り過ぎる の だっ た 。
 590ときどき 、 全身 の 疲れ の ため に もう 全然 聞い て いる こと が でき なく なり 、 うっかり し て 頭 を ドア に ぶつけ 、 すぐ に また きちんと 立てる の だっ た 。
 591というのは 、 そんな ふう に し て 彼 が 立てる どんな 小さな 物音 でも 、 隣室 に 聞こえ 、 みんな の 口 を つぐま せ て しまう の だ 。
 592「 また 何 を やっ て いる ん だろう 」 など と 、 しばらく し て 父親 が いう 。
 593どう も ドア の ほう に 向きなおっ て いる らしい 。
 594それから やっと 、 中断 さ れ た 会話 が ふたたび だんだん と 始め られ て いく 。
 595グレゴール は 十分 に 聞き取っ た の だ が ―― というのは 、 父親 は 説明 を する 場合 に 何 度 も くり返す の が つね だっ た 。 その 理由 は 一 つ に は 彼 自身 が すでに 長い あいだ こうした こと に 気 を 使わ なく なっ て い た から で あり 、 もう 一 つ に は 母親 が 一 回 聞い た だけ で は 万事 を すぐ のみこめ なかっ た から だ ―― 、 すべて の 不幸 にもかかわらず 、 なるほど まったく わずか ばかり の もの で は ある けれども 昔 の 財産 が まだ 残っ て い て 、 手 を つけ ない で おい た 利子 も その あいだ に 少し ばかり 増え た 、 という こと で あっ た 。
 596その 上 、 グレゴール が 毎月 家 に 入れ て い た 金 も ―― 彼 は 自分 で は ほんの 一 グルデン か 二 グルデン しか 取ら なかっ た ―― すっかり 費わ れ て しまっ た わけ で は なく 、 貯え られ て ちょっとした 金額 に なっ て い た 。
 597グレゴール は ドア の 背後 で 熱心 に うなずき 、 この 思いがけ なかっ た 用心 と 倹約 と を よろこん だ 。
 598ほんとう は この 余分 な 金 で 社長 に対する 父親 の 負債 を もっと 減らす こと が でき 、 この 地位 から 離れる こと が できる 日 も ずっと 近く なっ た こと だろう が 、 今 で は 父親 の 計らい は 疑い も なく いっそう よかっ た わけ だ 。
 599ところで 、 こんな 金 で は 家族 の 者 が 利息 で 生活 し て いける など という の に は まったく たり ない 。
 600おそらく 家族 を 一 年 か 、 せいぜい の ところ 二 年 ぐらい 支え て いく の に 十分 な だけ だろう 。
 601それ 以上 の もの で は なかっ た 。
 602つまり 、 ほんとう は 手 を つけ て は なら ない 、 そして まさか の とき の 用意 に 取っ て おか なけれ ば なら ない 程度 の 金額 に すぎ なかっ た 。
 603生活費 は かせが なけれ ば なら ない 。
 604ところで 、 父親 は 健康 だ が なにしろ 老人 で 、 もう 五 年間 も 全然 仕事 を せ ず 、 いずれ に し て も あまり 働ける という 自信 は ない 。
 605骨 は 折れ た が 成果 の あがら なかっ た 生涯 の 最初 の 休暇 で あっ た この 五 年 の あいだ に 、 すっかり ふとっ て しまっ て 、 その ため に 身体 も 自由 に 動か なく なっ て い た 。
 606そこで 母親 が 働か なけれ ば なら ない の だろう が 、 これ が 喘息もち で 、 家 の なか を 歩く の に さえ 骨 が 折れる 始末 で あっ て 、 一 日 おき に 呼吸困難 に 陥り 、 開い た 窓 の 前 の ソファ の 上 で 過ごさ なけれ ば なら ない 。
 607すると 妹 が かせが なけれ ば なら ない という わけ だ が 、 これ は まだ 十七 歳 の 子供 で あり 、 これ まで の 生活 で は ひどく 恵ま れ て 育っ て き た の だっ た 。
 608きれい な 服 を 着 て 、 たっぷり と 眠り 、 家事 の 手伝い を し 、 ささやか な 気ばらし に ときどき 加わり 、 何より も ヴァイオリン を 弾く 、 という 生活 の しかた だっ た 。
 609どうして こんな 妹 が かせぐ こと が できる だろう か 。
 610家族 の 話 が 金 を かせが なけれ ば なら ない という この こと に なる と 、 はじめ の うち は グレゴール は いつも ドア を 離れ て 、 ドア の そば に ある 冷たい 革 の ソファ に 身 を 投げる の だっ た 。
 611というのは 、 恥辱 と 悲しみ の あまり 身体 が かっと 熱く なる の だっ た 。
 612しばしば 彼 は その ソファ の 上 で 長い 夜 を あかし 、 一瞬 も 眠ら ず 、 ただ 何 時間 でも 革 を むしっ て いる の だっ た 。
 613あるいは 、 大変 な 労苦 も いとわ ず 、 椅子 を 一 つ 窓ぎわ へ 押し て いき 、 それから 窓 の 手すり に はい上がっ て 、 椅子 で 身体 を 支え た まま 窓 に よりかかっ て い た 。
 614以前 窓 から ながめ て いる とき に 感じ た 解放 さ れる よう な 気持 でも 思い出し て いる らしかっ た 。
 615というのは 、 実際 、 少し 離れ た 事物 も 一 日 一 日 と だんだん ぼんやり 見える よう に なっ て いっ て い た 。
 616以前 は しょっちゅう 見え て いまいましく て たまら なかっ た 向う側 の 病院 も 、 もう 全然 見え なく なっ て い た 。
 617静か な 、 しかし まったく 都会的 で ある シャルロッテ街 に 自分 が 住ん で いる の だ という こと を よく 知っ て い なかっ た ならば 、 彼 の 窓 から 見える の は 、 灰色 の 空 と 灰色 の 大地 と が 見わけ られ ない くらい に つながっ て いる 荒野 な の だ 、 と 思い かね ない 有様 だっ た 。
 618注意深い 妹 は 二 度 だけ 椅子 が 窓ぎわ に ある の に 気づい た に ちがい なかっ た が 、 それ から は 部屋 の 掃除 を し た あと で いつ でも 椅子 を きちんと 窓べ に 押し て やり 、 おまけ に その とき から は 内側 の 窓 も 開け放し て おい た 。
 619もし グレゴール が 妹 と 話す こと が でき 、 彼女 が 自分 の ため に し なけれ ば なら ない こうした すべて の こと に対して 礼 を いう こと が できる の で あっ たら 、 彼女 の 奉仕 を もっと 気軽 に 受ける こと が でき た だろう 。
 620ところが 、 彼 は それ が 苦しく て たまら なかっ た 。
 621妹 は むろん 、 いっさい の こと の つらい 思い を ぬぐい去ろ う と 努め て い た し 、 時 が たつ につれて むろん だんだん それ が うまく いく よう に なっ た の だ が 、 グレゴール も 時間 が たつ とともに いっさい を はじめ の ころ よりも ずっと 正確 に 見 て 取る よう に なっ た 。
 622妹 が 部屋 へ 足 を 踏み入れる だけ で 、 彼 に は 恐ろしく て なら なかっ た 。
 623ふだん は グレゴール の 部屋 を だれ に も 見せ まい と 気 を くばっ て いる の だ が 、 部屋 に 入っ て くる やいなや 、 ドア を 閉める 手間 さえ かけ よう と せ ず 、 まっすぐ に 窓 へ と 走りよっ て 、 まるで 息 が つまり そう だ と いわ ん ばかり の 恰好 で あわただしく 両手 で 窓 を 開き 、 まだ いくら 寒く て も しばらく 窓ぎわ に 立っ た まま で い て 、 深呼吸 する 。
 624こう やっ て 走っ て さわがしい 音 を 立てる こと で 、 グレゴール を 日 に 二 度 びっくり さ せる の だ 。
 625その あいだ じゅう 、 彼 は ソファ の 下 で ふるえ て い た 。
 626だが 彼 に は よく わかる の だ が 、 もし グレゴール が いる 部屋 で 窓 を 閉め 切っ て いる こと が できる もの ならば 、 きっと こんな こと は やり たく は ない の だ 。
 627ある とき 、 グレゴール の 変身 が 起っ て から 早く も 一 月 が たっ て い た し 、 妹 も もう グレゴール の 姿 を 見 て びっくり し て しまう かくべつ の 理由 など は なくなっ て い た の だ が 、 妹 は いつも よりも 少し 早く やってき て 、 グレゴール が 身動き も し ない で 、 ほんとう に おどかす よう な 恰好 で 身体 を 立て た まま 、 窓 から 外 を ながめ て いる 場面 に ぶつかっ た 。
 628妹 が 部屋 に 入っ て こ なかっ た として も 、 グレゴール にとって は 意外 で は なかっ たろ う 。
 629なにしろ そういう 姿勢 を 取っ て いる こと で 、 すぐ に 窓 を 開ける じゃま を し て い た わけ だ から だ 。
 630ところが 、 妹 は なか へ 入っ て こ ない ばかりか 、 うしろ へ 飛びのい て 、 ドア を 閉め て しまっ た 。
 631見知らぬ 者 ならば 、 グレゴール が 妹 の くる の を 待ちうかがっ て い て 、 妹 に かみつこ う と し て いる の だ 、 と 思っ た こと だろう 。
 632グレゴール は むろん すぐ ソファ の 下 に 身 を 隠し た が 、 妹 が また やってくる まで に は 正午 まで 待た ね ば なら なかっ た 。
 633その こと から 、 自分 の 姿 を 見る こと は 妹 に は まだ 我慢 が なら ない の だ し 、 これ から も 妹 に は ずっと 我慢 でき ない に ちがい ない 、 ソファ の 下 から 出 て いる ほんの わずか な 身体 の 部分 を 見 た だけ で も 逃げ出し たい くらい で 、 逃げ出し て いか ない の は よほど 自分 を 抑え て いる に ちがい ない の だ 、 と 彼 は はっきり 知っ た 。
 634妹 に 自分 の 姿 を 見せ ない ため に 、 彼 は ある 日 、 背中 に 麻布 を のせ て ソファ の 上 まで 運ん で いっ た 。
 635―― この 仕事 に は 四 時間 も かかっ た ――
 636そして 、 自分 の 身体 が すっかり 隠れ て しまう よう に 、 また 妹 が かがみこん で も 見え ない よう に し た 。
 637もし この 麻布 は 不必要 だ と 妹 が 思う ならば 、 妹 は それ を 取り払っ て しまう こと も できる だろう 。
 638というのは 、 身体 を こんな ふう に すっかり 閉じこめ て しまう こと は 、 グレゴール にとって なぐさみごと なんか で は ない から だ 。
 639ところが 、 妹 は 麻布 を その まま に し て おい た 。
 640おまけ に グレゴール が 一 度 頭 で 麻布 を 用心深く 少し ばかり 上げ て 、 妹 が この 新しい しかけ を どう 思っ て いる の か 見 よう と し た とき 、 妹 の 眼 に 感謝 の 色 さえ 見 て 取っ た よう に 思っ た の だっ た 。
 641最初 の 二 週間 に は 、 両親 は どう し て も 彼 の 部屋 に 入っ て くる こと が でき なかっ た 。
 642これ まで 両親 は 妹 を 役立たず の 娘 と 思っ て い た ので しばしば 腹 を 立て て い た が 、 今 の 妹 の 仕事ぶり を 完全 に みとめ て いる こと を 、 グレゴール は しばしば 聞い た 。
 643ところが 両親 は しばしば 、 妹 が グレゴール の 部屋 で 掃除 し て いる あいだ 、 二人 で 彼 の 部屋 の 前 に 待ちかまえ て い て 、 妹 が 出 て くる やいなや 、 部屋 の なか が どんな 様子 で ある か 、 グレゴール が 何 を 食べ た か 、 その とき 彼 が どんな 態度 を 取っ た か 、 きっと ちょっと 快方 へ 向い て いる の が 見 られ た の で ない か 、 など と 語っ て 聞か せ なけれ ば なら なかっ た 。
 644ところで 母親 の ほう は 比較的 早く グレゴール を 訪ね て み よう と 思っ た の だっ た が 、 父親 と 妹 と が まず いろいろ 理 に かなっ た 理由 を 挙げ て 母親 を 押しとどめ た 。
 645それら の 理由 を グレゴール は きわめて 注意深く 聞い て い た が 、 いずれ も まったく 正しい と 思っ た 。
 646ところが 、 あと に なる と 母親 を 力ずく で とどめ なけれ ば なら なかっ た 。
 647そして 、 とめ られ た 母親 が 「 グレゴール の ところ へ いか せ て ! あの 子 は わたし の かわいそう な 息子 な ん だ から ! わたし が あの 子 の ところ へ いか ない で は い られ ない という こと が 、 あんたたち に は わから ない の ? 」 と 叫ぶ とき に は 、 むろん 毎日 で は ない が おそらく 週 に 一 度 は 母親 が 入っ て き た ほう が いい の で は ない か 、 と グレゴール は 思っ た 。
 648なん と いっ て も 母親 の ほう が 妹 より は 万事 を よく 心得 て いる の だ 。
 649妹 は いくら けなげ と は いっ て も まだ 子供 で 、 結局 は 子供らしい 軽率さ から こんな に むずかしい 任務 を 引き受け て いる の だ 。
 650母親 に 会い たい という グレゴール の 願い は 、 まもなく かなえ られ た 。
 651昼 の あいだ は 両親 の こと を 考え て 窓ぎわ に は いく まい 、 と グレゴール は 考え て い た が 、 一 、 二 メートル四方 の 床 の 上 で は たいして はい廻る わけ に いか なかっ た し 、 床 の 上 に じっと し て いる こと は 夜なか で あっ て も 我慢 する こと が むずかしく 、 食べもの も やがて もう 少し も 楽しみ で は なく なっ て い た ので 、 気ばらし の ため に 壁 の 上 や 天井 を 縦横十文字 に はい廻る 習慣 を 身につけ て い た 。
 652とくに 上 の 天井 に ぶら下がっ て いる の が 好き だっ た 。
 653床 の 上 に じっと し て いる の と は まったく ちがう 。
 654息 が いっそう 自由 に つける し 、 軽い 振動 が 身体 の なか を 伝わっ て いく 。
 655そして 、 グレゴール が 天井 に ぶら下がっ て ほとんど 幸福 な 放心状態 に ある とき 、 脚 を 放し て 床 の 上 へ どすん と 落ち て 自分 で も 驚く こと が あっ た 。
 656だが 、 今 では むろん 以前 と は ちがっ て 自分 の 身体 を 自由 に する こと が でき 、 こんな 大きな 墜落 の とき でさえ けが を する こと は なかっ た 。
