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aozora_Kaneko-1984のコンテキスト表示

タイトル
Title Chichi
筆者 金子ふみ子
author Kaneko Humiko
年/year ?
出典 「日本の名随筆99 哀」作品社
source "Nihon no meizuihitsu 99 ai, Sakuhinsha"
genre essay
subcorpus Aozora Bunko


 1私 の 記憶 は 私 の 四 歳 頃 の こと まで さかのぼる こと が できる 。
 2その 頃 私 は 、 私 の 生みの親たち と 一緒 に 横浜 の 寿町 に 住ん で い た 。
 3父 が 何 を し て い た の か 、 むろん 私 は 知ら なかっ た 。
 4あと で きい た ところ によると 、 父 は その 頃 、 寿警察署 の 刑事 か なん か を 勤め て い た よう で ある 。
 5私 の 思出 から は 、 この頃 の ほんの 少し の 間 だけ が 私 の 天国 で あっ た よう に 思う 。
 6なぜなら 、 私 は 父 に 非常 に 可愛がら れ た こと を 覚え て いる から ……。
 7私 は いつも 父 に つれ られ て 風呂 に 行っ た 。
 8毎夕 私 は 、 父 の 肩車 に 乗せ られ て 父 の 頭 に 抱きつい て 銭湯 の 暖簾 を くぐっ た 。
 9床屋 に 行く とき も 父 が 必ず 、 私 を つれ て 行っ て くれ た 。
 10父 は 私 の 傍 に つきっきり で 、 生え際 や 眉 の 剃方 について なにかと 世話 を やい て い た が 、 それでも なお 気 に 入ら ぬ と 本職 の 手 から 剃刀 を 取っ て 自分 で 剃っ て くれ たり なんか し た 。
 11私 の 衣類 の 柄 の 見立て など も 父 が し た よう で あっ た し 、 肩揚げ や 腰揚げ の こと まで も 父 が 自分 で 指図 し て 母 に 針 を とら せ た よう で あっ た 。
 12私 が 病気 し た 時 、 枕元 に つきっきり で 看護 し て くれ た の も やはり 父 だっ た 。
 13父 は 間がな隙がな 私 の 脈 を とっ たり 、 額 に 手 を あて たり し て 、 注意 を 怠ら なかっ た 。
 14そうした 時 、 私 は 物 を いう 必要 が なかっ た 。
 15父 は 私 の 眼差し から 私 の 願い を 知っ て 、 それ を みたし て くれ た から 。
 16私 に 物 を 食べ させる 時 も 、 父 は 決して 迂闊 に は 与え なかっ た 。
 17肉 は 食べ やすい よう に 小さく むしり 魚 は 小骨 一 つ 残さ ず 取りさり 、 ご飯 や お湯 は 必ず 自分 の 舌 で 味っ て 見 て 、 熱 すぎれ ば 根気よく さまし て から くれる の だっ た 。
 18つまり 、 他 の 家庭 なら 母親 が し て くれる こと を 、 私 は みな 父 によって さ れ て い た の で ある 。
 19今 から 考え て 見 て 、 むろん 私 の 家庭 は 裕福 で あっ た と は 思わ れ ない 。
 20しかし 人生 に対する 私 の 最初 の 印象 は 、 決して 不快 な もの で は なかっ た 。
 21思う に その 頃 の 私 の 家庭 も 、 かなり 貧しい 、 欠乏がち の 生活 を し て い た の であろう 。
 22ただ 、 なん とかいう 氏族 の 末流 に あたる 由緒 ある 家庭 の 長男 に 生れ た と 信じ て いる 私 の 父 が 、 事実 、 その 頃 は まだ かなり 裕福 に 暮し て い た 祖父 の もと で わがまま な 若様 風 に 育て られ た ところ から 、 こうした 貧窮 の 間 に も なお 、 私 を その 昔 の まま の 気位 で 育て た の に 違いなかっ た の で ある 。
 23私 の 楽しい 思い出 は しかし これ だけ で 幕 を 閉じる 。
 24私 は やがて 、 父 が 若い 女 を 家 へ つれ込ん だ 事 に 気づい た 。
 25そして その 女 と 母 と が しょっちゅう いさかい を し たり 罵りあっ て いる の を 見 た 。
 26しかも 父 は その つど 、 女 の 肩 を もっ て 母 を 撲っ たり 蹴っ たり する の を 見 なけれ ば なら なかっ た 。
 27母 は 時たま 家出 し た 。
 28そして 、 二、三 日 も 帰っ て 来 ない 事 が あっ た 。
 29その 間 私 は 父 の 友だち の 家 に 預け られ た の で ある 。
 30幼い 私 にとって は 、 それ は かなり 悲しい こと で あっ た 。
 31ことに 母 が い なく なっ た 時 など は 一そう そう で あっ た 。
