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title:Sanjinnai
author:Kunieda, Shiro
date:1925
source:Poketto, January edition; Aozora Bunko (http://www.aozora.gr.jp/cards/000255/card43661.html)
genre:fiction
subcorpus:Aozora Bunko
terms of use:Creative Commons license

 1三甚内
 2国枝史郎
 3
 4「 御用 ! 御用 ! 神妙 に しろ ! 」
 5捕り方衆 の 叫び声 が あっち から も こっち から も 聞こえ て 来る 。
 6森然と 更け た 霊岸島 の 万崎河岸 の 向こう側 で 提灯 の 火 が 飛び乱れる 。
 7「 抜い た ぞ !
 8抜い た ぞ !
 9用心 しろ 」
 10口々に 呼び合う 殺気立っ た 声 。
 11ひとしきり 提灯 が 集まっ て 前後左右 に 揉み合っ た の は 賊 を 真ん中 に 取りこめ た の であろう 。
 12しかし 再び バラバラ と 流星 の よう に 散っ た の は 、 取り逃がし た に 相違 ない 。
 13「 あッ 」 ―― と 悲鳴 が 響き渡っ た 。
 14捕り方 が 一人 殺ら れ た らしい 。
 15「 逃げ た
 16逃げ た 、
 17それ 追い詰めろ ! 」
 18ドブン!ドブン! と 、 水 の 音 。
 19捕り方 が 河 へ 投げ込ま れ た の だ 。
 20一 つ 消え 二 つ 消え 、 御用提灯 が 消える に連れて 呼び合う 声 も 遠ざかり 、 やがて 全く ひっそり と なり 、 寛永 五 年 極月 の 夜 は 再び 静けさ を 取り返し た 。
 21河岸 の 此方 の 川口町 に は 材木問屋 ばかり 並ん で い た が 、 これ ほど の 騒ぎ も 知ら ぬ 気 に 潜り戸 を 開け よう と する 者 も なく 、 森閑 と し て 静か で あっ た が 、 これ は 決して 睡っ て いる の で は なく 、 係合い を 恐れ て 出合わ ない の で ある 。
 22おりから 一人 の 老人 が ひしと 胸 の 辺 を 抱き ながら 追わ れ た よう に 走っ て 来 た 。
 23と 、 スルリと 家 の 蔭 から 頭巾 を 冠っ た 着流し の 武士 が 、 擦れ違う よう に 現われ た が つと 老人 を やり過ごす と 、 クルリと 振り返っ て 呼び止め た 。
 24「 卒爾 ながら 物 を 訊く 。
 25日本橋 の 方 へ は どう 参る な ? 」
 26「 わっ ! 」 と 老人 は それ に は 答え ず こう 悲鳴 を あげ た もの で ある 。
 27「 出 たア !
 28泥棒 !
 29人殺しイ ! 」
 30これ に は かえって 武士 の 方 が ひどく 仰天 し た らしく 、 老人 の 肩 を ムズと 掴ん だ が 、 四辺 を 憚る 忍び音 で 、 「 拙者 は 怪しい 者 で は ない 。 計ら ず 道 に 迷っ た もの じゃ 。 人殺し など とは 何ん の 痴事 。 これ 老人 気 を 静める が よい 」
 31努め て 優しく 訓す よう に 云っ て も 、 捕り方 の 声 に 驚かさ れ て 転倒 し て いる 老人 の 耳 へ は 、 それ が 素直 に はいりよう が ない 。
 32「 出合え
 33出合え
 34人殺し だア ! 」
 35咽喉 を 絞っ て 叫ぶ の で あっ た 。
 36「 えい 、 これ ほど に 申し て も 理不尽 に 高声 を 上げ おる か !
 37黙れ
 38黙れ
 39黙れ と 申す に ! 」
 40首根ッ子 を 引っ掴み グイグイ 二 、 三 度 突き やっ た 。
 41「 ひ 、 ひ 、 人殺しイ …… 」
 42まだ 嗄れ声 で 喚き ながら 両手 を 胸 の 辺 で 泳が せ た が 、 にわか に グタリと 首 を 垂れ た 。
 43驚い て 武士 は 手 を 放す 。
 44と 、 老人 は 俯向け に 棒 を 倒す よう に 転がっ た 。
 45「 南無三 …… 」 と 云う の も 口 の うち 、 武士 は 片膝 を 折り敷い て 、 老人 の 鼻 へ 手 を やっ た が 、 「 呼吸 が ない 」 と 呟い た 。
 46グイと 胸 を 開け て 鳩尾 を 探る 。
 47その 手 に さわっ た 革財布 。
 48そのまま ズルズル と 引き出す と 、 まず 手探り で 金額 を 数え 、 じっと なっ て 立ち縮む 。
 49「 ふふん 」 と 鼻 で 笑っ た 時 に は 、 ガラリ 人間 が 変わっ て い た 。
 50「 飛び込ん で 来 た 冬 の 蠅 さ な 。
 51死っ た の は 自業自得 だ 。
 52押し詰まっ た 師走 二十 日 に 二十 両 たア 有難え 」
 53ボーンと 鐘 の 鳴ろ う と云う ところ だ 。
 54凄く 笑っ た か 笑わ ない か 、 おりから 悪い 雪空 で 、 そこ まで は 鮮明り 解ら ない 。
 55スタスタ と 武士 は 行き過ぎ よう と し た 。
 56「 お武家様 ! 」 と 呼ぶ 声 が する 。
 57ギョッと し て 武士 は 足 を 早める 。
 58「 お待ち なせえ ! 」 と ―― また 呼ん だ 。
 59無言 で 振り返っ た 鼻先 へ 、 天水桶 の 小蔭 から ヒラリと 飛び出し た 男 が ある 。
 60頬冠り に 尻端折り 、 草履 は 懐中 へ 忍ばせ た もの か 、 そこ だけ ピクリ と 脹れ て いる の が 蛇 が 蛙 を 呑ん だ よう だ 。
 61「 身共 に 何 ぞ 用事 でも ある かな ? 」