 657妹 は 、 グレゴール が 自分 で 考え出し た この 新しい なぐさみ に すぐ 気づき ―― 実際 、 彼 は はい廻る とき に 身体 から 出る 粘液 の 跡 を ところどころ に 残す の だっ た 、 ―― グレゴール が はい廻る の を 最大 の 規模 で 可能 に さ せ て やろ う という こと を 考え 、 その じゃま に なる 家具 、 ことに 何より も たんす と 机 と を 取り払お う と し た 。
 658ところが 、 その 仕事 は ひとり で は やれ なかっ た 。
 659父親 の 助け を 借り よう と は 思わ なかっ た し 、 女中 も きっと それ ほど 役 に は 立た ない だろう 。
 660というのは 、 この 十六 歳 ばかり の 少女 は 、 前 の 料理女 が ひま を 取っ て から けなげ に 我慢 し て い た が 、 台所 の 鍵 は たえず かけ て おい て 、 ただ 特別 に 呼ば れ た とき だけ 開ける だけ で よい という こと に し て くれ 、 と 願い出 て 、 許さ れ て い た の だっ た 。
 661そこで 妹 として は 、 父親 が い ない とき を 見計らっ て 母親 を つれ て いく より ほか に 方法 が なかっ た 。
 662興奮 し た よろこび の 声 を 挙げ て 母親 は やってき た が 、 グレゴール の 部屋 の ドア の 前 で 黙りこん で しまっ た 。
 663はじめ は むろん 妹 が 部屋 の なか が 万事 ちゃんと し て いる かどうか を 検分 し た が 、 つぎ に やっと 母親 を 入ら せ た 。
 664グレゴール は 大急ぎ で 麻布 を いっそう 深く 、 また いつも より しわ を たくさん つくっ て ひっかぶっ た 。
 665全体 は 実際 に ただ 偶然 ソファ の 上 に 投げ られ た 麻布 の よう に 見える だけ だっ た 。
 666グレゴール は 今度 も 、 麻布 の 下 で こっそり 様子 を うかがう こと を やめ なかっ た 。
 667今回 すぐ 母親 を 見る こと は 断念 し た 。
 668ただ 、 母親 が やってき た こと だけ を よろこん だ 。
 669「 いらっしゃい な 、 見え ない わ よ 」 と 、 妹 が いっ た 。
 670母親 の 手 を 引っ張っ て いる らしかっ た 。
 671二人 の かよわい 女 が 相当 重い 古たんす を 置き場所 から 動かし 、 無理 を する の で ない か と 恐れる 母親 の いましめ の 言葉 を 聞こ う と し ない で 妹 が たえず 仕事 の 大部分 を 自分 の 身 に 引き受け て いる 様子 を 、 グレゴール は 聞い て い た 。
 672ひどく 時間 が かかっ た 。
 673十五 分 も かかっ た 仕事 の あと で 、 母親 は たんす は やっぱり この 部屋 に 置い て おく ほう が いい の で ない か 、 と 言い 出し た 。
 674第一 に 、 重 すぎ て 、 二人 で 父親 の 帰っ て くる まで に 片づける こと は でき ない だろう 。
 675それで 部屋 の まんなか に たんす が 残る こと に なっ たら 、 グレゴール の 動き廻る の に じゃま に なる だろう 。
 676第二 に 、 家具 を 取り片づけ たら グレゴール が どう 思う こと か わかっ た もの で は ない 。
 677自分 は 今 の まま に し て おく ほう が いい よう に 思う 。
 678何 も ない 裸 の 壁 を ながめる と 、 胸 が しめつけ られる よう な 気 が する 。
 679そして 、 どうして グレゴール だって そんな 気持 が し ない はず が あろ う か 。
 680あの 子 は ずっと 部屋 の 家具 に 慣れ親しん で き た の だ から 、 がらんと し た 部屋 で は 見捨て られ て しまっ た よう な 気 が する だろう 。
 681「 それに 、 こんな こと を し たら 」 と 、 最後 に 母親 は 声 を 低め た 。
 682それ まで も 、 ほとんど ささやく よう に もの を いっ て 、 グレゴール が どこ に いる の か はっきり 知ら ない まま に 、 声 の 響き さえ も グレゴール に 聞か れる こと を 避け たい と 思っ て いる よう で あっ た 。
 683グレゴール が 人 の 言葉 を 聞きわける こと は でき ない 、 と 母親 は 確信 し て いる の だ 。
 684「 それに 、 こんな こと を し たら 、 まるで 家具 を 片づける こと によって 、 わたしたち が あの 子 の よく なる こと を まったく あきらめ て しまい 、 あの 子 の こと を かまわ ずに ほったらかし に し て いる という こと を 見せつける よう な もの じゃ ない かい ?
 685わたしたち が 部屋 を すっかり 以前 の まま に し て おく よう に 努め 、 グレゴール が また わたしたち の ところ へ もどっ て き た とき に 、 なんに も 変っ て い ない こと を 見 て 、 それ だけ たやすく それ まで の こと が 忘れ られる よう に し て おく こと が いちばん いい 、 と わたし は 思う よ 」
 686母親 の こうした 言葉 を 聞い て 、 直接 の 人間的 な 話しかけ が 自分 に 欠け て いる こと が 、 家族 の あいだ の 単調 な 生活 と 結びつい て 、 この 二 カ月 の あいだ に すっかり 自分 の 頭 を 混乱 さ せ て しまっ た に ちがい ない 、 と グレゴール は 知っ た 。
 687というのは 、 自分 の 部屋 が すっかり 空っぽ に さ れ た ほう が いい など と まじめ に 思う よう で は 、 そう と でも 考え なけれ ば ほか に 説明 の しよう が なかっ た 。
 688彼 は ほんとう に 、 先祖 伝来 の 家具 を いかに も 気持よく 置い て いる この 暖かい 部屋 を 洞窟 に 変える つもり な の だろう か 。
 689がらんどう に なれ ば むろん あらゆる 方向 に 障害 なく はい廻る こと が できる だろう が 、 しかし 自分 の 人間的 な 過去 を 同時 に たちまち すっかり 忘れ て しまう の で は なかろ う か 。
 690今 は すでに すっかり 忘れ よう と し て いる の で は ない だろう か 。
 691そして 、 長い あいだ 聞か なかっ た 母親 の 声 だけ が やっと 彼 の 心 を 正気 に もどし た の で は ある まい か 。
 692何一つ 取りのけ て は なら ない 。
 693みんな もと の まま に 残さ れ て い なけれ ば なら ない 。
 694家具 が 自分 の 状態 の 上 に 及ぼす いい 影響 という もの が なくて は なら ない 。
 695そして 、 たとい 家具 が 意味 も なく はい廻る じゃま に なっ て も 、 それ は 損害 で は なくて 、 大きな 利益 な の だ 。
 696ところが 、 妹 の 考え は 残念 な こと に ちがっ て い た 。
 697妹 は グレゴール に関する 件 の 話合い で は 両親 に対して 特別 事情 に 明るい 人間 として の 態度 を 取る こと に 慣れ て い た し 、 それ も まんざら 不当 と は いえ なかっ た 。
 698そこで 今 の 場合 に も 、 母親 の 忠告 は 妹 にとって 、 彼女 が ひとり で はじめ 動かそ う と 考え て い た たんす と 机 と を 片づける だけ で は なく 、 どう し て も なくて は なら ない ソファ は 例外 と し て 、 家具 全体 を 片づけ よう と 固執 する 十分 な 理由 で あっ た 。
 699妹 が こうした 要求 を もち出す よう に なっ た の は 、 むろん ただ 子供らしい 反抗心 と 、 最近 思いがけなく も 、 そして 苦労 し て やっと 手に入れ た 自信 と の ため ばかり で は なかっ た 。
 700実際 、 妹 は グレゴール が はい廻る の に は 広い 場所 が 必要 で 、 それ に反して 家具 は だれ も 見 て 取る こと が できる よう に ほんの 少し でも 役 に 立つ わけ で は ない 、 という こと を 見 て 取っ て い た の だっ た 。
 701だが 、 おそらく は 彼女 の 年ごろ の 少女らしい 熱中 も それ に 加わっ た の だろう 。
 702そういう 熱中しやすい 心 は 、 どんな 機会 に も 満足 を 見出そ う と 努め て いる の で あっ て 、 今 は この グレーテ という 少女 を通じて 、 グレゴール の 状態 を もっと 恐ろしい もの に し て 、 つぎ に 今 まで 以上 に グレゴール の ため に 働き たい という 誘惑 に から れ て いる の だ 。
 703というのは 、 がらんと し た 四方 の 壁 を グレゴール が まったく ひとり で 支配 し て いる よう な 部屋 に は 、 グレーテ 以外 の どんな 人間 でも けっして あえて 入っ て こ よう と は し ない だろう 。
 704そこで 妹 は 母親 の 忠告 によって 自分 の 決心 を ひるがえさ せ られ たり し て は い なかっ た 。
 705母親 は この 部屋 で も もっぱら 不安 の ため に おろおろ し て いる よう に 見え た が 、 まもなく 黙っ て しまい 、 たんす を 運び出す こと で 力 の 限り 妹 を 手伝っ て い た 。
 706ところで 、 たんす は やむをえない と あれ ば グレゴール として も なし で すま せる こと が でき た が 、 机 の ほう は どう し て も 残さ なけれ ば なら ない 。
 707二人 の 女 が はあはあ 言い ながら たんす を 押し て 部屋 を 出 て いく やいなや 、 グレゴール は ソファ の 下 から 頭 を 突き出し 、 どう やっ たら 用心深く 、 できるだけ おだやか に この 取り片づけ に 干渉 できる か を 見 よう と し た 。
 708だが 、 あいにく 、 はじめ に もどっ て き た の は 母親 だっ た 。
 709グレーテ の ほう は 隣室 で たんす に しがみつき 、 それ を ひとり で あちこち と ゆすっ て い た が 、 むろん たんす の 位置 を 動かす こと は でき なかっ た 。
 710だが 、 母親 は グレゴール の 姿 を 見る こと に 慣れ て い ない 。
 711姿 を 見せ たら 、 母親 を 病気 に し て しまう かも しれ ない 。
 712そこで グレゴール は 驚い て あとしざり し て ソファ の 別 な はし まで 急い で いっ た 。
 713だが 、 麻布 の 前 が 少し ばかり 動く こと を 妨げる こと は もう でき なかっ た 。
 714それ だけ で 母親 の 注意 を ひく の に は 十分 だっ た 。
 715母親 は ぴたり と 足 を とめ 、 一瞬 じっと 立っ て い た が 、 つぎ に グレーテ の ところ へ もどっ て いっ た 。
 716実 の ところ 何 も 異常 な こと が 起っ て いる わけ で は ない 、 ただ 一 つ 二 つ の 家具 が 置き変え られる だけ だ 、 と グレゴール は 何 度 か 自分 に 言い聞かせ た にもかかわらず 、 彼 は まもなく みとめ ない わけ に は いか なく なっ た の だ が 、 この 女たち の 出 たり 入っ たり 、 彼女ら の 小さな かけ声 、 床 の 上 で 家具 の きしむ 音 、 それら は まるで 四方 から 数 を 増し て いく 大群集 の よう に 彼 に 働きかけ 、 頭 と 脚 と を しっかと ちぢめ て 身体 を 床 に ぴったり と つけ て い た けれども 、 おれ は もう こうした こと の すべて を 我慢 でき なく なる だろう 、 と どう し て も 自分 に 言い聞かせ ない で は い られ なく なっ た 。
 717女たち は 彼 の 部屋 を 片づけ て いる の だ 。
 718彼 にとって 親しかっ た いっさい の もの を 取り上げる の だ 。
 719糸のこ や その ほか の 道具類 が 入っ て いる たんす は 、 二人 の 手 で もう 運び出さ れ て しまっ た 。
 720今度 は 、 床 に しっかと めりこん で いる 机 を ぐらぐら 動かし て いる 。
 721彼 は 商科大学 の 学生 として 、 中学校 の 生徒 として 、 いや それ ばかり で なく 小学校 の 生徒 として 、 あの 机 の 上 で 宿題 を やっ た もの だっ た 。
 722―― もう 実際 、 二人 の 女たち の 善意 の 意図 を ためし て いる ひま なんか ない の だ 。
 723それに 彼 は 二人 が いる こと など は ほとんど 忘れ て い た 。
 724というのは 、 二人 は 疲れ て しまっ た ため に もう 無言 で 立ち働い て い て 、 彼女たち の どたばた いう 重い 足音 だけ しか 聞こえ なかっ た 。
 725そこで 彼 は はい出 て いき ―― 女たち は ちょうど 隣室 で 少し ばかり 息 を 入れ よう と し て 机 に よりかかっ て いる ところ だっ た ―― 進む 方向 を 四 度 変え た が 、 まず 何 を 救う べき か 、 ほんとう に わから なかっ た 。
 726その とき 、 ほか は すっかり がらんと し て しまっ た 壁 に 、 すぐ 目立つ よう に 例の 毛皮ずくめ の 貴婦人 の 写真 が かかっ て いる の を 見 た 。
 727そこで 、 急い で はい上がっ て いき 、 額 の ガラス に ぴたりと 身体 を 押しつけ た 。
 728ガラス は しっかり と 彼 の 身体 を ささえ 、 彼 の 熱い 腹 に 快感 を 与え た 。
 729少なくとも 、 グレゴール が 今 こう やっ て すっかり 被い隠し て いる この 写真 だけ は きっと だれ も もち去り は す まい 。
 730彼 は 女たち が もどっ て くる の を 見 よう と し て 、 居間 の ドア の ほう へ 頭 を 向け た 。
 731母 と 妹 と は それほど 休息 を 取っ て は い ない で 、 早く も もどっ て き た 。
 732グレーテ は 母親 の 身体 に 片腕 を 廻し 、 ほとんど 抱き運ぶ よう な 恰好 だっ た 。
 733「 それじゃ 、 今度 は 何 を もっ て いき ましょ う 」 と 、 グレーテ は いっ て 、 あたり を 見廻し た 。
 734その とき 、 彼女 の まなざし と 壁 の 上 に いる グレゴール の まなざし と が 交叉 し た 。
 735きっと ただ 母親 が この 場 に いる という だけ の 理由 で 度 を 失わ ない よう に 気 を 取りなおし た の だろう 。
 736母親 が あたり を 見廻さ ない よう に 、 妹 は 顔 を 母親 の ほう に 曲げ て 、 つぎ の よう に いっ た 。
 737とはいっても 、 ふるえ ながら 、 よく 考え て も み ない で いっ た 言葉 だっ た 。
 738「 いらっしゃい 、
 739ちょっと 居間 に もどら ない ? 」
 740グレーテ の 意図 は グレゴール に は 明らか で あっ た 。
 741母親 を 安全 な ところ へ つれ出し 、 それから 彼 を 壁 から 追い払お う という の だ 。
 742だが 、 そんな こと を やっ て みる が いい !