 32けれど その 女 は いつとはなく 私 の 家 から 姿 を かくし た 。
 33少くとも 私 の 記憶 に は なくなっ て しまっ て いる 。
 34が 、 その 代り 私 は 、 自分 の 家 に 父 の 姿 を 見る こと も また 少なく なっ た 。
 35私 は 母 に つれ られ て 父 を ある 家 へ — — 今 から 考え て 見る と それ は 女郎屋 で ある — — 迎え に 行っ た こと を 覚え て いる 。
 36そして 、 父 が 寝巻き姿 の まま 起き上っ て 来 て 、 母 を 邪慳 に 部屋 の 外 へ 突き出し た こと を も 。
 37でも たまに は 父 は 、 夜 更け た 町 を 大きな 声 で 歌 を うたい ながら 帰っ て 来る こと も あっ た 。
 38そうした とき 母 は 従順 に 父 の 衣類 を 壁 の 釘 に かけ たり なんか し て い た が 、 袂 の 中 から お菓子 の 空袋 や 蜜柑 の 皮 など を 取出し て 、 恨めし そう に 眺め ながら いう の だっ た 。
 39「 まあ 、 こんな もの たくさん 。
 40それ だ のに 子ども に 土産 一 つ 買っ て 来 ない ん だ よ …… 」
 41父 は むろん 、 警察 を やめ て い た の だ 。
 42では この頃 彼 は 何 を し て い た の だろう 。
 43今 に 私 は それ を 知ら ない 。
 44ただ 私 は 、 いろんな 荒くれ た 男 が たくさん 集まっ て 来 て 一緒 に 酒 を 呑ん だり 、 「 はな 」 を 引い たり し て い た こと や 、 母 が いつも 、 そうした 生活 について ぶつぶつ 呟き 、 父 と いさかい を し て い た こと を 知っ て いる ばかり だ 。
 45おそらく こういう 生活 が たたっ た の で あろう 。
 46父 は やがて 病気 に なっ た 。
 47そこで なんでも 母 の 実家 から の 援助 で 入院 し た とか で 、 母 は その 附添い に なり 、 私 は 母 の 実家 に 引きとら れ た 。
 48そして 半 年 余り 、 私 は 実家 の 曾祖母 や 小さい 叔母たち に 背負わ れ て 過し た 。
 49父母 に 別れ た の にも拘らず 、 その 幼い 私 は 、 この 間 わりあい 幸福 で あっ た よう に 思う 。
 50父 が 恢復 する と 、 私 は また 父 の 家 に 引きとら れ た 。
 51その 時 は 私たち は 海岸 に 住ん で い た 。
 52それ は 父 の 病後 の 保養 も あり 、 弱い 私 の 健康 の ため で も あっ た の で ある 。
 53そこ は 横浜 の 磯子 の 海岸 だっ た 。
 54私たち は 一 日じゅう 潮水 に 浸っ たり 潮風 に 吹か れ たり し て 暮し た 。
 55そして その 時 を 境 と し て 、 私 の 肉体 は 生れ変っ た よう に 健康 に なっ た という こと で ある 。
 56それ は 私 を 幸福 に し た の だろう か 、 それとも 、 私 を 来る べき 苦しみ の 運命 に 縛りつける ため の 、 自然 の 悪戯 で あっ た の だろう か 、 私 に は わから ない 。
 57私達 の 健康 が 恢復 する と 、 私たち は また 引越し た 。
 58それ は 横浜 の 街はずれ の 、 四方 を 田 に 囲ま れ た 、 十四五 軒 一 叢 の うち の 一 軒 だっ た 。
 59そして その 家 へ 引越し た 冬 の ある 雪 の 降る 朝 、 私 に 初めて の 弟 が 生まれ た 。
 60私 が 六 つ の 年 の 秋頃 だっ た —— その 間 私 は 、 私たち の 家 が むやみ に 引越し た という こと だけ しか 覚え て い ない ——
 61私たち の 家 に 、 母 の 実家 から 母 の 妹 が 、 だから 私 の 叔母 が やっ て 来 た 。
 62叔母 は 婦人病 か なんか 患っ て い た が 、 辺鄙 な 田舎 で は 充分 の 治療 が 出来 ない と いう ので 、 私たち の 家 から 病院 に 通う ため だっ た 。
 63叔母 は その 頃 二十二、三 で あっ たろ う 。
 64顔立ち の 整っ た 、 ちょっと こぎれい な 娘 だっ た 。
 65気立て も やさしく 、 する 事 なす 事 しっかり し て い て 、 几帳面 で 、 てきぱき し た 性質 で あっ た 。
 66だから 人受け も よく 、 親たち に も 愛せ られ て い た よう で も ある 。
 67だが 、 いつ の 間 に か この 叔母 と 私 の 父 と の 仲 が 変 に なっ た よう で ある 。
