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aozora_Mori-1912のコンテキスト表示

title Nezumi-zaka
author Mori, Ogai
date 1912
publisher Chuo koron
source Aozora Bunko (http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/card45618.html)
genre fiction
subcorpus Aozora Bunko
terms of use Creative Commons license


 1鼠坂
 2森鴎外
 3小日向 から 音羽 へ 降りる 鼠坂 と云う 坂 が ある 。
 4鼠 で なくて は 上がり降り が 出来 ない と云う 意味 で 附け た 名 だ そう だ 。
 5台町 の 方 から 坂 の 上 まで は 人力車 が 通う が 、 左側 に 近頃 刈り込ん だ 事 の なさ そう な 生垣 を 見 て 右側 に 広い 邸跡 を 大きい 松 が 一 本 我物顔 に 占め て いる 赤土 の 地盤 を 見 ながら 、 ここ から が 坂 だ と 思う 辺 まで 来る と 、 突然 勾配 の 強い 、 狭い 、 曲りくねっ た 小道 に なる 。
 6人力車 に 乗っ て 降り られ ない の は 勿論 、 空車 に し て 挽か せ て 降りる こと も 出来 ない 。
 7車 を 降り て 徒歩 で 降りる こと さえ 、 雨上がり なんぞ に は むずかしい 。
 8鼠坂 の 名 、 真 に 虚しからず で ある 。
 9その 松 の 木 の 生え て いる 明屋敷 が 久しく 子供 の 遊場 に なっ て い た ところ が 、 去年 の 暮 から そこ へ 大きい 材木 や 、 御蔭石 を 運び はじめ た 。
 10音羽 の 通 まで 牛車 で 運ん で 来 て 、 鼠坂 の 傍 へ 足場 を 掛け たり 、 汽船 に 荷物 を 載せる Crane と云う もの に 似 た 器械 を 据え 附け たり し て 、 吊り上げる の で ある 。
 11職人 が 大勢 這入る 。
 12大工 は 木 を 削る 。
 13石屋 は 石 を 切る 。
 14二 箇月 立つ か 立た ない うち に 、 和洋折衷 とか 云う よう な 、 二階家 が 建築 せ られる 。
 15黒塗 の 高塀 が 繞らさ れる 。
 16とうとう 立派 な 邸宅 が 出来上がっ た 。
 17近所 の 人 は 驚い て いる 。
 18材木 が 運び 始め られる 頃 から 、 誰 が 建築 を する の だろう と 云っ て 、 ひどく 気にし て 問い合せる と 、 深淵さん だ と 云う 。
 19深淵 と云う 人 は 大きい 官員 に は ない 。
 20実業家 に も まだ 聞か ない 。
 21どんな 身の上 の 人 だろう と 疑っ て いる 。
 22その うち 誰 やら が どこ から か 聞き出し て 来 て 、 あれ は 戦争 の 時 満洲 で 金 を 儲け た 人 だ そう だ と 云う 。
 23それで 物珍らしがる 人達 が 安心 し た 。
 24建築 の 出来上がっ た 時 、 高塀 と 同じ 黒塗 に し た 門 を 見る と 、 なるほど 深淵 と云う 、 俗 な 隷書 で 書い た 陶器 の 札 が 、 電話番号 の 札 と 並べ て 掛け て ある 。
 25いかに も 立派 な 邸 で は ある が 、 なんとなく 様式離れ の し た 、 趣味 の 無い 、 そして 陰気 な 構造 の よう に 感ぜ られる 。
 26番町 の 阿久沢 とか 云う 家 に 似 て いる 。
 27一 歩 を 進め て 言え ば 、 古風 な 人 に は 、 西遊記 の 怪物 の 住み そう な 家 と も 見え 、 現代的 な 人 に は 、 マアテルリンク の 戯曲 に あり そう な 家 と も 思わ れる だろう 。
 28二 月 十七 日 の 晩 で あっ た 。
