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aozora_Hayashida-2015のコンテキスト表示

title A Wish Fulfilled (Danshi no honkai)
author Hearn, Lafcadio (translator: Hayashida, Seimei)
date 1895 (2015)
source Aozora Bunko (http://www.aozora.gr.jp/cards/000258/card56949.html)
genre fiction
subcorpus Aozora Bunko
terms of use Creative Commons license


 1男子の本懐
 2A WISH FULFILLED
 3( 「 願望成就 」 )
 4小泉八雲 LafcadioHearn
 5林田清明 訳
 6汝 、 その 肉体 を 離れ 、 自由 なる 天空 に 入り し 時 、 不死 なる 永遠 の 神 と なら ん ――
 7もはや 死 といえども 、 汝 を 支配 する こと 忽ら ん
 8―― ギリシア古詩歌
 9
 10市街地 の 通り に は 白い 軍服姿 と ラッパ の 響き 、 それに 野戦砲 の 重々しい 軋み が あふれ て い た 。
 11日本 の 軍隊 が 朝鮮 を 征服 し た の は 史上 三 度目 で ある 。
 12清国 に対する 日本帝国 の 宣戦布告 ( a ) は 、 地元新聞紙 が 赤紙 に 印刷 し て 公 に さ れ た 。
 13帝国 の 全戦力 は この 熊本 に 結集 し つつ あっ た 。
 14集結 し て は 通過 し て いく 軍隊 を 兵舎 や 旅館 それに 寺院 だけ で は 賄い きれ なかっ た から 、 多く の 兵士たち は 民間 の 家 に まで 宿泊 が 割り当て られ た 。
 15それ でも なお 宿泊施設 が 足り ない ので 、 特別列車 を 設え て 兵隊たち を 出来る だけ 速やか に 九州北部 に 輸送 し て い た 。
 16そこ の 下関 に は 輸送船 が 待っ て いる の だっ た 。
 17この よう な 動き の 激しさ と は 対照的 に 、 市中 は 驚く ほど 静寂 を 保っ て い た 。
 18兵隊たち は 、 授業中 の 日本 の 少年たち の よう に 大人しく 、 穏やか だっ た 。
 19威張り散らし たり 、 無鉄砲 な こと を し たり する よう な お祭り騒ぎ は なかっ た 。
 20お寺 の 境内 で は 僧侶たち が 兵士 の 一団 に 説教 を し て いる 。
 21また 、 軍 の 練兵場 で は 、 大祭礼 が 、 わざわざ 京都 の 本山 から 招か れ た 浄土真宗 の 大僧正 によって 執り行わ れ た 。
 22彼 によって 、 何千 人 も の 兵士たち が 阿弥陀 の 御加護 の 下 に 置か れる の で あっ た 。
 23若者 の 一人 一人 の 頭 の 上 に 抜き身 の 剃刀 が 置か れ て いっ た 。
 24それ は これ から は 世俗 の 煩悩 を 捨て 安らか な 世界 を 究め て いく という 象徴 で あり 、 兵士たち を 仏 の 弟子 と する 帰敬式 で あっ た 。
 25仏教 より もっと 古い 信仰 で ある 神道 の 神社 で は 、 神官 と 人々 が 、 かつて 天皇 の ため に 戦っ て 死ん だ 英霊 に 、 また 戦 の 神々 に 祈り を 捧げ て い た 。
 26藤崎宮 で は 、 神符 が 兵士たち に 配ら れ て い た 。
 27なかでも 一番 盛大 な 式 が 本妙寺 で 行わ れ て い た 。
 28そこ は 日蓮宗 の 古刹 で あり 、 また 三〇〇 年 程 前 に 朝鮮 を 征伐 し 、 キリスト教 を 禁制 と し 、 仏教 の 庇護者 で あっ た 加藤清正 の 遺灰 を 安置 し て いる の で ある 。
 29本妙寺 で は 、 参詣者たち が 南無妙法連華経 と 唱える 読経 の 声 が 、 あたかも 打ち寄せる 波 の よう に 響き渡っ て いる 。
 30また 、 本妙寺 で は 、 神格化 さ れ た 英雄 で ある 清正公 の 像 を あしらっ た 、 小さい お寺 の 形 を し た 小振り の 御守 を 買い求める こと が できる 。
 31本妙寺 の 大きな 本殿 と それ に 連なる 長い 参道 に 沿っ て 並ん で いる 小さな 社 で は 特別 な 読経 が 行わ れ て い た し 、 また 、 神明 の 加護 に すがる べく 、 清正 という 英雄 の 霊魂 に 格別 の 祈り が 捧げ られ て い た 。
 32この 三 世紀 の 間 、 清正公 の 鎧 、 兜 それに 太刀 が 本堂 に 安置 さ れ て い た が 、 それら は もう 見る こと が でき ない 。
 33ある 者 によれば 、 軍隊 の 士気 を 高める ため それら は 朝鮮 に 送ら れ た の だ と いう 。
 34また 他 の 者 の 噂 で は 、 天子 の 軍隊 を 勝利 へ と 導く ため に 、 清正公 の 勇敢 な 亡霊 が 長い 眠り の 埃り の 中 から 目覚め て 立ち上がり 、 夜ごと に 境内 で は 馬蹄 の 音 を 響か せ て 往き来 し て いる の だ と いう 。
 35日本国中 から 召集 さ れ た 勇猛 かつ 純朴 な 若者 で ある 多く の 兵隊たち が 、 これら の 話 を 疑い も なく 信じ て いる であろう ――
 36それ は ちょうど マラトン の 戦い で 、 ギリシア の 兵士たち が 伝説上 の 英雄テセウス の 存在 を 信じ た よう に 、 で ある 。
 37ましてや 、 新た に 召集 さ れ た 新兵たち に は 、 熊本 の 地 その もの が かの 偉大 なる 軍将 の 伝説 によって 神格化 さ れ て おり 、 驚嘆 す べき 場所 と 思え た だろう し 、 また 、 この 城 その もの も 清正 が 朝鮮 で 猛攻撃 し た 要塞 の プラン も 取り入れ て 築城 さ れ て おり 、 世界 の 驚異 と も 見え た であろう 。