 62しらばっくれ て 武士 は 訊い た 。
 63「 ふてえ 分け を おくん なせえ 」
 64頬冠り の 男 は 錆 の ある 声 で まず 気味 悪く 一笑 し た 。
 65「 なるほど 」 と 武士 も それ を 聞く と 軽い 笑い を 響か せ た が 、 「 いや 見 られ た と ある からは 、 仲間 の 作法 捨て て は 置け まい 」
 66云い 云い 懐中 へ 手 を 入れる と 、 しばらく 数 を 読ん で い た が 、 ひょいと 抜き出し た 左手 に は 、 十 枚 の 小判 が 握ら れ て い た 。
 67「 怨恋 の ない よう に と 二 つ に 割っ て 十 両 ずつ さあ やる から 取る が いい 」
 68「 え 、 十 両 おくん なさる ? 」
 69さも さも 感心 し た よう に 、 「 いやも くれっぷり の よい こと だ の 。
 70それ じゃ 余り 気の毒 だ 」
 71さすが に 尻込み する の で あっ た 。
 72
 73「 なんの なんの その 斟酌 、 どうで ものし た 他人 の 金 だ 」
 74「 いかさま それ に は 違え ねえ 、
 75では 遠慮 なく 頂戴 と いく か 」
 76「 さあ 」 と 云っ て 投げ た 小判 は 、 初雪 白い 地 へ 落ち た 。
 77「 ええ 何 を する
 78勿体ねえ 」
 79男 は 屈ん で 拾お う と し た 。
 80そこ を 狙っ て 片手 の 抜き打ち 。
 81その 太刀風 の 鋭さ 凄さ 。
 82起き も 開き も 出来 なかっ た か がばと そのまま のめっ た が 、 雪 を 掬っ て 颯と 掛け た 。
 83これ ぞ 早速 の 眼潰し で ある 。
 84武士 は 初太刀 を 為損じ て 心 いささか 周章て た と 見え 備え も 直さ ず 第二 の 太刀 を 薙が ず 払わ ず 突い て 出 た 。
 85「 どっこい 、 あぶねえ 」 と 、 頬冠り の 男 は 、 この 時 半身 起き かかっ て い た が 、 思わず 反り返っ た 一刹那 、 足 を 外ずし て ツルリと 辷っ た 。
 86し て やっ たり と 大上段 、 武士 は 入り身 に 切り込ん だ 。
 87と 、 一髪 の その 間 に ピューッと 草履 を 投げ付け た 。
 88束 で 払っ て 地 に 落とし 、 追い逼る 間 に もう 一 個 を 、 また も 発止と 投げ付ける 。
 89それ が 武士 の 額 に 当たっ た 。
 90「 フーッ 」 と 我 知ら ず 呼吸 を 吹く 。
 91その 間 に パッと 飛び立っ た 男 は 右手 を 懐中 へ 突っ込む と 初めて 匕首 を 抜い た もの で ある 。
 92「 さあ 来 やあがれ こん 畜生 ! 」
 93―― こう 罵っ た 声 の 下 から ハッハッハッ と 大息 を 吐く の は 体 の 疲労れ た 証拠 で ある 。
 94しかも 彼 は 罵り つづける 。
 95「 …… おおかた こう だろう と は 思っ て い た が 騙し討ち と は 卑怯 な 奴 だ 。
 96俺 で 幸い 他 の 者 なら 、 とうに 初太刀 で やら れる ところ だ 。
 97…… さて どこ から でも 掛かっ て 来い !
 98背後 を 見せる 俺 じゃ ねえ 。
 99おや 、 こん 畜生 黙っ て いる な 。
 100何ん とか 云い ねえ
 101気味 の 悪い 野郎 だ 」
 102云い 云い ジリジリ と 付け廻す 。
 103相手 の 武士 は 片身青眼 に ぴたりと 付け た まま 動こ う と も し ない 。
 104しかし 不動 の その 姿 から は 形容 に 絶し た 一道 の 殺気 が 鬱々 と し て 迸しっ て いる 。
 105どだい 武道 から 云う 時 は まるで 勝負 に は なら ない の で あっ た 。
 106武士 の 剣技 の 精妙さ は 眼 を 驚かす ばかり で あっ て 名人 の 域 に は 達し ない にしても 上手 の 域 は 踏み越え て いる 。
 107絶えず 左手 は 遊ばし て 置い て 右手 ばかり を 使う の で ある が 、 それ は どうやら 円明流 らしい 。
 108空掛け声 は 預け て 置い て 肉 を 切ら せ て 骨 を 切る という 実質 一方 の 構え で ある 。
 109相手 の 男 は それ に反して まるで 剣術 など 知ら ない らしい 。
 110身 の 軽い を 取り柄 に し て ただ 翩翻 と 飛び廻る ばかり だ 。
 111ただし 真剣白刃勝負 の 、 場数 は のべつ に 踏ん で いる らしい 。
 112その 証拠 に は 勝ち目 の ない この 土段場 に 臨ん で も びくとも し ない 度胸 で 解る 。
 113じっと 二人 は 睨み合っ て いる 。
 114初太刀 の 袈裟掛け 、 二 度目 の 突き 、 三 度目 の 真っ向拝み打ち 、 それ が 皆 外さ れ た ので 武士 は 心中 驚い て い た 。
 115「 世間 に は 素早い 奴 が ある な 。
 116それに やり方 が 無茶苦茶 だ 。
 117喧嘩 の 呼吸 で 来 られ て は 見当 が 付か ず 扱かい にくい 。
 118草履 を 眉見 に 投げ付け られ た では 俺 の 縹緻 も 下がっ た な 。
 119…… 不愍 ながら 今度 は 遁がさ ぬ ぞ 」
 120独言ち ながら つと 進ん だ 。
 121相変わらず 左手 は 遊ば せ て いる 。
 122「 へ 、 畜生 、 おいで なすっ た な 」
 123此方 、 男 は 握っ た 匕首 を 故意と 背中 へ 廻し ながら 、 ひょいと 一足 退い た 。
 124「 いめえましい 三ぴん だ 。
 125隙 って もの を 見せ やがら ねえ 。
 126やい !