 743彼 は 写真 の 上 に 坐りこん で 、 渡し は し ない 。
 744それどころか 、 グレーテ の 顔 めがけ て 飛びつこ う という 身構え だ 。
 745ところが 、 グレーテ が そんな こと を いっ た こと が 母親 を ますます 不安 に し て しまっ た 。
 746母親 は わき へ よっ て 、 花模様 の 壁紙 の 上 に 大きな 褐色 の 一 つ の 斑点 を みとめ た 。
 747そして 、 自分 の 見 た もの が グレゴール だ と ほんとう に 意識 する より 前 に 、 あらあらしい 叫び声 で 「 ああ 、 ああ ! 」 と いう なり 、 まるで いっさい を 放棄 する か の よう に 両腕 を 拡げ て ソファ の 上 に 倒れ て しまい 、 身動き も し なく なっ た 。
 748「 グレゴール ったら ! 」 と 、 妹 は 拳 を 振り上げ 、 はげしい 眼つき で 叫ん だ 。
 749これ は 変身 以来 、 妹 が 彼 に 向っ て 直接 いっ た 最初 の 言葉 だっ た 。
 750妹 は 母親 を 気絶 から 目ざめ させる ため の 気つけ薬 を 何 か 取り に 隣室 へ かけ て いっ た 。
 751グレゴール も 手伝い たかっ た 。
 752―― 写真 を 救う に は まだ 余裕 が あっ た ――
 753だが 、 彼 は ガラス に しっかと へばりつい て い て 、 身体 を 引き離す ため に は 無理 し なけれ ば なら なかっ た 。
 754それから 自分 も 隣室 へ 入っ て いっ た 。
 755まるで 以前 の よう に 妹 に 何 か 忠告 を 与え て やれる と 、 いわ ん ばかり で あっ た 。
 756だが 、 何 も やれ ない で むなしく 妹 の うしろ に 立っ て い なけれ ば なら なかっ た 。
 757いろいろ 小壜 を ひっかき廻し て い た 妹 は 、 振り返っ て み て 、 また びっくり し た 。
 758壜 が 床 の 上 に 落ち て 、 くだけ た 。
 759一 つ の 破片 が グレゴール の 顔 を 傷つけ た 。
 760何 か 腐蝕性 の 薬品 が 彼 の 身体 の まわり に 流れ た 。
 761グレーテ は 長い こと そこ に とどまっ て は い ない で 、 手 に もてる だけ 多く の 小壜 を もっ て 、 母親 の ところ へ かけ て いっ た 。
 762ドア は 足 で ぴしゃり と 閉め た 。
 763グレゴール は 今 は 母親 から 遮断 さ れ て しまっ た 。
 764その 母親 は 彼 の 罪 によって おそらく ほとんど 死に そう に なっ て いる の だ 。
 765ドア を 開け て は なら なかっ た 。
 766自分 が 入っ て いく こと によって 、 母親 の そば に い なけれ ば なら ない 妹 を 追い立て たく は なかっ た 。
 767今 は 待っ て いる より ほか に なん の 手だて も なかっ た 。
 768そして 、 自責 と 心配 と に 駆り立て られ て 、 はい廻り 始め 、 すべて の もの の 上 を はっ て いっ た 。
 769壁 の 上 も 家具 や 天井 の 上 も はっ て 歩き 、 とうとう 絶望 の うち に 、 彼 の まわり の 部屋 全体 が ぐるぐる 廻り 始め た とき に 、 大きな テーブル の 上 に どたり と 落ち た 。
 770ちょっと ばかり 時 が 流れ た 。
 771グレゴール は 疲れ 果て て そこ に 横たわっ て い た 。
 772あたり は 静まり返っ て いる 。
 773きっと いい しるし な の だろう 。
 774その とき 、 玄関 の ベル が 鳴っ た 。
 775女中 は むろん 台所 に 閉じこめ られ て いる ので 、 グレーテ が 開け なけれ ば なら なかっ た 。
 776父親 が 帰っ て き た の だっ た 。
 777「 何 が 起っ た ん だ ? 」 という の が 彼 の 最初 の 言葉 だっ た 。
 778グレーテ の 様子 が きっと すべて を 物語っ て いる に ちがい なかっ た 。
 779グレーテ は 息苦し そう な 声 で 答え て い た が 、 きっと 顔 を 父親 の 胸 に あて て いる らしい 。
 780「 お母さん が 気絶 し た の 。
 781でも もう よく なっ た わ 。
 782グレゴール が はい 出し た の 」
 783「 そう なる だろう と 思っ て い た 」 と 、 父親 が いっ た 。
 784「 わし は いつも お前たち に いっ た のに 、 お前たち 女 は いう こと を 聞こ う と し ない から だ 」
 785父親 が グレーテ の あまり に 手短か な 報告 を 悪く 解釈 し て 、 グレゴール が 何 か 手荒 な こと を やっ た もの と 受け取っ た こと は 、 グレゴール に は 明らか で あっ た 。
 786その ため に 、 グレゴール は 今度 は 父親 を なだめ よう と し なけれ ば なら なかっ た 。
 787というのは 、 彼 に は 父親 に 説明 し て 聞か せる ひま も なけれ ば 、 また そんな こと が できる はず も ない の だ 。
 788そこで 自分 の 部屋 の ドア の ところ へ のがれ て いき 、 それ に ぴったり へばりつい た 。
 789これ で 、 父親 は 玄関 の 間 から こちら へ 入っ て くる とき に 、 グレゴール は 自分 の 部屋 へ すぐ もどろ う という きわめて 善良 な 意図 を もっ て いる という こと 、 だから 彼 を 追いもどす 必要 は なく 、 ただ ドア を 開け て やり さえ すれ ば すぐ に 消え て い なく なる だろう という こと を 、 ただちに 見 て 取る こと が できる はず だ 。
 790しかし 、 父親 は こうした 微妙 な こと に 気づく よう な 気分 に は なっ て い なかっ た 。
 791入っ て くる なり 、 まるで 怒っ て も いれ ば よろこん で も いる という よう な 調子 で 「 ああ ! 」 と 叫ん だ 。
 792グレゴール は 頭 を ドア から 引っこめ て 、 父親 の ほう に 頭 を もたげ た 。
 793父親 が 今 突っ立っ て いる よう な 姿 を これ まで に 想像 し て み た こと は ほんとう に なかっ た 。
 794とはいっても 、 最近 で は 彼 は 新しい やりかた の はい廻る 動作 に ばかり 気 を 取ら れ て 、 以前 の よう に 家 の なか の ほか の できごと に 気 を 使う こと を おこたっ て い た の で あり 、 ほんとう は 前 と は ちがっ て しまっ た 家 の 事情 に ぶつかっ て も 驚か ない だけ の 覚悟 が でき て い なけれ ば なら ない ところ だっ た 。
 795それ は そう と し て も 、 これ が まだ 彼 の 父親 な の だろう か 。
 796以前 グレゴール が 商売 の 旅 に 出かけ て いく とき 、 疲れ た よう に ベッド に 埋まっ て 寝 て い た 父 、 彼 が 帰っ て き た 晩 に は 寝巻 の まま の 姿 で 安楽椅子 に もたれ て 彼 を 迎え た 父 、 起き上がる こと は まったく でき ずに 、 よろこび を 示す の に ただ 両腕 を 上げる だけ だっ た 父 、 年 に 一 、 二 度 の 日曜日 や 大きな 祭日 に まれ に いっしょ に 散歩 に 出かける とき に は 、 もともと ゆっくり と 歩く 母親 と グレゴール と の あいだ に 立っ て 、 この 二人 よりも もっと のろのろ と 歩き 、 古い 外套 に くるまり 、 いつ でも 用心深く 身体 に 当て た 撞木杖 を たより に 難儀 し ながら 歩い て いき 、 何 か いお う と する とき に は 、 ほとんど いつ でも 立ちどまっ て 、 つれ の 者たち を 自分 の 身 の まわり に 集め た 父 、 あの 老いこん だ 父親 と この 眼 の 前 の 人物 と は 同じ 人間 な の だろう か 。
 797以前 と ちがっ て 、 今 で は きちんと 身体 を 起こし て 立っ て いる 。
 798銀行 の 小使たち が 着る よう な 、 金ボタン の つい た ぴったり 身体 に 合っ た 紺色 の 制服 を 着 て いる 。
 799上衣 の 高く て ぴんと 張っ た 襟 の 上 に は 、 力強い 二重顎 が 拡がっ て いる 。
 800毛深い 眉 の 下 で は 黒い 両眼 の 視線 が 元気 そう に 注意深く 射し出 て いる 。
 801ふだん は ぼさぼさ だっ た 白髪 は ひどく きちんと てかてか な 髪形 に なでつけ て いる 。
 802この 父親 は おそらく 銀行 の もの だ と 思わ れる 金モール の 文字 を つけ た 制帽 を 部屋 いっぱい に 弧 を 描か せ て ソファ の 上 に 投げ 、 長い 制服 の 上衣 の すそ を はねのけ 、 両手 を ズボン の ポケット に 突っこん で 、 にがにがしい 顔 で グレゴール の ほう へ 歩ん で き た 。
 803何 を し よう と いう の か 、 きっと 自分 で も わから ない の だ 。
 804ともかく 、 両足 を ふだん と は ちがう くらい 高く 上げ た 。
 805グレゴール は 彼 の 靴 の かかと が ひどく 大きい こと に びっくり し て しまっ た 。
 806だが 、 びっくり し た まま で は い られ なかっ た 。
 807父親 が 自分 に対して は ただ 最大 の きびしさ こそ ふさわしい の だ と 見なし て いる という こと を 、 彼 は 新しい 生活 が 始っ た 最初 の 日 から よく 知っ て い た 。
 808そこで 父親 から 逃げ出し て 、 父親 が 立ちどまる と 自分 も とまり 、 父親 が 動く と また 急い で 前 へ 逃がれ て いっ た 。
 809こうして 二人 は 何 度 か 部屋 を ぐるぐる 廻っ た が 、 何 も 決定的 な こと は 起こら ない し 、 その 上 、 そうした 動作 の 全体 が ゆっくり し た テンポ で 行わ れる ので 追跡 し て いる よう な 様子 は 少し も なかっ た 。
 810そこで グレゴール も 今 の ところ は 床 の 上 に い た 。
 811とくに 彼 は 、 壁 や 天井 へ 逃げ たら 父親 が かくべつ の 悪意 を 受け取る だろう 、 と 恐れ た の だっ た 。
 812とはいえ 、 こう やっ て 走り廻る こと も 長く は つづか ない だろう 、 と 自分 に いっ て 聞か せ ない で は い られ なかっ た 。
 813というのは 、 父親 が 一 歩 で 進む ところ を 、 彼 は 数限りない 動作 で 進ん で いか なけれ ば なら ない の だ 。
 814息切れ が 早く も はっきり と 表われ 始め た 。
 815以前 に も それ ほど 信頼 の 置ける 肺 を もっ て い た わけ で は なかっ た 。
 816こうして 全力 を ふるっ て 走ろ う と し て よろよろ はい廻っ て 、 両眼 も ほとんど 開け て い なかっ た 。
 817愚か に も 走る 以外 に 逃げ られる 方法 は 全然 考え なかっ た 。
 818四方 の 壁 が 自分 に は 自由 に 歩ける の だ という こと も 、 もう ほとんど 忘れ て しまっ て い た 。
 819とはいっても 、 壁 は ぎざぎざ や とがっ た ところ が たくさん ある 念入り に 彫刻 さ れ た 家具 で さえぎら れ て い た 。
 820―― その とき 、 彼 の すぐ そば に 、 何 か が やんわり と 投げ られ て 落ち て き て 、 ごろごろ と ころがっ た 。
 821それ は リンゴ だっ た 。
 822すぐ 第二 の が 彼 の ほう に 飛ん で き た 。
 823グレゴール は 驚き の あまり 立ちどまっ て しまっ た 。
 824これ 以上 走る こと は 無益 だっ た 。
 825というのは 、 父親 は 彼 を 爆撃 する 決心 を し た の だっ た 。
 826食器台 の 上 の 果物皿 から リンゴ を 取っ て ポケット に いっぱい つめ 、 今 の ところ は そう きちんと 狙い を つけ ずに リンゴ を つぎつぎ に 投げ て くる 。
 827これら の 小さな 赤い リンゴ は 、 まるで 電気 に かけ られ た よう に 床 の 上 を ころげ廻り 、 ぶつかり合っ た 。
 828やわらか に 投げ られ た 一 つ の リンゴ が グレゴール の 背中 を かすめ た が 、 別に 彼 の 身体 を 傷つけ も し ない で 滑り落ち た 。
 829ところが 、 すぐ その あと から 飛ん で き た の が まさに グレゴール の 背中 に めりこん だ 。
 830突然 の 信じ られ ない 痛み は 場所 を 変える こと で 消える だろう と でも いう よう に 、 グレゴール は 身体 を 前 へ ひきずっ て いこ う と し た が 、 まるで 釘づけ に さ れ た よう に 感じ られ 、 五感 が 完全 に 混乱 し て のび て しまっ た 。
 831だんだん かすん で いく 最後 の 視線 で 、 自分 の 部屋 が 開き 、 叫ん で いる 妹 の 前 に 母親 が 走り出 て き た 。
 832下着姿 だっ た 。
 833妹 が 、 気絶 し て いる 母親 に 呼吸 を 楽 に し て やろ う と し て 、 服 を 脱が せ た の だっ た 。
 834母親 は 父親 を めがけ て 走りよっ た 。
 835その 途中 、 とめ金 を はずし た スカート など が つぎつぎ に 床 に すべり落ち た 。