 38こうした 慌ただしい 軍備 にもかかわらず 、 一般 の 人たち は 普段 と 変わら ず 平静 の まま で あっ た 。
 39外 から 見 た くらい で は 、 外国人 で ある よそ者 に は 彼ら の 一般的 な 感情 を 推し量る こと は でき ない であろう ( 1 ) 。
 40大衆 が 静か な こと は 日本人 の 特徴 で ある 。
 41個人 と 同じ よう に 、 民族 として も 感情 が より 深く 動き 始める と 、 その 外見上 は ますます 自制的 と なる の で ある 。
 42天皇 は 朝鮮 に いる 軍隊 に 御下賜品 を 送ら れ 、 また 、 父 たる 愛情 の こもっ た お言葉 を 賜われ た 。
 43市民たち も 、 この 畏れ多い 例 に 習っ て 、 酒 、 食料品 や 日用品 、 果物 、 珍味 、 煙草 など ありとあらゆる 種類 の 寄贈品 を 船 で 輸送 し た 。
 44高価 な 物品 を 購う こと の でき ない 者たち は 、 草鞋 を 作っ て いる 。
 45全国民 が 戦時基金 に 寄附 を し て いる 。
 46熊本 は けっして 裕福 な 街 で は ない の だ が 、 貧しい 者 も 富める 者 も みな 、 その 忠誠 を 示そ う と し て 熊本市 に でき うる かぎり の 協力 を 惜しま なかっ た 。
 47自発的 な 自己犠牲 という 貴い 慈善 の 下 に 、 商人たち の 小切手 が 、 職人 の 一 円 札 や 労働者 の 銀貨 が 、 それに 車夫 の 銅貨 が 皆 ごたまぜ に 一体 と なっ て 寄付 さ れ て いる 。
 48子どもたち さえ も そう し て いる 。
 49愛国精神 の 発露 は 微塵 も 挫か れ て は なら ない という 理由 から 、 子どもら の 国 を 思う 志 も 受け入れ られ て いる の で ある 。
 50しかし 、 予備兵役 の 兵士たち は ―― 突然 の 召集 に 応じ なけれ ば なら なかっ た 既婚者たち で ある が 、 生計 の 手段 の ない 妻 や 幼子たち と 突然 に 別れ なけれ ば なら なく なっ た ので ―― その 出征留守家族 を 援護 する ため の 特別 の 募金運動 が 街頭 で 行わ れ て いる 。
 51これら は 市民たち が 自発的 に あるいは 心 から 寄附 し よう と 思っ た こと で ある 。
 52自分たち の 背後 に は 、 こうした 無私 の 愛情 が ある と 知っ た 兵士たち は 、 期待 さ れる 本分 以上 の 務め を 尽くす だろう と 誰 も が 考える に 違いない 。
 53そして 、 事実 、 彼ら は そう し た の で あっ た 。
 54注 ( 1 )
 55これ は 一八九四 ( 明治 二七 ) 年 の 秋 に 書か れ た もの で ある 。
 56この 国民 の 熱気 は 集中 し て おり 、 また 、 静か だっ た 。
 57しかし 、 表面上 の 静けさ の 下 に は 古い 封建時代 の あらゆる 残酷さ が くすぶっ て い た 。
 58政府 は 、 たくさん の 志願兵たち ―― 主 に 剣客たち の 志願 を 辞退 し なけれ ば なら なかっ た ほど だっ た 。
 59この よう な 志願 を 募っ た と し たら 、 おそらく 一 週間 の 内 に 十万 人 も の 男たち が 志願 し た の で は ない か と 思わ れる 。
 60しかし 、 戦争 の 精神 は 、 異常 というより も 悲惨 な 、 別 の 面 から 現われ て き た 。
 61兵役 の 機会 を 拒否 さ れ た と いう ので 、 自死 する 者 が たくさん 出 て き た の で ある 。
 62地方新聞 から 不思議 な 事実 を いく つ か 拾っ て み よう 。
 63ソウル駐在 の 憲兵 は 、 大鳥圭介大使 が 帰国 する の を 警護 する よう に 命じ られ た ため 、 戦線 に 出 られ ない こと を 口惜しく 思っ て 自死 し た 。
 64石山 という 将校 は 、 朝鮮 へ向けて の 出発 の 日 に 、 病気 の ため に 隊 に 戻る こと が 出来 なかっ た ので 、 病床 から 起き上がり 、 天皇 の 御真影 を 拝ん だ 後 に 、 自ら の 剣 で 自殺 し た 。
 65大阪 で は 、 池田 という 兵士 が 軍紀 に 反し た という 理由 で 、 戦線 に 赴く 許可 が 出さ れ なかっ た ため に やはり 刀 で 自死 し た 。
 66混成旅団 の 可児大尉 は 、 自分 の 隊 が 忠州近く の 要塞 を 攻撃 中 に 病気 に なっ て しまい 、 意識不明 で 病院 へ 収容 さ れ た 。
 67一 週間後 に 恢復 する と 、 自分 が 倒れ た 場所 に ( 十一 月 二八 日 ) 出かけ 、 自死 し た ――
 68残さ れ た 遺言 は 、 デイリー・メイル社 の 翻訳 によると つぎ の よう で ある 。
 69「 私 は 病気 の ため に ここ に 止まり 、 為 に 隊長 たる 自分 なく し て 部下 に 攻撃 を なさ しめ た 。
 70私 は 人生 における かく の 如き 恥辱 を ぬぐい去る こと は でき ない 。
 71ゆえに 、 自分 の 名誉 の ため に 死 を以て 償う 。
 72この 遺書 を以て 、 自分 の 意 を 述べる 次第 なり 。 」
 73東京 の さる 中尉 は 、 自分 が 出征 すれ ば 母 の い ない 、 まだ 幼い 我が 娘 を 世話 する こと が でき ない ので 、 娘 を 殺害 し た 上 で 、 この 事実 が 明らか に なる 前 に 隊 に 戻っ た 。
 74中尉 は 、 その 後 、 戦地 で 死に場所 を 求め て 死ん だ 。