 127一思い に 切っ て かから ねえ か ! 」
 128「 えい ! 」 と 初めて 声 を 掛け 、 右手寄り に ツツ――と 詰める 。
 129「 わっ 、 来 やがっ た 、
 130あぶねえ
 131あぶねえ 」
 132これ は 左手 へ タタタと 逃げる 。
 133逃がし も あえ ず 踏み込ん だ が 同時 に 左手 が 小刀 へ 掛かる と 掬い切り に 胴 へ はいっ た 。
 134血煙り 立て て 斃れ た か !
 135非 ず 、 そこ に 横たわっ て い た 老人 の 死骸 へ 躓い て 頬冠り の 男 は 転がっ た の で ある 。
 136「 まだ か ! 」 と 武士 は 気 を 焦ち 右剣 を 延ばし て 切り下ろし た 、
 137溺れる 者 は 藁 を も 握む 。
 138紙 一 枚 の 際どい 隙 に 金剛力 を 手 に 集め 寝 ながら 抱き起こし た 老人 の 死骸 。
 139すなわち 楯 と なっ た の で ある 。
 140「 えい 、 邪魔 だ ! 」 と 足 を 上げ 武士 は 死骸 を ポンと 蹴る 。
 141二 つ ばかり 転がっ た が 、 ゴロゴロ と 河岸 の 石崖 伝い 河 の 中 へ 落ち て 行っ た 。
 142パッと 立つ 水煙り 。
 143底 へ 沈む らしい 水 の 音 。
 144…… その 間 に 男 は 起き上がる と 二 間 余り も 飛び退っ た が 、 手 に は 印籠 を 握っ て いる 。
 145倒れ ながら 拾っ た 印籠 で ある 。
 146その 時 で あっ た が 水 の 上 から 欠伸 する 声 が 聞こえ て 来 た 。
 147続い て 吹殻 を 払う 煙管 の 音 。
 148驚い た 武士 が 首 を 延ばし て 河 の 中 を 見下ろす と 、 苫船 が 一 隻 纜っ て いる 。
 149と その 苫 が 少し 引か れ て 半身 を 現わし た 一人 の 船頭 。
 150じっと 水面 を 隙かし て いる の は 老人 の 死骸 を 探す らしい 。
 151とたん に 寒月 が 雲 を 割り 蒼茫 たる 月光 が 流れ た が 、 二人 は ハッと 顔 を 見合わせ た 。
 152船頭 の 頬 に は 夜目 に も 著く 古い 太刀傷 が 印さ れ て いる 。
 153
 154寛永 といえば 三 代 将軍 徳川家光 の 治世 で あっ た が 、 この 頃 三 人 の 高名 の 賊 が 江戸市中 を 徘徊 し た 。
 155庄司甚内 、 勾坂甚内 、 飛沢甚内 という 三 人 で ある 。
 156姓 は 違っ て も 名 は 同じく いずれ も 甚内 と 称し た ので 、 「 寛永三甚内 」 と こう 呼ん で 当時 の 人々 は 怖じ恐れ た 。
 157無論 誇張 は ある の であろう が 「 緑林黒白 」 という 大盗伝 に は 次 の よう な 事 が 記さ れ て ある 。
 158「 庄司甚内 という は 同じ 盗賊 ながら 日本 を 回国 し 、 孝子 孝女 を 探し 、 堂宮 の 廃れ たる を 起こし 、 剣鎗 に 一流 を 極わめ 、 忍術 に 妙 を 得 、 力量 三十 人 に 倍し 、 日 に 四十 里 を 歩 し 、 昼夜 ねぶら ざる に 倦む 事 なし 。
 159飛沢甚内 という は 同列 の 盗賊 にして 、 剣術 、 柔術 は 不鍛錬 なれ ど 、 早業 に 一流 を 極わめ 、 幅 十 間 の 荒沢 を 飛び越える 事 は 鳥獣 よりも 身体 軽く 、 ゆえに 自ら 飛沢 と 号す 。
 160勾坂甚内 の 生長 は 、 甲州武田 の 長臣 高坂弾正 が 子 にして 、 幼名 を 甚太郎 と 号し ける に 、 程なく 勝頼 亡び 真忠 の 士 多く 討ち死に し 、 または 徳川 の 御手 に 属し ける みぎり 甚太郎 幼稚 にして 孤児 と なる を 憐れみ 、 祖父 高坂対島甚太郎 を 具し て 摂州芥川 に 遁がれ 閑居 せ し 節 、 日本 回国 し て 宮本武蔵 この 家 に 止宿る 。
 161祖父 の 頼み により 甚太郎 を 弟子 と し 、 その 後 武蔵 武州江戸 に 下向 し 、 神田お玉ヶ池 附近 に 道場 を 構え 剣術 の 指南 もっぱら なり 。
 162ここ に 甚太郎 は 十一 歳 より 随従 し て 今年 二十二 歳 、 円明流 の 奥儀 悉く 伝授 を 得 て 実に 武蔵 が 高弟 と なれ り 。
 163これ によりて 活胴 を 試み たく 、 窃か に 柳原 の 土手 へ 出 で 往来 の 者 を 一 刀 に 殺害 し ける が 、 ある 夜 飛脚 を 殺し 、 鉾 の 止まり たる を 審み 、 懐中 を 探れ ば 金 五十 両 を 所持 せ り 。
 164これ より 悪行 面白く 、 辻斬り し て 金子 を 奪い ぬ 。
 165その 頃 鎌倉 河岸 に 風呂屋 と 称する もの 十 軒 あり 。
 166湯女 に 似 て 色 を 売り ぬ 。
 167この 他 江戸 に 一切 売色 の 徒 なし 、
 168甚太郎 悪行 し て 奪い し 金銀 みな ここ にて 使い捨て ぬ 。
 169この 事 師匠 武蔵 聞い て 、 破門 し 勘当 し けり 。
 170これ より 諸国 を 遍歴 し 、 武州高尾山 に 詣で 、 飯綱権現 に 祈誓 し て 生涯 の 安泰 を 心願 し 、 これ より 名 を 甚内 と 改め 、 相州平塚宿 に しばらく 足 を 止どめ て 盗賊 の 首領 と なり 、 後 また 豆州箱根山 に かくれ て 、 なお 強盗 の 張本 たり 。
 171後 再び 江戸 に 入る 。
 172云々 」