 836その スカート など に つまずき ながら 父親 の ところ へ かけよっ て 、 父親 に 抱きつき 、 父親 と ぴったり 一 つ に なっ て ―― そこ で グレゴール の 視力 は もう 失わ れ て しまっ た ―― 両手 を 父 の 後頭部 に 置き 、 グレゴール の 命 を 助け て くれる よう に と 頼む の だっ た 。
 837グレゴール が 一 月 以上 も 苦しん だ この 重傷 は ―― 例の リンゴ は 、 だれ も それ を あえて 取り除こ う と し なかっ た ので 、 眼 に 見える 記念 として 肉 の なか に 残さ れ た まま に なっ た ―― 父親 に さえ 、 グレゴール は その 現在 の 悲しむ べき 、 また いとわしい 姿 にもかかわらず 、 家族 の 一員 で あっ て 、 そんな 彼 を 敵 の よう に 扱う べき で は なく 彼 に対して は 嫌悪 を じっと のみこん で 我慢 する こと 、 ただ 我慢 する こと だけ が 家族 の 義務 の 命じる ところ な の だ 、 という こと を 思い起こさ せ た らしかっ た 。
 838ところで 、 たとい 今 グレゴール が その 傷 の ため に 身体 を 動かす こと が おそらく 永久 に でき なく なっ て しまっ て 、 今 の ところ は 部屋 の なか を 横切っ て はい歩く ため に まるで 年老い た 傷病兵 の よう に とても 長い 時間 が かかる と いっ て も ―― 高い ところ を はい廻る など という こと は とても 考える こと が でき なかっ た ―― 、 自分 の 状態 が こんな ふう に 悪化 し た かわり に 、 彼 の 考え によれば つぎ の 点 で 十分 に つぐなわ れる の だ 。
 839つまり 、 彼 が つい 一 、 二 時間 前 に は いつ でも じっと 見守っ て い た 居間 の ドア が 開け られ 、 その ため に 彼 は 自分 の 部屋 の 暗がり の なか に 横たわっ た まま 、 居間 の ほう から は 姿 が 見え ず 、 自分 の ほう から は 明り を つけ た テーブル の まわり に 集っ て いる 家族 全員 を 見 たり 、 また いわば 公認 さ れ て 彼ら の 話 を 以前 と は まったく ちがっ た ふう に 聞い たり し て も よい という こと に なっ た の だっ た 。
 840むろん 、 聞こえ て くる の は もはや 以前 の よう な にぎやか な 会話 で は なかっ た 。
 841グレゴール は 以前 は 小さな ホテル の 部屋 で 、 疲れ きっ て しめっぽい 寝具 の なか に 身体 を 投げ なけれ ば なら ない とき に は 、 いつも いくら か の 渇望 を もっ て そうした 会話 の こと を 考え た もの だっ た 。
 842ところが 今 では 、 たいてい は ひどく 静か に 行わ れる だけ だ 。
 843父親 は 夕食 の あと すぐ に 彼 の 安楽椅子 の なか で 眠りこん で しまう 。
 844母親 と 妹 と は たがい に いましめ合っ て 静か に し て いる 。
 845母親 は 明り の 下 に ずっと 身体 を のり出し て 流行品 を 扱う 洋品店 の ため の しゃれ た 下着類 を ぬっ て いる 。
 846売場女店員 の 地位 を 得 た 妹 は 、 晩 に は 速記 と フランス語 と の 勉強 を し て いる 。
 847おそらく あと に なっ たら もっと いい 地位 に ありつく ため な の だろう 。
 848ときどき 父親 が 目 を さます 。
 849そして 、 自分 が 眠っ て い た こと を 知ら ない か の よう に 、 「 今晩 も ずいぶん 長い こと 裁縫 を し て いる ね ! 」 と いっ て 、 たちまち また 眠りこむ 。
 850すると 、 母親 と 妹 と は たがい に 疲れ た 微笑 を 交わす 。
 851父親 は 一種 の 強情さ で 、 家 で も 自分 の 小使 の 制服 を 脱ぐ こと を 拒ん で い た 。
 852そして 、 寝巻 は 役に立た ずに 衣裳かぎ に ぶら下がっ て いる が 、 父親 は まるで いつ でも 勤務 の 用意 が でき て いる か の よう に 、 また 家 で も 上役 の 声 を 待ちかまえ て いる か の よう に 、 すっかり 制服 を 着 た まま で 自分 の 席 で うたた寝 し て いる 。
 853その ため 、 はじめ から 新しく は なかっ た この 制服 は 、 母親 と 妹 と が いくら 手入れ を し て も 清潔さ を 失っ て しまっ た 。
 854グレゴール は しばしば 一 晩 じゅう 、 いつも 磨か れ て いる 金ボタン で 光っ て は いる が 、 いたる ところ に しみ が ある この 制服 を ながめ て い た 。
 855そんな 服 を 着 た まま 、 この 老人 は ひどく 窮屈 に 、 しかし 安らか に 眠っ て いる の だっ た 。
 856時計 が 十 時 を 打つ やいなや 、 母親 は 低い 声 で 父親 を 起こし 、 それから ベッド に いく よう に 説得 し よう と 努める 。
 857というのは 、 ここ で やる の は ほんとう の 眠り で は なく 、 六 時 に 勤め に いか なけれ ば なら ない 父親 に は ほんとう の 眠り が ぜひとも 必要 な の だ 。
 858しかし 、 小使 に なっ て から 彼 に 取りつい て しまっ た 強情さ で 、 いつ でも もっと 長く テーブル の そば に いる の だ と 言い張る の だ が 、 その くせ きまっ て 眠りこん で しまう 。
 859その 上 、 大骨 を 折っ て やっと 父親 に 椅子 と ベッド と を 交換 さ せる こと が できる の だっ た 。
 860すると 母親 と 妹 と が いくら 短 な いましめ の 言葉 で せっつい て も 、 十五 分 ぐらい は ゆっくり と 頭 を 振り 、 眼 を つぶっ た まま で 、 立ち上がろ う と し ない 。
 861母親 は 父親 の 袖 を 引っ張り 、 なだめる よう な 言葉 を 彼 の 耳 に ささやき 、 妹 は 勉強 を 捨て て 母 を 助け よう と する の だ が 、 それ も 父親 に は ききめ が ない 。
 862彼 は いよいよ 深く 椅子 に 沈みこん で いく 。
 863女たち が 彼 の わき の 下 に 手 を 入れる と やっと 、 眼 を 開け 、 母親 と 妹 と を こもごも ながめ て 、 いつ でも いう の だ 。
 864「 これ が 一生 さ 。
 865これ が おれ の 晩年 の 安らぎ さ 」
 866そして 、 二人 の 女 に 支え られ て 、 まるで 自分 の 身体 が 自分自身 にとって 最大 の 重荷 で も ある か の よう に ものものしい 様子 で 立ち上がり 、 女たち に ドア の ところ まで つれ て いっ て もらい 、 そこ で もう いい という 合図 を し 、 それから やっと 今度 は 自分 で 歩い て いく 。
 867一方 、 母親 は 針仕事 の 道具 を 、 妹 は ペン を 大急ぎ で 投げ出し 、 父親 の あと を 追っ て いき 、 さらに 父親 の 世話 を する の だ 。
 868この 働き すぎ て 疲れ きっ た 家庭 で 、 だれ が どう し て も 必要 やむをえない こと 以上 に グレゴール なんか に 気 を 使う ひま を もっ て いる だろう か 。
 869家政 は いよいよ 切りつめ られ て いっ た 。
 870女中 も もう ひま を 出さ れ て い た 。
 871頭 の まわり に ぼさぼさ の 白髪 を なびか せ て いる 骨ばっ た 大女 が 、 朝 と 晩 と に やってき て 、 いちばん むずかしい 仕事 を やる よう に なっ た 。
 872ほか の こと は すべて 、 母親 が たくさん の 針仕事 の かたわら 片づけ て い た 。
 873その 上 、 以前 に は 母親 と 妹 と が 遊びごと や 祝い が ある と 有頂天 に なっ て 身につけ て い た さまざま な 家宝 の 装飾品 も 、 晩 に みんな が 集っ て 売値 の 相談 を し て いる の を グレゴール が 聞い た ところ によると 、 売ら れ て しまっ た 。
 874だが 、 最大 の 嘆き は いつ でも 、 現在 の 事情 にとって は 広 すぎる この 住居 を 立ち退く こと が でき ない という こと で あっ た 。
 875なぜなら 、 グレゴール を どうやって 引っ越さ せ た もの か 、 考えつく こと が でき ない から だっ た 。
 876しかし グレゴール は 、 引越し を 妨げ て いる もの は ただ 自分 に対する 顧慮 だけ で は ない の だ 、 という こと を よく 見抜い て い た 。
 877というのは 、 彼 の こと なら 、 一 つ 二 つ 空気孔 の つい た 適当 な 箱 に 入れ て たやすく 運ぶ こと が できる はず だっ た 。
 878この 家族 の 移転 を 主として 妨げ て いる の は 、 むしろ 完全 な 絶望感 で あり 、 親威 や 知人 の 仲間 の だれ一人 として 経験 し なかっ た ほど に 自分たち が 不幸 に 打ちのめさ れ て いる という 思い で あっ た 。
 879世間 が 貧しい 人びと から 要求 し て いる もの を 、 家族 の 者たち は 極限 まで やり つくし た 。
 880父親 は つまら ぬ 銀行員たち に 朝食 を もっ て いっ て やる し 、 母親 は 見知らぬ 人たち の 下着 の ため に 身 を 犠牲 に し て いる し 、 妹 は お客たち の 命令 の まま に 売台 の うしろ で あちこち かけ廻っ て いる 。
 881しかし 、 家族 の 力 は もう 限度 まで き て いる の だ 。
 882そして 、 母親 と 妹 と が 、 父親 を ベッド へ つれ て いっ た あと で もどっ て き て 、 仕事 の 手 を 休め て たがい に 身体 を よせ 合い 、 頬 と 頬 と が ふれ ん ばかり に 坐っ て いる とき 、 また 、 今度 は 母親 が グレゴール の 部屋 を 指さし て 「 グレーテ 、 ドア を 閉め て ちょうだい 」 と いう とき 、 そして 二人 の 女 が 隣室 で よせ た 頬 の 涙 を まぜ 合っ たり 、 あるいは もう 涙 も 出 ない で テーブル を じっと 見つめ て いる あいだ 、 グレゴール の ほう は 、 ふたたび 暗闇 の なか に い て 、 その 背中 の 傷 は 今 はじめて 受け た もの の よう に 痛み 始める の だっ た 。
 883夜 も 昼 も グレゴール は ほとんど 一睡 も し ない で 過ごし た 。
 884ときどき 彼 は 、 この つぎ ドア が 開い たら 家族 の いっさい の こと は まったく 以前 の よう に また 自分 の 手 に 引き受け て やろ う 、 と 考え た 。
 885彼 の 頭 の なか に は 、 久しぶり に また 社長 や 支配人 、 店員たち や 見習たち 、 ひどく 頭 の 鈍い 小使 、 別 な 店 の 二 、 三 の 友人たち 、 田舎 の ある ホテル の 客室づき女中 、 楽しい かりそめ の 思い出 、 彼 が まじめ に 、 しかし あまり に のんびり 求婚 し た ある 帽子店 の レジスター係 の 女の子 、 そんな もの が つぎつぎ に 現われ た 。
 886―― そうした すべて が 見知らぬ 人びと や もう 忘れ て しまっ た 人びと の あいだ に まぎれ て 現われ て くる 。
 887しかし 、 彼 と 彼 の 家族 と を 助け て は くれ ない で 、 みんな 近づき がたい 人びと で あり 、 彼ら が 姿 を 消す と 、 グレゴール は うれしく 思う の だっ た 。
 888ところが 、 つぎ に 家族 の こと なんか 心配 する 気分 に なれ なく なる 。
 889ただ 彼ら の 世話 の いたらなさ に対する 怒り だけ が 彼 の 心 を みたし て しまう 。
 890何 が 食べ たい の か も 全然 考え られ ない にもかかわらず 、 少し も 腹 は 空い て い なく とも 自分 に ふさわしい もの を なん で あろ う と 取る ため に 、 どう やっ たら 台所 へ いく こと が できる か 、 など と いろいろ 計画 を 立て て みる 。
 891今 は もう 何 を やっ たら グレゴール に かくべつ 気に入る だろう か という よう な こと は 考え も し ない で 、 妹 は 朝 と 正午 に 店 へ 出かけ て いく 前 に 、 何 か あり合せ の 食べもの を 大急ぎ で グレゴール の 部屋 へ 足 で 押しこむ 。
 892夕方 に は 、 その 食べもの が おそらく ほんの 少し 味わわ れ た か 、 あるいは ―― そういう 場合 が いちばん 多かっ た が ―― まったく 手 を つけ て ない か 、 という こと に は おかまいなし で 、 箒 で 一掃き し て 部屋 の 外 へ 出し て しまう 。
 893部屋 の 掃除 は 、 今 では いつも 妹 が 夕方 に やる の だ が 、 もう これ 以上 早く は すま せ られ ない という ほど 粗末 に やる の だ 。
 894汚れ た すじ が 四方 の 壁 に 沿っ て 引か れ て ある し 、 そこかしこ に は ごみ と 汚れもの と の かたまり が 横たわっ て いる 始末 だ 。
 895はじめ の うち は 、 妹 が やってくる と 、 グレゴール は そうした とくに 汚れ の 目立つ 片隅 の 場所 に 坐りこん で 、 そうした 姿勢 で いわば 妹 を 非難 し て やろ う と し た 。
