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aozora_Hisao-1939のコンテキスト表示

title Kyarako san (01 Shakoo shitsu)
author Hisao, Juran
date 1939
source Aozora Bunko (https://www.aozora.gr.jp/cards/001224/card47486.html)
genre fiction
subcorpus Aozora Bunko
terms of use Creative Commons license


 1キャラコさん
 2社交室
 3久生十蘭
 4
 5青い 波 の うねり に 、 初島 が ポッカリ と 浮ん で いる 。
 6英国種 の 芝生 が 、 絨氈 を 敷い た よう に ひろがっ て 、 その うえ に 、 暖い 陽ざし が さんさんと ふりそそい で いる 。
 7一 月 だ と いう のに 桃葉珊瑚 の 緑 が 眼 に しみる よう 。
 8椿 の 花 が 口紅 の よう に 赤い 。
 9正月 も 半ばすぎ な ので 、 暮 から 三ガ日 へ かけ た ほど の 混雑 は ない が 、 それでも 、 この 川奈 の 国際観光ホテル に は 、 ここ を 冬 の 社交場 に する 贅沢 な ひとたち が 二十 人 ほど 、 ゴルフ を し たり 、 ダンス を し たり 、 しごく のん気 に 暮らし て いる 。
 10時節柄 、 外国人 の 顔 は あまり 見え ず 、 三 階 の 南側 の バルコン の つい た 部屋 に 母娘 の フランス人 が ひと 組 だけ 滞在 し て いる 。
 11巴里 の 有名 な 貿易商 、 山田和市氏 の 夫人 と 令嬢 で 、 どちら も 相当 に 日本語 を 話す 。
 12夫人 は ジャンヌさん 、 娘 は イヴォンヌさん と いっ て 、 今年 十七 歳 に なる 。
 13朝露 を うけ た 白薔薇 といった 感じ で 、 剛子 は たいへん この お嬢さん が 好き だ 。
 14もしや 、 露台 の 揺り椅子 に でも 出 て い は し まい か と 、 その ほう を 見あげ た が 、 窓 に は 薄地 の カアテン が すんなり と たれさがっ て いる ばかり で 、 その ひと の すがた は 見え ない 。
 15めった に 社交室 へ も 顔 を 出さ ずに 、 いつも 母娘 二人 だけ で 楽し そう に 話し あっ て いる 。
 16なんて 淑やか に 暮らし て いる ん だろう と おもっ て 、 うらやましく なる 。
 17それ に ひきかえ て 、 『 社交室 』 の 連中 は 、 いったい 、 どう し た と いう の だろう 。
 18ゴルフ の 話 、 競馬 の 話 、 流行 の 話 、 映画 の 話 、 …… 浜 の 砂 と 話題 は つき ない が 、 なにより 好き な の は 他人 の あらさがし で 、 よく 飽き ない もの だ と 思わ れる ほど 、 男 も 女 も ひがな まいにち 人 の 噂 ばかり し て 暮らし て いる 。
 19この ホテル に 泊っ て いる ひとびと の 噂 や 品評 が おも で 、 社交室 に い合わせ ない ひとたち が 片っ端 から 槍玉 に あげ られる 。
 20誰れ か ちょっと 座 を 立っ て ゆく と 、 すぐ その ひと の 品評 に うつり 、 今 まで ひと の 噂 を し て い た その ひと が 、 こんど は さんざん に やっつけ られる 。
 21まるで 、 この ホテル の ほか に 世界 が ない よう に 、 互い に 鵜の目鷹の目 で 他人 を 見張っ て いる 。
 22巧妙 な あてこすり も あれ ば 、 洗練 さ れ た 皮肉 も ある 。
 23ちょっと 聞く と 、 たいへん 褒め て いる よう で 、 その じつ 、 ちゃんと 毒 の ある 中傷 に なっ て いる の だ から 油断 も 隙 も あっ た もの じゃ ない 。
 24この 連中 に かかっ たら 、 どんな に 隠し て おき たい こと で も 、 遠慮会釈 なく あかるみ へ ひき出さ れ 、 なん 倍 か に 引きのばさ れ 、 拡声機 に かけ て ホテル の 隅々 に まで 吹聴 さ れ て しまう 。
 25剛子 が この ホテル へ き て から 、 今日 で ちょうど 半月 に なる 。
 26こんな 贅沢 な ホテル で ぶらぶら し て い られる 身分 で も なけれ ば 、 また 、 たいして 好き で も ない 。
 27叔母 の 沼間夫人 が しつこく すすめる ので しょうことなし に やってき た 。
 28だいいち 、 それ が 妙 で しょうがない 。
 29日ごろ は 、 こんな 親切 な 叔母 で は ない の で ある 。
 30むしろ 、 意地悪 だ と いっ た 方 が 早い だろう 。
 31それも 相当 渋い もの で 、 眼 に たつ 意地悪 を する の で は ない 。
 32思い も かけ ぬ よう な ところ で ピリッと 辛い の で ある 。
 33こういう 複雑 な やりかた も ある もの か と 、 その つど 、 剛子 は あっけ に とら れる 。
 34なにしろ 、 打算 に たけ た 叔母 の こと だ から 、 どうせ 、 なに か 相当 の 理由 が なくて は なら ぬ はず だ 。
 35なかなか 、 二人 の 娘 の ひきたて役 ぐらい の ところ で は なかろ う と おもわ れる 。
 36考え て も わかり そう も ない こと だ し 、 生れつき 屈託 の ない たち だ から 、 あまり 深い せんさく は し ない こと に し て いる 。
 37なに か 自分 の 信念 に 反する よう な こと でも おしつけ られ たら 、 その 時 は それ に 相当 し た 態度 を とれ ば いい 。
 38つつましく は 暮らし て き た が 、 そういう 場合 に とる べき 態度 だけ は ちゃんと 教え られ て いる 。
 39剛子 は 、 もう 一 時間 も こうして ひとり で サン・ルーム の 竜舌蘭 の そば に かけ て いる 。
 40ここ へ は だれ も やってこ ない し 、 窓 から は 陽 が さしこむ し 、 居心地 の 悪い こと は ない の だ が 、 どう にも 退屈 で やり きれ なく なっ て き た 。
 41なに も し ない で いる という の は 、 なんという 厄介 な こと だろう 。
 42もっとも 、 これ は 今日 に 始まっ た こと で は ない 。
 43ここ へ き て もう 二 日目 に すっかり 退屈 し て しまっ た 。
 44それで 、 暮 から しかけ に なっ て い た 編物 を とりだし て せっせと やっ て いる と 、 叔母 が 忍び足 で やってき て 、 小さな 声 で しかりつけ た 。
 45「 あんまり 、 みっともない こと は 、 し ない で ちょうだい 」
 46編物 を する の が 、 なぜ みっともない の か 剛子 に は わから なかっ た が 、 素直 に 叔母 の 意見 に 服従 し た 。
 47しかし 、 どう にも てもちぶさた で しようがない ので 、 図書室 から メリメ の 『 コロンバ 』 を 持ちだし 、 主人公 の ネヴィール嬢 に 興味 を 感じ て 、 すこし 熱く なっ て 夢中 に なっ て 読ん で いる と 、 また いつ の 間 に か 叔母 が うしろ へ き て 、 たいへん 優雅 な しかた で 、 剛子 の 手 の なか から 本 を とりあげ て しまっ た 。
 48「 どうして 、 あなた は 、 そう 、 こせこせ する ん でしょう 。
 49お嬢さまらしく おっとり し て いる こと は でき ない の 。
 50育ち の 悪い の を 、 あまり 、 ひと に 見 られ ない よう に し て ちょうだい 。
 51あたしたち に 恥 を かか せ たく ない と 思っ たら 」
 52剛子 は 、 これ に も 素直 に うなずい た 。
 53読書 を する の が なぜ お嬢さんらしく ない ん です か 、 など と ききかえし は し なかっ た 。
 54たぶん 、 皮肉 に きこえる だろう と 思っ た から …… 。
 55相手 が 叔母 で なく とも 、 こんな ちいさな こと で 争う 気 に は なれ ない の で ある 。
 56叔母 が 図書室 を 出 て ゆく と 、 剛子 は 、 ひくい 声 で 自分 に いっ て きか せ た 。
 57「 ほんと に 、 あたし 、 お嬢さん で なくて よかっ た わ 」
 58剛子 は 立ちあがっ て 窓 から 首 を つきだす 。
 59樹墻 を 越え て その 向う に 、 川奈ゴルフ・リンク の フェア・ウェイ が ひろびろ と ひらけ 、 ゴルファー が 歩き まわっ て いる が 指 の さきほど に 小さく 見える 。
 60剛子 は 田園嫌い で は ない が 、 どう も 、 これ は すこし 退屈 な 風景 で ある 。
 61心そこ から 閉口 し て 、 ひと つ 、 伸び を する と 、 「 死に そう だ わ 」 と 、 つぶやい た 。
 62のびのび と 発育 し た 、 キッチリ と 肉 の しまっ た 五 尺 四 寸 の 若々しい 肉体 が 、 クッキリ と 床 の うえ に 影 を おとす 。
 63胴 は ほっそり と し て いる と は いい がたい が 、 しかし 、 ミロのヴィーナス の あの 健康 な 腰 だ 。
 64灰色 の 単純 な デザイン の ワンピース が 、 身体 に そっ て いかに も 自然 な 線 を 描き ながら 垂れさがっ てる 、
 65顔 は いつも 艶々 と 光っ て い て 、 元気 の いい 子供 の よう な 新鮮 な 印象 を あたえる 。
 66口 が 少し 大き すぎる 。
 67その 大き すぎる 口 を あい て よく 笑う 。
 68とりわけ そういう とき 、 剛子 は 単純 で 快活 に 見える 。
 69ところで 、 沼間夫人 は 、 剛子 が 大口 を あい て 笑う の を あまり 好い て い ない 。
 70「 笑う の は 下等 よ 。
 71もっとも 、 あなた の は 特別 だ けど 。
 72…… 口 を しめ なさい
 73奥歯 が 風邪 を ひく 」
 74剛子 は 、 奥歯 が 風邪 を ひか ぬ よう に 、 あわて て 掌 で 口 を おさえる 。
 75剛子 は 退役陸軍少将 石井長六閣下 の 末娘 で 、 今年 十九 に なる 。
 76しかし 、 笑っ たり 跳ね たり し て いる とき は 、 十七 ぐらい に しか 見え ない 。
 77剛子 とは 妙 な 名前 だ が 、 これ は 剛情 の 剛 で は ない 。
 78質実剛健 の 剛 で ある 。
 79長六閣下 は 、 これ から の 女性 は 男 の いいなり に なる よう な ヘナヘナ で は いか ん 。 竹 の よう に しなやか で 、 かつ 、 剛健 な 意志 を もた ね ば なら ぬ という 意見 で 、 それで 剛子 と 名づけ た 。
 80剛子 は 父 の 望み を 嘱 さ れ て いる の で ある 。
 81剛子 が 自分 の 名 を いう と 、 相手 は 、 かならず 聞き違え て 、 「 ああ 、 露子さん です か 」 と いう 。
 82すると 、 剛子 は 、 「 つゆ で は あり ませ ん 、 剛 よ 」 と 、 丁寧 に 訂正 する 。
 83父 の 希望 の こもっ た 大切 な 名 を 間違わ れる の は いや だ から だ 。
 84つゆ子 なんて 名 は 、 なにか 病み細っ て 、 蒼い 顔 を し て うつむい て いる 女 の 姿 を 連想 さ せる 。
 85剛子 は そんな なよなよ し た 女性 は 嫌い な の で ある 。
 86剛子 に は 、 もう ひと つ 、 「 キャラ子さん 」 という 名前 が ある 。
 87「 キャラコ 」 の キャラ は 、 白檀 、 沈香 、 伽羅 の 、 あの キャラ で は ない 。
 88キャラ子 は キャラコ 、 金巾 の キャラコ の こと で ある 。
 89剛子 が キャラコ の 下着 を き て いる の を 従姉妹たち に 発見 さ れ 、 それ 以来 、 剛子 は キャラ子さん と 呼ば れる よう に なっ た 。
 90ある 日 、 社交室 の 満座 の なか で 、 槇子 が キャラコ の 由来 を 披露 し た ので 、 みな が 腹 を かかえ て 笑い 、 思いつき の いい の に 感服 し た 。
 91すこし 手ざわり の 荒い 、 しゃちこばっ た 、 この 貧乏 な 娘 に いかに も ふさわしい 愛称 だ と 思わ れ た から で ある 。
 92それで 、 だれもかれも が この 愛称 で 剛子 を 呼ぶ よう に なっ た 。
 93剛子 は こういう 愛称 で よば れる の を かくべつ 不服 に は 思わ ない 。
 94キャラコ の 下着 を き て いる こと を 別に 恥 だ と かんがえ ない から で ある 。
 95垢じみ た 絹 の 下着 を ひきずりまわす より は 、 サッパリ と し て 、 清潔 な キャラコ を 着 て いる 方 が よっぽど まし だ と 思っ て いる 。
 96そして 、 これ が また 父 の 意見 で も あっ た の で ある 。
 97長六閣下 は 、 いつも 、 こう いう 。
 98「 絹 で は いか ん な 。
 99木綿 の よう な 女 で なくて は いか ん 」
 100剛子 の 一家 は 、 父 の 光栄 ある 恩給 だけ で たいへん つつましく 暮らし て いる が 、 剛子 が キャラコ の 下着 を き て いる の は 、 それ に は 関係 が なく 、 もっと 深い 感情 の こもっ た こと な の で ある 。