 173で 、 その 勾坂甚内 が 二 度目 に 江戸 へ はいっ て 来 た 時 から 作者 の 物語 は 展開 する の で ある 。
 174「 箱根 の 山砦 を 手下 に 渡し て 江戸 へ 足 を 入れ た という の も 、 江戸 の 様子 が 見 たかっ た から だ 。
 175…… ところで 今 俺 は 江戸 に いる 。
 176が 、 別 に 嬉しく も ない 」
 177赤坂溜他 の 浪宅 で 、 剣道 を 弟子 に 教え たり 、 博徒 と 博奕 を 開帳 し たり 、 飯 より 好き な 辻斬り を し たり 、 よりより 集まっ て 来 た 旧手下ども と 大名屋敷 へ 忍び込み お納戸金 を 奪っ たり 、 あらゆる 悪行 を 働き ながら も 彼 は 満足 し ない と 見え て 、 こんな 嘆息 を 洩らす の で あっ た 。
 178「 いや 昔 は 面白かっ た 。 それに 立派 な 稼ぎ人 も い た 。 庄司甚内 、 飛沢甚内 、 俺 を 加え て 三甚内 よ 。 江戸中 の 心胆 を 寒からせ た もの だ 。 ところが それ から 五 年 経っ た 今日この頃 は どう か と いう に 、 目星い 稼ぎ人 は 影 さえ も ない 」 など と 不平 を 云っ たり し た 。
 179「 そう は 云っ て も 五 年 前 より よく なっ た こと も 若干 か は ある 。
 180散在 し て い た 風呂屋女 を 吉原 の 土地 へ 一 つ に 集め 、 駿府 の 遊女町 を 持っ て 来 た など は 確か に 面白い 考え だ 」
 181こんな こと を 云い ながら 、 その 吉原 の 遊女屋 へ 、 自身 根気よく 通う の で あっ た 。
 182福岡 の 城主 五十二万 石 、 松平美濃守 の お邸 は 霞ヶ関 の 高台 に あっ た が 、 勾坂甚内 は 徒党 を 率い 、 新玉 の 年 の 寿 に 酔い痴れ て いる 隙 を 窺い 、 金蔵 を 破っ て 黄金 を 持ち出し た 。
 183「 いや 春先 から 景気 が よい ぞ 。
 184さあ 分配金 を くれ て やる から 、 どこ へ でも 行っ て 遊ん で 来い 」
 185手下 ども を 追いやっ て から 、 自分 も 重い 財布 を 握り 、 いつも の 癖 の 一人遊び 、 ブラリ と 吉原 へ やって来 た 。
 186大門 を はいれ ば 中之町 、 取っ付き の 左側 が 山田宗順 の 楼 、 それ と 向かい合っ た 高楼 は この 遊廓 の 支配役 庄司甚右衛門 の 楼 で ある 。
 187遊里 の 松の内 と 来 た ひ に は その 賑やかさ 沙汰 の 限り で ある 。
 188その 時分 から 千客万来 、 どの 楼 も 大入 叶う で ある 。
 189庄司 の 姓 も 懐しく 甚右衛門 の 甚 に も 心 を 引か れ 、 勾坂甚内 は ずっと 以前 から 甚右衛門 の 楼 の 馴染 とし 、 この 里 へ 来る ごと に 立ち寄っ て い た が 、 心中 で は 一 度 甚右衛門 に 逢っ て 見 たい と 思っ て い た 。
 190「 庄司甚内 と 庄司甚右衛門 。
 191どう も 非常 に 似 て いる 名前 だ 。
 192と 云っ て 泥棒 の 庄司甚内 が 足 を 洗っ て 遊女屋 に なり 廓中支配役 に なる よう な こと は 絶対 に ある べき 筈 は ない し 、 もし また それ が あっ た にしても 、 自分 は 賊 で あっ た 庄司甚内 を かつて 一 度 も 見 た こと が ない から 、 たとえ 顔 を 合わせ た ところ で それ と 知る こと は 出来 そう も ない 」
 193―― 勾坂甚内 は こう 思い ながら も 折り が あっ たら 逢っ て 見 たい と やはり 思っ て は いる の で あっ た 。
 194
 195長い 暖簾 を ひらりと 刎ね 甚内 は 土間 へ はいっ て 行っ た 。
 196「 いらっしゃい まし 」 と 景気 の よい 声 、 二 、 三 人 バラバラ と 現われ た が 、 「 お 、 これ は 白須賀様 、 よう おいで くだされ まし た 。 さあ さあ 常時 の お座敷 へ な 、 お米さん が お待ち兼ね で ござんす に 」
 197白須賀 は 甚内 の 変名 で ある 。
 198盗ん だ 金 だけに 糸目 を つけ ず 惜し気 なく パッパッ と 使う ので どこ へ 行っ て も モテル の で あっ た 。
 199通さ れ た 常時の座敷 という は 、 この 時代 に 珍らしい 三層楼 で 、 廓内 の 様子 が 一 眼 に 見える 。
 200やがて 山海 の 珍味 が 並ぶ 。
 201山海 の 珍味 と 云っ た ところ で 、 この 時分 の 江戸 の 料理 と 来 て は 京大坂 に比べて 、 不味さ加減 が 話 に も なら ぬ 。
 202それでも 渦高く 鉢皿 に 盛ら れ て 、 ズラリ と 前 へ 並べ られ た ところ は 決して 悪い 気持ち で は ない 。
 203山本勾当 の 三絃 に 合わせ て 美声自慢 の お品女郎 が 流行 の 小唄 を 一 連 唄っ た 。
 204新年 に ちなん だ めでたい 唄 だ 。
 205「 お品 。
 206相変わらず うまい もの だ な
 207…… どれ それ で は 肴 せ ず ば なる まい 」
 208甚内 は 機嫌 よく こう 云う と 懐中 から 財布 を 取り出し た 。
 209それから 座 に ある 誰彼 なし に 小判 を 一 枚 ずつ 分け て やっ た 。
 210「 お大尽様 !