 896しかし 、 きっと 何 週間 も そこ に い て み た ところ で 、 妹 が あらためる という こと は ない だろう 。
 897妹 も 彼 と まったく 同じ くらい に 汚れ を 見 て いる の だ が 、 妹 は それ を ほっ て おこ う と 決心 し た の だ 。
 898その 場合 に 妹 は 、 およそ 家族 全員 を とらえ て しまっ た 、 これ まで の 彼女 に は 見 られ なかっ た よう な 敏感さ で 、 グレゴール の 部屋 の 掃除 は 今 でも 自分 の 仕事 で ある という 点 を 監視 する の だっ た 。
 899ある とき 、 母親 が グレゴール の 部屋 の 大掃除 を 企て た 。
 900母親 は ただ 二 、 三 杯 の バケツ の 水 を 使う こと だけ で その 掃除 を やり 終える こと が でき た 。
 901―― とはいっても 、 部屋 が びしょぬれ に なっ て グレゴール は 機嫌 を そこね て しまい 、 ソファ の 上 に どっかと 、 腹立たしげ に 身動き も し ない で 構え て い た ――
 902ところが 、 母親 に その 罰 が 訪れ ない で は い なかっ た 。
 903というのは 、 夕方 、 妹 が グレゴール の 部屋 の 変化 に 気づく やいなや 、 彼女 は ひどく 侮辱 さ れ た と 感じ て 居間 に かけこみ 、 母親 が 両手 を 高く 上げ て 嘆願 する にもかかわらず 、 身 を ふるわ せ て 泣き 始め た 。
 904両親 は ―― 父親 は むろん 安楽椅子 から びっくり し て 跳ね起き た の だっ た ―― はじめ は それ に びっくり し て 、 途方 に くれ て ながめ て い た が 、 ついに 二人 も 動き 出し た 。
 905右側 で は 父親 が 、 グレゴール の 部屋 の 掃除 は 妹 に まかせ て おか なかっ た という の で 母親 を 責める し 、 左側 で は 妹 の ほう が 、 もう 二 度 と グレゴール の 部屋 の 掃除 は し て やら ない と わめく 。
 906母親 は 、 興奮 し て われ を 忘れ て いる 父親 を 寝室 へ ひきずっ て いこ う と する 。
 907妹 は 泣きじゃくっ て 身体 を ふるわ せ ながら 、 小さな 拳 で テーブル を どんどん たたく 。
 908そして グレゴール は 、 ドア を 閉め て 、 自分 に こんな 光景 と さわぎ と を 見せ ない よう に し よう と だれ も 思いつか ない こと に 腹 を 立て て 、 大きな 音 を 出し て しっしっ と いう の だっ た 。
 909しかし 、 たとい 妹 が 勤め で 疲れ きっ て しまい 、 以前 の よう に グレゴール の 世話 を する こと に あきあき し て しまっ て も 、 母親 は けっして 妹 の かわり を する 必要 は ない し 、 グレゴール も ほったらかし に さ れる 心配 は なかっ たろ う 。
 910というのは 、 今 では 例の 手伝い婆さん が い た の だ 。
 911長い 一生 を その たくましい 骨太 の 身体 の 助け で 切り抜け て き た よう に 見える この 後家婆さん は 、 グレゴール を それ ほど 嫌わ なかっ た 。
 912ある とき 、 別 に 好奇心 に 駆ら れ た という の で も なく 、 偶然 、 グレゴール の 部屋 の ドア を 開け 、 だれ も 追い立てる わけ で も ない のに ひどく 驚い て しまっ た グレゴール が あちこち と はい廻り 始め た の を ながめる と 、 両手 を 腹 の 上 に 合わせ て ぽかん と 立ちどまっ て いる の だっ た 。
 913それ 以来 、 つね に 朝晩 ちょっと の あいだ ドア を 少し ばかり 開け て 、 グレゴール の ほう を のぞきこむ こと を 忘れ なかっ た 。
 914はじめ の うち は 、 グレゴール を 自分 の ほう に 呼ぼ う と する の だっ た 。
 915それ に は 、 「 こっち へ おいで 、 かぶと虫 の じいさん ! 」 とか 、 「 ちょっと あの かぶと虫 の じいさん を ごらん よ 」 とか 、 おそらく 婆さん が 親しげ な もの と 考え て いる らしい 言葉 を かけ て くる の だ 。
 916こうした 呼びかけ に対して グレゴール は 全然 返事 を せ ずに 、 ドア が まったく 開け られ なかっ た か の よう に 、 自分 の 居場所 から 動か なかっ た 。
 917この 手伝い婆さん に 気まぐれ で 役 に も 立た ぬ じゃま なんか さ せ て い ない で 、 むしろ 彼 の 部屋 を 毎日 掃除 する よう に 命じ た ほう が よかっ たろ う に
 918―― ある 早朝 の こと ―― はげしい 雨 が ガラス窓 を 打っ て い た 。
 919おそらく すでに 春 が 近い しるし だろう
 920―― 手伝い婆さん が また 例の 呼びかけ を 始め た とき 、 グレゴール は すっかり 腹 を 立て た ので 、 たしか に のろのろ と おぼつかなげ に で は あっ た が 、 婆さん に 向っ て 攻撃 の 身構え を 見せ た 。
 921ところが 、 手伝い婆さん は 恐れ も せ ずに 、 ただ ドア の すぐ 近く に あっ た 椅子 を 高く 振り上げ た 。
 922大きく 口 を 開け て 立ちはだかっ て いる 様子 を 見る と 、 手 に し た 椅子 が グレゴール の 背中 に 振り下ろさ れ たら はじめて 口 を ふさぐ つもり な の だ 、 という こと を 明らか に 示し て い た 。
 923「 それじゃあ 、 それ っきり な の かい 」 と 、 グレゴール が また 向きなおる の を 見 て 言い 、 椅子 を おとなしく 部屋 の 片隅 に もどし た 。
 924グレゴール は 今 では もう ほとんど 何 も 食べ なく なっ て い た 。
 925ただ 、 用意 さ れ た 食べもの の そば を 偶然 通り過ぎる とき に だけ 、 遊び半分 に 一 かけ 口 の なか に 入れる が 、 何 時間 でも 口 の なか に 入れ て おい て 、 それから たいてい は 吐き出す の だ 。
 926はじめ は 、 彼 に 食事 を さ せ なく し て いる の は 、 この 部屋 の 状態 を 悲しむ 気持 から だ 、 と 考え て い た が 、 部屋 が いろいろ 変わる こと に は すぐ に 慣れ て しまっ た 。
 927ほか の ところ に は 置く こと が でき ない 品物 は この 部屋 に 置く という 習慣 に なっ て しまっ て い た が 、 そうした 品物 は たくさん あっ た 。
 928住居 の 一室 を 三 人 の 男 の 下宿人 に 貸し た から だっ た 。
 929この きまじめ な 人たち は ―― グレゴール が ある とき ドア の すきま から 確認 し た ところ によると 、 三 人 とも 顔じゅう 髯 を 生やし て い た ―― ひどく 整頓 が 好き で 、 ただ 自分たち の 部屋 ばかり で は なく 、 ひと たび この 家 に 間借り する よう に なっ た からには 、 家 全体 について 、 ことに 台所 で の 整頓 の こと に 気 を くばっ た 。
 930不必要 な もの や 汚ない がらくた に は 我慢 でき なかっ た 。
 931その 上 、 彼ら は 調度品 の 大部分 は 自分たち の もの を もっ て き て い た 。
 932その ため に 多く の 品物 は 不要 と なっ た が 、 それら は 売る わけ に も いか ない し 、 さりとて 捨て て しまい たく も ない の だっ た 。
 933そうした 品物 が みな グレゴール の 部屋 に 移さ れ て き た 。
 934そんな ふう に し て 、 灰捨て箱 と くず箱 と が 台所 から やってき た 。
 935およそ 今 の ところ 不要 な もの は 、 いつ でも ひどく せっかち な 手伝い婆さん が 簡単 に グレゴール の 部屋 へ 投げ入れ て しまう 。
 936ありがたい こと に 、 グレゴール に は たいてい は 運ば れ て くる 品物 と それ を もっ て いる 手 と しか 見え なかっ た 。
 937手伝い婆さん は おそらく 、 いつ か 機会 を 見 て それら の 品物 を また 取り に くる か 、 あるいは 全部 を 一まとめ に し て 投げ捨てる か する つもり だっ た の だろう が 、 実際 に は それら を 最初 投げ入れ た 場所 に ほうりぱなし に し て おい た 。
 938しかし 、 グレゴール は がらくた が じゃま に なっ て 、 まがりくねっ て 歩か なけれ ば なら なかっ た ので 、 それ を 動かす こと が あっ た 。
 939はじめ は そう し ない と はい廻る 場所 が なくなる ので しかたなし に やっ た の だ が 、 のち に は だんだん それ が 面白く なっ た の だっ た 。
 940そうはいうものの 、 そんな ふう に はい廻っ た あと で は 死ぬ ほど 疲れ て しまっ て 悲しく なり 、 またもや 何 時間 も 動か ない で いる の だっ た 。
 941下宿人たち は ときどき 夕食 も 家 で 共同 の 居間 で 取る の だっ た 。
 942その ため 居間 の ドア は 多く の 晩 に 閉ざさ れ た まま だ 。
 943だが 、 グレゴール は ドア を 開ける という こと を まったく 気軽 に あきらめ た 。
 944ドア が 開い て いる 多く の 晩 でさえ も 、 それ を 十分 に 利用 し ない で い て 、 家族 に は 気づか れ ずに 自分 の 部屋 の いちばん 暗い 片隅 に 横たわっ て い た 。
 945ところが 、 ある とき 、 手伝い婆さん が 居間 へ 通じる ドア を 少し ばかり 開け放し に し た 。
 946下宿人たち が 晩方 入っ て き て 、 明り を つけ た とき に も 、 ドア は 開い た まま だっ た 。
 947三 人 は テーブル の かみ手 に 坐っ た 。
 948以前 は 父親 と 母親 と グレゴール と が 坐っ た 場所 だ 。
 949そして 三 人 は ナプキン を 拡げ 、 ナイフ と フォーク と を 手 に 取っ た 。
 950すぐ に ドア の ところ に 肉 の 皿 を もっ た 母親 が 現われ 、 彼女 の すぐ あと から 妹 が 山盛り の じゃがいも の 皿 を もっ て 現われ た 。
 951食べもの は もうもう と 湯気 を 立て て い た 。
 952下宿人たち は 食べる 前 に 調べ よう と する か の よう に 、 自分たち の 眼 の 前 に 置か れ た 皿 の 上 へ 身 を かがめ た 。
 953そして 実際 、 まんなか に 坐っ て い て 、 ほか の 二人 に は 権威 を もっ て いる よう に 見える 男 が 、 皿 の 上 で 一 片 の 肉 を 切っ た 。
 954それ が 十分 柔かい かどうか 、 台所 へ 突っ返さ なくて も よい かどうか 、 たしかめ よう と し て いる らしかっ た 。
 955しかし 、 その 男 が 満足 し た ので 、 緊張 し て ながめ て い た 母親 と 妹 と は 、 ほっと 息 を つい て 微笑 し 始め た 。
 956家族 の 者たち 自身 は 台所 で 食事 を し た 。
 957それでも 父親 は 台所 へ いく 前 に この 部屋 へ 入っ て いき 、 一 回 だけ お辞儀 を する と 、 制帽 を 手 に もち 、 テーブル の まわり を ぐるりと 廻る 。
 958下宿人たち は みんな 立ち上がっ て 、 髯 の なか で 何 か を つぶやく 。
 959つぎ に 彼ら だけ に なる と 、 ほとんど 完全 な 沈黙 の うち に 食事 を する 。
 960食事中 の あらゆる 物音 から たえず もの を かむ 歯 の 音 が 聞こえ て くる こと が 、 グレゴール に は 奇妙 に 思わ れ た 。
 961まるで 食べる ため に は 歯 が 必要 で あり 、 いくら りっぱ で も 歯 の ない 顎 で は どう する こと も でき ない という こと を グレゴール に 示そ う と する か の よう だっ た 。
 962グレゴール は 心配 そう に 自分 に 言い聞かせ た 。
 963「 おれ は 食欲 が ある が 、 あんな もの は いや だ 。
 964あの 人たち は もの を 食べ て 栄養 を 取っ て いる のに 、 おれ は 死ぬ の だ ! 」
 965まさに その 夜 の こと だっ た が ―― あれ から ずっと 、 グレゴール は ヴァイオリン の 音 を 聞い た おぼえ が なかっ た ―― ヴァイオリン の 音 が 台所 から 聞こえ て き た 。
 966下宿人たち は もう 夕食 を 終え 、 まんなか の 男 が 新聞 を 引っ張り出し 、 ほか の 二人 に 一 枚 ずつ 渡し た 。
 967そして 、 三 人 とも 椅子 に もたれ て 読み 、 煙草 を ふかし て い た 。
 968ヴァイオリン が 鳴り 始める と 、 三 人 は それ に 気づき 、 立ち上がっ て 、 爪立ち で 歩い て 玄関 の 間 へ いき 、 そこ で 身体 を よせ た まま 立ち つづけ て い た 。
 969台所 に い て も 彼ら の 物音 が 聞こえ た らしい 。
 970父親 が こう 叫ん だ 。
 971「 みなさん に は ヴァイオリン の 音 が お気 に さわる ん で は あり ませ ん か 。
 972なんなら すぐ やめ させ ます が 」
 973「 どうしまして 」 と 、 まんなか の 男 が いっ た 。
 974「 お嬢さん は われわれ の ところ に こ られ て 、 この 部屋 で 弾か れ たら どう です ?