 75これ は 我が 子 を 冥土 へ 旅出 さ せる つもり だっ た の で ある 。
 76この こと は 、 私たち に 封建時代 の 凄まじい 精神 を 思い起こさ せる もの で ある 。
 77サムライ は 、 勝ち目 の ない 戦 に 出陣 する とき に は 、 時として 自分 の 妻子 を 殺害 し た 。
 78これ は 戦場 で 武士 が 忘れ去る べき 三 つ の 事柄 が 存在 する ため で ある ――
 79すなわち 、 家 、 愛する 者たち 、 そして 自分 の 命 で ある 。
 80残忍凄惨 と も いえる 壮烈 な 所業 の 後 に 、 サムライ は 死にものぐるい と なる ――
 81つまり 微塵 の 躊躇 や 猶予 も 与え ず ―― 「 死 を も 恐れ ぬ 」 決意 の ―― 心構え が できる の で ある 。
 82
 83兵隊さん が お会い し たい と 言っ て おら れ ます が 、 と 万右衛門 が 取り次い だ 。
 84「 おお 、 万右衛門 よ 、 もし や 我が家 に 兵隊さん が 割り当て られ た の で は なかろ う ね !
 85―― この 家 は 狭 すぎる !
 86用件 は 何 か 聞い て おくれ 。 」
 87「 そう し た の です が 、 先様 は 旦那さん を 存じ上げ て いる と おっしゃい ます んで 」
 88私 が 玄関 に 出 て 行く と 、 軍服姿 の 立派 な 若者 が 立っ て い た 。
 89私 が 出 て くる や 帽子 を 取っ て 、 微笑ん だ 。
 90私 は すぐ に は 誰 だ か 分から なかっ た が 、 その 微笑み に は どこ か 懐かしい もの が あっ た 。
 91以前 どこ か で 会っ た こと が ある の だろう か ?
 92「 先生 、 もう お忘れ です か ? 」
 93また も 不思議 に 思っ て 彼 を 見つめ た 。
 94そう し たら 、 静か に 笑い ながら 名前 を 名乗っ た 。
 95「 小須賀麻吉 で あり ます 」
 96心臓 も 飛び出さ ん ばかり に とても びっくり し た が 、 両手 を 差し伸べ て 「 おお 。 さあ 、 お入り 、 お上がり 」 と 私 は 叫ん だ 。
 97「 大きく なっ て 、 立派 に なっ た ねぇ !
 98君 と 分から なくて も 無理からぬ はず だ よ 」
 99彼 は 少女 の よう に はにかん だ 。
 100軍靴 を 脱ぎ 、 帯剣 を 解い た 。
 101私 は 小須賀 が 、 クラス で 同じ よう に はにかん で い た こと を 思い出し た 。
 102答え を 間違え た とき や 誉め られ た とき だ 。
 103彼 は 、 松江 の 中学校 で 恥ずかしがり の 十六 歳 の 少年 で あっ た とき と 同じ よう に 、 明らか に まだ 若い 心 を し て い た 。
 104青年 は お別れ の 挨拶 を する ため に 私 を 訪う 許可 を 軍隊 から もらっ て い た 。
 105彼 の 所属 する 隊 は 、 明朝 に は 朝鮮 に向けて 出発 する 予定 だっ た 。
 106夕食 を 共 に し て 、 出雲 や 杵築 の ―― 懐かしい 頃 や 多く の 愉快 だっ た 事柄 について 語り 合っ た 。
 107はじめ に ワイン を 少し 飲ま ない か と 勧め て み た が 、 彼 は 辞退 し た 。
 108私 は 知ら なかっ た が 、 軍隊 に いる 間 は 決して 酒 を 飲ま ない と 母親 と 約束 し て いる の だ そう だ 。
 109代わり に コーヒー を 勧め て 、 彼 自身 の こと を 話す よう に 仕向け た 。
 110彼 は 中学校 を 卒業 する と 、 裕福 な 農家 で ある 実家 に 戻っ て 、 手伝い を し て い た 。
 111学校 で 農業 について 勉強 し た こと が とても 役 に 立っ た と 言っ た 。
 112一 年 ほど 経っ た 頃 、 小須賀青年 も 含め 十九 歳 に 達し た 村 の 若者たち は 、 村 の 寺 に 集め られ て 身体検査 および 学科試験 の 兵役検査 を 受け た 。
 113軍医 の 検査官 と 少佐 の 評議 の 結果 、 彼 は 一番 で 合格 し た 。
 114翌年 に 入営 する よう に 召集 さ れ た の で あっ た 。
 115十三 ヶ月 に およぶ 訓練 の 後 に 、 伍長 に 昇進 し た 。
 116軍隊 を 気 に 入っ て い た 。
 117名古屋 に 駐屯 し た のち 、 東京 に 行っ た 。
 118けれども 、 自分 の 隊 が 朝鮮 に 送ら れ ない こと が 分かっ て 、 熊本 の 師団 に 転属 を 願い出る と 、 これ は うまく 認め られ た 。
 119その 顔 は 兵士 として の 喜び に 満たさ れ た 顔 を し て い て 、 「 今 、 自分 は 大変 喜ん で おり ます 」 と 言っ た 。
 120「 自分 は 、 明朝 出発 致し ます 」 そう 言っ た とき 、 彼 は 再び 顔 を 赤らめ た 。
 121それ は 、 あたかも 自分 の 素直 な うれしさ を 述べ て しまっ た こと を 恥じる か の よう で あっ た 。
 122この とき 、 私 は トーマス・カーライル の 含蓄 ある 言葉 を 思い浮かべ た 。
 123それ は 、 本当 の 心 を 引き出す の は 、 快楽 で は なく 艱難辛苦 と 死 で ある という もの だっ た 。
 124また 私 は 思っ た ――
 125今 まで どの 日本人 に も 言え なかっ た の で ある が ―― この 青年 の 眼 の 中 に ある 愉悦 は 、 婚礼 の 日 に 花婿 の 眼 の 中 に ある 慈愛 の 他 に は 、 以前 に も 見 た こと が なかっ た もの で ある 、 という こと で ある 。
 126「 覚え て いる かい ?