 68父 は その 頃 、 程近い 海岸 の 倉庫 に 雇わ れ て 人夫 の 積荷 下荷 を ノート に とる 仕事 を し て い た が 、 例 によって なにかと 口実 を つけ て は 仕事 を 休ん で い た 。
 69そんな 風 だ から 私 の 家 の 暮し向き の ゆたか で ある 筈 は なく 、 その ため であろう 、 母 と 叔母 と は 内職 に 麻糸つなぎ を し て い た 。
 70毎日 毎日 、 母 は そう し て 繋い だ 三 つ か 四 つ の 麻糸 の 塊 を 風呂敷 に 包ん で 、 わずか な 工賃 を 貰い に 弟 を 背負っ て は 出かける の だっ た 。
 71ところが 不思議 な こと に 、 母 が 出かける と すぐ 、 父 は 必ず 、 自分 の 寝そべっ て いる 玄関脇 の 三 畳 の 間 へ 叔母 を 呼び込む の で あっ た 。
 72別に たいして 話 を し て いる よう で も ない のに 、 叔母 は なかなか その 部屋 から 出 て 来 ない の が 常 だっ た 。
 73私 は こまちゃくれ た 好奇心 に そそら れ ない わけ に は 行か なかっ た 。
 74私 は ついに ある とき 、 そっと 爪立ち を し て 、 襖 の 引手 の 破目 から 中 を 覗い て 見 た ……。
 75だが 、 私 は 別 に それ 程 驚か なかっ た 。
 76なぜなら 、 こうした 光景 を 見 た の は 今 が 初めて で は なかっ た から で ある 。
 77私 の もっと 小さい 時分 から 、 父 や 母 は だらしない 場面 を いく たび か 私 に 見せ た 。
 78二人 は ずいぶん 不注意 だっ た の だ 。
 79その ため かどうか 、 私 は かなり 早熟 で 、 四 つ 位 の 年 から 性 へ の 興味 を 喚び覚まさ れ て い た よう に 思う 。
 80母 は 火 の 消え た よう な 女 で 、 ひどく 叱り も し なけれ ば ひどく 可愛がり も し ない 。
 81が 、 父 は 叱る 時 に は かなり ひどい 叱り方 を し た が 、 可愛がる 時 に は また 調子外れ の 可愛がり方 を し た 。
 82この 二 つ の 性格 の いずれ が 子ども の 心 を より 多く 捉え た であろう か 。
 83小さい 時 に は 私 は より 多く 父 に なつい て い た 。
 84父 の ため に 母 が ひどい 目 に あっ て いる の を 見 なかっ た ならば おそらく 私 は いつ まで も 父 に 親しん で い たろ う 。
 85けれど いつ の 間 に か 私 は 父 より も 母 に 親しん で い た 。
 86で 、 この頃 は 私 は 、 どこ へ 行く に も 母 の 袂 に ぶらさがっ て つい て 歩い て い た が 、 叔母 が 来 て から という もの 、 父 は 、 私 が 母 に つい て 出かける の を 妨げ た 。
 87いろいろ と すかし て 私 を 家 に ひきとめ た 。
 88今 から 思う と それ は 叔母 に対する 母 の 不安 を 取除か せ て 自分たち の 行為 を ごまかす ため で あっ た に 相違ない 。
 89なぜなら 母 が 出かける と すぐ 、 父 は 私 に 小遣銭 を 握ら せ て 外 に 遊び に 出し た から で ある 。
 90いや 、 むしろ 追い出し た から で ある 。
 91私 は 別 に 小遣銭 を ねだっ た の で は なかっ た 。
 92だのに 、 父 は いつも より は たくさん の 小遣 を くれ て 永く 遊ん で 来い と いう の だっ た 。
 93しかも 母 が 帰っ て 来る と 父 は 、 母 に こう いっ て 私 の こと を 訴える の だっ た 。
 94「 この 子 は ひどい 子 だ よ 。
 95わし の 甘い 事 を 知っ て 、 あんた が 出かける と すぐ 、 お小遣 を せびっ て 飛び出す ん だ から ね 」
 96その うち に 年 も 暮 に なっ た 。
 97大晦日 の 晩 の こと を 私 は 覚え て いる 。
 98母 は 弟 を おぶっ て 街 に 出かけ た 。
 99父 と 叔母 と 私 と は 茶の間 で 炬燵 に あたっ て い た 。
 100なんとはなしに しめっぽい じめじめ し た 夜 だっ た 。
 101いつ に も 似 ず 、 父 も 叔母 も 暗い 顔 を し て い た 。
 102その うち 父 は うつぶせ に し て い た 顔 を あげ て しんみり と し た 調子 で いっ た 。
 103「 どうして わし の 家 は こう も 運 が わるい だろう 。
 104わし に は まだ 運 が 向い て 来 ない ん だ ね 、
 105来年 は どう か なっ て くれれ ば いい が …… 」
 106人 に は 運 という もの が ある 。
 107それ が 向い て 来 ない うち は どう に も なら ない もの だ 。