 211お大尽様 ! 」
 212みんな 喜ん で 囃し立て た 頃 に は 短かい 冬 の 日 が いつ か 暮れ て 座敷 に は 燭台 が 立て連らね られ た 。
 213この 時 ようやく 甚内 の 馴染 の お米女郎 が 現われ た 。
 214いつも 淋しげ の 女 で は ある が 分けても 今夜 は 淋し そう に 、 坐る と一緒に 首垂れ た が 、 細い 首 に は 保ち 兼ねる よう な たっぷり と し た 黒髪 に 、 瓜実顔 を ふっくり と 包ま せ 、 パラリと 下がっ た 後れ毛 を 時々 掻き上げる 細い 指先 が 白魚 の よう に 白い の だけ でも 、 男 の 心 を 蕩かす に 足りる 。
 215なだらか に 通っ た 高い 鼻 、 軽く とざさ れ た 唇 が やや 受け口 に 見える の が 穏しやか に も 艶やか で ある 。
 216水 の よう に 澄ん だ 切れ長 の 眼 が 濃い 睫毛 に 蔽わ れ た 態 は 森 に 隠さ れ た 湖水 と も 云え よう 。
 217年 は おおかた 十七 、 八 、 撫で肩 に 腰 細く 肉附き 豊か で は ある けれど 姿 の よい ため か 痩せ て 見える 。
 218お米 が 座中 に 現われる と同時に 、 そこ に 並ん で い た 女子供 は 一時 に 光 を 失っ た 。
 219ひどく 見劣り が する の で ある 。
 220「 お米 、 機嫌 が 悪い そう な 。
 221盃 ひと つ 差し て も くれ ぬ の 」
 222甚内 は 笑い ながら こう 云っ た 。
 223「 ………… 」
 224お米 は 何ん と も 云わ なかっ た が 、 その代わり 静か に 顔 を 上げ 、 幽か に 微笑 を 頬 に 浮かべ た 。
 225「 毎年 初雪 の 降る 日 に は いつも お米さん は ご機嫌 が 悪く 浮か ぬ お顔 を なさ れ ます 」
 226―― お島 という の が 取りなし顔 に こう 横 から 口 を 出す 。
 227「 ふうむ 、 それ は 不思議 だ の 。
 228初雪 に 怨み でも ある と 見える 」
 229―― 無論 何気なく 云っ た の で は あっ た が 、 その 甚内 の 言葉 を 聞く と お米 は 颯と 顔色 を 変え た 。
 230「 あい 、 怨み が あり ます とも 。
 231―― 初雪 に 怨み が ある の で ござんす 」
 232こう 意気込ん で 云っ た もの で ある 。
 233あまり その 声 が 異様 だっ た ので 一座 の 者 は 眼 を 見合わせ た 。
 234一刹那 座敷 が 森然と なる 。
 235「 ホホ 、 ホホ 、 ホホ 、 ホホ 」
 236気味 の 悪い お米 の 笑い声 が 、 すぐ その 後 から 追っかけ て 、 こう 座敷 へ 響き 渡っ た 時 に は 、 豪雄 の 勾坂甚内 さえ 何がなしに ゾッと 戦か れ た の で ある 。
 237夜 が 更け 酒肴 が 徹 せ られ た 、
 238甚内 は 寝間 へ 誘わ れ た が 、 容易 に お米 の 寝 ない の を 見る と ちと 不平 も 萠し て 来る 。
 239で 、 蒲団 の 上 へ 坐り 、 不味 そう に 煙草 を 喫い 出し た 。
 240「 お米 」 と 甚内 は やがて 云っ た 。
 241「 心 に 蟠まり が ある らしい の 。
 242膝とも談合 という こと が ある 。
 243心 を 割っ て 話し たら どう だ 。
 244日数 は 浅い が 馴染 は 深い 。
 245場合 によって は 力 に も なろ う 。
 246それとも 他人 に は 明かさ れ ぬ 大事 な 秘密 の 心配事 で でも ある かな ? 」
 247「 はい 」 ―― と お米 は 親切 に 訊か れ て つい ホロホロ と 涙ぐん だ が 、 「 お父様 の 敵 が 討ち たい の で ござい ます 」 一句 凄然 と 云っ て 退け た 。
 248「 む 」 と 、 甚内 も これ に は 驚き 、 思わず 声 を 詰まら せ た が 、 「 おお それ は 勇ましい こと だ な 。 …… で 、 敵 は 何 者 だ な ? 」
 249「 さあ それ が 解っ て おり さえ し たら 、 こんな 苦労 は 致し ませ ぬ 」
 250「 父 を 討た れ た は いつ 頃 だ な ? 」
 251「 五 年 前 の 極月 二十 日 、 初雪 の 降っ た 晩 の こと 、 霊岸島 の 川口町 で 無尽 に 当たっ た 帰路 を 、 締め殺さ れ た その あげく 河 の 中 へ 投げ込ま れ 、 死骸 の 揚がっ た は その 翌日 、 その 時 以来 家運 が 傾き 質屋 の 店 も 畳ん で しまい 、 妾 は こうして 遊女勤め 、 悲しい こと で ござり ます 」
 252涙 の 顔 を 袖 で 抑え お米 は 甚内 の 膝 の 上 へ とんと 体 を 投げかけ た が 、 とたん に 襖 が 断り も なく スルリ と 外 から 開け られ た 。
 253
 254「 誰 だ ! 」 と 甚内 が 振り返る 。
 255「 声 も 掛け ず 開け まし た は とんだ 私 の 不調法 、 真っ平 ご免 ください ます よう 」