 127いつ か 教室 で 君 が 天皇陛下 の ため に 死に たい と 言っ た とき の こと を 」
 128「 はい 、 覚え て おり ます 」 彼 は 照れ笑い し ながら 答え た 。
 129「 そして 、 ついに その 機会 が 到来 し まし た ――
 130自分 ばかり で は なく 、 自分 の 学級 の 何 人 か の 級友 にとって も 、 で あり ます 」
 131「 みんな は どこ いる ?
 132君 と 一緒 かい ? 」 と 私 は 尋ね た 。
 133「 いいえ 、 連中 は みな 広島 の 師団 に おり まし た が 、 今 は もう 朝鮮 に おり ます 。
 134今岡 ( 先生 は 覚え て おら れ ます か 、 とても 背 の 高い 奴 です ) 、 そして 長崎 と 石原 の ―― 三 名 と も 成歓の戦い ( b ) で 一緒 でし た 。
 135それに 自分たち の 教練 の 教官 だっ た 中尉殿 を ―― 覚え て おら れ ます か ? 」
 136「 藤井中尉 だ ね 、
 137覚え て いる よ 。
 138彼 は 退役軍人 だっ た 。 」
 139「 中尉殿 は 予備役 だっ た ので 、 この 度 朝鮮 に 出征 さ れ まし た 。
 140先生 が 出雲 を 去ら れ た 後 に 、 息子さん が また 生まれ た ん です 。 」
 141「 私 が 松江 に い た とき に は 、 たしか 娘 二人 に 息子 一人 が い た ね 」 と 私 は 答え た 。
 142「 はあ 、 今 で は 息子さん が 二人 です 」
 143「 それじゃ 、 きっと 残さ れ た 家族 は 中尉 の こと を とても 心配 し て いる に 違いない ね ? 」
 144「 それが 中尉殿 は 露 ほど も 心配 さ れ て おり ませ ん 」
 145青年 は 答え た 。
 146「 戦争 で 死ぬ こと は とても 名誉 な こと で あり ます 。
 147お国 が 遺族 の 面倒 を 見 て くれる でしょう 。
 148それで 、 自分たち の 上官殿たち は 恐れ て は い ませ ん 。
 149ですが ―― 息子 が い なくて 死ぬ こと は とても 悲しい こと です 」
 150「 私 に は わから ん な 」
 151「 西欧 で も 、 そう で は ない の です か ? 」
 152「 むしろ 、 子ども の ある 男 が 死ぬ の は とても 悲しい こと だ と 思う が ね 」
 153「 しかし 、 どうして で あり ます か ? 」
 154「 良き 父親 という の は 自分 の 子どもたち の 将来 を 心配 し て いる もの だ から ね 。
 155突然 に 逝っ て しまっ たら 、 子どもたち は 大きな 悲しみ を 背負う こと に なる よ 」
 156「 自分たち の 上官殿 の 家族 において は その よう な こと は あり ませ ん 。
 157その 親類 が 遺児 の 面倒 を よく 見 て くれる でしょう し 、 また お国 から は 軍人恩給 として 遺族 に は 扶助料 が 給付 さ れ ます 。
 158ですから 、 父親 に は 後顧 の 憂い など あり ませ ん 。
 159ただ 、 子ども の い ない 者 にとって は 死 は 気の毒 な こと に なり ます 」
 160「 君 が 言っ て いる の は 、 妻 と 残さ れ た 遺族 にとって 気の毒 な こと という こと だ ね 」
 161「 いいえ 、 違い ます 。
 162私 が 言っ て いる の は 、 男子 自身 つまり 夫 にとって 、 という 意味 です 」
 163「 それ は また 、 どうして かね ?