 101
 102槇子 が 、 胸 の うえ に 手 を 組みあわせ 、 グレース・ムーア の よう に 気取り ながら 唄い 終る と 、 「 おお 、 美事 です ! 」 と 、 感 に たえ た よう な 声 を あげ た の が 、 越智氏 で ある 。
 103越智男爵 の 三 男 で 、 この ホテル中 で だいいち の 洒落者 と いわ れる だけ あっ て 、 さすが に すき の ない 身ごしらえ だ 。
 104生地 は ウーステッド の ストライプもの 。
 105ラベル を ロング・ターン に し 、 よく これ で 息 が できる と 思わ れる くらい 胴 を しぼっ て ある ので 、 うしろ から 見る と 、 蜂 の よう な 腰つき に 見える 。
 106三十 を 三 つ も 越し て いる のに 、 なに を する で も なく のらくら と こんな ところ で 日 を 送っ て いる 。
 107もっとも 、 越智氏 にとって は 、 これ が だいじ な 仕事 だ と も いえる 。
 108できるだけ 社交界 に しゃしゃり出 て 、 金持 の 養子 の くち に ありつこ う と し て いる の で ある 。
 109努力 の かい あっ て 、 いま まで 二 つ 三 つ そういう 口 が あっ た が 、 いつ の 間 に か たち消え に なっ て しまっ た の は 、 たぶん 汚い 腹 を 見抜か れ た か 、 財産 の 点 で 折れ合い が つか なかっ た から で あろ う 。
 110なん だ かしら 、
 111最近 目だっ て 沼間氏 の 家族 は 愛想 を よく する 。
 112『 社交室 』 で は 、 姉 の 方 だろう か 妹 の 方 だろう か と 、 たいへん 気 を もん で いる 。
 113越智氏 は 姉娘 の 槇子 の 方 に も 妹娘 の 麻耶子 の 方 に も 等分 に 愛嬌 を ふりまく ので 、 どう にも 掴まえどころ が ない の で ある 。
 114だれ も あいづち を うっ て くれ ない ので 、 越智氏 は 間のび の し た 薄手 な 顔 を 隣り へ ふりむけ て 、
 115「 じつにもって 、 たいした 才能 です 」
 116これ で も か 、 という よう な 大きな 声 で くりかえし た 。
 117越智氏 の 隣り に 坐っ て いる の は 猪股氏 で ある 。
 118もう そろそろ 初老 の 年輩 だ 。
 119粋 で は ない が 、 この ホテル の 滞在客中 で だいいち の 金持 で ある 。
 120この 節 、 もっとも あて た 軍需工場 の 持主 で 、 すくなくとも 五六百 万 は 動く まい という 社交室 の 測定 で ある 。
 121教養 の ない 実業家 の タイプ に ありがち な 、 粗野 で 、 ずぶと そう な 印象 を 与える の は 、 あぐら を かい た よう な 鼻 と 獅子噛ん だ 厚い 唇 から くる ので 、 内実 は 、 臆病 な ほど 気 が 優しい の だ と 取沙汰 さ れ て いる 。
 122猪股氏 は 、 不意 を つか れ て ヘドモド し て い た が 、 つぶやく よう な 声 で 、 「 いや 、 まったく …… 。 まるで 、 オペラ です な 」 と 、 意味 の ない こと を いっ た 。
 123せいいっぱい の 智慧 を しぼっ た ところ で ある 。
 124猪股氏 は このごろ の モダーン・タイプ の お嬢さん が 大好き だ 。
 125後妻 に は ぜひ と も そういう ピチピチ し た お嬢さん を もらい たい つもり な の だ 、
 126そういう お嬢さんたち に 気にいる よう な しゃれ た こと を いっ て み たい の で ある 。
 127槇子 は 気どっ た ポーズ を つくり ながら 、 つづい て 、 『 あたしはあなたに夢中なの 』 という ジャズ・ソング を 唄い だそ う と し て い た が 、 猪股氏 の 讃辞 を きく と 、 「 うへえ 、 いけねえ 。 …… オペラ だ って いい やがる 」 と 、 いまいまし そう に 叫ぶ と 、 ツイ と ピアノ を 離れ 、 揺椅子 の なか へ 乱暴 に 仰向け に ひっくりかえっ て 、 不機嫌 そう に 黙りこん で しまっ た 。
 128槇子 は 今年 二十三 だ 。
 129眼 も 鼻 も 大きく て 、 なるほど 器量 は いい が 、 あまり ととのい すぎ て とっつき にくい 顔だち で ある 。
 130髪 を ウェーヴぬき の ロング・カット に し て いる 。
 131パーマネント の 流行 と 逆 に いっ た ところ が 味噌 な の だ が 、 それにしても 、 濡れ た 着物 の よう に ピッタリ と 皮膚 に まといつい た 、 ジュニヤ好み の プリンセス型 の ドレス と よく うつっ て 、 なかなか 凄艶 な 感じ に 見せる 。
 132槇子 は 揺椅子 の うえ で うるさく 身体 を 揺すり ながら 、 じろじろ と 猪股氏 を 見すえ て い た が 、 だしぬけ に 、 「 猪股さん 、 あなた 、 お昼寝 は どう ? もう 、 そんな 時間 じゃ ない こと ? 」 と 、 いじめ に かかる 。
 133待っ て まし た と いう よう に 、 一座 が どっと 笑い だす 。
 134剛子 が 、 そっと 猪股氏 の 方 へ ふりかえっ て 見る と 、 猪股氏 は 熟し た トマト の よう に まっ赤 に なっ て 、 身 の おきどころ も ない よう に 恐縮 し て いる 。
 135気の毒 に なっ て なに か いっ て やり たい と 思っ た が 、 それ を する と また 大騒動 に なる に きまっ て いる ので 、 いま まで 伴奏 を し て い た ピアノ の 椅子 から 立ちあがっ て 、 社交室 の ずっと 隅 の ほう へ ひきさがっ て しまっ た 。
 136午後 の 陽ざし が 窓 から いっぱい に 流れこみ 、 派手 な 絨氈 や 気どっ た 家具 を あかるく うきたたせる 。
 137煖房 で ほどよく 暖め られ た 社交室 の なか は 、 うっとり する ほど 暖かい 。
 138窓べ に は 冬 薔薇 や カーネーション が 大きな 花 を ひらき 、 ここ ばかり は 、 常春 の よう な なごやかさ で ある 。
 139この 社交室 に 、 いま 十 人 ほど の 顔 が 見える 。
 140土曜日 に なる と 、 泊りがけ の ゴルファー が き て 、 新しい 顔 が 加わる が 、 今日 は 土曜日 で も 日曜日 で も ない ので 、 ここ に いる の は 見 なれ た 顔 ばかり だ 。
 141それぞれ 勝手 な ところ へ 椅子 を もちだし 、 それぞれ 自由 な 恰好 で かけ て いる 。
 142いま 紹介 し た ひとたち の ほか に 、 剛子 の 従兄 の 秋作氏 が すっかり こちら へ 背中 を みせ 、 窓 の そば で 新聞 を 読ん で いる 。
 143槇子 の 隣り の 揺椅子 に は 、 妹 の 麻耶子 が 、 いつも する とおり 斜め に 腰 を かけ 、 左手 を 顔 に あて て 傾け ながら 、 小指 は 気どっ た ようす で 唇 の 方 へ まげ て いる 。
 144姉 の 槇子 より は 二 つ した の 二十一 で 、 姉 ほど 美しく は ない が 、 その かわり 、 もっと 底意地 の わるい 顔 を し て いる 。
 145年 より は 老け た 沈ん だ 色 の ウール の ブラウス を き て 、 まるで この 場 の 空気 に なん の 関係 も ない と いっ た よう な 冷淡 な 態度 を とっ て いる 。
 146じろじろ 観察 する だけ で 、 めった に 自分 の 意見 を 出さ ない の が この 娘 の 癖 な の で ある 。
 147ピアノ の 横 の 方 に は 、 槇子たち の 取巻き の 一団 、
 148―― パイプ を くゆらし て いる ワニ君 。
 149顎 の ニキビ を ひねくっ て いる ポン君 。
 150長い 脛 を もちあつかっ て 足 を 組ん だり ほぐし たり し て いる アシ君 。
 151こういった 連中 が ひとかたまり に なっ て いる 。
 152いずれ も 金持 の のらくら 息子 。
 153ダンス と ゴルフ と ドライヴ 、 この 三 つ の ヴァライエティ だけ が 生活 の 全部 で 、 槇子姉妹 に 奴隷 の よう に 頤使 さ れる の を たいへん 光栄 に 存じ て いる 。
 154ところで 、 この 社交室 に 欠かし た こと の ない 沼間夫人 の 顔 が 見え ない の は 、 たぶん お散歩 の 時間 に あたる から で あろ う 。
 155こんな とこ に まごまご し て い ない で 、 はやく 逃げ出せ ば いい のに と 、 剛子 が やきもき し て いる のに 、 猪股氏 の ほう は 立ちあがる こと も 忘れ た よう に 、 見るも あわれ に しおれかえっ て いる 。
 156いつ まで たっ て も 猪股氏 が 動か ない ので 、 槇子 は すっかり じれ て しまい 、 いきなり 揺椅子 から 飛び起きる と 、
 157「 じゃァ 、 こっち が 逃げだそ う ッと …… 。
 158あたし は 、 これ から 着がえ を する から 、 見 たい 奴 は つい て おいで 」
 159ワニ君 と 、 ポン君 と 、 アシ君 が 先 を 争っ て 立ちあがる 。
 160「 僕 」
 161「 ぼく も ゆく 」
 162「 ぼく 」
 163越智氏 が 中腰 に なっ て 、 あわて て ひきとめる 。
 164「 散歩 なんぞ いい じゃ あり ませ ん か 。
 165なに か 、 もう ひと つ うたっ て ください よ 」
 166槇子 は 、 いましがた 社交室 へ はいっ て き た 老人 を 露骨 に 指さし ながら 、 「 あなた だけ で も うんざり な のに 、 ほら 、 また 、 あの きたない やつ が はいっ て き た 。 …… ごめん だ わ 。 おもしろく も ねえ から 、 クラブ・ハウス に で も 騒ぎ に 行く ん だ 」 と 、 みな 一緒 に どやどや と 出 て 行っ て しまっ た 。
 167それ は 、 みすぼらしい ほど の 粗末 な 服 を き た 、 六十 ぐらい の 大柄 な 老人 で 、 髪 は まだ 半白 だ が 、 顔 に は 八重 の 皺 の 波 が より 、 意地 の 悪 そう な 陰気 な 眼つき を し 、 薄い 唇 の はし に いつも 皮肉 な 微笑 を うかべ て いる 。
 168三 階 の 隅 の 陽あたり の わるい 小さな 室 に ひとり で 住ん で い て 、 食事 の ほか に は めった に 降り て 来 ない 。
 169だれ も 名 を 知ら ず 、 どういう 素性 の 老人 な の か 、 それ も まるっきり わから ない 。
 170とにかく 、 不思議 な 老人 で ある 。
 171『 社交室 』 で は この 老人 が しばしば 問題 に なっ た 。
 172たぶん ホテル の 持主 の 親類 か なに か だろう 。
 173さもなければ 、 あんな 乞食 の よう な 老人 を のさばらし て おく はず は ない 。
 174それにしても 眼ざわり で しようがない から 、 支配人 に かけあっ て 追っぱらっ て しまお う という こと に 意見 が 一致 し た が 、 先 に たっ て 交渉 に ゆく もの も なく 、 うやむや に なっ て しまっ た が 、 だれ も いやがっ て 、 この 老人 が 入っ て くる と 、 きこえよがし に 舌うち し たり 、 おおげさ に 眉 を しかめ たり する 。
 175ところで 、 剛子 は 、 その 老人 を みすぼらしい と も 思わ ない し 、 かくべつ 気味 が わるい と も 思わ ない 。
 176どうして みな が そんな に いやがる の か その わけ が わから ない 。
 177剛子 に は 、 この 老人 が なに か たいへん な 不幸 に あっ た ひと の よう に 考え られ 、 自分 の できる こと なら どんな こと でも し て 慰め て あげ たい と 思っ て 、 老人 が サン・ルーム の 片隅 など で 淋し そう に 坐っ て いる の を 見る と やさしく 言葉 を かけ たり 、 ダーム の 相手 に なっ て やっ たり し た 。
 178すこし 陰気 だ が 、 話し て みる と 、 教養 の ある 奥ゆかしい ところ が あっ て 、 剛子 にすれば 、 社交室 の とりとめ の ない 男たち と より は 、 この 老人 と 一緒 に いる ほう が むしろ 楽しい くらい だっ た 。
 179こんな こと で 、 この 老人 に 、 いつ の 間 に か 、 『 キャラコさん の 恋人 』 という ひと の わるい 綽名 が つけ られる よう に なっ た 。
 180
 181槇子たち の 組 が おお騒ぎ を し ながら 出 て 行っ た あと 、 いつ の 間 に か 、 『 キャラコさん の 恋人 』 も 猪股氏 も い なく なっ て 、 広い 社交室 の 中 に キャラコ と 従兄 の 秋作氏 の 二人 だけ が ポツンと 残さ れる こと に なっ た 。
 182部屋 の なか は 急 に ヒッソリ と なっ て 、 今 まで きこえ なかっ た 小鳥 の 声 が のどか に ひびい て くる 。
 183秋作氏 は 窓ぎわ の 椅子 に かけ 、 いぜん と し て こちら へ 背中 を 向け た まま 、 塑像 の よう に 微動 も し ない 。