 108これ が 迷信家 の 私 の 父 の 哲学 で あっ た 。
 109父 が しょっちゅう そんな こと を いっ て いる の を 私 は 小さい 時 から 知っ て いる 。
 110二人 は 何 か しきり に 話し合っ て い た が 、 その うち 叔母 は 立ち上っ て 押入れ から 櫛箱 を 出し て 来 た 。
 111「 これ に し ましょ う か 」
 112叔母 は その うち の 一 つ の 櫛 を 取っ て 見まわし ながら いっ た 。
 113「 でも 少し 好 すぎる わ ねえ 。
 114惜しい 気 が する わ 」
 115父 は 答え た 。
 116「 どうせ 捨てる ん だ 。
 117どんな もの を 捨て て は なら ん という こと は ない 。
 118櫛 で さえ あれ ば …… 」
 119叔母 は そこで 歯 の 折れ た 櫛 を 髪 に 挿し て 、 頭 から 振り落す 稽古 を し た 。
 120「 そんな に しっかり 挿す 必要 は ない 。 そっと 前髪 の 上 に 載っけ て おけ ば いい ん だ 」 と 父 は いっ た 。
 121「 うち の 玄関口 から 出 て 前 の 空地 を 少し 荒っぽく 走れ ば すぐ 落ちる よ 」
 122いわ るる まま に 叔母 は その 折れ た 櫛 を 挿し て 出かけ て 行っ た 。
 123そして ものの 五 分 と たた ない うち に 櫛 を 振落し て 叔母 が 帰っ て 来 た 。
 124「 それ で よし 、
 125悪運 が 遁げ て しまっ た 。
 126来年 から は 運 が 向い て 来る 」
 127父 が こう いっ て 喜ん で いる ところ へ 、 母 が 戻っ て 来 た 。
 128母 が 泣い て いる 弟 を 背 から おろし て 乳 を 呑ま せ て いる 間 に 、 叔母 は 買物 の 風呂敷包み を 解い た 。
 129なんでも 、 切餅 が 二、三十 切れ と 、 魚 の 切身 が 七、八 つ 、 小さい 紙袋 が 三 つ 四 つ 、 それから 、 赤い 紙 を 貼っ た 三 銭 か 五 銭 か の 羽子板 が 一 枚 、 それ だけ が その 中 から 出 て 来 た 。
 130これ が 私たち の 楽しい お正月 を 迎える ため の 準備 だっ た の で ある 。
 131翌年 の お正月 に 母 の 実家 から 叔父 が 遊び に 来 た 。
 132叔父 が 帰る と 、 すぐ に また 祖母 が やっ て 来 て 叔母 に 一緒 に 帰れ と いっ た 。
 133けれど 、 叔母 は 帰ら ずに 祖母 だけ が 帰っ て 行っ た 。
 134なんでも それ は 、 あと で 人 に きく ところ によると 、 正月 に 遊び に 来 た 叔父 は 父 と 叔母 と の こと を 知っ て 、 家 に 帰っ て 話す と 、 祖母 が 心配 し て 、 お嫁 に やる の だ から と の 理由 で つれ に 来 た の だ そう で ある 。
 135だが 、 父 は むろん それ を 承知 する 筈 が なく 、 かえって 、 叔母 の 病気 が まだ よく なっ て い ない のに 、 今 お嫁 に など やる と 生命 に も かかわる と おどかし た そう で ある 。
 136「 なに 、 それ は いい ん だ よ 。
 137先方 は 金持ち な ので 、 貰っ たら すぐ 医者 に かける という 約束 に なっ て いる ん だ から 」
 138祖母 は こう 答え た けれど 、 父 は 今度 は 、 いつも の 運命論 を かつぎ出し て 、 自分 が 不運続き の ため 叔母 の 着物 を みな 質 に 入れ た 、 だから この まま 還す わけ に は ゆか ぬ とか 、 叔母 は 身体 が 弱い から 百姓仕事 は とても 出来 ない 、 自分 も いつ まで も こう し て は い ない つもり だ から 、 その うち きっと いい 縁先 を 都会 に 見つけ て 、 自分 が 親元 と なっ て 縁づける など 、 いろいろ の 理窟 を つけ て 還さ なかっ た の だ そう で ある 。
 139哀れ な 祖母 よ 、
 140祖母 は むろん 父 の この 言葉 を 信じ なかっ た に 相違ない 。
 141けれど 、 祖母 は 無智 な 田舎 の 百姓女 で ある 。
 142この 狡猾 な 都会もの の 嘘八百 に 打勝つ こと が どう し て も 出来 なかっ た の で ある 。
 143祖母 は 空しく 帰っ て 行っ た 。
 144父 は 厄介神 を 追っ払っ て 安堵 の 胸 を なでおろし た 事 であろう 。
 145ひとり 胸 の 苦しさ を 増し た の は 母 で あっ た に 違いない 。
 146実際 それ から のち の 私 の 家 は 始終 ごたつい て い た 。
 147では 叔母 は ?