 164息子 は 死ん だ 男 にとって 何 の 役 に 立つ の かね 」
 165「 男の子 は 家 を 継承 し ます 。
 166男の子 は 家名 を 継ぎ ます し 、 また 供養 も し ます 」
 167「 死者 へ の 供養 かね ? 」
 168「 はい 、 そう です 。
 169納得 し て いただけ まし た でしょう か ? 」
 170「 私 は 事実 は 理解 する が 、 気持ち は 分から ない 。
 171軍人 という 者 は 、 この よう な もの を 信じ て いる の かね 」
 172「 もちろん です 。
 173西欧 に は かよう な 信念 は ない の です か ? 」
 174「 現在 で は ない ね 。
 175大昔 の ギリシア人 や ローマ人 なら その よう な 信念 を 持っ て い た こと が あっ た 。
 176彼ら は 、 自分たち の 先祖 の 霊魂 が 家 の 中 に 宿り 、 供養 を 受け 、 家族 を 見守る もの で ある と 考え て い た 。
 177なぜ 彼ら が そう 考え た の か 、 私たち は 、 その 一部 なら 分かる 。
 178けれども 、 彼ら が どのように 感じ た か まで は 、 今日 の 我々 が 詳しく 知る こと は でき ない 。
 179なぜなら 、 私たち が 経験 し なかっ た 、 あるいは 私たち が 引き継が なかっ た 感情 を 理解 する こと は でき ない から だ 。
 180同じ 理由 から 、 死ん だ 人 に関する 日本人 の 本当 の 感情 といった もの を 私 は 知る こと は でき ない 」
 181「 それでは 先生 は 死 は あらゆる もの の 終焉 を 意味する と お考え な の です か ? 」
 182「 それ は 、 私 が 不可解 で ある と 考え て いる こと の 説明 に は なら ない ね 。
 183ある 感情 は 受け継が れる ――
 184おそらく 、 ある 観念 も 。
 185君たち の 、 死者 に対する 感情 や 考え は 西洋 の もの と は まるで 違っ て いる 。
 186私たち にとって 、 死 の 観念 という もの は 、 まったくの 別離 つまり 生き て いる 者 から だけ で は なく 、 現世 から の 分離 な ん だ よ 。
 187仏教 に も 死者 が 辿ら なくて は なら ない 長く 暗い 旅 について の 教え が ある でしょう ? 」
 188「 冥土 へ の 旅 の こと です か ――
 189そう です 。
 190誰 でも この 旅 を し なけれ ば なり ませ ん 。
 191けれども 私たち は 死 を 完全 な 別離 だ と は 考え て おり ませ ん 。
 192死ん だ 者 は 私たち と共に いる と 思っ て いる の です 。
 193現に 、 私ども は 毎日 彼ら に 話しかけ て い ます 」
 194「 それ は 分かっ て いる 。
 195私 が 分から ない の は 、 事実 の 背後 に ある 観念 だ 。
 196もし 死者 が 冥土 に 行く なら 、 なぜ 供養 が 仏壇 の 先祖たち に なさ れ なけれ ば なら ない か という こと だ よ 、
 197また 、 お祈り は 先祖たち が 本当 に 存在 し て いる か の よう に 唱え られ て いる かい ?
 198一般 の 人たち は 仏教 の 教え と 神道 の 信仰 と を こんな 風 に 混同 し て いる の で は ない の かね ? 」
 199「 たぶん 、 多く の 人たち は そう かもしれません 。
 200けれども 、 仏教 だけ を 信じ て いる 者 において さえ も 、 死者 へ の 供養 と お祈り は 同じ 時 に 異なっ た 場所 で なさ れ て い ます ―― 檀家 の お寺 で 、 そして 、 また 自分 の 家 の 仏壇 の 前 で 」
 201「 しかしだね 、 どのように 霊魂 が 冥土 に いる と 考え られ 、 また 、 同時 に 他 の 種々 な 場所 に も いる と 信じ られる だろう か ?
 202かり に 霊魂 が 多数 存在 する と 考え られ た と し て も 、 この こと は 矛盾 を 説明 し た こと に は なら ない 。
 203仏教 の 教え によれば 、 死者 は 裁か れる から だ 」
 204「 私たち は 、 死者 の 魂 は 一 つ でも また 複数 でも 存在 する と 信じ て い ます 。
 205一人 の 人間 の もの だ と 思っ て い ます 。
 206私たち は 空気 の 流れ の よう に 、 一時 に 多く の 場所 に 存在 し うる よう な もの と 考え て いる の です 」
 207「 あるいは 、 電気 の よう に だ ね ? 」
 208私 が 示唆 し た 。
 209「 そう で あり ます 」
 210私 の 若い 友人 にとって は 、 冥土 の 観念 と 家 で する 死者 へ の 祈り の 観念 と は 明らか に 矛盾 する もの で は ない と 思わ れ て いる 。
 211そして 、 おそらく 仏教哲学 の 信奉者 にとって も 、 何 の 重大 な 矛盾 も 含ん で い ない の であろう 。
 212法華経 に は 、 仏教世界 は 「 無量無辺 にして …… 虚空 に 遍満 す 」 と ある 。
 213涅槃 に 入っ た 仏陀 について 、 「 如来 の 滅後 に於て 、 十方世界 に 周旋往返 し ( 此方 彼方 を 行き巡っ ) て 」 と 言っ て いる 。
 214また 、 同経典 は 、 「 無量千万億 の 菩薩・摩訶薩 あり て 、 同時 に 湧出せり 」 と し て いる 。
 215仏陀 は 「 我が 分身 の 無量諸仏 、 恒沙 等 ( ガンジス河 の 砂 ) の 如く 、…… 法 を して 久しく 住せ しめ ん ( 妙法 を 将来 にわたって 広く 伝え て いく ) が故に 、 ここ に 来至 し たまえ り 」 と 宣言 し て いる 。