 184キャラコさん は 秋作氏 の たくましい 肩 を ながめ ながら 、 よく あんな に 動か ない で い られる もん だ と 思っ て 、 急 に おかしく なっ て 、 もう すこし で 笑い だす ところ だっ た 。
 185( 小供 が 意地っ張り を し て いる よう な 恰好 ね 。
 186なに を あんな に 考え込ん で いる の かしら 。
 187…… たぶん 『 黒い お嬢さん 』 と 喧嘩 でも し た ん だ わ )
 188秋作氏 は 長六閣下 末弟 の 子 で 、 従って 槇子たち 同様 、 キャラコ にとって も 従兄 に あたる 。
 189早く から 両親 を なくし て 、 苦労 し ながら 絵 の 勉強 を し て いる 。
 190沼間夫人 いう ところ の 『 乞食画かき 』 で ある 。
 191秋作氏 は 、 銀行家 の 沼間氏 も 、 虚栄坊 の 夫人 も 二人 ながら だいきらい で 、 沼間夫妻 を いつも あいつら という 代名詞 で 呼ん で いる 。
 192しかし 、 槇子 だけ は 好き だっ た と みえ 、 昨年 の 秋ごろ 、 槇子 を もらい たい と たいへん 熱心 に たのみこん だ が 、 アッサリ と はねつけ られ て しまっ た 。
 193それ まで は ずいぶん 仲よく し て い た 槇子 だ が 、 その 話 に なる と 、 手のひら を かえす よう に 、 「 あなた 、 貧乏 だ から 、 いや 」 と 、 はっきり し すぎる くらい はっきり と 断わっ た 。
 194秋作氏 が 知っ て い た 槇子 は 、 すくなくとも 、 こんな 了見 の 狭い 娘 で は なかっ た はず だっ た が 、 論 より 証拠 で 、 やはり 自分 の 計量ちがい だっ た と 思う より ほか は なかっ た 。
 195しかし 、 あまり な 返事 な ので 秋作氏 も 不愉快 に なり 、 槇子 に 、 貴様 は クソ みたい な やつ だ ぞ 、 と ひどい こと を いっ た という こと を 、 あと で キャラコさん が きい た 。
 196秋作氏 は それ っきり 沼間氏 の 一族 と 交渉 を 絶っ て しまっ た 。
 197腹 を 立て 、 飲んだくれ て 歩い て いる という 評判 も あっ た が 、 その 秋作氏 が 、 つい 二 日 前 、 卅二三 の 、 すこし 薹 の たっ た お嬢さん と 二人 で フラリと この ホテル へ やって来 て 沼間夫人 を 驚かし た 。
 198その お嬢さん は 、 へん に 煤黒い 、 ひどい 斜視 の 、 棒 を 嚥ん だ よう な ヌーッと し た 感じ の ひと で 、 眉目秀麗 な 秋作氏 と 並ぶ と 、 一種 、 対照 の 妙 を 示す の だっ た 。
 199『 社交室 』 の 特報 によれば 、 たいへん な 持参金 が つい て いる ので 、 名古屋 の 上流 で は 誰ひとり 知ら ぬ もの も ない 有名 な お嬢さん だ という こと だっ た 。
 200秋作さん が 、 この 『 黒い お嬢さん 』 と 二人 で 食堂 へ はいっ て き た とき 、 沼間 の 一族 も そこ に い た 。
 201しかし 、 槇子 は 、 この 二人 づれ を 見 て も なん の 反応 も 示さ なかっ た し 、 秋作氏 の ほう も チラリ と 見かえっ た きり で 、 一向 顔色 も 動かさ ずに ずんずん 奥 の テーブル の ほう へ 行っ て しまっ た 。
 202二人 ながら あまり さっぱり し て いる ので 、 キャラコ の ほう が かえって 驚い た くらい だっ た 。
 203秋作氏 は 、 もう 四五 年 、 長六閣下 の ところ へ やって来 ない が 、 毎年 クリスマス に なる と 、 かならず 、 とぼけ た 玩具 や 小さな 人形 を キャラコさん に 送っ て よこし た 。
 204みな 粗末 な もの だっ た けれども 、 キャラコさん は うれしかっ た 。
 205長六閣下 も 、 あまり 気立て が 優し すぎる 、 しょせん 、 軍人 に は なれ ん やつ じゃ 、 と いっ て いる 。
 206その 秋作氏 として は 、 ちと 、 どう か と 思う やりかた な の で ある 。
 207秋作氏 が 、 やっと 身動き する 。
 208のび を し て 、 もの臭 そう に 椅子 から 立ちあがっ た 。
 209静か に し て い た ので 、 ここ に キャラコ が いる こと に 気がつか なかっ た らしい 。
 210びっくり し た よう に 、 遠く から まじまじ と 眺め て から 、 大股 で 歩い て 来 て キャラコさん の 前 に 突ったっ た 。
 211( 秋作氏 は 美しい な )
 212下 から 仰ぎ ながら 、 キャラコさん は 、 そう 思う 。
 213秋作氏 は 今年 三十三 に なる 。
 214スラリと し た 美しい フォルム 。
 215喰いつき たい ほど 形 の いい 腰 。
 216切れ の 長い 鋭い 眼 。
 217顔 は 浅黒く ひきしまっ て い て 、 いかに も 理智的 な 、 俊敏 な 風貌 だ 。
 218「 おい 、 どうして こんな ところ に いる 」
 219「 あたし 、 ひとり の ほう が いい 」
 220「 妙 な やつ だ な 。
 221みな お茶 を 飲み に 行っ た ぞ 」
 222「 お茶 なんか 、 飲み たく ない 。
 223…… 誰 も い なく なっ たら 、 ひとり で ピアノ を ひい て 遊ぶ つもり な の 」
 224「 ふうん 、 では 、 おれ の 出 て 行く の を 待っ て た の か 」
 225キャラコさん は 、 正直 な ところ を 、 いう 。
 226「 ええ 、 そう な の 」
 227秋作氏 は 、 てらい気 の ない 、 素直 な この 従妹 が だいすき だっ た 。
 228小さい 時 から 、 親切 で 、 謙譲 で 、 誰 から でも 愛さ れる 不思議 な 徳 を 持っ て い た 。
 229ほか の 子供 なら 、 ずいぶん 憎らしく きこえ そう な こと で も 、 この 娘 が いう と 妙 に 愛嬌 に なる の だっ た 。
 230誰 を も 好き 、 誰 に でも 愛想 が いい が 、 その くせ 、 粗忽 に 知己 を つくら ぬ しっかり し た ところ が あり 、 理解力 と 感受性 が 豊か で 、 どんな 物事 に対して も 妥当 な 判断 を 誤まら ず 、 何 に対して も 極めて 穏健 な 意見 を はい た 。
 231女学校時代 に は 『 常識さん 』 という 綽名 を つけ られ 、 学校中 で の 寵児 だっ た 。
 232ちょっと 例 の ない ほど 寛大 な 心 を もっ て い て 、 どんな 意地悪 を さ れ て も ニコニコ 笑っ て いる ので 、 意地悪 を する ほう で つい 兜 を ぬい で しまう 。
 233容易 に 感情 を 動かさ ず 、 たいへん 忍耐強い ので 、 ちょいと 見る と 内気 な だけ の 娘 の よう だ が 、 さすが 長六閣下 の 血統 だけ あっ て 、 そうとう 骨 が 硬く 甘く 見 て いいかげん の こと を する と 、 ギリギリ の ところ で ひどい 目 に あわ なくて は なら ない 。
 234四五 年 見 ない うち に 、 すっかり 立派 な お嬢さん に なっ て しまっ た が 、 率直 な ところ だけ は 、 一向 子供 の とき と 変ら ない と おもっ て 、 秋作氏 は ほほえましく なる 。
 235秋作氏 は 、 長六閣下 の 一家 が 、 つましく 暮らし て いる こと を うすうす 知っ て いる ので 、 ホテル の ロビイ で キャラコさん を 見かけ た 時 は 、 たぶん 人ちがい な の だ と 思っ た 。
 236キャラコさん の 説明 で 、 沼間夫人 が 無理 に 誘っ て き た こと が わかっ た が 、 意外 の 感じ は 一向に 減ら なかっ た 。
 237沼間夫人 が 親戚 に 優しく する など という こと は 、 奇蹟 でも 起こら なけれ ば 有りえ ぬ こと だ から で ある 。
 238秋作氏 が 見る と 、 キャラコさん は たいへん な 質素 な 服 を 着 て いる 。
 239質素 な こと に は 異存 ない が 、 これ で は 槇子たち の 小間使い ぐらい に しか 見え まい 。
 240無理 に こんな ところ へ 連れだし て おい て 、 こんな なり を さ せ て 置く 沼間夫人 も 沼間夫人 だ と 腹 が たっ て き た 。
 241なにしろ 年ごろ な の だ から 、 こんな 素直 な 娘 でも 、 心 の 中 で は やはり 情けなく 感じ て いる だろう と 思う と 、 秋作氏 は 急 に キャラコさん が 可哀想 に なっ て き た 。
 242この ふう で は 小遣い なんか も 持っ て ない に ちがいない 。
 243秋作氏 は キャラコさん の 本当 の 気持 を 知ら ない もの だ から 、 槇子たち の 組 から はずれ て 、 ここ で しょんぼり し て いる の は 、 お小遣い が ない せい な の だ と 曲解 し た 。
 244「 おい 、 お前 、 お小遣い が ない ん だ ね 。
 245それで 、 みな から はずれ て いる ん だろう 。
 246本当 の こと を いい なさい 」
 247この 質問 は 、 キャラコさん を 驚かす 。
 248「 あら 、 お金 なら 持っ て い ます わ 。
 249お父さま から いただい て き まし た から …… 」
 250秋作氏 は 、 疑わし そう な 顔つき で 、
 251「 ふうん 、 いくら ? 」
 252キャラコさん が 誇らし そう に こたえ た 。
 253「 三 円 ! 」
 254こんど は 秋作氏 の ほう が あっけ に とら れる 。
 255この 贅沢 な ホテル で 半 月 も 暮らそ う と いう のに 、 たった 三 円 の お小遣い 。
 256秋作氏 は 、 思わず 大きな 声 を だす 。
 257「 三 円 ! 」
 258秋作氏 が なぜ そんな に 驚く の か 、 キャラコさん に は わから ない 。
 259「 それも 、 まだ 手つかず です わ 。
 260叔母さま の お伴 だ から 、 お金 なんか ちっとも いら ない の 」
 261「 では 、 あいつ 、 小遣い も くれる の か 」
 262「 いいえ 。
 263…… だって 、 あたし 、 持っ て い ます もの 」
 264「 お菓子 を 喰べ に ゆく とき 、 誰れ が 払う の 」
 265「 お菓子 なんか 、 喰べ に 行き ませ ん わ 」
 266秋作氏 は 、 あきれ て キャラコさん を 見つめる 。
 267「 ここ へ 来 て から 、 まだ 一 度 も ? 」
 268「 和爾さんたち に 招待 さ れ た とき 、 たった 一 度 」
 269「 それで ? 」
 270「 それで 、 って ? 」
 271「 何 か ほしい もの が ある 時 は どう する ん だ 」
 272「 ほしい もの なんか 、 何 も あり ませ ん わ 」
 273「 ふむ 、 それで 、 その 三 円 が いま まで ちゃんと 残っ て いる ん だ ね 」
 274「 ええ 、 そう よ 。
 275…… 自分 の たのしみ に 使う の に 、 三 円 なんて お小遣い を いただい た の は これ が 始めて な の 。
 276だから 、 どう 使っ て いい か わから ない の 」
 277長六閣下 の 子女教育 が こんな に 行き届い た もの だ と は 、 さすが に 今日 まで 知ら なかっ た 。
 278きまっ た 恩給 だけ で やっ て ゆく に は こういう 方針 を とる の も やむを得ぬ こと な の であろう 。
 279今 と なっ て みれ ば 、 一 年 に 一 度 の クリスマス に 、 あんな 役 に も 立た ぬ とぼけ た 贈物 を し た こと が 悔ま れる 。
 280こう と 知っ て い たら 、 お小遣い を やっ て 喜ば せる こと も でき た のに 。
 281秋作氏 は 、 また 誤解 し た 。
 282長六閣下 が やろ う と いっ て も 、 キャラコさん は 受け取ら ない 。
 283楽しみ の ため の 金 の 使い方 という もの を 、 キャラコさん は まるっきり 知ら ない の で ある 。
 284秋作氏 は 、 財布 から 三十 円 だけ ぬきだし ながら 、
 285「 そうだ 、
 286その 三 円 は 使わ ずに とっ て 置く ほう が いい 。
 287その かわり 、 秋作 が これ だけ やる から 、 これ で 、 みな と 一緒 に 遊び なさい 」
 288( 秋作氏 は 、 あたし が けち な ん だ と 思っ て いる )
 289キャラコさん は 、 すこし 真面目 な 顔つき に なる 。
 290「 有難う 。
 291…… でも 、 それ いら ない の 。
 292欲しい 時 が あっ たら ください って いい ます わ 。
 293きっと いい ます から 、 今日 は いら ない の 。
 294…… じゃ 、 本当 の こと を いい ます けど 、 あたし 、 なぜ マキちゃんたち の 組 と 一緒 に お茶 を 飲み に 行か ない か といえば 、 お菓子 なんか に お金 を 使う の は いや だ し 、 親 で も 兄弟 で も ない ひと に 払わ せる って こと も あまり 気にいら ない から な の 。
 295…… わかる でしょう ?