 975こちら の ほう が ずっと いい し 、 気持 も いい です よ 」
 976「 それでは 、 そう 願い ます か 」 と 、 父親 は まるで 自分 が ヴァイオリン を 弾い て いる か の よう に 答え た 。
 977三 人 は 部屋 に もどっ て 待っ て い た 。
 978まもなく 父親 は 譜面台 を もち 、 母親 は 楽譜 を 、 妹 は ヴァイオリン を もっ て やってき た 。
 979妹 は 落ちつい て 演奏 の 準備 を すっかり すま せ た 。
 980両親 は これ まで 一 度 も 間貸し を し た こと が なく 、 その ため に 下宿人たち に対する 礼儀 の 度 を 超し て い た が 、 自分たち の 椅子 に 坐ろ う と は けっして し なかっ た 。
 981父親 は ドア に もた れ 、 きちんと ボタン を かけ た 制服 の 上衣 の ボタン 二 つ の あいだ に 右手 を さし入れ て い た 。
 982母親 の ほう は 下宿人 の 一人 に 椅子 を すすめ られ 、 その 人 が 偶然 すすめ た 椅子 が 部屋 の わき の ほう の 片隅 に あっ た ので 、 そこ に 坐り つづけ て い た 。
 983妹 は 弾き 始め た 。
 984父親 と 母親 と は それぞれ 自分 の いる 位置 から 注意深く 妹 の 両手 の 動き を 目 で 追っ て い た 。
 985グレゴール は 演奏 に ひきつけ られ て 少し ばかり 前 へ のり出し 、 もう 頭 を 居間 へ 突っこん で い た 。
 986最初 は 自分 が 他人 の こと を もう 顧慮 し なく なっ て いる こと が 、 彼 に は ほとんど ふしぎ に 思わ れ なかっ た 。
 987以前 に は 、 この 他人 へ の 顧慮 という こと が 彼 の 誇り だっ た 。
 988しかも 、 彼 は 今 こそ いっそう 自分 の 身 を 隠し て いい 理由 を もっ て い た 。
 989というのは 、 部屋 の なか の いたる ところ に 横たわっ て いる ごみ が 、 ちょっと で も 身体 を 動かす と 舞い上がり 、 その ごみ を すっかり 身体 に かぶっ て い た 。
 990糸くず とか 髪の毛 とか 食べもの の 残りかす を 背中 や わき腹 に くっつけ て ひきずっ て 歩い て いる の だ 。
 991あらゆる こと に対する 彼 の 無関心 は あまり に 大きい ので 、 以前 の よう に 一 日 に 何 度 も 仰向け に なっ て 、 絨毯 に 身体 を こすりつける こと も し なく なっ て い た 。
 992こんな 状態 で ある にもかかわらず 、 少し も 気おくれ を 感じ ない で 、 非 の 打ちどころ の ない ほど 掃除 の ゆきとどい て いる 居間 の 床 の 上 へ 少し ばかり 乗り出し て いっ た 。
 993とはいえ 、 ほか の 人たち の ほう も 彼 に 気づく 者 は い なかっ た 。
 994家族 の 者 は すっかり ヴァイオリン の 演奏 に 気 を 取ら れ て い た 。
 995それ に反して 、 下宿人たち は はじめ は 両手 を ポケット に 突っこん で 、 妹 の 譜面台 の すぐ 近く に 席 を 占め て い た 。
 996あまり に 近い ので 三 人 とも 楽譜 を のぞきこめる くらい だっ た 。
 997そんな こと を やっ たら 、 妹 の じゃま に なっ た こと だろう 。
 998ところが 、 やがて 低い 声 で 話し合い ながら 、 頭 を 垂れ た まま 窓 の ほう へ 退い て いっ た 。
 999父親 が 心配 そう に 見守る うち に 、 彼ら は その 窓ぎわ に とどまっ て い た 。
 1000すばらしい 、 あるいは 楽しい ヴァイオリン演奏 を 聞く つもり な の が 失望 さ せ られ 、 演奏 全体 に あきあき し て 、 ただ 儀礼 から 我慢 し て おとなしく し て いる の だ という こと は 、 実際 見 た だけ で はっきり わかる こと だっ た 。
 1001ことに 、 三 人 が 鼻 と 口 と から 葉巻 の 煙 を 高く 吹き出し て いる やりかた は 、 ひどく いらいら し て いる の だ という こと を 推量 さ せ た 。
 1002しかし 、 妹 は とても 美しく 弾い て い た 。
 1003彼女 の 顔 は 少し わき に 傾け られ て おり 、 視線 は 調べる よう に 、 また 悲しげ に 楽譜 の 行 を 追っ て いる 。
 1004グレゴール は さらに 少し ばかり 前 へ はい出し 、 頭 を 床 に ぴったり つけ て 、 できる なら 彼女 の 視線 と ぶつかっ て やろ う と し た 。
 1005音楽 に こんな に 心 を 奪わ れ て い て も 、 彼 は 動物 な の だろう か 。
 1006彼 に は あこがれ て い た 未知 の 心 の 糧 へ の 道 が 示さ れ て いる よう に 思え た 。
 1007妹 の ところ まで 進み出 て 、 彼女 の スカート を 引っ張っ て 、 それ によって ヴァイオリン を もっ て 自分 の 部屋 へ き て もらい たい と ほのめかそ う 、 と 決心 し た 。
 1008というのは 、 ここ に いる だれ一人 として 、 彼 が し たい と 思っ て いる ほど 彼女 の 音楽 に 応える 者 は い ない の だ 。
 1009彼 は もう 妹 を 自分 の 部屋 から 出し たく なかっ た 。
 1010少なくとも 自分 が 生き て いる あいだ は 、 出し たく なかっ た 。
 1011彼 の 恐ろしい 姿 は はじめて 彼 の 役 に 立つ だろう と 思わ れ た 。
 1012自分 の 部屋 の どの ドア も 同時 に 見張っ て い て 、 侵入 し て くる 者たち に ほえつい て やる つもり だ 。
 1013だが 、 妹 は しい られ て で は なく 、 自由意志 で 自分 の ところ に とどまら なけれ ば なら ない 。
 1014ソファ の 上 で 彼 の わき に 坐り 、 耳 を 彼 の ほう に 傾け て くれる の だ 。
 1015そこで 彼 は 妹 に 、 自分 は 妹 を 音楽学校 に 入れる こと に はっきり 心 を きめ て い た の で あり 、 もし その あいだ に こんな 事故 が 起こら なかっ た ならば 、 去年 の クリスマス に ―― クリスマス は やっぱり もう 過ぎ て しまっ た の だろう か ―― どんな 反対 も 意 に 介する こと なく みんな に いっ て い た こと だろう 、 と 打ち明け て やる 。
 1016こう 説明 し て やれ ば 、 妹 は 感動 の 涙 で わっ と 泣き 出す こと だろう 。
 1017そこで グレゴール は 彼女 の 肩 の ところ まで のび上がっ て 、 首 に 接吻 し て やる の だ 。
 1018店 へ いく よう に なっ て から は 、 妹 は リボン も カラー も つけ ない で 首 を 丸出し に し て いる の だっ た 。
 1019「 ザムザさん ! 」 と 、 まんなか の 男 が 父親 に向って 叫び 、 それ 以上 は 何 も いわ ずに 、 人差指 で ゆっくり と 前進 し て くる グレゴール を さし示し た 。
 1020ヴァイオリン の 音 が やみ 、 まんなか の 下宿人 は はじめ は 頭 を 振っ て 二人 の 友人 に にやりと 笑っ て 見せ た が 、 つぎ に ふたたび グレゴール を 見やっ た 。
 1021父親 は 、 グレゴール を 追い払う かわり に 、 まず 下宿人たち を なだめる こと の ほう が いっそう 必要 だ と 考え て いる よう で あっ た 。
 1022とはいっても 、 三 人 は 全然 興奮 なんか し て い ない し 、 グレゴール の ほう が ヴァイオリン の 演奏 よりも 彼ら を 面白がら せ て いる よう に 見え た 。
 1023父親 は 三 人 の ほう に 急い で いき 、 両腕 を 拡げ て 彼ら の 部屋 へ 押しもどそ う と し 、 同時 に 、 自分 の 身体 で グレゴール の 姿 が 見え なく なる よう に し よう と し た 。
 1024今度 は 三 人 が ほんとう に 少し ばかり 気 を 悪く し た 。
 1025父親 の 態度 に 気 を 悪く し た の か 、 グレゴール の よう な 隣室 の 住人 が いる もの と は 知ら なかっ た のに 、 今 やっと それ が わかっ て き た こと に 気 を 悪く し た の か 、 それ は もう なん と も いえ なかっ た 。
 1026三 人 は 父親 に 説明 を 求め 、 三 人 の ほう で 腕 を 振り上げ 、 落ちつかなげ に 髯 を 引っ張り 、 ほんの ゆっくり し た 歩み で 自分たち の 部屋 の ほう へ 退い て いっ た 。
 1027そう し て いる あいだ に 、 突然 演奏 を やめ て 放心状態 で い た 妹 は やっと 正気 を 取りもどし 、 しばらく の あいだ だらりと 垂れ た 両手 に ヴァイオリン と 弓 と を もっ て 、 まだ 演奏 し て いる か の よう に 楽譜 を ながめ つづけ て い た が 、 突然 身 を 起こす と 、 はげしい 肺 の 活動 を ともなう 呼吸困難 に 陥っ て まだ 自分 の 椅子 に 坐っ て い た 母親 の 膝 の 上 に 楽器 を 置き 、 隣室 へ と かけこん で いっ た 。
 1028三 人 の 下宿人たち は 、 父親 に 押しまくら れ て すでに さっき より は 早い 足取り で その 部屋 へ 近づい て い た 。
 1029妹 が 慣れ た 手つき で ベッド の ふとん や 枕 を 高く 飛ばし ながら 寝具 の 用意 を 整える の が 見え た 。
 1030三 人 が 部屋 へ たどりつく よりも 前 に 、 妹 は ベッド の 用意 を すま せ て しまい 、 ひらりと 部屋 から 脱け出 て い た 。
 1031父親 は またもや 気まま な 性分 に すっかり とらえ られ て しまっ た らしく 、 ともかく 下宿人 に対して 払わ なけれ ば なら ない はず の 敬意 を 忘れ て しまっ た 。
 1032彼 は 三 人 を ただ 押しまくっ て いっ た が 、 最後 に 部屋 の ドア の ところ で まんなか の 人 が 足 を 踏み鳴らし た ので 、 父親 は やっと とまっ た 。
 1033「 私 は ここ に はっきり と いう が 」 と 、 その 人 は 片手 を 挙げ 、 眼 で 母親 と 妹 と を 探し た 。
 1034「 この 住居 および 家族 の うち に 支配 し て いる いとわしい 事情 を 考え て 」
 1035―― ここ で とっさ の 決心 を し て 床 に つば を 吐い た ――
 1036「 私 の 部屋 を ただちに 出 て いく こと を 通告 し ます 。
 1037むろん 、 これ まで の 間借料 も 全然 支払い ませ ん 。
 1038それ に反して 、 きわめて 容易 に 理由づける こと が できる はず の なんら か の 損害賠償要求 をもって ―― いい です かな ―― あなた を 告訴 す べき もの かどうか 、 考え て みる つもり です 」
 1039彼 は 沈黙 し て 、 まるで 何 か を 待ちかまえ て いる か の よう に 自分 の 前 を 見つめ て い た 。
 1040「 われわれ も ただちに 出 て いき ます 」 と 、 はたして 彼 の 二人 の 友人 も すぐさま 口 を 出し た 。
 1041まんなか の 男 は ドア の 取手 を つかみ 、 ばたんと 音 を 立て て ドア を 閉め た 。
 1042父親 は 手探り で 自分 の 椅子 まで よろめい て いき 、 どかりと 腰 を 下ろし た 。
 1043まるで いつも の よう に 晩 の 居眠り を する ため に 手足 を のばし た よう に 見え た 。
 1044だが 、 ぐらぐら する 頭 が 強く うなずい て いる こと で 、 彼 が 全然 眠っ て い ない こと が わかっ た 。
 1045グレゴール は こうした こと が 行わ れる あいだ じゅう 、 下宿人たち が 彼 を 見つけ た 場所 に じっと とどまっ て い た 。
 1046自分 の 計画 の 失敗 に対する 失望 と 、 また おそらく は あまり に 空腹 を つづけ た こと から 起っ た 衰弱 と の ため に 、 身体 を 動かす こと が でき なかっ た 。
 1047彼 は つぎ の 瞬間 に は どっ と いろいろ な もの が 墜落 し て くる だろう 、 と 早く も ある 確信 を もっ て 恐れ 、 それ を 待ちかまえ て い た 。
 1048ヴァイオリン が 母親 の ふるえる 指 の あいだ を すべっ て 膝 から 床 へ と 落ち 、 がたんと 響き を 立て た こと も 、 彼 を びっくり さ せ て 動き 出さ せる こと は 全然 なかっ た 。
 1049「 お父さん 、 お母さん 」 と 、 妹 は いっ て 、 話 に 入る 前 に 手 で テーブル を 打っ た 。
 1050「 もう これ まで だ わ 。
 1051あなたがた は おそらく わから ない の でしょう が 、 わたし に は わかり ます 。
 1052こんな 怪物 の 前 で 兄さん の 名前 なんか いい たく は ない わ 。
 1053だから 、 わたしたち は こいつ から 離れ よう と し なけれ ば なら ない 、 と だけ いう わ 。
 1054こいつ の 世話 を し 、 我慢 する ため に 、 人間 として できるだけ の こと を やろ う と し て き た じゃ ない の 。