 148叔母 とて も 決して 晴やか な 気持ち で い た わけ で は なかろ う 。
 149叔母 が ときどき 、 二 月 も 三 月 も 家 に い なく なっ た の を 私 は 覚え て いる 。
 150そして 、 それ は あと から きい た こと で は ある が 、 叔母 が 父 を 遁れ て ひとり こっそり と 他人 の 家 に 奉公 に 行っ て い た の で あっ た 。
 151が 、 その たび に 父 は 根気よく 尋ね まわっ て 、 しまい に は とうとう 探しあて て 来る の で あっ た 。
 152二 度目 に 叔母 が つれ戻さ れ た とき 、 私たち は また 引越し た 。
 153それ は 横浜 の 久保山 で 、 五、六 町 奥 に 寺 や 火葬場 を 控え た 坂 の 中程 に あっ た 。
 154父 は 相変らず 何 も し て い ない よう で あっ た が 、 その うち どうして 金 を つくっ て 来 た の か その 坂 を 降りた とっつき の 住吉町 の 通り に 今 一 軒 商店向き の 家 を 借り た 。
 155父 は その 家 で 氷屋 を 始め た の だっ た 。
 156氷屋 の 仕事 は 叔母 の 役目 だっ た 。
 157母 と 子供たち は 山 の 家 に 残り 、 父 は 昼間 だけ そこ に 行っ て 帳面 を つけ たり 商売 の 監督 を する の だ と いっ て い た 。
 158が 、 それ は ただ 初め の 間 だけ の こと で 、 ほどなく めった に 山 の 家 に は 帰っ て 来 なく なっ た 。
 159つまり ていよく 私たち 母子 を 、 父 と 叔母 と の 二人 の 生活 から 追ん出し て しまっ た の で ある 。
 160私 は その 時 もう 七 つ に なっ て い た 。
 161そして 七 つ も 一 月 生れ な ので ちょうど 学齢 に 達し て い た 。
 162けれど 無籍者 の 私 は 学校 に 行く こと が 出来 なかっ た 。
 163無籍者 !
 164この 事 について は 私 は まだ 何 も いわ なかっ た 。
 165だが 、 ここ で 私 は 一通り それ を 説明 し て おか なけれ ば なら ない 。
 166なぜ 私 は 無籍者 で あっ た の か 。
 167表面的 の 理由 は 母 の 籍 が まだ 父 の 戸籍面 に 入っ て なかっ た から で ある 。
 168が 、 なぜ 母 の 籍 が その まま に なっ て い た の か 。
 169それ について ずっと のち に 私 が 叔母 から きい た 事 が 一番 本当 の 理由 で あっ た よう に 思う 。
 170叔母 の 話し た ところ によると 、 父 は 初め から 母 と 生涯 つれ添う 気 は なく 、 いい 相手 が 見つかり 次第 母 を 捨てる つもり で 、 その ため わざと 籍 を 入れ なかっ た の だ と の 事 で ある 。
 171ことによると これ は 、 父 が 叔母 の 歓心 を 得る ため の でたらめ の 告白 で あっ た かもしれない 。
 172ことによると また 、 父 の いわゆる 光輝 ある 佐伯家 の 妻 として 甲州 の 山奥 の 百姓娘 なんか 戸籍 に 入れ て は なら ぬ と 考え た の かもしれない 。
 173とにかく 、 そうした 関係 から 、 私 は 七 つ に なる 今 まで も 無籍者 な の で あっ た 。
 174母 は 父 と つれ添う て 八 年 も すぎ た 今日 まで 、 入籍 さ せ られ ない で も 黙っ て い た 。
 175けれど 黙っ て い られ ない の は 私 だっ た 。
 176なぜ だっ た か 、 それ は 私 が 学校 に あがれ なかっ た こと から で あっ た 。
 177私 は 小さい 時 から 学問 が 好き で あっ た 。
 178で 、 学校 に 行き たい と しきり に せがん だ 。
 179あまり に 責め られる ので 母 は 差し当たり 私 を 母 の 私生児 として 届け よう と し た 。
 180が 、 見栄坊 の 父 は それ を 許さ なかっ た 。
 181「 ばかな 、 私生児 なんか の 届 が 出せる もの かい 。
 182私生児 なんか じゃ 一生 頭 が 上ら ん 」
 183父 は こう いった 。
 184それ で い て 父 は 、 私 を 自分 の 籍 に 入れ て 学校 に 通わ せ よう と 努める で も なかっ た 。
 185学校 に 通わ せ ない の は まだ いい 。
 186では 自分 で 仮名 の 一 字 で も 教え て くれ た か 。
 187父 は それ も し ない 。
 188そして ただ 、 終日 酒 を 飲ん で は 花 を ひい て 遊び暮し た の だっ た 。
 189私 は 学齢 に 達し た 。
 190けれど 学校 に 行け ない 。
 191のち に 私 は こういう 意味 の こと を 読ん だ 。