 296マキちゃん たら 、 いつも ワニさん や 越智さん や アシ君 に 払わ せる の 。
 297いち ど だって 自分 で 払っ た こと ない の 。
 298だから 、 あたし 、 行か ない の よ 」
 299秋作氏 は 、 妙 な 咳ばらい を し た 。
 300秋作氏 は 、 親類 で も 奥さん で も ない お嬢さん に 、 すっかり 払わ せ て 、 この ホテル に 滞在 し て いる の で ある 。
 301
 302たった 一人 きり に なる と 、 キャラコさん は 走る よう に ピアノ の そば へ ゆき 、 鍵盤 に 指 を 触れる が 早い か 、 自分 の 弾く 曲 に 夢中 に なっ て しまっ た 。
 303正式 に 先生 に つい た こと は ない が 、 ピアノ は 自己流 で かなり 達者 に 弾き 、 よく 響く 中音 で 上手 に 唄う 。
 304たいてい ありふれ た 平俗 な 曲 が おも だ が 、 時 に は 即興 で 出まかせ に 唄う こと も ある 。
 305しかし 、 その つまらぬ 曲 も キャラコさん が うたう と 、 まるで 趣き の ちがっ た 味 の 深い もの に なっ て しまう 。
 306大勢 の 前 で 唄っ た こと など 一 度 も ない ので 、 誰 も そんな こと は 知ら ない 。
 307キャラコさん 自身 も てんで 気がつい て い ない 。
 308ただ 、 長六閣下 だけ は 、 ぼんやり と その 才能 に 感づい て 、 「 お前 の 唄 に は 、 なに か 精神 の ごたる もん が ある 」 と 、 批評 し た 。
 309ただ の 一 度 も 音楽家 に なろ う など と 考え た こと も なけれ ば 、 ひと に 聴か し て ほめ られ たい など と 考え た こと も ない 。
 310キャラコさん の 場合 、 唱歌 は 一種 の 迸出作用 で 、 小鳥 における 囀 の よう な もの だ と いえ よう 。
 311三 時 ごろ に 、 給仕 が 新聞 を とり に 入っ て き た だけ で 、 ここ の キャラコさん は 完全 に 孤独 だっ た 。
 312キャラコさん は 誰 に 聴か れる こと なく 、 たれ に 妨げ られる こと も なし に 、 知っ て いる だけ の 唄 を みな 唄っ た 。
 313自分 の 家 へ 帰っ た よう な 気 が し て 夢中 に なっ て 唄い つづけ て いる うち に 、 ふと 、 うしろ で 人 の けはい が する ので 振りかえっ て みる と 、 入口 に 近い 椅子 に 『 キャラコさん の 恋人 』 が 遠慮深く 掛け て い た 。
 314今日 は いつも より 顔 の 色 が 悪く 、 レース編み の きたない 襟飾 を 紐 の よう に 顎 の 下 へ たらし 、 何 を 詰め込ん だ の か 、 すり切れ た 上着 の ポケット を 、 みっともなく 膨らまし て いる 。
 315キャラコさん が うしろ を ふり向い た の を 見る と 、 『 恋人 』 は 悲しげ に 見える ほど な 慇懃 な 顔つき で 、 「 こんな 汚い やつ が 、 ここ に い て は 、 お目ざわり でしょう か 」 と いっ た 。
 316あまり 、 『 恋人 』 の ようす が 気の毒 な ので 、 キャラコさん は 胸 が いっぱい に なっ て き て 、 ピアノ から 離れ て 、 『 恋人 』 の そば へ いっ て すわっ た 。
 317「 あら 、 どうして でしょう 。
 318あたし 、 あなた を 汚い など と 思っ た こと あり ませ ん こと よ 。
 319また 、 ダーム でも し て 遊び ましょ う か 。
 320…… もし 、 おいや で なかっ たら 」
 321『 恋人 』 は 手の甲 の うえ へ 垂れさがっ て くる 長 すぎる 袖 を 、 しょっちゅう 気 に し て たくしあげ ながら 、
 322「 …… わたくし を 、 汚い やつ だの 、 乞食 だの と いわ ない の は 、 ほんとう に あなた だけ です 。
 323わたくし は 、 いやしめ られる こと に は 馴れ て い ます から 、 なん と いわ れ たって 格別 気 に も 止め ませ ん 。
 324しかし 、 あなた の ご親切 は …… 」
 325急 に 眼 を 伏せ て 、 口ごもり 、 「 ありがたく 思っ て い ます 。 …… 生涯 、 忘れ ませ ん でしょう 」 と いっ て 、 すこし うるん だ 、 感謝 に みち た 眼差し で キャラコさん を みつめ た 。
 326キャラコさん は 、 こんな ふう に 丁寧 な 挨拶 を さ れ た ので 、 すっかり 面くらっ て 、
 327「 あら 、 あんな こと が 親切 な ん でしょう か 。
 328…… おはよう 、 って ご挨拶 を し たり 、 二 度 ばかり ダーム を し た だけ でしょう 」
 329「 それ が 親切 な の です 。
 330…… とりわけ 、 わたくし の よう な もの に し て くださる とき は 」
 331キャラコさん が 、 笑い だす 。
 332「 そんな の が 親切 なら 、 いつ でも ! 」
 333『 恋人 』 は 、 しばらく 沈黙 し た のち 、 とつぜん 、 こんな こと を いう 。
 334「 ご親切 に あまえる よう です が 、 ひと つ 、 おねがい が あり ます 」
 335キャラコさん は すこし かんがえ て から 、 キッと 口 を 結ん で 決意 の ほど を 示し ながら 、 強く うなずい た 。
 336「 あたし に できる こと でし たら 、 どんな 事 でも ! 」
 337キャラコさん の ひどく きまじめ な 顔 を 見る と 、 『 恋人 』 は 皮肉 と も 見える 微笑 を うかべ ながら 、
 338「 いや 、 そんな むずかしい こと で は あり ませ ん 。
 339…… わたくし に 歌 を 唄っ て きか せ て いただき たい の です 」
 340「 あら 、 そんな こと でし た の 。
 341…… でも 、 あたし 、 まずい の よ 。
 342まだ 、 いち ど も 本式 に 習っ た こと が ない ん です から 。
 343…… 自己流 の でたらめ な の 」
 344『 恋人 』 は 、 首 を ふっ て 、
 345「 どうして !
 346…… いま 、 あそこ で うかがっ て い まし た が 、 あなた の よう な 見事 な 中音 は 、 日本 で は そう ざら に 聴ける もの で は あり ませ ん 。
 347…… 最初 は 、 自分 の 耳 が 信じ られ なかっ た くらい でし た 」
 348キャラコさん は 、 自分 の 唄 が ひと に ほめ られ た こと など は いち ど も なかっ た ので 、 真赤 に なっ て しまっ た 。
 349「 おやおや 、 たいへん だ 」
 350『 恋人 』 は 強く うなずい て 、
 351「 いえ 、 ほんとう の こと です 。
 352実際 、 めずらしい 声 を もっ て い られる 」
 353「 では 、 唄い ます わ 。
 354その 、 見事 な 『 中音 』 で !
 355…… でも 、 あたし の 知っ て いる 歌 で なくて は 困る の よ 。
 356…… どんな 歌 ?
 357ごく 新しい タイプ の 歌 ? 」
 358「 いや 、 わたくし は モダーン・タイプ は きらい です 。
 359…… もしか 、 あなた は 、 小学唱歌 の 『 冬の円居 』 という の を ご存じ でしょう か 」
 360長六閣下 が 知っ て いる 唱歌 という の は 『 冬の円居 』 と 『 黄海の海戦 』 の 二 つ だけ な ので 、 キャラコさん は 子守唄 の かわり に 『 冬の円居 』 を 聴い て 育っ た よう な もの だっ た 。
 361「 ええ 、 知っ て い ます わ 」
 362『 恋人 』 は 眼 を 輝か せ て 、
 363「 やっぱり !
 364…… あなた なら 、 きっと 知っ て いらっしゃる だろう と 思っ た 。
 365…… では 、 どうぞ 唄っ て きか せ て ください 」
 366キャラコさん は 『 恋人 』 の 手 を ひい て ピアノ の そば へ すわら せ 、 自分 が 伴奏 を 弾き ながら 美しい 声 で 『 冬の円居 』 を 唄い だし た 。
 367『 恋人 』 は 両手 で 顔 を おおっ て 熱心 に きい て い た が 、 キャラコさん が 唄い 終る と 、 顔 を あげ て 低い 声 で つぶやい た 。
 368「 なつかしい 唄 だ ! 」
 369しなび た 頬 に 血 の 色 が さし 、 青年 の よう な 生き生き と し た 顔つき に なっ て い た 。
 370『 恋人 』 は 、 丁寧 に 頭 を さげ て 、
 371「 これ で 満足 です 。
 372どうも 、 ありがとう 。
 373…… もう ご勉強 の お邪魔 を いたし ます まい 。
 374…… それはそうと 、 あなた は まだ ずっと この ホテル に おいで です か 」
 375キャラコさん は 、 あわて て 首 を ふる 。
 376「 いいえ 、 もう 四五 日 で 帰り ます 。
 377…… こんな ところ に いる より 、 家 に いる ほう が ずっと 楽しい わ 。
 378ホテル住まい だの 、 贅沢 な 暮らし なんか 、 あたし の 趣味 で は あり ませ ん の 」
 379『 恋人 』 は 、 妙 な 眼つき で キャラコさん を みつめ ながら 、
 380「 ほう 、 どんな の が 、 あなた の 趣味 ? 」
 381「 さあ 、 どう いっ たら いい かしら 、
 382…… うまく いえ ませ ん けど 普通 の 、 きちんと し た 生活 で は 、 同じ 時間 に 、 同じ こと を し ます わ ね 。
 383古い 、 同じ 友達 に あっ たり …… 」
 384「 それ は 、 どういう 意味 です 。
 385…… よく わかり ませ ん が …… 」
 386「 困っ た わ ね …… 」
 387キャラコさん は 、 かんがえ ながら 、 綿密 に 話す 。
 388「 あたし 、 じぶん の 家 で は こんな ふう に やっ て い ます の 。
 389…… きちんと し た 時間割 を つくっ て 、 その 中 で お仕事 を し たり 、 考え たり 、 本 を 読ん だり 。
 390…… それから 、 きまっ た 日 に 仲 の いい わずか ばかり の お友達 と 訪ね あっ たり …… 。
 391ところが 、 ここ へ 来 て から は 何 もかも すっかり 変っ て しまい まし た 。
 392ここ で は 、 ひとり で 散歩 を し たり 、 自分 だけ の 考え に ふけっ たり し て は いけ ない ん です 。
 393編物 を する こと も 、 本 を 読む こと も 、 あまり 大きな 声 で 笑う こと も でき ない の 。
 394…… 何 も せ ずに 、 膝 に 手 を 置い て 、 こんな 顔 を し て ほほえん で い なくて は なり ませ ん の 。
 395…… それも 、 あまり そんな 顔 を ばかり し て いる と 馬鹿 だ と 思わ れる から 、 時々 、 何 か 気 の きい た こと を いわ なくて は なら ない こと に なっ て い ます の 。
 396…… ずいぶん 、 たいへん でしょう ?
 397あなた 、 これ について 、 どう お考え に なっ て ?