 216しかし 、 私 に は 、 庶民 の ごく 素朴 な 想像力 において は 、 神道 の 原始的 な 概念 と 、 仏教 の 教え で ある 魂 の 裁き という はるか に 明白 な 教義 と の 間 に は 、 真 に 合致 する もの は 明らか に ない よう に 思える の で ある 。
 217「 君たち 日本人 は 、 死 という もの を 生 と 同じ よう に 、 また 光 と 同じ よう に 、 本当 に 考える こと が できる の かね 」 と 私 は 問う た 。
 218「 ええ 、 そう です 」 と 微笑み ながら 答え た 。
 219「 私たち は 、 死後 も 自分 の 家族 とともに ある の だ と 考え て い ます 。
 220自分 の 両親 に 、 また 友人たち に 会える の です ――
 221今 ちょうど 光 を 見 て いる よう に です 」
 222( この とき 、 不意 に 新しい 意味 が 私 に わき上がっ て き た 。
 223「 彼 の 魂 は 永遠 に 宇宙 を 飛翔 する 」
 224それ は 正義 の 人 の 将来 について という 、 ある 生徒 の 作文 の 中 に あっ た 言葉 で ある 。 )
 225麻吉 は 続け て 言う に 、 「 それ だ から 、 男の子 を 持つ 人 は 、 何 の ためらい も ない 晴れ晴れ と し た 気持ち で 死ぬる こと が できる の です 。 」
 226「 その 息子 が 、 魂 の 憂い が ない よう に 供物 と 飲み物 を 供養 し て くれる から かね 」 と 私 は また 尋ね た 。
 227「 それ だけ で は あり ませ ん 。
 228供養 の 外 に も もっと 大切 な 務め が ある ん です 。
 229それ は 人 という もの は 誰 でも 死後 に も 自分 を 愛し て くれる 者 を 必要 と し て いる から です よ 。
 230これ で もう お分かり いただけ た でしょう 」
 231「 君 の 言葉 だけ は ね 。
 232つまり 、 君たち が そう 信じ て いる という 事実 だけ は 分かっ た 。
 233でも どう し て も 分から ん の は 気持ち だ よ 。
 234生き て いる 者 の 愛情 が 、 私 の 死後 も 私 を 幸福 に できる なんて 考え られ ない ねぇ 。
 235自分 の 死後 も 何ら か の 愛情 を 私 自身 が 意識 できる なんて とても 想像 でき ない 。
 236で 、 君 は これ から 戦地 に 赴こ う と し て いる の だ が ――
 237だったら 、 君 は 自分 に 息子 が い ない こと を 不幸 だ と 思っ て いる の ? 」
 238「 自分 が です か ?
 239とんでもない です 。
 240自分自身 は 息子 な ん です ――
 241次男 で あり ます 。
 242両親 とも まだ 存命 です し 、 健康 で あり ます 。
 243自分 の 兄 が 両親 の 面倒 を 見 て おり ます 。
 244ですから 、 たとえ 自分 が 死ん だ として も 私 を 愛する 誰 か が 家 に おり ます ――
 245兄弟 や 姉妹 、 それに 幼い 者たち も おり ます 。
 246自分ら 兵隊 は 別 です よ 。
 247自分たち は ほとんど が 次男坊 ばかり です から 」
 248「 何 年間 くらい 死者 を 供養 する の かい ? 」 と 私 は 聞い た 。
 249「 百 年間 です 」
 250「 たった の 百 年間 かい ? 」
 251「 そう です 。
 252お寺 でさえ 念仏 や 供養 は 百 年間 だけ しか し ませ ん 。 」
 253「 それでは 死者 は 百 年 経て ば 思い出し て もらえ なく なる ん だ ね ?
 254あるいは 、 彼ら は ついに は 消え て 失くなる の だろう か ?
 255霊魂 の 消滅 という の が ある の かい ? 」
 256「 いいえ 、 百 年後 に は 彼ら は もはや 私たち と共に は い ませ ん 。
 257何時 の 日 か 、 彼ら は 再び 生まれ変わる の です 。
 258他 の 人 によると 、 彼ら は 神 に なり 、 神 として 敬わ れる と いい ます 。
 259そして 、 ある 定め られ た 日 に は 床の間 で 彼ら を 供養 を する の です 」
 260( これ は 普通 に 受け入れ られ て いる 説明 で ある が 、 これ と 違う 、 不思議 な 信心 について 聞い た こと が ある 。
 261格別 に 優れ た 徳 を 備え た 家 に は 先祖 の 霊 が 物 の 形 を 取っ て 、 何百 年 経っ て も ときどき 見る こと が できる という 言い伝え が あっ た 。
 262昔 の ある 千ヶ寺詣 ( 2 ) が 、 国内 の ある 遠く 離れ た 所 で 二 つ の 魂 を 見 た という 話 が 伝え られ て いる 。
 263それら は 、 「 古い 銅像 の よう に 薄黒 」 く て 小さく て 、 おぼろげ な 形 を し て い た 。
 264それら は 喋る こと は でき なかっ た が 、 それら の 前 に 置か れ た 日常 の 食物 の 暖かい 湯気 を 吸っ て いる だけ で あっ た 。
 265それら の 子孫たち が 言う に は 、 それら の 魂 は しだいに 小さく また おぼろげ に なっ て いる そう だ 。 )
 266「 私たち が 死ん だ 者 を 愛す べき だ という の は 、 とても 奇妙 な こと だ と 、 先生 は お考え です か 」
 267麻吉 が 尋ね た 。
 268「 いいや 」 と 私 は 答え た 。
 269「 とても すばらしい こと だ と 思う ね 。
 270西洋 の 異邦人 の 一人 として 私 にとって みれ ば 、 その よう な 習慣 は 、 現代 の もの で は なくて 、 もっと 古い 時代 の 世界 の もの の よう に 思わ れる 。
 271死者 に関する 古代ギリシア人 の 考え が 現代日本人 の 観念 に より 近い と 考え られる よ 。
 272ペリクレス時代 の アテネ の 兵士 の 感情 が 、 おそらく この 現代 の 明治時代 の 君たち の それ と 同じ だろう 。