 192そして 、 ああ 、 その 時 私 は どんな 感じ を し た こと であろう 。
 193曰く 、 明治 の 聖代 に なっ て 、 西洋諸国 と の 交通 が 開か れ た 。
 194眠れ る 国 日本 は 急 に 目覚め て 巨人 の ごとく 歩み出し た 。
 195一 歩 は 優に 半世紀 を 飛び越え た 。
 196明治 の 初年 、 教育令 が 発布 さ れ て から 、 いかなる 草深い 田舎 に も 小学校 は 建て られ 、 人 の 子 は すべて 、 精神的 に 又 肉体的 に 教育 に 堪え 得 ない よう な 欠陥 の ない 限り 、 男女 を 問わ ず 満 七 歳 の 四 月 から 、 国家 が 強制的 に 義務教育 を 受け させ た 。
 197そして 人民 は こぞって 文明 の 恩恵 に 浴し た 、 と 。
 198だが 無籍者 の 私 は ただ その 恩恵 を 文字 の 上 で 見せ られ た だけ だ 。
 199私 は 草深い 田舎 に 生れ なかっ た 。
 200帝都 に 近い 横浜 に 住ん で い た 。
 201私 は 人 の 子 で 、 精神的 に も 肉体的 に も 別 に 欠陥 は なかっ た 。
 202だのに 私 は 学校 に 行く こと が 出来 ない 。
 203小学校 は 出来 た 。
 204中学校 も 女学校 も 専門学校 も 大学 も 学習院 も 出来 た 。
 205ブルジョワ の お嬢さん や 坊ちゃん が 洋服 を 着 、 靴 を 履い て その 上 自動車 に 乗っ て さえ その 門 を 潜っ た 。
 206だが それ が 何 だ 。
 207それ が 私 を 少し で も 幸福 に し た か 。
 208私 の 家 から 半 町 ばかり 上 に 私 の 遊び友だち が 二 人 い た 。
 209二人 と も 私 と おないどし の 女の子 で 、 二人 は 学校 へ あがっ た 。
 210海老茶 の 袴 を はい て 、 大きな 赤い リボン を 頭 の 横っちょ に 結びつけ て 、 そうして 小さい 手 を しっかり と 握りあっ て 、 振り ながら 、 歌い ながら 、 毎朝 前 の 坂道 を 降り て 行っ た 。
 211それ を 私 は 、 家 の 前 の 桜 の 木 の 根元 に しゃがん で 、 どんな に うらやましい 、 そして どんな に 悲しい 気持ち で 眺め た 事 か 。
 212ああ 、 地上 に 学校 という もの さえ なかっ たら 、 私 は あんな に も 泣か なくっ て すん だ だろう 。
 213だが 、 そうすると 、 あの 子供たち の 上 に ああした 悦び は 見 られ なかっ たろ う 。
 214むろん 、 その 頃 の 私 は まだ 、 あるゆる 人 の 悦び は 、 他人 の 悲しみ によって のみ 支え られ て いる という こと を 知ら なかっ た の だっ た 。
 215私 は 二人 の 友だち と 一緒 に 学校 に 行き たかっ た 。
 216けれど 行く 事 が 出来 なかっ た 。
 217私 は 本 は 読ん で み たかっ た 。
 218字 を 書い て み たかっ た 。
 219けれど 、 父 も 母 も 一 字 だって 私 に 教え て は くれ なかっ た 。
 220父 に は 誠意 が なく 、 母 に は 眼 に 一 丁字 も なかっ た 。
 221母 が 買物 を し て 持っ て 帰っ た 包紙 の 新聞 など を ひろげ て 、 私 は 、 何 を 書い て ある の か 知ら ない のに 、 ただ 、 自分 の 思う こと を それ に あてはめ て 読ん だ もの だっ た 。
 222その 年 の 夏 も おそらく 半頃 だっ たろ う 。
 223父 は ある 日 、 偶然 、 叔母 の 店 から 程遠く ない 同じ 住吉町 に 一 つ の 私立学校 を 見つけ て 来 た 。
 224それ は 入籍 する 面倒 の ない 、 無籍 の まま 通学 の 出来る 学校 だっ た の だ 。
 225私 は そこ に 通う こと に なっ た 。
 226学校 といえば 体裁 は いい が 、 実は 貧民窟 の 棟割長屋 の 六 畳間 だっ た 。
 227煤け た 薄暗い 部屋 に は 、 破れ て 腸 を 出し た 薄汚い 畳 が 敷か れ て い た 。
 228その 上 に サッポロビール の 空函 が 五 つ 六 つ 横倒し に 並べ られ て い た 。
 229それ が 子供たち の 机 だっ た 。
 230私 の ペン の 揺籃 だっ た 。
 231おっ師匠さん —— 子供たち は そう 呼ば さ れ て い た —— は 女 で 、 四十五、六 で も あっ たろ う か 、 総前髪 の 小さな 丸髷 を 結う て 、 垢じみ た 浴衣 に 縞 の 前掛け を あて て い た 。
 232この 結構 な 学校 へ 私 は 、 風呂敷包み を 背中 に ななめ に 縛りつけ て もらっ て 、 山 の 上 の 家 から 叔母 の 店 の 前 の 往来 を 歩い て 通っ た 。