 398…… すくなくとも 、 あまり 楽 で ない こと だけ は おわかり に なる でしょう ? 」
 399『 恋人 』 は 、 いく ど も うなずい て から 、 だしぬけ に 質問 し た 。
 400「 あなた は 、 結婚 について どんな 考え を 持っ て い られ ます か 。
 401結婚 なさり たい です か 」
 402キャラコさん は 、 顔 を 輝かせ て 、
 403「 ええ 、 結婚 し たい わ 。
 404…… なぜ って 、 あたし 、 子供 が だいすき な ん です もの 。
 405立派 な 子供 を 産む の が あたし の 理想 な の よ 」
 406窓 の 外 で 、 剛子 、 と 呼ぶ 声 が する 。
 407沼間夫人 だ 。
 408沼間夫人 は 社交室 に 『 キャラコさん の 恋人 』 が いる ので 、 嫌がっ て はいっ て こ ない の だ 。
 409キャラコさん は あわて て 出 て いっ た 。
 410窓 の そと で 、 沼間夫人 が 、 キャラコさん が 槇子たち の お伴 を し て 行か なかっ た こと と 、 汚い やつ と 話し て いる こと を くどくど と 叱りつけ て いる 。
 411小さな 声 で いっ て いる つもり な の だろう が 、 沼間夫人 の 声 は 甲声 だ から 、 つつぬけ に 社交室 まで とどく の で ある 。
 412キャラコさん が もどっ て 来る と 、 『 恋人 』 が 、 いっ た 。
 413「 叱ら れ まし た ね 」
 414キャラコさん は 、 首 を ふっ て 、
 415「 いいえ 、 叔母 は あたし を 叱っ たり し ませ ん わ 。
 416たいへん 親切 よ 」
 417『 恋人 』 は 、 底意地 の 悪い 笑い方 を し ながら 、
 418「 ほほう 」
 419キャラコさん は 、 優しく 抗議 する 。
 420「 なぜ 、 ほほう 、 なんて おっしゃる の 。
 421叔母 は すこし 口やかましい けど 、 でも 、 嫁入りざかり の 娘 が 三 人 も い たら 、 優しく ばかり は し て い られ ませ ん わ 」
 422「 なるほど 。
 423…… 何だか 、 わたくし の 話 も 出 た よう でし た ね 」
 424キャラコさん が 、 正直 に いう 。
 425「 じぶん の 名 を 隠し て いる よう な ひと と 親しく し て は いけ ない と 、 いい まし た の 」
 426『 恋人 』 は うつむい て い た が 、 急 に 顔 を あげる と 、 ぶっきら棒 な 口調 で 、 いっ た 。
 427「 そんな こと なら 、 わけ は ない 。
 428…… 叔母さん に 、 わたくし は 山本 という もの だ と いっ て 下さい 」
 429「 ご商売 は ? 」
 430『 恋人 』 は 、 考え て から 、 陰気 な 声 で こたえ た 。
 431「 手相術師 ……
 432、 手相 を 見 ます 」
 433
 434次 の 日 、 晩餐 の 時間 に なっ て も 、 槇子 が なかなか 帰っ て 来 ない 。
 435時計 は 、 もう 、 七 時 を うち かけ て いる 。
 436キャラコさん は 、 食卓 の 上 の ナプキン を 眺め ながら 坐っ て い た が 、 すこし 心配 に なっ て き た 。
 437沼間夫人 は 、 剃り込ん だ 細い 眉 の 間 に 立皺 を よせ て 、 いらいら と 食堂 の 入口 の 方 へ ふりかえり ながら 、 平気 な 顔 で 食事 を 始め て いる 麻耶子 に 、 「 あなた 、 槇子 どこ へ 行っ た か 、 ほんと に 知ら ない の 」 と 、 また 同じ こと を たずねる 。
 438マヤ子 は 、 つんと し て 、
 439「 いやア ね 、
 440いく ど 同じ こと を きく の 。
 441だから 、 知ら ない と いっ てる じゃ ない か 」
 442「 じゃ 、 槇さん と いつ どこ で 別れ た の 」
 443「 伊東 の トバ口ン ところ で 。
 444…… 潮吹岩 へ 行こ う って ボク を 誘っ た けど 、 ボク 、 つまんない から いや だ と 断っ て ひとり で 帰っ て き た ん だ 」
 445「 お連れ は 、 どなた と 、 どなた だっ た の 」
 446「 知ら ない よ 、 ボク 」
 447「 知ら ない わけ は ない でしょう 」
 448「 別れる とき は ひとり だっ た よ 。
 449別れ て から の マキ の 連れ なんか 、 ボク 知る もの か 、
 450千里眼 じゃ ある まい し 」
 451「 じゃ 、 ひとり だっ た の ね 」
 452マヤ子 は 鼻 で 笑っ て 、
 453「 ふン 、 どうだか 」
 454「 なん です 、
 455ちゃんと おっしゃい 」
 456「 だから 、 どうだか 、 って いっ てる じゃ ない か 、
 457しつっこい ! 」
 458何 を きい て も 、 もう 返事 を し ない 。
 459澄まし た 顔 で 肉 の 小間切れ を いく つ も つくっ て いる 。
 460沼間夫人 は 食堂 の 電気時計 と 自分 の 腕時計 を たがいちがい に 見くらべ ながら 、
 461「 いや だ …… 。
 462ほんとう に 、 なに か あっ た ん じゃ ない かしら 」
 463キャラコさん は 中腰 に なっ て 、
 464「 あたし 、 行っ て 見 ましょ う か 」
 465夫人 は 、 白眼 を キラリ と 光ら せ て 、
 466「 行く って 、 どこ へ ? 」
 467「 その へん まで 」
 468氷 の よう な 冷たい 声 で 、 沼間夫人 が いう 。
 469「 よし て ください ね 。
 470あまり 目立つ よう な こと は 、 あなた に たのま なくて も 、 いくら でも 探す 方法 は あり ます 」
 471キャラコさん は 素直 に あやまる 。
 472「 ごめんなさい 」
 473そこ へ 、 槇子 が 帰っ て 来 た 。
 474ひどく 赤い 顔 を し て いる ので 、 キャラコさん は 槇子 が 風邪 でも ひい た の か と 思っ た 。
 475ひょろひょろ し ながら 三 人 の 食卓 の 方 へ やってくる と 、 不機嫌 な 顔 で 椅子 に かけ て ナプキン を とりあげ た 。
 476沼間夫人 は 安心 と 腹立ち が いっしょ に なっ た よう な 声 で 、
 477「 もっと 、 ちゃんと し て ください ね 。
 478いま まで どこ に い た の 」
 479「 傷病兵 の 慰問 に 行っ て い た ん です 」
 480マヤ子 は 意地 の 悪い 上眼づかい で 、 ジロジロ と 槇子 の 顔 を 眺め て い た が 、 「 おい 、 酒くさい ぞ 」 と 、 すっぱぬい た 。
 481「 なにおォ 」
 482「 つまり 、 いま まで 傷病兵 と 祝盃 を あげ て い た という わけ か 。
 483ヘッ 、 こいつ ァ いい や 」
 484キャラコさん は おかしく なっ て 、 思わず 、 ぷッと 噴き出し た 。
 485槇子 は 、 きッと キャラコさん の 方 へ ふりむく と 、
 486「 おやッ 、 笑っ た ナ 」
 487蒼く なっ て 、 眼 を すえ て キャラコさん を にらみつけ て い た が 、 突然 、 「 生意気 だ よッ 、 貧乏人 」 と 、 叫ぶ と 、 いま 、 ボーイ が 置い て 行っ た ばかし の 熱い ポタアジュ の はいっ た 皿 を 取りあげ て キャラコさん の 顔 へ 投げつけ た 。
 488身 を かわす ひま も なく 、 皿 は まとも に キャラコさん の 胸 に あたっ て 、 顎 から 胸 へ かけ て どっぷり と ポタアジュ を 浴び て しまっ た 。
 489青豆 の はいっ た どろどろ の ポタアジュ が 、 衿 から 胸 の 中 へ 流れ込ん で 、 飛びあがる ほど 熱い の を 、 そっと 奥歯 を かん で こらえ た 。
 490広い 食堂 の 中 に は 、 まだ 六 、 七 組 の 客 が 残っ て い て 、 あっけ に とら れ た よう な 顔 で こちら を 眺め て いる 。
 491キャラコさん は 、 長六閣下 に 、 小さな こと に 見苦しく 動ずる な と 教え られ て いる 。
 492キャラコさん にとって これ は 大切 な 服 だ けれど 、 すぐ ホテル の ランドリイ へ 出せ ば そんな に ひどく なる はず は ない し 、 もともと 自分 が 笑っ た の が いけない ん だ から 、 と 、 すぐ 考えつい て 、 素直 に 槇子 に あやまっ た 。
 493「 マキちゃん 、 ごめんなさい 。
 494あたし が 笑っ た の が 悪かっ た の 」
 495槇子 は そっぽ を 向い て 返事 も し ない 。
 496麻耶子 は 痛快 そう に 、 眼 の 隅 から ジロジロ と キャラコさん の 顔 を 眺め 、 沼間夫人 は 眉 も 動かさ ずに 、 ご自慢 の 白い 手 で 静か に スプーン を 使っ て いる 。
 497キャラコさん は 、 早く 洗濯屋 へ 駆けつけ たい の だ が 、 中座 し て いい もの かどうか と 迷っ て いる と 、 いつ の 間 に か うしろ に 秋作氏 が 来 て い て 、 腕 を とっ て 椅子 から 立た し て くれ た 。
 498槇子 は それ を 見る と 、 いま に も 痙攣けそう な 物凄い 顔 に なっ て 、 「 秋作 、 馬鹿ッ 、 馬鹿ッ 」 と 、 叫び ながら 、 二人 を 目がけ て 手当りまかせ に 食卓 の 上 の もの を 投げつけ 、 投げる もの が なくなる と 、 こんど は 自分 の 服 を ピリピリ と ひき裂き 始め た 。
 499「 みんな で 、 あたし ひとり を いじめるッ 。
 500…… よゥし 、 死ん で やる 、
 501死ん で やる から 」
 502二人 が 食堂 を 出 て しばらく 行っ て から も 、 キンキン と 槇子 の 声 が ひびい て い た 。
 503服 を 着換え て 社交室 へ おり て ゆく と 、 社交室 に は ワニ君 の 一団 と 沼間夫人 と 越智氏 と 猪股氏 が いる 入口 に 近い いつも の 椅子 で 、 『 キャラコさん の 恋人 』 が 静か に 新聞 を 読ん で い た 。
 504キャラコさん が 入っ て いっ て も 、 誰ひとり 口 を きか ない 。
 505ひどい 目 に あい まし た ね 、 と 、 ひとこと いう もの も ない 。
 506みな 顔 を そむけ て 知らん顔 を し て いる 。
 507沼間夫人 が 、 つい 今 まで みな に 自分 の 悪口 を いっ て い た の だ と すぐ 気がつい た が 、 そんな 女々しい 想像 を し ない の が 自分 の 値打ち だ と 思っ て 、 気 に し ない こと に し た 。
 508イヴォンヌさん が 、 気の毒 そう に そば へ 寄っ て き て 、 「 熱かっ て ? 」 と 、 ささやい た 。
 509キャラコさん は 、 笑い ながら 、 そっと イヴォンヌさん の 手 を 握っ て 感謝 の 意 を 伝え た 。
 510キャラコさん が 、 イヴォンヌさん に 、 いっ た 。
 511「 この 部屋 に 手相見 の 名人 が いる の よ 。
 512あなた 、 そういう こと に 興味 が おあり に なっ て 」
 513イヴォンヌさん は 、 面白がっ て 、 「 みなさん 、 この 部屋 の 中 に 世界一 の 手相見 の 名人 が いる ん です 。 みなさん 、 ご存知 ? 」 と 、 大きな 声 で 披露 し た 。
 514そして 、 キャラコさん の ほう へ ふりかえっ て 、
 515「 どなた が 、 そう な の 」
 516キャラコさん は 『 恋人 』 の 方 を さししめし ながら 、
 517「 あそこ に いる 、 あの 、 山本さん て 方 」
 518イヴォンヌさん は 、 すぐ 『 恋人 』 の そば へ 飛ん で 行っ て 、
 519「 あなた 、 世界一 の 手相見 です って 、 本当 ? 」
 520『 恋人 』 は 静か に こたえ た 。
 521「 先生 が まだ 生き て い ます から 、 私 は 世界 で 二 番目 です 」
 522イヴォンヌさん は 手 を 打ちあわし て 、 「 あら 、 そう なら 、 そんな ところ に ひっ込ん で い ない で 、 こっち へ 出 て 来 て ちょうだい 。 見 て いただき たい ひと が たくさん い ます わ 」 と いっ て 『 恋人 』 の 手 を とっ て 社交室 の 真ん中 へ 連れ出し た 。
 523『 恋人 』 は いつも の よう な おどおど し た ようす は すこし も なく 、 手 を ひか れ ながら 部屋 の 真ん中 まで 出 て くる と 、 はっきり し た 声 で いっ た 。
 524「 どなた でも 、 どうぞ 。
 525…… お望み なら 、 お亡くなり に なる 年月日 まで 申しあげ ましょ う 」
 526『 社交室 』 の 一同 は ゾックリ し た よう に 、 互い に チラチラ と 眼 を 見合わせ た 。
 527山本氏 の 声 の 調子 の 中 に なに か 、 そんな ふう な 、 ひと を 竦みあがら せる よう な もの が あっ た 。
 528みな 尻込み し て 、 私 、 と いい出る もの も ない 。
 529キャラコさん が 、 進み出 た 。
 530「 わたし を み て ください 」
 531キャラコさん と 山本氏 を 真ん中 に いれ て 、 一同 が その まわり に 輪 を つくっ た とき 、 槇子 が 蒼い 顔 を し て はいっ て 来 た 。
 532「 いったい 、 何 が はじまろ う ってえ の 」
 533まるで 女王さま から ご下問 でも 受け た よう に 、 四方八方 から 異口同音 に こたえる 。
 534「 世界一 の 手相見 が 、 これ から キャラコさん の 未来 を 占う ところ な ん です 」
 535マキ子 は 舌打ち を し て 、
 536「 ちえッ 、 くだらねえ 。
 537…… そんな ところ に い ない で 、 みンな 、 こっち へ 来い よう 」
 538しかし 、 誰 も 輪 を 離れ て ゆく もの が ない 。
 539山本氏 は キャラコさん の 掌 を 眺め て い た が 、 何 か 異常 な 発見 でも し た よう に 、 おお 、 と 低い 感嘆 の 声 を もらし 、 キラキラ 光る 眼 で 一同 の 顔 を 見廻し た のち 、 低い 声 で 語り だし た 。
 540「 これ は 、 実に 非凡 な 手 です 。
 541何十万 の うち に 、 稀 に たった 一 つ この よう な 手 に 出っくわす 。
 542…… 順序よく 申し ます 。
 543まず 、 だいいち に 、 この 方 は たいへん に 勇敢 な 気性 だ 」
 544越智氏 が 、 馬鹿 に し た よう な 口調 で いっ た 。
 545「 みな 尻込み し て いる うち に 、 最っ先 に 出 て ゆく ん だ から 、 そりゃア 勇気 が ある ほう でしょう な 」
 546みな 、 どっと 笑い だす 。
 547山本氏 は 耳 も かさ ずに 、
 548「 あなた は 非常 に 健康 で 、 これ は 、 晩年 まで つづき ます 。
 549聡明 で 沈着 で 、 たいへん に 忍耐強い 」
 550ワニ君 が 口 を 出す 。
 551「 それ は 、 僕 も 認め ます 」
 552シッ 、 シッ 、 という 声 が 起こる 。
 553「 …… 卑猥 に も 不潔 に も なじむ こと が ない 。
 554あなた は 生まれ て から まだ 一 度 も 嘘 を いっ た こと が ない 。
 555あなた は 、 この世 で 最も 堅実 で 道義心 の 強い どの 男性 より も 、 もっと 堅実 で 道徳的 です 。
 556実に 稀 な 手 です ね 。
 557…… それから 、 この 線 !
