Corpus overview Tags String search Tree search
Credits
日本語
ABC

      About context      Leaf-ancestor context Leaf-root context      Download bracketed trees

Context for aozora_Hitomi-1929

タイトル 世界記録と私
Title Sekaikiroku to watashi
筆者 人見絹枝 
author Hitomi Kinue
年/year 1929
出典 「文藝春秋」文藝春秋社、1929(昭和4)年12月号
source "Bungei Shunjuu. December, 1929"
genre essay
subcorpus Aozora Bunko


 1年の暮れ まで に は まだ 一 月 ある が 、 神宮 の 大会 が 終る と 私 は なんだか 自分 の 生活 の 一 年 が 終っ た よう な 気 が する 。
 2あわただしい 一 年 で は あっ た 。
 3それ だけ に なんだか 今年 は いつも の 二 倍 の 仕事 を し た よう な 気持 も する 。
 4去年 九 月 、 オランダ の オリンピック大会 から 帰っ て 来 て 年 の 暮れる まで 旅 の つかれ と 二 度 の 遠征 による 体 の つかれ で ふたたび 競技場 に 立てる か と 心配 し た 。
 5下駄箱 の 中 で 次第に サビ の つい て ゆく スパイクシューズ も 何ら 気 に とまら ない まで に 競技生活 の 倦怠 を 覚え て い た 。
 6私 は こうした 変化 に あっ た の は 初めて で あっ た 。
 7競技場 に 練習 も せ ず 社 の 仕事 も やや 落ち着い た 時 、 私 は 二 カ月 ばかし を ついやし て 競技生活 の 回顧録 の よう な もの を 書い た 。
 8それ が 今春 平凡社 から 出 た 「 スパイクの跡 」 で あっ た 。
 9社 の 仕事 を すまし て 夜 九 時 頃 家 に 帰っ て 来る と 毎晩 、 木枯らし の 声 を きき ながら 火鉢 を 抱い て 原稿 を 書い た 。
 10十九 の 年 瑞典 《 スウェーデン 》 に 遠征 し て から 今日 まで 、 満 三 カ年 の 間 競技生活 を 綴っ て 行く ペン の 走り につれて 、 生々しい 涙 の 思い出 や 自分 一人 の 知る 喜び が さらに 私 を 軽い 気分 に さ し たり 、 底冷え の する 冬 の 夜 に かなしみ を 引きずり こん で 行く こと が 毎夜 の よう で あっ た 。
 11しかし 原稿 の 出来上っ て 行く につれて もう わたし は さっき まで の よう な 元気 も 、 若々しさ も なくなっ て グラウンド の トラック を 疾走 し ながら 世界記録 を 破る なんて こと の 出来 ない 人間 に なる のみ で は なかろう か 、 外国 の 競技場 で 邦人 の 歓呼 を うける こと も もう 出来 なく なる ん だ と 競技場 に 活躍 する 自分 の 姿 を 自分 の 目 に 浮かば せる の で あっ た 。
 12落ち着い た 、 物淋しい 、 人間らしい 気持 で あっ た 。
 13原稿 が 出来上っ て 校正 の ゲラ が 手に入る 頃 に は 私 は また 元気 に なっ た 。
 14元気 に し て くれ た 、 世間 の 人々 が 。
 15お前 は 若い 、 お前 は 責任 を 全う せ よ 、 後輩 を 作れ 、 最後 を 飾れ 、 と 世 の 人 は 私 に 説い た 。
 16私 は まだ 若かっ た 。
 17まだまだ 私 は 自分 の 競技生活 を 全う し て い ない 。
 18オランダ の 大会 で は 破れ て いる 。
 19後輩 は 一人 も い ない 。
 20そう だ 私 は 最後 を 飾る の だ 、
 21若い の だ もの 。
 22来年 ( 一九三〇 年 ) の 九 月 に は 第三 回 の 万国女子オリンピック が ある 。
 23瑞典 の 大会 が あっ て ちょうど 四 年目 、 私 に は 思い出 の 深い 競技会 だ 、
 24これ に 出場 し て そして 最後 を 飾る の だ 、
 25私 は 一大決心 の もと に ふたたび サビつい た スパイクシューズ を 手入れ し た 。
 26春 に なっ た 、
 27四 月 に 入る と 私 は 去年 より も 元気 に なっ た 、
 28毎年 挙行 の 女子オリンピック で 世界記録 を 一 つ 出し た 。
 29それ に 調子づい た 運動神経 は また 去年以上 の 緊張 を 見せ て くれ た 。
 30五 月 に 入る と 『 スパイクの跡 』 が 出版 さ れ た 。
 31私 は 毎日 自分 の 本 が ならべ て ある 本屋 の ショーウインド の 前 を 通っ た 。
 32一 冊 へり 二 冊 へり 次第 に 棚 の 上 から 本 が 少なく なっ て いく こと が どんな に うれしかっ た か 。
 33「 あんた で も そんな に 本 が 売れる なんていう こと に うれしみ を 感じ ます か 、 私 は あなた なんか 超然 と し て い られる と 思っ て い まし た 」 と ある 奥さん が いわ れ た が 、 私 は やはり 超然 と なんか 出来 なかっ た 。
 34五 月 に も 大きな 競技会 が あっ た 、
 35ここ で も また 一 つ 世界記録 が 出 た 。
 36競技 を やっ て おっ て よかっ た と 初めて うれしかっ た 。
 37私 は まだ 若かっ た の だ 、 と 思っ た 。
 38八 月 に 入る と 私 は 日本中 から 十四、五 人 の 女の子 を 集め て 合宿練習 を 二 週間 大和 の 美吉野 で 行っ た 。
 39後輩 を 作れ という 世間 の 人ら の 言葉 に はげまさ れ て 、 女の子 十五 人 の 合宿練習費 を 捻出 す ところ が なく て 生れ て 初めて 金策 の 苦しさ を 味わっ た 。
 40金 の 力 を 知っ た 。
 41『 スパイクの跡 』 の 印税 を これ に あて た 。
 42今 考え て みれ ば 愉快 な 思い出 だ 。
 43十 月 に なっ た 、
 44ドイツ の 選手 が やっ て 来 た 。
 45忘れる こと の 出来 ない ドイツ の 国旗 と ドイツ の 国歌 を 聞い て また 涙 を 出し た 。
 46去年 アムステルダム で ドイツ の ラートケ に 破れ た 瞬間 を 思い出し て 。
 47春 の シーズン に 作っ た 二百 と 三種競技 が 世界公認記録 として 発表 さ れ た 。
 48世界レコード の 表 に 自分 の 名前 が 四 つ 出 た 。
 49十 月 、 十一 月 、 私 の 競技生活再生 の 最後 を 飾る 月 だ 。
 50私 は 思い残す こと の ない まで の 活躍 を 希 《 ねが 》 っ た 。
 51希い は ほぼ 達せ られ て 来 た 。
 52秋 の シーズン 二 つ の 世界記録 に また 恵まれ た 。
 53春以来 生れ た 四 つ の 世界記録 と スパイクの跡 と 、 昨日 今日 三省堂 から 出版 さ れる 『 戦う迄 』 の 小著 を 一九二九 年 の 思い出 と し て 年 が 暮れ て 行く 。
 54新聞記者生活 も 三 カ年 の 月日 が たち かけ た 。
 55もう 一 カ月 で 二十四 に なる の だ 。
 56来春 は チェッコ に オリンピック が 開か れる 。
 57私 は 行く の だ 、 若き 少女 を つれ て 。
 58( 4・12 )