 256こう 云い ながら 坐っ た の は 、 甚内 よりも 十 歳 ほど 更け た 四十五 、 六 の 立派 な 人物 、 赧ら顔 で デップリ と 肥え 、 広袖姿 が よく 似合う 。
 257「 ま 、 お前 は ご主人さん 。
 258それでは 妾 は 座 を 外し 」
 259「 うん 、 そう さ な 、
 260では 少し の 間 、 座 を 外し て 貰お う か 」
 261「 はい 」 と 云っ て 出 て 行く お米 、 主人庄司甚右衛門 は スルスル と 前 へ 膝行っ た が 、 「 客人 いやさ 、 勾坂甚内 、 大泥棒 に も 似合わ ねえ ドジ な 真似 を する じゃ ねえ か 」
 262両手 を 袖 へ 引っ込ま せる と 、 バラバラ と 落ち て 来 た 小判 幾 片 。
 263甚内 が 蒔い た さっき の 小判 だ 。
 264「 黒田様 の 刻印 が 打ち込ん で ある の が 解ら ねえ か 」
 265「 え ? 」 と 甚内 は 今さら 驚き ムズと 小判 を ひっ掴ん だ 。
 266いかに も 刻印 が 押し て ある 。
 267「 むう 」 と 唸る ばかり で ある 。
 268「 なんと 一言 も ある まい が な 。
 269さあ 早く 仕度 を する が いい 。
 270大門口 は 出 られ めえ 。
 271家 の 裏木戸 を 開け て 進ぜる 」
 272「 そう 急き立てる ところ を 見る と 、 さては もう 手 が 廻っ た か ! 」
 273徒党 を 組ん だ 盗賊 が 黒田様 の 宝蔵 を 破り 莫大 の 金子 を 奪っ た について は 、 晩かれ早かれ ここら辺り を 徘徊 する に 相違 ない から 、 怪しい 者 の 目付かり 次第 届け出る よう に と 布告 の 廻っ た は つい 今日 の 昼 の こと 、 したがって この 辺 一円 は 同心目明し の 巣 の よう な もの だ 。
 274のっそり 迂濶 に 出 よう ものなら 、 すぐ に 御用 の 声 を 聞こ う 。
 275まあ 俺 に 従い て 来な 、
 276悪い よう に は し ねえ 意 だ 」
 277「 ふうむ 、 それにしても この 俺 を 、 勾坂甚内 と 見抜い た は ? 」
 278「 黒田 の 邸 へ 押し込ん で 、 宝蔵 でも 破ろ う と いう もの は 三甚内 の 他 に は ねえ 。
 279…… ところで 三 人 の 甚内 の うち 二人 まで は 足 を 洗い 今 は 素人 に なっ て いる 筈 だ 。
 280残る は 勾坂甚内 だけ 。
 281その 勾坂 こそ すなわち お前 よ 。
 282宝蔵破り の その 翌晩 、 盗ん だ 金 を 懐中 に し て 、 遊里 へ 姿 を 晒そ う と する 大胆不敵 の やり口 は 、 その 他 の 奴 に は 出来 そう も ねえ 」
 283「 ううむ 、 そうか 、 いや 当たっ た 。
 284いかに も 俺 は 勾坂 だ 。
 285勾坂甚内 に 相違 ねえ 。
 286さあ こう 清く 宣っ た からには 、 お前 も 素性 を 明かす が いい 」
 287「 もう おおかた は 察し て い よう 。
 288俺 こそ 庄司甚内 だ 」
 289「 それじゃ やっぱり そう だっ た か 。
 290もしや もしや と 思っ て は い た が 、 そう 明瞭 と 宣ら れる と 、 なんだか 変 な 気持ち が する なア 。
 291―― これ が 懐しい と でも 云う の だろう よ 」
 292「 おい 勾坂 の 」 と 声 を 忍ばせ 、 一 膝 進み出 た 甚右衛門 は 、 グイと 顔 を 突き出し た が 、 「 この 顔 見覚え が あろ う がの ? 」
 293「 え ? 」 と 甚内 は 眼 を 見張る 。
 294と 、 彼 は 愕然 と し た 。
 295「 …… うむ 、 そういえば 頬 の 上 に 古い 一筋 の 太刀傷 が ある !……
 296お 、 あの 時 の 船頭 だ 」
 297「 それでも どうやら 気が付い た らしい 。
 298いかに も あの 時 の 船頭 だ 。
 299…… お前 あの 時 罪 も ねえ 可哀そう な 老人 を 締め殺し た っけ のう 」
 300「 殺す つもり は なかっ た が 時 の はずみ で 力 が はいり 殺生 な こと を し て しまっ た 」
 301「 その 老人 の 一人娘 が お前 の 馴染 の あの お米 よ 」
 302「 それ と も 知ら ぬ お米 の 口 から たった 今 聞い て 驚い た ところ さ 」
 303「 枕 交わす が 商売 とは云え 、 親 の 敵 と 馴染む と は …… 」
 304「 知らぬが因果 の 畜生道 さ 」
 305「 お米 にとって は 尽き ぬ 怨み …… 」
 306「 俺 にとって は 勿怪 の 幸い 」
 307「 おい 、 勾坂 の 、 どう する つもり だ ? 」
 308「 お米 が 俺 を 討つ 気 なら 宣っ て 殺さ れ て やる つもり よ 。
 309が 、 討つ 気 は よも ある めえ 。
 310二 世 さえ 契っ た 仲 だ から の 。
 311二 世 を 契れ ば 未来 も 夫婦 !