 1055だれ だって 少し でも わたしたち を 非難 する こと は でき ない と 思う わ 」
 1056「 これ の いう の は まったく もっとも だ 」 と 、 父親 は つぶやい た 。
 1057まだ 十分 に 息 を つけ ない で いる 母親 は 、 狂っ た よう な 目つき を し て 、 口 に 手 を 当て て 低い 音 を 立て ながら 咳 を し 始め た 。
 1058妹 は 母親 の ところ へ 急い で いき 、 彼女 の 額 を 支え て やっ た 。
 1059父親 は 妹 の 言葉 を 聞い て 、 何 か 考え が きまっ た よう に 見え た 。
 1060身体 を まっすぐ に し て 坐る と 、 下宿人たち の 夕食 から まだ テーブル の 上 に 置き放し に なっ て いる 皿 の あいだ で 小使 の 制帽 を もてあそん で い た が 、 ときどき じっと し て いる グレゴール の 上 に 視線 を 投げ て いる 。
 1061「 わたしたち は こいつ から 離れ なけれ ば なら ない の よ 」 と 、 妹 は もっぱら 父親 に 向っ て いっ た 。
 1062母親 の ほう は 咳きこん で 何 も 聞こえ ない の だ 。
 1063「 こいつ は お父さん と お母さん と を 殺し て しまう わ 。
 1064そう なる こと が わたし に は わかっ て い ます 。
 1065わたしたち みんな の よう に 、 こんな に 苦労 し て 働か なけれ ば なら ない とき に は 、 その 上 に 、 家 で も こんな 永久 に つづく 悩み なんか 辛抱 でき ない わ 。
 1066わたし も もう 辛抱 でき ない わ 」
 1067そして 、 彼女 は はげしく 泣き 始め た ので 、 涙 が 母親 の 顔 の 上 に かかっ た 。
 1068妹 は 機械的 に 手 を 動かし て その 涙 を ぬぐっ て やっ た 。
 1069「 お前 」 と 、 父親 は 同情 を こめ 、 まったく その とおり だ という よう な 調子 で いっ た 。
 1070「 でも 、 どう し たら いい ん だろう な ? 」
 1071妹 は 、 途方 に くれ て いる こと を 示す ため に 肩 を すぼめ た 。
 1072泣い て いる あいだ に 、 さっき の 断固 と し た 態度 と は 反対 に 、 どう し て いい の か わから なく なっ て い た の だっ た 。
 1073「 あいつ が われわれ の こと を わかっ て くれ たら 」 と 、 父親 は 半ば たずねる よう に いっ た 。
 1074妹 は 泣き ながら はげしく 手 を 振っ た 。
 1075そんな こと は 考え られ ない 、 という こと を 示す もの だっ た 。
 1076「 あいつ が われわれ の こと を わかっ て くれ たら 」 と 、 父親 は くり返し て 、 眼 を 閉じ 、 そんな こと は あり え ない という 妹 の 確信 を 自分 で も 受け容れ て い た 。
 1077「 そうしたら おそらく あいつ と 話 を つける こと が できる ん だろう が 。
 1078だが 、 こんな ふう じゃあ ねえ ―― 」
 1079「 あいつ は い なく なら なけれ ば なら ない の よ 」 と 、 妹 は 叫ん だ 。
 1080「 それ が ただ 一 つ の 手段 よ 。 あいつ が グレゴール だ なんていう 考え から 離れ よう と し さえ すれ ば いい ん だ わ 。 そんな こと を こんな に 長い あいだ 信じ て い た こと が 、 わたしたち の ほんとう の 不幸 だっ た ん だ わ 。 でも 、 あいつ が グレゴール だ なんていう こと が どうして あり うる でしょう 。 もし あいつ が グレゴール だっ たら 、 人間たち が こんな 動物 と いっしょ に 暮らす こと は 不可能 だ って 、 とっく に 見抜い て い た でしょう し 、 自分 から 進ん で 出 て いっ て しまっ た こと でしょう 。 そう なっ たら 、 わたしたち に は お兄さん が い なく なっ た でしょう けれど 、 わたしたち は 生き延び て いく こと が でき 、 お兄さん の 思い出 を 大切 に しまっ て おく こと が でき た でしょう 。 ところが 、 この 動物 は わたしたち を 追いかけ 、 下宿人たち を 追い出す の だ わ 。 きっと 住居 全体 を 占領 し 、 わたしたち に 通り で 夜 を 明かさ せる つもり な の よ 。 ちょっと み て ごらん なさい 、 お父さん 」 と 、 妹 は 突然 叫ん だ 。
 1081「 また やり 出し た わ よ ! 」
 1082そして 、 グレゴール に も まったく わから ない よう な 恐怖 に 襲わ れ て 、 妹 は 母親 さえ も 離れ 、 まるで 、 グレゴール の そば に いる より は 母親 を 犠牲 に し た ほう が まし だ と いわ ん ばかり に 、 どう 見 て も 母親 を 椅子 から 突きとばし て しまい 、 父親 の うしろ へ 急い で 逃げ て いっ た 。
 1083父親 も ただ 娘 の 態度 を 見 た だけ で 興奮 し て しまい 、 自分 で も 立ち上がる と 、 妹 を かばお う と する か の よう に 両腕 を 彼女 の 前 に 半ば 挙げ た 。
 1084しかし 、 グレゴール は 、 だれ か を 、 まして 妹 を 不安 に 陥れ よう など と は 考え て も み なかっ た 。
 1085彼 は ただ 、 自分 の 部屋 へ もどっ て いこ う と し て 、 身体 の 向き を 変え 始め て い た だけ だっ た 。
 1086そう は いっ て も 、 その 動作 が ひどく 目立っ た 。
 1087今 の 苦しい 状態 の ため に 、 困難 な 回転 を やる 場合 に 頭 の 助け を 借り なけれ ば なら なかっ た から だ 。
 1088そこで 頭 を 何 度 も もたげ て は 、 床 に 打ちつけ た 。
 1089彼 は じっと とまっ て 、 あたり を 見廻し た 。
 1090彼 の 善意 は みとめ られ た よう だっ た 。
 1091人びと は ただ 一瞬 ぎょっと し た だけ だっ た 。
 1092そこで みんな は 、 沈黙 し た まま 、 悲しげ に 彼 を じっと 見つめ た 。
 1093母親 は 両脚 を ぴったり つけ た まま 前 へ のばし て 、 椅子 に 坐っ て い た 。
 1094疲労 の あまり 、 眼 が ほとんど 自然 に 閉じ そう だっ た 。
 1095父親 と 妹 と は 並ん で 坐り 、 妹 は 片手 を 父親 の 首 に 廻し て い た 。
 1096「 これ で もう 向き を 変え て も いい だろう 」 と 、 グレゴール は 考え て 、 彼 の 仕事 に また 取りかかっ た 。
 1097骨 が 折れる ため に 息 が はあはあ いう の を 抑える こと は でき なかっ た 。
 1098そこで 、 ときどき 休ま ない で は い られ なかっ た 。
 1099ところで 、 彼 を 追い立てる 者 は い なかっ た 。
 1100万事 は 彼 自身 の やる が まま に まかせ られ た 。
 1101回転 を やり 終える と 、 すぐ に まっすぐ に はいもどり 始め た 。
 1102自分 と 自分 の 部屋 と を 距て て いる 距離 が 大きい こと に びっくり し た 。
 1103そして 、 身体 が 衰弱 し て いる のに どうして つい さっき は この 同じ 道 を 、 こんな に 遠い と は ほとんど 気づか ない で はっ て いけ た の か 、 理解 でき なかっ た 。
 1104しょっちゅう ただ 早く はっ て いく こと だけ を 考え て 、 家族 の 者 が 言葉 や 叫び声 を かけ て 彼 を じゃま する こと は ない 、 という の に は 気づか なかっ た 。
 1105もう ドア の ところ に まで 達し た とき に なっ て やっと 、 頭 を 振り返ら せ て み た 。
 1106完全 に 振り返っ た の で は ない 。
 1107というのは 、 首 が こわばっ て いる の を 感じ た の だっ た 。
 1108ともあれ 、 自分 の 背後 で は 何一つ 変化 が 起っ て い ない こと を 見 て 取っ た 。
 1109ただ 妹 だけ が 立ち上がっ て い た 。
 1110彼 の 最後 の 視線 が 母親 の 上 を かすめ た 。
 1111母親 は もう 完全 に 眠りこけ て い た 。
 1112自分 の 部屋 へ 入る やいなや 、 ドア が 大急ぎ で 閉め られ 、 しっかり と とめ金 が かけ られ 、 閉鎖 さ れ た 。
 1113背後 に 突然 起っ た 大きな 物音 に グレゴール は ひどく びっくり し た ので 、 小さな 脚 が がくりと し た 。
 1114あんな に 急い だ の は 妹 だっ た 。
 1115もう 立ち上がっ て 待っ て い て 、 つぎ に さっと 飛ん で き た の だっ た 。
 1116グレゴール に は 妹 が やってくる 足音 は 全然 聞こえ なかっ た 。
 1117ドア の 鍵 を 廻し ながら 、 「 とうとう これ で ! 」 と 、 妹 は 叫ん だ 。
 1118「 さて 、 これ で ? 」 と 、 グレゴール は 自分 に たずね 、 暗闇 の なか で あたり を 見廻し た 。
 1119まもなく 、 自分 が もう まったく 動く こと が でき なく なっ て いる こと を 発見 し た 。
 1120それ も ふしぎ に は 思わ なかっ た 。
 1121むしろ 、 自分 が これ まで 実際 に この かぼそい 脚 で 身体 を ひきずっ て こ られ た こと が 不自然 に 思わ れ た 。
 1122ともかく 割合 に 身体 の 工合 は いい よう に 感じ られ た 。
 1123なるほど 身体 全体 に 痛み が あっ た が 、 それ も だんだん 弱く なっ て いき 、 最後 に は すっかり 消える だろう 、 と 思わ れ た 。
 1124柔かい ほこり に すっかり 被わ れ て いる 背中 の 腐っ た リンゴ と 炎症 を 起こし て いる 部分 と は 、 ほとんど 感じ られ なかっ た 。
 1125感動 と 愛情 と を こめ て 家族 の こと を 考え た 。
 1126自分 が 消え て しまわ なけれ ば なら ない の だ という 彼 の 考え は 、 おそらく 妹 の 意見 よりも もっと 決定的 な もの だっ た 。
 1127こんな ふう に 空虚 な みちたり た もの思い の 状態 を つづけ て い た が 、 ついに 塔 の 時計 が 朝 の 三 時 を 打っ た 。
 1128窓 の 外 で は あたり が 明るく なり 始め た の を 彼 は まだ 感じ た 。
 1129それから 、 頭 が 意 に反して すっかり がくりと 沈ん だ 。
 1130彼 の 鼻孔 から は 最後 の 息 が もれ て 出 た 。
 1131朝早く 手伝い婆さん が やってき た とき ―― いくら そんな こと を やら ない で くれ と 頼ん で も 、 力いっぱい に 大急ぎ で どの ドア も ばたんばたん と 閉める ので 、 この 女 が やってくる と 、 家じゅう の 者 は もう 静か に 眠っ て いる こと は でき なかっ た ―― いつも の よう に ちょっと グレゴール の 部屋 を のぞい た が 、 はじめ は 別 に 異常 を みとめ なかっ た 。
 1132グレゴール は わざと そんな ふう に 身動き も し ない で 横たわっ て 、 ふてくされ て 見せ て いる の だ 、 と 手伝い婆さん は 思っ た 。
 1133彼女 は グレゴール が ありとあらゆる 分別 を もっ て いる もの と 思っ て い た 。
 1134たまたま 長い 箒 を 手 に もっ て い た ので 、 ドア の ところ から それ で グレゴール を くすぐろ う と し た 。
 1135ところが なん の ききめ も 現われ ない ので 、 怒っ て しまい 、 グレゴール の 身体 を 少し つつい た 。
 1136彼 が なん の 抵抗 も 示さ ずに 寝 て いる ところ から ずるずる と 押しやら れ て いっ た とき に なっ て はじめて 、 女 は おかしい な 、 と 思っ た 。
 1137まもなく 真相 を 知る と 眼 を 丸く し 、 思わず 口笛 の よう な 音 を 出し た が 、 たいして そこ に とどまっ て は い ず 、 寝室 の ドア を さっと 開い て 、 大きな 声 で 暗闇 に 向っ て 叫ん だ 。
 1138「 ちょっと ごらん なさい よ 。
 1139のび て い ます よ 。
 1140ね て い ます よ 。
 1141すっかり のび て しまっ て い ます よ ! 」
 1142ザムザ夫妻 は ダブル・ベッド の 上 に まっすぐ に 身体 を 起こし 、 手伝い婆さん の いう こと が わかる より 前 に 、 まず この 女 に びっくり さ せ られ た 気持 を しずめ なけれ ば なら なかっ た 。
 1143だが 、 事情 が のみこめる と 夫婦 は それぞれ 自分 の 寝 て い た 側 から 急い で ベッド を 下り た 。
 1144ザムザ氏 は 毛布 を 肩 に かけ 、 ザムザ夫人 は ただ 寝巻 の まま の 姿 で 出 て き た 。
 1145二人 は そんな 恰好 で グレゴール の 部屋 へ 入っ て いっ た 。