 233たぶん 私 と 同じ よう な 境遇 に おか れ た 子供たち であろう 。
 234十 人 余り の もの が 狭い 路地 の どぶ板 を 踏ん で 通っ て 来る の で あっ た 。
 235父 は 私 を その 私立学校 に 、 貧民窟 の 裏長屋 に 通わ せる よう に なっ て から 、 私 に 噛ん で 含める よう に いいきかせる の だっ た 。
 236「 ねえっ 、 いい 子 だ から お前 は 、 あすこ の お師匠さん の ところ へ 行っ てる こと を うち に 来る 小父さんたち に 話す ん じゃ ない よ 。
 237それ が 他人 に 知れる と お父さん が 困る ん だ から ね 、
 238いい かい 」
 239叔母 の 店 は 非常 に 繁昌 し た よう で ある 。
 240が それでいて すこし も 儲け が なかっ た よう で ある 。
 241いや 儲け が あっ た の か しれ ない けれど 、 なにぶん 父 が 毎日 お酒 を 呑ん だり 、 はな を ひい たり し て いる の だ から うまく 行く 筈 は なかっ た の だろう 。
 242のみならず 、 父 と 叔母 と は その 頃 、 世間 の 噂 に のぼる よう な のぼせ方 で あっ た らしい 。
 243それでも 叔母 の 家 は まだ よかっ た 。
 244困っ て い た の は 私たち 母 と 子 で あっ た 。
 245ある 日 の 事 で ある 。
 246私たち は 何 も 食べる もの が なかっ た 。
 247夕方 に なっ て も 御飯粒 一 つ なかっ た 。
 248そこで 母 は 、 私 と 弟 と を つれ て 父 を 訪ね て 行っ た 。
 249父 は お友だち の 家 に い た 。
 250が 、 母 が どんな に 父 に 会い たい と いっ て も 父 は 出 て 来 なかっ た 。
 251おそらく 母 は もう 耐え きれ なかっ た の だろう 。
 252いきなり その 家 の 縁側 から 障子 を あけ て 座敷 に 上っ た 。
 253明るい ランプ の 下 に 、 四、五 人 の 男 が 車座 に 坐っ て 花札 を ひい て い た 。
 254母 は 憤り を 爆発 さ せ た 。
 255「 ふん 、 おおかた こんな 事 だろう と 思っ て た !
 256うち にゃ 米粒 一 つ だって ない のに 、 私 だって この 子どもたち だって 夕御飯 も 食べ られ ない って 始末 だ のに 、 よく も こんな に のびのび と 酒 を 呑ん だり 花 を 引い たり し て い られ た もん だ ね …… 」
 257父 も 腹立たし そう に 血相 を 変え て 立ち上っ た 。
 258そして 母 を 縁 から 突き落とし 、 自分 も 跣足 の まま 飛び降り て 母 に なぐりかかっ て き た 。
 259もし 居合わせ た 男たち が 父 を 後ろ から 抱き止め て 、 母 を すかしなだめ 、 父 を 部屋 に 連れ戻し て くれ なかっ た なら 、 憐れ な 母 は 父 に どんな 目 に 合わさ れ た かもしれなかっ た 。
 260人々 の おかげ で 母 は なぐら れ なかっ た 。
 261その 代り 、 米粒 一 つ も 鐚 一 文 も 与え られ ずに 、 私たち は その 家 を すごすご と 立ち去ら なけれ ば なら なかっ た 。
 262悲しい 思い を 胸 に おさめ ながら 私たち は 黙々 と 坂道 を 上っ て い た 。
 263「 おい ちょっと 待 て 」
 264父 の 声 で ある 。
 265私たち は 父 が 米代 を もっ て 来 て くれ た の だ と 思っ て 急 に 明るい 心 に なっ た 。
 266ところが 実際 は そう で は なかっ た 。
 267何と 残酷 な 、 鬼 み た よう な 男 で 父 は あっ たろ う 。
 268立ち止まっ て 救い を 待っ て いる 私たち に 近寄る と 、 父 は 大きな 声 で どなりたて た 。
 269「 とくの 、 よく も お前 は 人前 で 俺 に 恥 を かか せ た な 。
 270縁起 で も ない 、
 271おかげ で 俺 は すっかり 負け て しまっ た 。
 272覚え て ろ ! 」
 273父 は もう 片足 の 下駄 を 手 に 取っ て い た 。
 274そして それ で 母 を なぐりつけ た 。
 275その 上 、 母 の 胸倉 を つかん で 、 崖下 に つき落す と 母 を 脅かし た 。
 276夜 だ から 見え ない が 、 昼間 は よく わかる 、 あの 、 灌木 や 荊 が からみあっ て 繁っ て いる 高い 崖下 へ で ある 。
 277弟 は 驚い て 母 の 背中 で 泣きわめい た 。
 278私 は おろおろ し ながら 二人 の 周囲 を 廻っ たり 、 父 の 袖 を 引い て 止め たり し た が 、 その うち ふと 、 そこ から 半 町 ばかり 下 の 路傍 の 木戸 の 長屋 に 小山 という 父 の 友人 の いる こと を 憶い出し た 。