 558なんでもない この ちっぽけ な 皺 の 中 に 、 わたくし は 異例 な 運命 を 発見 し まし た 。
 559この 線 を 見る と 、 あなた に は たいへん な 幸運 と 、 一 口 に いえ ない ほど の 莫大 な 財産 が 備わっ て いる こと が わかる 」
 560みな 、 わあ ッと 笑い 出す 。
 561なか で も 、 槇子 の 嘲笑 が ひときわ 高く ひびい た 。
 562山本氏 は 憫む よう な 眼ざし で 一同 を 眺めまわたし ながら 、
 563「 その 財産 を いま 持っ て い られる と は いっ て い ませ ん 。
 564しかし 、 わたくし は 誓っ て 申し ます 。
 565思いもかけぬ よう な 事情 によって 、 この お嬢さん が その 幸運 を うける の です 。
 566…… みなさん は お笑い に なる が 、 ご自分たち の 未来 について 何 を 知っ て いる と いう の です 。
 567自分 が 明日 死ぬ こと さえ ご存知 ない くせ に 。
 568…… 私 の 見る ところ で は 、 この 中 に 、 そういう 運命 の 方 が 一人 い ます 」
 569もう 、 声 を 出す もの も ない 。
 570槇子 が 、 揺椅子 から 離れ て 山本氏 の 前 に 坐る と 、 だまっ て 掌 を 差しだし た 。
 571山本氏 は その 掌 を じっと 眺め て い た が 、 ゆっくり と 顔 を あげる と 、 異様 に 光る 眼差し で 槇子 の 眼 を 瞶め ながら 、
 572「 この 掌 は 、 いま あなた に 非常 な 危険 が 迫っ て いる こと を 物語っ て いる 。
 573…… この 掌 の 中 に 表われ て いる こと を 、 みなさん の 前 で すっかり 申し て も よろしい か 」
 574槇子 は 、 サッと 血の気 を なくし て 、 いそい で 手 を ひっこめる と 、 低い 声 で 、 「 いいえ 、 よく 、 わかっ て ます 」 と 、 いう と 、 逃げる よう に 社交室 を 出 て いっ た 。
 575
 576夜中 から 吹き出し た 強い 冬 の 風 は 、 夜 が あけ て も おとろえ ずに 、 はげしい 勢い で 海 の 上 を 吼え廻っ て い た 。
 577午過ぎ に なる と 、 低く 垂れさがっ た 雨雲 の 間 から 薄陽 が もれ はじめ 、 嵐 は おいおい おさまっ た が 海面 は まだ いち面 に 物凄く 泡だち 、 寄せかえす 怒濤 は 轟く よう な 音 を たて て 岸 を 噛ん で い た 。
 578しかし 、 嵐 は 海 の うえ に ばかり 吹い た の で は なくて 、 ホテル の この 『 社交室 』 も 、 今朝 から 一種 の 突風 の よう な もの に 襲わ れ て い た 。
 579沼間氏 について 、 想像 だに も し なかっ た 意外 な 事実 が 、 ある ひと の 口 から もらさ れ た の で ある 。
 580沼間氏 の 経営 する 第九十九銀行 は 、 最も 信用 ある 個人銀行 の 一 つ に 数え られ 、 沼間氏 自身 は 百万長者 の ひとり だっ た 。
 581ところで 、 金融関係 も 預金者側 も だれひとり 知ら ぬ うち に 、 沼間氏 は いつ の 間 に か 一文なし に なり 、 銀行 の 経済状態 まで が 危殆 に 瀕し て い た の で ある 。
 582沼間氏 が 、 沼間銀行 を通じて 莫大 な 投資 を し て い た 『 択捉漁業 』 は 、 昨年 秋 の 漁区不許可問題 に ひっかかっ て 破産 し 、 沼間氏 は 資本 の 回収不能 に 陥っ て 、 銀行 の 金庫 に 、 全財産 を 投げ出し て も まだ 数十万 円 の 足 が 出る よう な 大穴 を あけ て しまっ た 。
 583これ は 沼間氏 一個人 の 大思惑 で 、 他人 の 名儀 で ひそか に 投資 し て い た もの だ から 、 損害 の 補填 が つか ぬ うち に この 事実 が 暴露 する と 、 沼間氏 は 、 当然 、 背任横領 の 罪 に 問わ れ なけれ ば なら ない 。
 584こういう 内実 を 糊塗 する ため に 、 贅沢 な ホテル住居 を し 、 ことさら 、 無闇 に 金 を 浪費 し て いる 沼間夫人 と その 二人 の 娘 は 、 その 内幕 へ 入る と 、 じつは 、 どの 人間 より も 不幸 で 、 どの 人間 より も 貧乏 な の で あっ た 。
 585この 情報 を 『 社交室 』 に もたらし た の は ワニ君 で 、 その 噂 の 出どころ は 、 昨日 の 夕方 この ホテル へ やって来 た イヴォンヌさん の 父親 の 山田氏 だっ た 。
 586山田氏 は ホテル の 食堂 で 、 日ごろ 尊敬 する 石井長六閣下 の 愛嬢 に対する 、 沼間一族 の 高慢無礼 な 仕打ち に 腹 を 立て 、 義憤 の あまり 、 報酬的 に 沼間家 の 裏 の 事情 を ワニ君 に すっぱぬい た 。
 587それ くらい の 目 に あわ し て やっ て も いい と 思っ た の で ある 。
 588それと 、 もう 一 つ は 、 槇子 と 猪股氏 の 婚約成立 の 報知 だっ た 。
 589これ は 、 ホクホク と 笑み崩れ た 猪股氏 自身 の 口 から 披露 さ れ た 。
 590この 二 つ の 情報 を つづくり合せる と 、 沼間夫人 が どういう 目的 で この ホテル へ やって来 た か 誰 に も すぐ 了解 さ れ た 。
 591銀行 の 金庫 を 補填 する ため に 、 二人 の 娘 を ここ へ 競売 に 来 た の で ある 。
 592この 報知 を きい て 、 最も 打撃 を 受け た の は 越智氏 だ 。
 593系図 と 伊達 を 売り物 に し て 、 纒まっ た 持参金 に ありつこ う と 日夜 骨 を 折っ た 甲斐 も なく 、 その 相手 は 空手形 だっ た 。
 594ワニ君 が 、 慰め顔 に いっ た 。
 595「 越智氏 、 まア 、 そんな に 嘆く な 。
 596見損っ た の は 君 ばかり じゃ ない 。
 597ひと の 分 まで 落胆 し て くれ なくて も いい よ 」
 598ポン君 が 、 いっ た 。
 599「 それにしても 、 いい 商売 を し やがっ た な 。
 600いったい 、 四十万 だろう か 、
 601五十万 だろう か 」
 602…… 社交室 の ピアノ の うしろ で キャラコさん が きい た の は 、 大体 この よう な こと だっ た 。
 603キャラコさん が 入っ て き た 時 に は 、 この 部屋 に は 誰 も い なかっ た 。
 604キャラコさん は 冗談 に 、 『 休憩室 』 と 呼ん で いる ピアノ の うしろ の 狭い 三角形 の 隙間 へ はいり込ん で 、 いつも の よう に 『 コロンバ 』 の つづき を 読ん で いる と 、 ワニ君 の 一団 が ドヤドヤ と 飛び込ん で 来 て 、 いきなり 話 を はじめ た ので 、 いまさら 出る こと も でき ず 、 息 を ひそめ て 竦ん で いる ほか は なかっ た 。
 605沼間家 が 一文なし に なっ た こと も 、 沼間夫人 の 遠謀 も 、 猪股氏 と 槇子 の 婚約 も 、 みな 、 意外 な こと ばかり だっ た が 、 そう と なる と 、 叔母 が 、 なぜ 自分 を 無理 に こんな ホテル へ 誘っ て 来 た か 、 その 目的 が はじめて はっきり と 了解 でき た 。
 606この 競売 を 一層 効果的 に する ため に 、 時局柄 、 光栄 ある 石井長六閣下 の 愛嬢 を 、 近親 として 手元 に ひきつけ て おく 必要 が あっ た の だ 。
 607キャラコさん は まだ 一 度 も 槇子たち の 身分 を うらやん だ こと は ない 。
 608反対 に 、 不幸 だ と さえ 思っ て い た が 、 その 不幸 は 、 キャラコさん が 考え て い た より も 、 もっと ひどい もの だっ た 。
 609しかし 、 槇子 の ほう は 、 愛情 より 真実 より 金 の 方 が 大切 な 娘 な の だ から 、 こういう 身売り を 格別 不幸 だ と も 思っ て い まい 。
 610キャラコさん は 、 ためいき を つき ながら 、 そっと 呟く 。
 611「 マキちゃん は 、 貧乏 で は 一日 も 暮らせ ない ひと な ん だ から 、 いちがい に 責める わけ に は ゆか ない わ 。
 612そんな ふう に ばかり 育て られ て き た の だ から 。
 613…… あたし と は 、 わけ が ちがう 」
 614戸外 で 騒がしい 声 が する ので 、 キャラコさん は 、 ふと 、 われ に かえっ た 。
 615五六 人 の ひと が 、 きれぎれ に 叫び ながら 、 海岸 の 方 へ 駆け て ゆく 。
 616ワニ君たち は 窓 から 首 を つき出し て 、 駆け て ゆく ひと に なに か 問いかけ て い た が 、 すぐ 、 「 大変 だ 、 大変 だ 」 と 、 わめき ながら 、 あと先 に なっ て 社交室 から 飛び出し て いっ て しまっ た 。
 617キャラコさん は 庭 へ 出 て 、 海岸 へ おりる 石段 の 上 まで 行っ て 見 た が 、 波打ち際 で 走り廻っ て いる 大勢 の ひと の 姿 が 見える ばかり で 、 何 が おこっ た の か わから ない 。
 618石段 を 駆け降り て 、 ギッシリ と 浜辺 に 立ちならん で いる 人垣 の うしろ まで 行く と 、 その 向う から 、 何 か ききとり にくい こと を 、 繰りかえし 繰りかえし 叫ん で いる 甲高い 女 の 叫び声 が きこえ て き た 。