 1146その あいだ に 、 下宿人 が やってき て 以来 グレーテ が 寝る よう に なっ た 居間 の ドア も 開け られ た 。
 1147グレーテ は 全然 眠ら なかっ た よう に 、 完全 な 身支度 を し て い た 。
 1148彼女 の 蒼い 顔 も 、 眠っ て い ない こと を 証明 し て いる よう に 思わ れ た 。
 1149「 死ん だ の ? 」 と 、 ザムザ夫人 は いっ て 、 たずねる よう に 手伝い婆さん を 見上げ た 。
 1150とはいっても 自分 で 調べる こと が できる し 、 また 調べ なく とも わかる こと だっ た 。
 1151「 そう だ と 思い ます ね 」 と 、 手伝い婆さん は いっ て 、 それ を 証明 する ため に グレゴール の 死骸 を 箒 で かなり の 距離 押し て やっ た 。
 1152ザムザ夫人 は 、 箒 を 押しとめ よう と する よう な 動作 を ちょっと 見せ た が 、 実際 に は そう は し なかっ た 。
 1153「 これ で 」 と 、 ザムザ氏 が いっ た 。
 1154「 神様 に 感謝 できる 」
 1155彼 は 十字 を きっ た 。
 1156三 人 の 女たち も 彼 の やる とおり 見ならっ た 。
 1157死骸 から 眼 を 放さ ない で い た グレーテ が いっ た 。
 1158「 ごらん なさい な 。
 1159なんて やせ て い た ん でしょう 。
 1160もう 長い こと 全然 食べ なかっ た ん です もの ね 。
 1161食べもの は 入れ て やっ た とき の まま で 出 て き た ん です もの 」
 1162事実 、 グレゴール の 身体 は まったく ぺしゃんこ で ひからび て い て 、 もう 小さな 脚 で は 身体 が もち上げ られ なく なり 、 その ほか の 点 で も 人 の 注意 を そらす よう な もの が まったく なくなっ て しまっ た 今 に なっ て やっと 、 その こと が わかる の だっ た 。
 1163「 グレーテ 、 ちょっと わたしたち の 部屋 へ おいで 」 と 、 ザムザ夫人 は 悲しげ な 微笑 を 浮かべ て いっ た 。
 1164グレーテ は 死骸 の ほう を 振り返ら ない で は い られ なかっ た が 、 両親 に つづい て 寝室 へ 入っ て いっ た 。
 1165手伝い婆さん は ドア を 閉め 、 窓 を すっかり 開け た 。
 1166朝 が 早い にもかかわらず 、 すがすがしい 空気 に は すでに いくら か なま暖かさ が まじっ て い た 。
 1167もう 三 月 の 末 だっ た 。
 1168三 人 の 下宿人 が 自分たち の 部屋 から 出 て き て 、 びっくり し た よう に 自分たち の 朝食 を 探し て あたり を きょろきょろ 見廻し た 。
 1169朝食 の 用意 は 忘れ られ て い た 。
 1170「 朝食 は どこ に ある ん だ ? 」 と 、 まんなか の 人 が ぶつぶつ 言い ながら 手伝い婆さん に たずね た 。
 1171ところが 婆さん は 口 に 指 を あて て 、 黙っ た まま 急い で 、 グレゴール の 部屋 へ いっ て みる よう に 、 という 合図 を し て みせ た 。
 1172三 人 は いわ れ た とおり に 部屋 へ いき 、 いくら か くたびれ た 上衣 の ポケット に 両手 を 突っこん だ まま 、 今 で は もう 明るく なっ た 部屋 の なか で グレゴール の 死骸 の まわり に 立っ た 。
 1173その とき 寝室 の ドア が 開い て 、 制服姿 の ザムザ氏 が 現われ 、 一方 の 腕 で 妻 を 抱き 、 もう 一方 の 腕 で 娘 を 抱い て い た 。
 1174みんな 少し 泣い た あと だっ た 。
 1175グレーテ は ときどき 顔 を 父親 の 腕 に 押しつけ た 。
 1176「 すぐ 私 の 家 を 出 て いっ て いただき ましょ う ! 」 と 、 ザムザ氏 は いっ て 、 二人 の 女 を 身体 から 離さ ない で ドア を 指さし た 。
 1177「 それ は どういう 意味 な ん です ? 」 と 、 まんなか の 人 は 少し 驚き ながら いっ て 、 やさし そう な 微笑 を もらし た 。
 1178ほか の 二人 は 両手 を 背中 に 廻し て 、 たえず こすっ て いる 。
 1179まるで 自分たち に 有利 な 結果 に 終わる に きまっ て いる 大きな 争い を うれしがっ て 待ちかまえ て いる よう だっ た 。
 1180「 今 申し て いる とおり の 意味 です 」 と 、 ザムザ氏 は 答え 、 二人 の 女 と 一直線 に 並ん で 下宿人たち の ほう へ 近づい て いっ た 。
 1181例の 人 は はじめ の うち は じっと 立っ た まま 、 事柄 を 頭 の なか で まとめ て 新しく 整理 し よう と する か の よう に 、 床 を 見つめ て い た 。
 1182「 それでは 出 て いき ましょ う 」 と 、 いっ た が 、 ザムザ氏 を 見上げ た 。
 1183まるで 突然 襲わ れ た へりくだっ た 気持 で この 決心 に さえ 新しい 許可 を 求め て いる か の よう だっ た 。
 1184ザムザ氏 は 大きな 眼 を し て ただ 何 度 か うなずい て 見せる だけ だっ た 。
 1185それから その 人 は ほんとう に すぐ 大股 で 玄関 の 間 へ と 歩い て いっ た 。
 1186二人 の 友人 は しばらく 両手 の 動き を すっかり とめ た まま 聞き耳 を 立て て い た が 、 例の 人 の あと を 追っ て 飛ん で いっ た 。
 1187まるで ザムザ氏 が 自分たち より 前 に 玄関 の 間 に 入っ て 、 自分たち の 指導者 で ある 例の 人 と の 連絡 を じゃま する かも しれ ない と 不安 に 思っ て いる よう で あっ た 。
 1188玄関 の 間 で 三 人 は そろっ て 衣裳かけ から 帽子 を 取り 、 ステッキ立て から ステッキ を 抜き出し 、 無言 の まま お辞儀 を し て 、 住居 を 出 て いっ た 。
 1189すぐ わかっ た が まったく いわれ の ない 不信 の 念 を 抱き ながら 、 ザムザ氏 は 二人 の 女 を つれ て 玄関口 の たたき まで 出 て いっ た 。
 1190そして 、 三 人 が ゆっくり と で は ある が 、 しかし しっかり と し た 足取り で 長い 階段 を 降り て いき 、 一 階 ごと に 階段部 の 一定 の 曲り角 へ くる と 姿 が 消え 、 そして また すぐ に 現われ て くる の を 、 手すり に もたれ て ながめ て い た 。
 1191下 へ 降り て いく につれて 、 それだけ ザムザ家 の 関心 は 薄らい で いっ た 。
 1192この 三 人 に 向っ て 、 そして つぎ に は 三 人 の 頭上 高く 一人 の 肉屋 の 小僧 が 頭 の 上 に 荷 を のせ て 誇らしげ な 態度 で のぼっ て き た とき 、 ザムザ氏 は 女たち を つれ て 手すり から 離れ 、 まるで 気 が 軽く なっ た よう な 様子 で 自分たち の 住居 へ もどっ て いっ た 。
 1193彼ら は 今日 という 日 は 休息 と 散歩 と に 使お う と 決心 し た 。
 1194こういう ふう に 仕事 を 中断 する に は 十分 な 理由 が あっ た ばかり で なく 、 また そう する こと が どう し て も 必要 だっ た 。
 1195そこで テーブル に 坐っ て 三 通 の 欠勤届 を 書い た 。
 1196ザムザ氏 は 銀行 の 重役宛 に 、 ザムザ夫人 は 内職 の 注文 を し て くれる 人 宛 に 、 そして グレーテ は 店主宛 に 書い た 。
 1197書い て いる あいだ に 手伝い婆さん が 入っ て き た 。
 1198もう 帰る と 言い に き た の だっ た 。
 1199というのは 、 朝 の 仕事 は 終っ て い た 。
 1200届 を 書い て い た 三 人 は はじめ は ただ うなずい て みせる だけ で 眼 を 上げ なかっ た が 、 手伝い婆さん が まだ その 場 を 離れ よう と し ない ので 、 やっと 怒っ た よう に 見上げ た 。
 1201「 何 か 用 かね ? 」 と 、 ザムザ氏 が たずね た 。
 1202手伝い婆さん は 微笑 し ながら ドア の ところ に 立っ て い た が 、 家族 の 者たち に 大きな 幸福 について 知らせ て やる こと が ある の だ が 、 徹底的 に たずね て くれ なけれ ば 知らせ て は やら ない 、 と いわ ん ばかり で あっ た 。
 1203帽子 の 上 に ほとんど まっすぐ に 立っ て いる 小さな 駝鳥 の 羽根飾り は 、 彼女 が 勤める よう に なっ て から ザムザ氏 が 腹 を 立て て い た もの だ が 、 それ が 緩やか に 四方 へ ゆれ て いる 。
 1204「 で 、 いったい どんな 用 な の ? 」 と 、 ザムザ夫人 が たずね た 。
 1205手伝い婆さん は それでも この 夫人 を いちばん 尊敬 し て い た 。
 1206「 はい 」 と 、 手伝い婆さん は 答え た が 、 親しげ な 笑い の ため に すぐ に は 話せ ない で いる 。
 1207「 隣り の もの を 取り片づける こと について は 、 心配 する 必要 は あり ませ ん 。
 1208もう 片づい て い ます 」
 1209ザムザ夫人 と グレーテ と は また 書き つづけ よう と する か の よう に 手紙 に かがみこん だ 。
 1210ザムザ氏 は 、 手伝い婆さん が いっさい を くわしく 説明 し 始め よう と し て いる の に 気づい て 、 手 を のばし て 断固 と し て 拒絶 する という こと を 示し た 。
 1211女 は 話す こと が 許さ れ なかっ た ので 、 自分 が ひどく 急が なけれ ば なら ない こと を 思い出し 、 侮辱 さ れ た よう に 感じ た らしく 「 さよなら 、 みなさん 」 と 叫ぶ と 、 乱暴 に 向きなおっ て 、 ひどい 音 を 立て て ドア を 閉め 、 住居 を 出 て いっ た 。
 1212「 夕方 、 あの 女 に ひま を やろ う 」 と 、 ザムザ氏 は いっ た が 、 妻 から も 娘 から も 返事 を もらわ なかっ た 。
 1213というのは 、 手伝い婆さん が この 二人 の やっと 得 た ばかり の 落ちつき を また かき乱し て しまっ た らしかっ た 。
 1214二人 は 立ち上がっ て 、 窓 の ところ へ いき 、 抱き合っ て 立っ て い た 。
 1215ザムザ氏 は 彼 の 椅子 に 腰かけ た まま 二人 の ほう を 振り返っ て 、 しばらく じっと 二人 を 見 て い た 。
 1216それから 叫ん だ 。
 1217「 さあ 、 こっち へ こい よ 。
 1218もう 古い こと は 捨て去る の だ 。
 1219そして 、 少し は おれ の こと も 心配 し て くれ よ 」
 1220すぐ 二人 の 女 は 彼 の いう こと を 聞き 、 彼 の ところ へ もどっ て 、 彼 を 愛撫 し 、 急い で 欠勤届 を 書い た 。
 1221それから 三 人 は そろっ て 住居 を 出 た 。
 1222もう 何 カ月 も なかっ た こと だ 。
 1223それから 電車 で 郊外 へ 出 た 。
 1224彼ら 三 人 しか 客 が 乗っ て い ない 電車 に は 、 暖かい 陽 が ふり注い で い た 。
 1225三 人 は 座席 に ゆっくり と もたれ ながら 、 未来 の 見込み を あれこれ と 相談 し 合っ た 。
 1226そして 、 これ から 先 の こと も よく 考え て みる と けっして 悪く は ない という こと が わかっ た 。
 1227というのは 、 三 人 の 仕事 は 、 ほんとう は それら について おたがい に たずね合っ た こと は 全然 なかっ た の だ が 、 まったく 恵まれ た もの で あり 、 ことに これ から あと 大いに 有望 な もの だっ た 。
 1228状態 を さしあたり もっとも 大幅 に 改善 する こと は 、 むろん 住居 を 変える こと によって できる に ちがい なかっ た 。
 1229彼ら は 、 グレゴール が 探し出し た 現在 の 住居 よりも もっと 狭く て 家賃 の 安い 、 しかし もっと いい 場所 に ある 、 そして もっと 実用的 な 住居 を もと う と 思っ た 。
 1230こんな 話 を し て いる あいだ に 、 ザムザ夫妻 は だんだん と 元気 に なっ て いく 娘 を ながめ ながら 、 頬 の 色 も 蒼ざめ た ほど の あらゆる 心労 にもかかわらず 、 彼女 が 最近 で は めっきり と 美しく ふくよか な 娘 に なっ て い た 、 という こと に ほとんど 同時 に 気づい た の だっ た 。
 1231いよいよ 無口 に なり ながら 、 そして ほとんど 無意識 の うち に 視線 で たがい に 相手 の 気持 を わかり合い ながら 、 りっぱ な おむこさん を 彼女 の ため に 探し て やる こと を 考え て い た 。
 1232目的地 の 停留場 で 娘 が まっさき に 立ち上がっ て 、 その 若々しい 身体 を ぐっと のばし た とき 、 老夫妻 に は それ が 自分たち の 新しい 夢 と 善意 と を 裏書き する もの の よう に 思わ れ た 。