 312俺 を 殺せ ば 良人殺し だ ! 」
 313「 あっ ! 」 と 魂消る 女 の 声 が 隣り の 部屋 から 聞こえ て 来 た 。
 314二人 一緒 に 立ち上がり 颯と 開け た 襖 の 彼方 に 伏し転ん で いる の は お米 で あっ た 。
 315「 や 、 お米 、 咽喉 突い た な ! 」
 316「 傷 は 浅い !
 317しっかり しろ ! 」
 318左右 から 抱か れ て 眼 を ひらき 、 「 親方さん 、 おさらば で ござんす 」
 319甚内 の 顔 を 見詰め ながら 、 「 怨めしい は お前 。 …… 恋しい も お前 。 …… 二筋道 に 迷っ た 妾 。 …… 冥土 へ 行っ て お父様 へ 何ん と お詫び を 申そ う ぞ 。 …… 生き て は おれ ず 、 死ん で も 死な れ ぬ 。 …… 南無阿弥陀仏 。 夢 で ござんし た 。 …… 」
 320その まま 呼吸 は 絶え た の で ある 。
 321トントン トントン と その 刹那 、 表戸 を 続けて 打つ もの が ある 。
 322「 開けろ 開けろ 」 と 野太い 声 。
 323「 南無三宝 !
 324手 が 廻っ た ! 」
 325悲嘆 から 醒め て 飛び上がる 甚内 。
 326それ を 制し て 甚右衛門 は フッと 行燈 を 吹き消し た が 、 ツツーと 窓 へ 忍ん で 行き 、 そっと 見下ろす 戸外 に は 、 積もっ て 解け ぬ 初雪 白く 、 ポッと 明るい ここかしこ に 、 一 団 、 二 団 、 三 団 、 と 捕り手 の 黒い 影 が 見える 。
 327「 とても 表 へ は 出 られ ねえ 。 こっち へ こっち へ 」 と 梯子 を 下る 。
 328
 329今 は 火急 の 場合 で ある 。
 330甚内 は 本意 で は なかっ た が 、 投げ合掌 と 捨て念仏 、 お米 の 死骸 へ 義理 を 済ます と 、 すぐ 甚右衛門 の 後 へ 従い て 幾 個 か の 梯子段 を 下り て 行っ た 。
 331裏 の 木戸口 に は 人影 も ない 。
 332「 さあ この 隙 に 。
 333…… ちっとも 早く …… 」
 334そっと 甚右衛門 は 囁い た 。
 335「 兄貴 、 お礼 の 言葉 も ねえ 」
 336「 なんの 昔 は 同じ 身の上 、 足 は 洗っ て も 義理 は 捨て ねえ 」
 337「 それじゃ 兄貴 」
 338「 たっしゃ で 行き ねえ よ 」
 339勾坂甚内 は 身 を 飜えす と 、 小暗い 家蔭 へ 消え て しまっ た 。
 340寂然と 更け た 富沢町 。
 341人っ子 一人 通ろ う と も し ない 。
 342サ、サ、サ、サ、サッ と 、 爪先 で 歩く 、 忍び足 の 音 が 聞こえ て 来 た が 、 一 軒 の 家 の 戸蔭 から つと 浮かび出 た 一人 の 武士 。
 343辷る よう に 走っ て 来る 。
 344と 、 その 行く手 の 往来 へ むらむら と 現われ た 一 群 の 捕り手 。
 345「 御用 ! 」 と 十手 を 宙 に 振っ た 。
 346「 遁がれ ぬ ところ だ 勾坂甚内 、
 347神妙 に お縄 を 頂戴 しろ ! 」
 348「 ………… 」
 349甚内 は それ に は 答え ずに 、 かえって そっち へ 駈け寄せ て 行く 、
 350その 勢い に 驚い た もの か 、 捕り手 は パッと 左右 へ 開い た 。
 351その 真ん中 を 馳せ抜け よう と する 。
 352ピュ――ッと 響き 渡る 呼子 の 笛 。
 353これ が 何 か の 合図 と 見え て 、 甚内 を 目掛け て 数十 本 の 十手 が 雨霰 と 降っ て 来 た 。
 354これ に は 甚内 も 驚い た が 、 そこ は 武蔵直伝 の 早業 、 十手 の 雨 を 突っ切っ た 。
 355大小 の 鍔際 引っ抱え 十 間 余り も 走り抜ける 。
 356この 時 また も 呼子 の 音 が 背後 に 当たっ て 鳴り 渡っ た が 、 とたん に 両側 の 人家 の 屋根 から 大小 の 梯子 幾十となく 、 甚内 目掛け て 落ちかかっ て 来 た 。
 357「 これ まで 見慣れ ぬ 不思議 な 捕縛法 。
 358これ は めった に 油断 は なら ぬ 」
 359肩 を したたか 梯子 で 打た れ 、 甚内 は 内心 胆 を 冷し た が 、 また 少からず 感心 も し た 。
 360彼 は 街 の 四辻 へ 出 た 。
 361「 あっ 」 ―― と 思わず 仰天 し 、 甚内 は 棒 の よう に 突っ立っ た の で ある 。
 362どっち を 見 て も 無数 の 捕り手 が ぎっしり 詰まっ て いる で は ない か 。
 363「 もう いけ ねえ 」 と 呟き ながら も どこ か に 活路 は ある まい か と 素早く 四方 を 見廻し た 。