 279おいおい 泣き ながら 私 は その 家 へ 駈けこん だ 。
 280「 やっぱり そう だっ た の か …… 」 と その 家 の 主人 は 、 食べかけ て い た 夕飯 の 箸 を ほうり出し て 飛ん で 来 て くれ た 。
 281私立学校 へ 通い 始め て 間もなく 盆 が 来 た 。
 282おっ師匠さん は 子ども に 、 白砂糖 を 二 斤 中元 に 持っ て 来い と いいつけ た 。
 283おそらく これ が おっ師匠さん の 受ける 唯一 の 報酬 だっ た の だろう 。
 284けれど 私 に は それ が 出来 なかっ た 。
 285生活 の 不如意 の ため で も あっ たろ う が 、 家 の ごたごた は 私 の 学校 の こと など に かまっ て くれる 余裕 を も 与え なかっ た ため で も あろ う 。
 286とにかく そんな わけ で 私 は 、 片仮名 の 二、三十 も 覚え た か 覚え ない うち に 、 もう その 学校 から さえ 遠ざから なけれ ば なら なかっ た 。
 287叔母 の 店 は 夏 の 終り まで 持ちこたえ られ なかっ た 。
 288二人 は また 山 の 家 へ 引きあげ て 来 た 。
 289家 は 一層 ごたつき 始め て 、 父 と 母 と は 三 日 に あげ ず 喧嘩 し た 。
 290二人 が 争う とき 私 は いつも 母 に 同情 し た 。
 291父 に 反感 を 持ち さえ も し た 。
 292その ため に 私 は 母 と 一緒 に なぐら れ も し た 。
 293ある 時 など は 、 雨 の どしゃぶる 真夜中 を 、 私 は 母 と 二 人 で 、 家 の 外 に 締め出さ れ たり など し た 。
 294父 と 叔母 と は あいかわらず むつまじかっ た 。
 295けれど 、 実家 から は いつも 叔母 の 帰宅 を 促し て 来 た 。
 296そして とうとう 、 叔母 も 帰る と いい 、 父 も 帰す と いい 出し た 。
 297母 も 私 も 明るい 心 に なっ た の は いう までも なかっ た 。
 298父 は しかし 、 叔母 を 帰す について は 、 叔母 を まさか 裸 で は 帰さ れ ない と いっ た 。
 299そして 、 店 を たたん だ 金 で 、 その 頃 十七、八 円 も する 縮緬 の 長襦袢 や 帯 や 洋傘 など を 買っ て やっ た 。
 300ちょうど 私 の 小さい 時 に 私 の 世話 を 一さい 自分 で し た よう に 、 父 は 叔母 の それら の 買い物 を 一切 自分 で し て やっ た 。
 301以前 、 子 に 向け た 心づかい が 今 は 女 に 向け られ た の で ある 。
 302もう 秋 だっ た 。
 303父 は 叔母 の ため に 、 旅 に 立つ 荷造り を し 、 私 の 家 に あっ た 一番 上等 の 夜具 まで も その 中 に 包み こん だ 。
 304母 は 弟 を おぶっ て 私 と 一緒 に 叔母 を 見送っ た 。
 305「 お嫁入り前 の あんた を 裸 に し て 帰す なんて ほんと に すま ない 、
 306だけど 、 これ も 運 が わるい ん だ と あきらめ て …… 」
 307母 は いく たび か いく たび か こんな こと を 繰返し て 途々 叔母 に 詫び た 。
 308その 眼 に は 涙 さえ 浮ん で い た 。
 309私たち は 途中 まで 送っ て 帰っ て 来 た 。
 310停車場 まで 送っ て 行っ た 父 は 夕方 に なっ て 帰っ て 来 た 。
 311ああ なんという 朗らか な 晩 だっ たろ う 。
 312子ども心 に も 私 は ほっと 一安心 し た 。
 313静か な 、 静か な 、 平和 な 晩 だ !!
 314けれど 、 けれど 、 やがて 私たち は 余り に も 静か な 生活 を 余儀なく さ れ なけれ ば なら なかっ た 。
 315なぜなら 、 すぐ その 翌日 だっ た か 四、五 日 たっ て から だっ た か 、 父 も また 私たち の 家 から 姿 を かくし た から で あっ た 。
 316「 ああ 、 くやしい 。 二人 は 私たち を 捨て て 駈け落ち し て しまっ た ん だ 」 と 母 は 歯 を 噛みしばっ て いっ た 。
 317胸 に 燃ゆる 憤怨 の 情 を 抱き ながら 、 藁しべ に でも すがりつき たい 頼りない 弱い 心 で 、 私たち は それ から 、 二人 の 在所 を 探し て 歩い た 。
 318そして とうとう ある 日 、 私たち の 家 から 持っ て 行っ た 夜具 を 乾し て ある 家 を 目あて に 二人 を 見出す に は 見出し た が 、 私たち は また 、 例の 下駄 の 鞭 に 見舞わ れ た だけ で 、 何 一 つ そこ から は 救い を 得 なかっ た 。