 619叔母 の 声 だ 。
 620すぐ 前 に 、 アシ君 が 蒼く なっ て 、 眼 を すえ て 海 の ほう を 睨ん で いる 。
 621キャラコさん が しっかり し た 声 で たずねる 。
 622「 葦田さん 、 なに が あっ た の 」
 623アシ君 は 、 ふりかえる と 、 肩越し に 、 喰っ て かかる よう な 口調 で こたえ た 。
 624「 マキちゃん が 、 潮吹岩 まで ボート で 行っ て 見せる って がんばる ん だ 。
 625いくら とめ て も 、 どう し て も きか ない で 、 とうとう ひとり で 行っ ちゃっ た ん だ って 」
 626キャラコさん は 、 のび上っ て 沖 の ほう を 見 た が 、 ボート らしい もの も 見え ない 。
 627「 ボート なんか 、 どこ に も 、 見え ない わ 」
 628「 馬鹿ァ 、
 629ボート が でんぐりかえっ て 、 溺れ かけ てる ん だア 」
 630午すぎ に 、 ちょっと さし かけ た 薄陽 は 、 また 雨雲 に とざさ れ 、 墨色 の 荒天 の 下 に 、 冬 の 海 が 白い 浪 の 穂 を 散らし て 逆巻い て いる 。
 631見上げる よう な 高い 波 が 、 折り重なっ て 岸 へ 押しよせ て は 、 大砲 の よう な 音 を たて て 崩れ落ちる 。
 632五 町 ほど 沖合 に 、 芥子 の 花 の よう な 薄赤い 色 が 浮き沈み し て いる 。
 633波 に ゆりあげ られ て チラと 見え た と 思う と 、 すぐ 次 の 波 の した に 沈ん で しまう の だっ た 。
 634もう 、 何 も 見る 気 が し なかっ た 。
 635あの 美しい 槇子 が 自分 の すぐ 眼 の 前 で 死ん で ゆく 。
 636「 マキちゃん 、 …… ああ 、 どう し よう 、 マキちゃん 」
 637自分 で も 、 何 を いっ て いる の か わから なかっ た 。
 638キャラコさん は 、 槇子 の 意地悪 も 我儘 も みな 忘れ て しまっ た 。
 639「 どうか 、 助かっ て ちょうだい 」
 640この 瞬間 、 キャラコさん は 、 父 より も 、 母 より も 、 兄弟 より も 、 槇子 の 方 が 好き だっ た よう な 気 が し た 。
 641人々 は 、 埓 も なく 、 「 早く 、 舟 を 出せ 」 「 ホテル の モーター・ボート は どう し た 」 など と 叫び ながら 、 ウロウロ と 渚 を 走り廻る ばかり で 、 とっさ に 、 どう し よう かんがえ も 浮ん で 来 ない の だっ た 。
 642なにしろ 、 一 月 の こと だ から 、 ホテル の モーター・ボート は 格納庫 の 中 に 納わ れ て い て 、 ちょっとやそっと で 引きだす わけ に は ゆか ない 。
 643この 上 は 漁船 を 出す より ほか は ない ので 、 ホテル の 庭番 が そっち へ 駈けだし て いっ た が 、 ここ から いちばん 近い 漁師 の 家 まで 約十五 町 も ある 。
 644人垣 の 向う で 、 何 か 劇しく いい あう 声 が する ので 、 キャラコさん が その ほう を ふり返っ て 見る と 、 『 恋人 』 が 、 いま 大急ぎ で 服 を 脱ご う と し て いる ところ だっ た 。
 645ガヤガヤ は それ を 必死 に 押し止め よう と する 人々 の 声 だっ た 。
 646この 荒れ狂う 海 の 中 へ 、 この よぼけ た 老人 が 躍り込も う という の は 、 たしか に 、 正気 の 沙汰 で は なかっ た 。
 647息 を つめ て いる うち に 、 『 恋人 』 は 素早く 服 を かなぐり捨て 、 ひきとめる 人々 の 手 を ふり切っ て 飛沫 を あげ て 海 の 中 へ 躍り込ん だ が 、 最初 の 高波 が 、 『 恋人 』 を 岸 へ 叩きつけ て しまっ た 。
 648岸 に 立ちならん で いる 人々 の 口 から 、 一斉 に 、 「 ああ 」 と 、 叫び とも 呻き とも つか ぬ 声 が もれ た 。
 649キャラコさん は 、 思わず 両手 で 顔 を 蔽っ て しまっ た 。
 650すぐ 耳 の そば で 、 「 ああ 、 頭 を 出し た 、 頭 を 出し た 」 と 、 いう 声 が する 。
 651顔 を あげ て 見る と 、 波 に うた れ て 沈ん で しまっ た と 思っ た 『 恋人 』 が 、 波 の 下 を くぐり くぐり 、 沈着 な ようす で 沖 の ほう へ 泳い で ゆく 。
 652『 恋人 』 の 体 は 、 たちまち 押し上げ られ 、 押し沈め られ 、 また 浮き上がる 。
 653揉み立て られ 、 揺すら れ 、 薙ぎ倒さ れ ながら 瘠せさらばえ た 初老 の ひと が 、 二十 代 の 青年 の よう な 精力 と 不撓 の 努力 で ジリジリ と 槇子 の 方 へ 迫っ て ゆく 。
 654自然 の 暴威 と 格闘 する 最も 果敢 な 人間 の 姿 だっ た 。
 655しかし 、 槇子 の 浮き沈み し て いる ところ は まだ 遠かっ た 。
 656『 恋人 』 の いる ところ から まだ 三 、 四 町 も 沖合 だっ た 。
 657早く 行き着い て くれ 。
 658それにしても 、 無事 に 行きつける であろう か 。
 659ひとり として 正視 する もの も ない 。
 660「 しッかり 、 たのむ ぞオ 」
 661だれ か が 絶叫 する 。
 662ほとんど 泣い て いる よう な 声 だっ た 。
 663「 元気 を だし て くれえ 」
 664キャラコさん は 、 大声 で 声援 し よう と 思う の だ が 、 なに か 咽喉 に つまっ て どう し て も 声 が 出 なかっ た 。
 665永久無限 と も 思わ れる 長い 時間 だっ た 。
 666『 恋人 』 は 、 ようやく あと 十 間 ほど の ところ へ 迫っ て ゆき つつ あっ た 。
 667「 早く 、 早く ! 」
 668キャラコさん は 夢中 に なっ て あしずり し た 。
 669こんな 辛い 思い を する の は 生まれ て から これ が 初めて だっ た 。
 670ワニ君 が 躍り上っ て 叫ん だ 。
 671「 つかまえ たア ! 」
 672越智氏 が 、 金切り声 を 上げ た 。
 673「 マキちゃん が 、 水 の 上 へ 頭 を 出し た 。
 674…… 大丈夫 !
 675まだ 生き てる ! 」
 676ようやく 、 この 時 に なっ て 岬 の 鼻 から 漁船 が 漕ぎ出し て き た 。
 677しかし 、 漁船 と 二人 の 間 は 十四 、 五 町 も へだたっ て いる 。
 678『 恋人 』 は 、 槇子 を 水 の 上 へ 押しあげ ながら いっしん に 泳い で いる が 、 もう 力 が つき はて た らしく 、 時々 波 の した へ 、 がぶっと 沈ん で しまう 。
 679望遠鏡 を 持っ て キャラコさん の うしろ に 立っ て い た 山田氏 が 、 身もだえ し ながら 叫ん だ 。
 680「 いま 船 が 行か なけれ ば 、 沈ん で しまう 」
 681漁船 は 、 見るも 歯痒い よう な 船足 で のろのろ と 近づい て ゆく 。
 682『 恋人 』 の 姿 は 、 やや 長い 間 海面 の 下 に 沈み込ん で い た が 、 最後 の 勇気 を ふるい起こし た の だろう 、 槇子 を 抱え ながら 漁船 へ 向っ て 泳ぎ 出し た 。
 683見る さえ 苦痛 な 十 分間 だっ た 。
 684…… しかし 、 漁船 は とうとう 『 恋人 』 の そば まで 漕ぎ寄っ た 。
 685岸 の 一同 は 、 期せ ず し て 、 「 万歳 ! 」 と 、 叫ん だ 。
 686船 の 上 の 漁夫たち は 、 槇子 と 『 恋人 』 の 手 を つかん で 船 に ひきあげ た 。
 687キャラコさん は 足 が ガクガク し て 立っ て い られ なく なっ て 、 そこ へ しゃがみ込ん で しまっ た 。
 688そして 、 はじめて 涙 を 流し た 。
 689望遠鏡 で 熱心 に 漁船 の 中 を のぞき込ん で い た 山田氏 が ワニ君 に たずね た 。
 690「 あの 人 は 誰 だ か 、 知っ て い ます か 」
 691「 ホテル に 泊っ て いる 山本 という ひと です 」
 692これ を きく と 、 山田氏 が 飛び上っ た 。
 693そして 、 呻く よう に いっ た 。
 694「 やはり 、 そう だっ た 。
 695…… あれ は 、 ジョージ・ヤマ だ ぜ 。
 696君 、 知っ て た かね ? 」
 697こんど は 、 ワニ君 が 飛び上っ た 。
 698「 ジョージ・ヤマ !
 699…… 亜米利加 で 成功 し た 千万長者 !
 700…… 小供 の 時 に 、 新聞 で 評伝 を 読ん だ こと が あり ます 。
 701しかし 、 ずいぶん 昔 の こと です よ 」
 702「 そう 。
 703…… すべて の 事業 から 手 を ひい て 欧州 へ 行っ て しまっ た の は 、 ざっと 十五 年 ほど 前 の こと だ 。
 704それ 以来 、 すこし も 評判 を 聞か ぬ よう に なっ た が 、 欧羅巴 で 生き て いる こと だけ は たしか だっ た 。
 705時々 、 自分 の 名 で 思い切った 寄附 を する ので ね 。
 706…… これ は 意外 だ !