 364と 、 正面 に 立っ て いる 古着屋 らしい 一 軒 の 家 の 、 裏戸 が 幽か に 開け られ た が 、 その 際間 から 手 が 現われ 甚内 を 二 、 三 度 手招い た 。
 365これ ぞ 天 の 助くる ところ と 、 甚内 は 突嗟 に 思案 を 決める と 、 パッと 雨戸 へ 飛びかかり 、 引きあける 間 も もどかしく 家内 へ はいっ て 戸 を 立て た 。
 366はいっ た 所 が 土間 で ある 。
 367土間 の 向こう が 店 らしい 。
 368店 の 奥 に 座敷 が あっ て そこ に 行燈 が 点っ て いる 。
 369そうして 四辺 に は 人影 も ない 。
 370甚内 は ちょっと 躊躇っ た が 、 場合 が 場合 な ので 案内 も 乞わ ず 燈火 の ある 座敷 へ つかつか と 行っ た 。
 371座敷 の 真ん中 に 文台 が ある 。
 372文台 の 上 に は 甚内 にとって 見覚え の ある 印籠 が ある 。
 373そして その 側 に は 添え状 が ある 。
 374「 進上 申す 印籠 の 事 。
 375旧姓 、 飛沢 。
 376今 は 、 今日 の 捕手頭
 377富沢甚内 より
 378勾坂甚内殿 へ 」
 379「 あっ 」
 380思わず 声 を 上げ た 時 。
 381「 御用 ! 」 と 鋭い 掛け声 が し た と同時に どこからともなく 投げ られ た 縄 。
 382甚内 は キリキリ と 縛り上げ られ た 。
 383「 ワッハッハッハッ 」 と 、 哄笑 する 声 が 続い て 耳もと で 起こっ た が 、 それ と 一緒 に 天井 の 梁 から ドンと 飛び下り た もの が ある 。
 384細い 縞 の 袷 を 着 、 紺 の 帯 を 腰 で 結び 、 股引き を 穿い た 足袋跣足 、 小造り の 体 に 鋭敏 の 顔付き 。
 385―― 商人 に やつし た 目明し という 仁態 。
 386それ が カラカラ と 笑っ て いる 。
 387それ は 紛れもない 五 年 以前 に 川口町 の 天水桶 の 蔭 から 、 ヌッ と 姿 を 現わし て 勾坂甚内 を 呼び止め た あげく 、 その 甚内 に 切り立て られ 危く 命 を 取ら れ よう と し た 匕口 を 持っ た 若者 で あっ た 。
 388そう と 知っ た 甚内 は 心中 覚悟 の 臍 を 決め た 。
 389「 いよいよ いけ ねえ 」 と 思っ た の で ある 。
 390「 瞞し て 捕える と は 卑怯 な 奴 、 何故 宣っ て 掛かっ て 来 ねえ 」
 391甚内 は 口惜し そう に 詈っ た 。
 392「 瞞そ う と また 騙ろ う と 目差す 悪人 を 縛き さえ すれ ば それ で 横目 の 役目 は 済む 。
 393卑怯呼ばわり は 場違い だ ! 」
 394男 は 寛々 と 云い放し た が 、 そこ で 少しく 居住居 を 直し 、 「 おい 甚内 、 それはそうと 、 あの 時 は 酷い 目 に 合わせ やがっ た な 」
 395「 それ じゃ やっぱり あの 時 の …… 」
 396「 ふてえ 分け を せびっ た 野郎 よ 」
 397「 それ が 今 で は お上 の 目明し ? 」
 398「 それ も 改心 し た から さ 。
 399…… 駿河台 の 大久保様 、 彦左衛門 の ご前 に 縋り 、 罪障 悉く 許さ れ た ところ から 、 表向き は 古着商売 、 誠 は 横目ご用聞き 、 姓 も 飛沢 を 富沢 と 変え 、 昔 は 自分 が 縛ら れる 身 、 今 は 他人 を 縛る が 役目 、 富沢流取り縄 の 開祖 、 富沢甚内 とは 俺 が こと 、
 400何んと 胆 が 潰れ た か
 401「 ふふん そうか 、 いや 面白え 。 …… 昔 は 同じ 夜働き 、 三甚内 と 謳わ れ た 我ら 、 今 は 散々 バラバラ の 、 目明し も あれ は 女郎屋 も ある 。 これ が 浮世 か 誰白浪 の 俺 一人 が 元 の まま の 泥棒様 とは 心細い が 、 それも こうして 縛ら れ た からには 二 度 と 日の目 は 見 られ めえ 。 すなわち 往生観念仏 、 三甚内 は この世 から つまり 消え た も 同じ 事 、 江戸 は 今 から ご安泰 だ 。 アッハッハッハッ 」 と 揺すり上げ て 勾坂甚内 は 笑っ た が 、 それ は 悲壮 な 笑い で あっ た 。
 402戸外 で は 雪 が 降り 出し た 。
 403遅い 今年 の 初雪 で 、 一旦 さっき 止ん だ の が また しめやか に 降り 出し た の で ある 。
 404間もなく 浅草鳥越 において 勾坂甚内 は 磔刑 に 処せ られ 無残 の 最後 を とげ た そう で ある が 、 庄司 、 富沢 の 二甚内 は めでたく 天寿 を 全う し 畳 の 上 で 往生 を とげ 、 一 は 吉原 の 起源 を 造り 一 は 今日 の 富沢町 の 濫觴 を 作し た という こと で ある 。