 273君 は 、 学校 で ギリシア人 が 死者 に 生け贄 を 捧げ た とか 、 彼ら が 勇敢 な 男たち や 愛国者たち の 魂 に 敬意 を 払っ た とか を 読ん だ こと が ある だろう 」
 274「 そう です ね 。
 275彼ら の 習慣 の 幾 つ か は 自分たち の と 似 て い ます 。
 276中国 と の 戦 で 死ぬ 我が 同胞 も また 、 敬意 を 払わ れる でしょう 。
 277彼ら は 神 として 讃え られる の です 」
 278「 けど 、 異国 の 地 にあって 、 父 の 墓 から 遠く 離れ て 死ぬ こと は 、 ヨーロッパ人 にとって すら も 、 とても 悲しい こと で ある の だ よ 」 と 私 は 言っ た 。
 279「 いや 、 違い ます 。
 280彼ら の 出身 の 村 や 町 に は 、 戦死者 を 名誉 に 思っ て 祈念碑 が 建立 さ れる でしょう 。
 281また 、 戦死 し た 者 の 遺体 は 火葬 さ れ て 、 その 遺灰 が 日本 の 家 に 送ら れ ます 。
 282そう する こと が 可能 で ある 場合 に は 、 そう さ れる でしょう 。
 283ただ 大きな 戦 の 後 で は 、 それ は 無理 かもしれません が 」
 284( この 時 、 ホメロス の イーリアス の 一節 が ふっと 浮かん だ 。
 285「 軍兵 の 死屍 山 と なし 、 死屍 焼く 紅蓮 の 火焔 収まる を 知ら ず 」 という 古戦場 の 情景 が ありあり と 浮かん で き た 。 )
 286「 今般 の 戦争 で 戦死 し た 兵士たち の 霊魂 は 今後 の 国難 に際し 救国 の ため に いつも 祈念 さ れる と は 限ら ない ん だろう ね ? 」
 287「 まさか 。
 288そんな こと は あり ませ ん 。
 289つね に 拝ま れ ます 。
 290自分たち は すべて の 人 から 敬愛 さ れ 、 崇め られる の です 」
 291彼 は すでに 運命 づけ られ た 者 の よう に 、 ひとりでに 「 自分たち 」 と 言っ た 。
 292しばらく し て 、 また 語り はじめ た 。
 293「 まだ 学校 に おり まし た 昨年 、 自分たち は 行軍 に 行っ た こと が あり まし た 。
 294意宇 という 地区 の 神社 まで 行軍 し た の です が 、 そこ に は 英霊 が 祀っ て あり まし た 。
 295そこ は 、 丘 の 合間 の ところ に あっ て 、 美しく また 静か な 所 でし た 。
 296神社 の 社 に は とても 高い 樹々 の 蔭 が 差し て い まし た 。
 297そこ は 薄暗く て 、 ひんやり と し た 静寂 な 場所 でし た 。
 298神社 の 前 で 軍隊式 に 整列 し まし た 。
 299誰 も 一言 も 喋り ませ ん 。
 300その とき 、 ラッパ の 音 が 、 戦闘 の 合図 の よう に 、 神聖 な 森 に 響き渡り まし た 。
 301自分たち は みな 、 捧げ銃 を し まし た 。
 302自分 の 眼 に は 涙 が 込み上げ て き まし た ――
 303なぜ だ か は 分かり ませ ん 。
 304仲間 を 見 ます と 、 彼ら も 私 と 同じ よう に 感じ て いる よう でし た 。
 305おそらく 先生 は 外国人 で あら れる ので 、 お分かり いただけ ない だろう と 思い ます 。
 306けれど 、 日本人 なら 誰 も が 知っ て い ます が 、 その とき の 心情 を 大変 よく 表し て いる 短い 詩 が あり ます 。
 307それ は 西行法師 が かなり 昔 に 書い た もの です 。
 308彼 は 出家 する 前 は 武士 でし た が ―― 名 を 佐藤義清 と いい ます 。
 309何ごと の おはし ます か は 知ら ね ど も 有り難さ に ぞ 涙 こぼるる ( 3 )
 310こんな 告白 を 聞く の は 初めて で は なかっ た 。
 311教え子 の 多く が 聖者 を 祀る こと によって 喚起 さ れる 感情 や 古い 神社 の 薄暗い 静寂さ について よく 語っ て い た の で ある 。
 312麻吉 の この 経験 も 、 事実 大海原 の 一 個 の 波 ほど に も 格別 と いう ほど の もの で は なく し て 、 ごく 普通 の もの だっ た 。
 313彼 が 語っ た の は 、 ある 一 つ の 先祖伝来 の 感情 ―― 神道 という 漠然 と し た 、 しかし 測り知る こと の でき ない 感情 といった もの で ある 。
 314私たち は 柔らかい 夏 の 宵 の 帳 が 降り はじめる 頃 まで 話し 続け た 。
 315天 の 星 と お城 の 電光 と が 互い に 煌めい て い た 。
 316ラッパ が 鳴っ た 。
 317加藤清正 の 居城 から 、 一万 の 兵たち の 唄う 歌 が 雷鳴 の よう に 深く くぐもっ た 音 で 、 夜 の 闇 の 中 に 響き渡っ た ――。
 318西 も 東 も 、 皆 敵 ぞ
 319南 も 北 も 、 皆 敵 ぞ
 320寄せ来る 敵 は 不知火 の 筑紫 の 果て の 薩摩潟 ( 4 )
 321「 君 も あの 歌 を 習っ た ん だ ね 」
 322私 は 聞い た 。
 323「 はい 、 そう で あり ます 。
 324兵 は みな あの 歌 を 知っ て おり ます 」
 325それ は 熊本籠城 という 式歌 で あっ た 。
 326耳 を 澄まし て 聞い て いる と 、 雄々しく 響く 大音声 の 中 に 歌詞 の 幾 つ か を 聞き取る こと が でき た 。
 327天地 も 崩るる ばかり なり
 328天地 は 崩れ 山河 は 裂かる 例 の あら ば とて 動か ぬ もの は 君 が 御代
 329しばらく 麻吉 は 軍歌 の 力強い 拍子 に 合わせ て 肩 を 揺すり ながら 聴い て い た 。
 330そして 、 急 に 目覚め た か の よう に 、 笑い ながら 言っ た 。
 331「 先生 、 もう お暇 致し ます !