 707ジョージ・ヤマ が 伊豆 に いる と は ! 」
 708
 709キャラコさん は 、 つぎ の 朝 まで 槇子 の 枕元 を 離れ なかっ た 。
 710虚栄 と 冷淡 と 利己心 の かたまり の よう な 沼間夫人 も 、 この 出来事 に は さすが に たましい を ひっくりかえさ れ た と 見え 、 甲斐がいしく 槇子 の 汗 を 拭い て やっ たり 、 布団 の 裾 を おさえ たり 、 よ の つね の 母 らしい そぶり を みせる の だっ た 。
 711麻耶子 は 高い 窓枠 に 腰 を かけ 、 心配 そう に 唇 を への字 に 曲げ ながら 足 を ブランブラン さ せ て い た 。
 712今日 ばかり は 、 さすが に 意地悪 を し なかっ た 。
 713沼間夫人 が なに か いいつける と 、 「 ハイ 」 と 、 兵隊 の よう な 返事 を し て 駆け出す の だっ た 。
 714槇子 は おどろく ほど 沢山 水 を 飲み 、 その うえ 、 冷たい 水 の 中 に 長い 間 つかっ て い た ので 、 岸 に あげ られ た 時 は もう 瀕死 の 状態 だっ た 。
 715『 恋人 』 の 行きつく の が もう 十 分 も おそかっ たら 、 槇子 は もう この世 の もの で は なかっ たろ う という こと は 、 誰 の 眼 に も 明らか だっ た 。
 716漁船 の 中 で すばやく 水 を 吐か せ た 『 恋人 』 の 処置 が よかっ た の と 、 すぐ 医者 が 駆けつけ て 熱い 辛子 の 湿布 を し て くれ た ので 、 ようやく 命 だけ は とりとめ 、 肺炎 に も なら ずに すん だ が 、 ひどい 疲労 と 高熱 で 意識不明 の まま 昏々 と 眠り つづけ 、 その 眠り の うち に 、 悲し そう に 身 を ※き ながら 、 「 秋作さん 、 秋作さん 」 と 、 絶えず 囈言 を いう 。
 717すると 、 その たび に 、 沼間夫人 は ハンカチ を 絞る ほど の 涙 を 流し 、 「 ゆるし て ね 、 ゆるし て ちょうだい 」 と 、 身 も 世 も ない よう に 嘆く の で ある 。
 718キャラコさん は 槇子 が かあいそう で 、 どう し て いい か わから なく なる 。
 719『 社交室 』 で の ワニ君たち の 話 や 猪股氏 と の 婚約 と 、 この 囈言 を 思い合わせる と 、 今 まで 少し も 気がつか なかっ た いろいろ 複雑 な 事情 が すこし ずつ のみこめ て くる 。
 720キャラコさん は 、 思わず 、 ためいき を つく 。
 721「 マキちゃん は 、 やっぱり 秋作氏 を 愛し て い た ん だ わ 」
 722秋作氏 が 『 黒い お嬢さん 』 と 二人 で この ホテル へ やって来 て から 、 急 に 猪股氏 に 辛く あたり 出し た こと も 、 酔っ て 帰っ て 来 た 夜 の 食堂 で の 狂態 も 、 さも ある べき いちいち の 意味 が よく わかる 。
 723昨年 の 秋 、 秋作氏 の 求婚 にたいして 、 あなた 、 貧乏 だ から 、 いや 、 と 、 にべもない 返事 を し た の は 、 決して 本心 で は なかっ た の だ 。
 724何 もかも あきらめ て 、 進ん で 自分 を 『 糶 』 に 出し た の に ちがいない 。
 725自分本意 で 、 骨 の 髄 まで 浅薄 な 娘 だ と ばかり 思っ て い た 槇子 の 胸 に 、 こんな しおらしい たましい が ひそん で い た という こと は 、 キャラコさん にとって は 意外 だっ た 。
 726意地っぱり で 、 一旦 こう と 決心 し たら 容易く 自己 を 表わさ ない 冷静 な 槇子 が 、 自分 の 心 を のぞか れる よう な あんな 狂態 を 演じ た の を 見 て も 、 槇子 が どんな に 苦しん で い た か よく わかる 。
 727それ を 察し て あげる こと が でき なかっ た の は 、 やはり 、 じぶん が 未熟 だ から に 相違ない 。
 728キャラコさん は 、 心 の うち で 詫び た 。
 729「 マキちゃん 、 ゆるし て 、 ちょうだい 」
 730それにしても 、 秋作氏 は 槇子 の この 美しい 心根 を 知っ て いる かしら 。
 731夜 の 十 時 ごろ に なっ て 、 秋作さん が 飛ん で 来 た 。
 732槇子 が 溺れ かけ た こと より 、 自分 の 部屋 の 扉 の 下 に すべり込ませ て あっ た もの を 見 て 、 驚い て 飛ん で 来 た の で ある 。
 733それ は 、 西洋封筒 に 入れ た 一 枚 の 紅葉 で 、 封筒 の 表 に は きれい な 字 で 日附 が 書い て あっ た 。
 734秋作氏 と 二人 きり で 高尾山 へ 行っ た 日 の 日附 で ある 。
 735『 社交室 』 で は 、 また 新しい 話題 で わきかえっ て い た 。
 736ワニ君連 を 代表 し て 、 花束 を 持っ て お見舞い に 来 た アシ君 が 、 槇子 の ( 秋作さん 、 秋作さん ) を 聞い て しまっ て 、 これ を 『 社交室 』 へ 急報 し た 。
 737ポン君 が 、 いっ た 。
 738「 おかしい と 思っ た よ 。
 739いくら 槇子 が 気紛れ だって 、 あんな 時化 に ボート を 漕ぎ出す なんて の は 、 ちと ムイミ だ から な 。
 740秋作さん へ の 心中立て に 、 初め から 自殺 する つもり だっ た ん だ 」
 741「 なるほど 、 そういう わけ か 」 と 、 ワニ君 が ためいき を つい た 。
 742「 どう も 、 時世 が 変っ て 来 た な 」
 743ところへ 、 ホテル の 支配人 が やって来 て 、 山本氏 に 召集状 が 来 、 明朝 応召 さ れる ので 、 山田氏 の 発起 で ホテル と 共同 の 歓送晩餐会 を 催す こと に なっ た から 奮っ て ご出席 願い たい と いっ た 。
 744さすが に 、 一人 も 欠ける もの が なかっ た 。
 745槇子 だけ は まだ 床 を 離れ られ ない ので その 席 に 連らなら なかっ た 。
 746一同 が 席 に つい て 待っ て いる と 、 すこし 遅れ て 山本氏 が 入っ て 来 た 。
 747いま まで の みすぼらしい 服 を ぬぎすて て チェビアット の 瀟洒 たる 服 を 着 、 無精髯 を 剃り落とし て 、 髪 を 綺麗 に 撫でつけ 、 頬 を 艶々 と 光らし て いる ところ を 見る と 、 これ が よぼよぼ し た 昨日 まで の 老人 だ と は 、 どう し て も 思わ れ ない 。
 748ホテル 第一 の 伊達者 の 越智氏 も 、 その 前 へ 出る と 、 急 に 影 が うすく なっ た よう な 工合 だっ た 。
 749山田氏 が 一同 を 代表 し て 祝辞 を 述べる と 、 山本氏 が 起立 し て 挨拶 を かえし た 。
 750「 私 は この 四十五 年 の 半生 の 大部分 を 外国 で 暮らし 、 何ひとつ とりたて て 日本 の ため に 尽す こと が でき ませ ん でし た が 、 幸い 、 この たび 召集 さ れ 、 私 の 一身 を 日本 へ 捧げ 、 最も 崇高 な 方法 で 自分 の 生涯 を 完結 さ せる 機会 に めぐま れ た こと を 心 から 歓喜 し て おり ます 。
 751…… この 喜悦 の 情 は どれ だけ 深い もの か 、 長らく 日本 を 離れ て い た 私 の よう な もの で なけれ ば 、 恐らく おわかり に なる こと は でき まい と 存じ ます 。
 752…… 私 の ご挨拶 は これ で 終り ます が 、 この 席 を 利用 し て 、 ちょっと 一言 申し述べ させ て いただき たい 事 が ござい ます 。
 753…… 私 は 応召 し て 戦場 へ まいり ます 以上 、 もとより 生還 を 期し て は おり ませ ん
 754…… ご存知 の 方 も あり ましょ う が 、 私 は 親戚 も 身寄り も 持っ て おり ませ ん ので 、 私 の 全財産 、…… 千二百万 弗 、 すなわち 、 四千万 円 を 、 この 席 に おら れる 方 で これ を 最も 有意義 に お使い くださる であろう と 思わ れる 人格 に 御相続 願う こと に し まし た 」
 755山本氏 が 、 こう いっ た 時 の 、 一座 の 恐慌 と いっ たら なかっ た 。
 756越智氏 は 気 が 遠く なる よう な 眼つき を し 、 葦君 は その 細い 長い 脚 を ブルブル と 震わせ た 。
 757山本氏 は そんな こと に は 頓着なく 、 ほのか な 口調 で 、
 758「 私 は 十六 の 年 に アメリカ へ 渡り 、 あらゆる 職業 に 従っ て 黒人 の よう に 働き つづけ まし た が 、 どんな 仕事 に も 成功 し ませ ん でし た 。
 759…… しかし 、 その 後 、 ある 奇縁 によって 発奮 し 、 カルフォルニア で 香水原料 の 花卉栽培 に 従事 し 、 飽き飽き する ほど の 財産 を つくり まし た 。
 760…… 私 の 今日 を なさ しめ た 奇縁 という の は どのような もの だっ た か と 申し ます と 、 私 が 失意落胆 し て サンタ・フェ の 田舎 を 放浪 し て い ます とき 、 私 に 貯金 の 二十 弗 を めぐみ 、 『 冬の円居 』 という 日本 の 小学唱歌 を 唄っ て 元気 を つけ て くれ た 、 十九 歳 の 日本 の 一少女 の 親切 だっ た の です 」
 761山本氏 は 、 感慨 を 催し た らしく 、 ちょっと 沈黙 し た のち 、 「 …… 私 が 多少 の 成功 を いたし まし た 時 、 早速 、 サンタ・フェ に まいり まし て 、 その 少女 を たずね まし た が 、 少女 は 既に 結婚 し て 夫 と 欧州 へ 行っ た あと でし た 。 私 は 及ぶ かぎり の 方法 を もっ て 捜索 さ せ まし た が わかり ませ ぬ 。 …… 今 から 十五 年 前 、 私 が あらゆる 事業 から 手 を ひい て 欧羅巴 へ 渡り まし た の も 、 畢竟 、 私 の 生涯 を かけ て その 少女 の 所在 を たずね よう ため でし た 。 …… それ から 七 年目 、 つまり 昨年 の 春 、 ふとした 手がかり で 、 その 少女 が アントワープ に いる こと を つきとめ まし た が 、 私 が まいり まし た 時 は 既に この世 の ひと で は なかっ た の です 。 …… そういう わけ で 、 私 は 私 の 相続人 を 探す ため に 日本 へ 帰っ て まいり まし た 。 …… 私 は 自分 の 相続人 の 条件 を こんな 風 に きめ まし た 。 …… 年 は 十九 から 廿 歳 まで の 、 心 から 私 に 親切 に し て くれる 少女 …… 。 必ずしも 、 いい 趣味 と は もうさ れ ませ ん が 、 私 の 気持 だけ は 、 たぶん おわかり くださる でしょう 。 …… ところで 、 日本 へ 帰っ て 来 て 見 ます と 、 日本 の 変り方 は たいへん な もの でし た 。 ことに 、 少女 の 性情 の 変り方 は 、 ほとんど 信じ られ ない くらい でし た 。 この 一 年間 、 探ね て いる よう な 少女 に 私 は とうとう めぐり合う こと は でき ませ ん でし た 。 私 が この ホテル へ つい た とき 、 私 は 、 ほとほと 疲れ て しまい まし た 。 私 は 相続人 を 得る こと を あきらめ ね ば なら ぬ か と 、 ひそか に 覚悟 し た くらい です 。 …… しかし 、 どう し て も 諦め きれ ぬ ところ も あっ て 、 ご承知 の よう な 試み を やっ て 見 まし た 。 もちろん 、 私 の 試み の 性質 に も より ましょ う が 私 は 、 ここ で さんざん な 軽蔑 の されよう でし た 。 …… ところで 、 その うち に 、 ただ 一人 、 この みすぼらしい 老人 に たいへん に 親切 に し て くれる 少女 を 、 発見 し まし た 。 私 は 、 とうとう ゆきつい た の でし た 。 それ は 今年 十九 に なる 、 いささか も 浮薄 な 流行 に なじま ぬ 、 快活 で 、 控え目 で 、 正直 で 、 健康 で 、 そして 、 美しい 少女 です 。 それ ばかりか 、 彼女 は 、 私 に 『 冬の円居 』 さえ 弾い て くれ まし た 。 私 が 彼女 を 撰ぶ の に 、 何 の 躊躇 する ところ が あり ましょ う 。 …… 私 は 、 石井剛子さん を 、 私 の 相続人 に 定め たい と 思う の です 。 剛子さん は 、 この 財産 を 私 自身 が 使う より 、 もっと 有用 な 使い方 を し て くれる であろう こと を 信じ て 疑い ませ ん 。 私 は 今朝 まで かかっ て 必要 な 書類 を 全部 揃え て 置き まし た から 、 あと は 私 の 弁護士 が 外国 の 銀行 の 方 の 始末 を つけ 、 遅く とも 今年 の クリスマスごろ まで に 、 それ を 剛子さん に お渡し できる よう に 骨 を 折っ て くれる こと でしょう 」 と 、 いう と 、 キャラコさん の 方 へ 向き直っ て 、 こんな ふう に 、 たずね た 。
 762「 剛子さん 、 あなた 、 お受け 下さる でしょう ね 」
 763キャラコさん が 、 アッサリ と こたえ た 。
 764「 ありがとう ござい ます 」
 765まるで 、 ボンボン の 箱 でも もらっ た よう な 簡単 な 挨拶 だっ た ので 、 みな 、 声 を 合せ て 笑い 出し た 。
 766秋作氏 が 、 とつぜん 立ちあがっ て 、 こんな こと を いっ た 。
 767「 剛子 の 美しい 性情 は 、 質素 の 家庭 に 育っ た ため に いよいよ 磨か れる こと に なっ た と も いえる の です 。
 768…… この 娘 に その よう な 大金 を お与え くださる の は 有難い けれど 、 その ため に 剛子 の すぐれ た 性質 を だめ に し て しまい ませ ぬ か と 、 それ を 恐れ ます 。
 769…… 失礼 な こと を 申す よう です が 、 人間 の 美しい 性質 に 比べる と 、 金 など は 、 たいして 価値 の ある もの で は あり ませ ん から ね 」
 770山本氏 は 微笑 を 浮べ ながら 胸 の チョッキ から 一 枚 の 小切手 を とり出し 、
 771「 お言葉 です が 、 私 は 、 剛子さん が 、 金 など で 性情 が 損わ れる よう な 方 で ない と 信じ て い ます 。
 772…… では 、 最後 の 決定 を する 前 に こういう こと を し ましょ う 。
 773…… ここ に 、 即座 に 使わ れ て いい 二十万 円 の 金 が あり ます 。
 774これ を 、 どういう ふう に 使わ れる つもり か 、 明日 の 朝 まで に 返事 を し て いただき ましょ う 。
 775その 使い方 が 、 何びと も 至当 だ と 思う 、 最も 自然 な 、 最も 有用 な 使い方 だっ たら 安心 し て 財産 を お任せ する こと に し ましょ う 。
 776それ で 、 いかが です か ? 」
 777次 の 朝 、 『 社交室 』 で 、 槇子 と 猪股氏 の 婚約 が 取り消さ れ 、 槇子 と 秋作氏 の 婚約 が 発表 さ れ た 。
 778山本氏 も 『 社交室 』 の 一同 も 、 この 廿万 円 の 使い方 は 、 最も 自然 で 最も 正当 だ と 是認 し た 。
 779ホテル の 一同 は 、 開通 し た ばかり の 伊豆 の 停車場 まで 山本さん を 送っ て いっ て 、 プラット・ホーム で 万歳 を 三唱 し た 。
 780山本氏 の 半白 の 鬢 の あたり に 、 朝日 が キラキラ と 輝く 。
 781山本氏 は 車窓 から 半身 を 乗りだし 、 しっかり と 口 を 結ん だ まま 一同 の 万歳 に うなずい て い た 。
 782キャラコさん は 、 感動 し て 、 声 が 出 なく なっ て しまっ た 。
 783喉 の 奥 の ところ に 固い かたまり の よう な もの が でき て 、 いく ど 咳払い を し て み て も らく に なら なかっ た 。