 332なん と お礼 を 申し上げ て よい か 。
 333自分 にとって は 、 この 上 ない 愉快 な 日 を 過ごさ せ て いただき まし た 。 」
 334―― 胸 の ポケット から 小さな 封筒 を 取り出す と 、
 335「 どうぞ これ を お受け取り 下さい 。
 336かつて 先生 は 自分 の 写真 が 欲しい と 仰い まし た ので 、 記念 に と 持っ て 参り まし た 。 」
 337立ち上がる と 、 短剣 を 帯び た 。
 338玄関 で 握手 を 交わし た 。
 339「 先生 、 朝鮮 から 何 か お送り し ましょ う か ? 」 と 言っ た 。
 340「 手紙 だけ で いい よ 」 と 私 は 答え た 。
 341「 次 の 大勝利 の 後 に ね 。 」
 342「 かしこまり まし た 。
 343自分 が ペン を 執る こと が でき たら です が …… 」 と 彼 は 答え た 。
 344銅像 の よう に 直立 し た まま 、 私 に 軍隊式 の 敬礼 を し た 。
 345そして 、 闇 の 中 へ と 歩き出し た 。
 346客 の 去っ た 人気 の ない 客間 に 戻る と 、 私 は しばらく 物思い に ふけっ て い た 。
 347まだ 兵士たち の 歌声 が 雷鳴 の 轟き の よう に 聞こえ て いる 。
 348私 は 列車 の 軋む 響き を 聴い た が 、 それ は 数多 の 若い 心 や 、 たくさん の 死 を も 厭わ ぬ 忠誠心 それに 賞賛 に 値する 信念 や 、 愛 と 勇気 と を 溢れ ん ばかりに 乗せ て 、 中国大陸 の 田園 に ある 熱病 へ と 、 また 幾多 の サイクロン の よう な 死 の 渦巻 へ と 運び去っ て いく の で あっ た 。
 349注 ( 2 )
 350千ヶ寺詣 という の は 、 日蓮宗 の 有名 な お寺 の 千 カ所 を 廻っ て 歩く 巡礼 の こと で ある 。
 351この 巡礼 を する に は 何 年 も かかる と いう 。
 352注 ( 3 )
 353「 何事 が そこ に ( 起こっ た ) ある か は 、 私 に は 分から ない けれど 、 〔 社頭 に 立つ と いつも 〕 有り難く も 涙 が こぼれる 。 」
 354注 ( 4 )
 355つぎ は 、 同じ 様 な 拍子 で 訳出 し て み た もの で ある 。
 356ああ 、 この 土地 の 南 も 北 も 、 皆 敵 で 埋め 尽くさ れ て いる
 357そして 、 西 も 東 も 皆 敵 ばかり だ 。
 358誰 も 寄せ来る 敵 の 数 は 知ら ない 。
 359薩摩 の 海岸 から 、 筑紫 の 海 から
 360
 361地元 の 新聞紙 に 載っ た 戦死者名簿 は 長い もの だっ た が 、 その 中 に 「 小須賀麻吉 」 の 名前 を 見つけ た 。
 362その 日 の 夕べ 、 万右衛門 が お弔い を する の と 同じ よう に 、 客間 の 床の間 を 飾っ て 灯明 を 点し た 。
 363花瓶 に は 花 が 生け られ て 、 いく つ か の 小さな ランプ に は 灯り を 入れ 、 銅 の 小さな 香炉 に は 線香 が 焚い て ある 。
 364やがて 準備 が すっかり 整う と 、 私 を 呼び に 来 た 。
 365祭壇 に 近づく と 、 小さな 台 の 上 に は 若者 の 写真 が 立て て あっ た 。
 366その 前 に は 、 御仏飯 や 果物 それに 菓子 の 小さな 盛り が 並べ て 御供え し て ある ――
 367この 老人 の 心 ばかり の 御供え物 で ある 。
 368「 あのう 」 と 万右衛門 が 畏まっ て 言う 。
 369「 あの 人 は 旦那さん の 英語 を お分かり なさっ た です から 、 話しかけ て おやん なさる なら 、 さぞかし あの 方 の 魂 も 喜び ます こと でしょう 。 」
 370私 が 彼 に 語りかける と 、 線香 の 煙 の 中 から 写真 の 麻吉 が 微笑ん だ よう に 思わ れ た 。
 371けれど 、 私 が 言っ た こと は 、 彼 だけ と 神々 の ため で あっ た 。
 372訳注
 373( a )
 374「 清国 ニ対スル 宣戦 ノ 詔勅 」 一八九四 ・ 明治 二七 年 八 月 一 日 を 指す 。
 375( b ) 成歓の戦い
 376一八九四 ・ 明治 二七 年 七 月 二八 日 から 二九 日 にかけて 朝鮮半島 忠清道成歓 付近 で 行わ れ た 、 日清戦争 の 最初 の 主要 な 戦い 。