 29奥 の 八 畳 の 座敷 に 、 二人 の 客 が あっ て 、 酒酣 に なっ て いる 。
 30座敷 は 極めて 殺風景 に 出来 て い て 、 床の間 に は いかがわしい 文晁 の 大幅 が 掛け て ある 。
 31肥満 し た 、 赤ら顔 の 、 八字髭 の 濃い 主人 を始として 、 客 の 傍 に も 一々 毒々しい 緑色 の 切れ を 張っ た 脇息 が 置い て ある 。
 32杯盤 の 世話 を 焼い て いる の は 、 色 の 蒼い 、 髪 の 薄い 、 目 が 好く 働い て 、 しかも 不愛相 な 年増 で 、 これ が 主人 の 女房 らしい 。
 33座敷 から 人物 まで 、 総て 新開地 の 料理店 で 見る よう な 光景 を 呈し て いる 。
 34「 なん にしろ 、 大勢 行っ て い た の だ が 、 本当 に 財産 を 拵え た 人 は 、 晨星寥々 さ 。
 35戦争 が 始まっ て から は 丸 一 年 に なる 。
 36旅順 は 落ちる と云う 時期 に 、 身上 の 有る だけ を 酒 に し て 、 漁師仲間 を 大連 へ 送る 舟 の 底積 に し て 乗り出す と云う の は 、 着眼 が 好かっ た よ 。
 37肝心 の 漁師 の 宰領 は 、 為事 は 当っ た が 、 金 は 大して 儲け なかっ た のに 、 内 で は 酒 なら 幾ら でも 売れる と云う 所 へ 持ち込ん だ の だ から 、 旨く 行っ た の だ 。 」
 38こう 云った 一人 の 客 は 大ぶ 酒 が 利い て 、 話 の 途中 で 、 折々 舌 の 運転 が 悪く なっ て いる 。
 39渋紙 の よう な 顔 に 、 胡麻塩鬚 が 中伸び に 伸び て いる 。
 40支那語 の 通訳 を し て い た 男 で ある 。
 41「 度胸 だ ね 」 と 今 一人 の 客 が 合槌 を 打っ た 。
 42「 鞍山站 まで 酒 を 運ん だ ちゃん車 の 主 を 縛り上げ て 、 道 で 拾っ た 針金 を 懐 に 捩じ込ん で 、 軍用電信 を 切っ た 嫌疑者 に し て 、 正直 な 憲兵 を 騙し て 引き渡し て しまう なんと云う 為組 は 、 外 の もの に は 出来 ない よ 。 」
 43こう 云っ た の は 濃紺 の ジャケツ の 下 に はで な チョッキ を 着 た 、 色 の 白い 新聞記者 で ある 。
 44この 時 小綺麗 な 顔 を し た 、 田舎出 らしい 女中 が 、 燗 を 附け た 銚子 を 持っ て 来 て 、 障子 を 開け て 出す と 主人 が 女房 に 目食わせ を し た 。
 45女房 は 銚子 を 忙しげ に 受け取っ て 、 女中 に 「 用 が あれ ば ベル を 鳴らす よ 、 ちりんちりん を 鳴らす よ 、 あっち へ 行っ て お出 」 と 云っ て 、 障子 を 締め た 。
 46新聞記者 は 詞 を 続い だ 。
 47「 それ は 好い が 、 先生 自分 で 鞭 を 持っ て 、 ひゅあひゅあ しょあしょあ とか なん とか 云っ て 、 ぬかるみ道 を 前進 し よう と し た ところが 、 騾馬 やら 、 驢馬 やら 、 ちっぽけ な 牛 やら が 、 ちっとも 言う こと を 聞か ない で 、 綱 が こんがらかっ て 、 高粱 の 切株だらけ の 畑中 に 立往生 を し た の は 、 滑稽 だっ た ね 。 」
 48記者 は 主人 の 顔 を じろり と 見 た 。
 49主人 は 苦笑 を し て 、 酒 を ちびりちびり 飲ん で いる 。
 50通訳あがり の 男 は 、 何 か 思い出し て 舌舐ずり を し た 。
 51「 お蔭 で 我々 が 久し振 に 大牢 の 味い に 有り附い た の だ 。
 52酒 は 幾ら でも 飲ま せ て くれ た し 、 あの 時 位 僕 は 愉快 だっ た 事 は 無い よ 。
 53なん にしろ 、 兵站 に は あんまり 御馳走 の あっ た こと は ない から なあ 。 」
 54主人 は 短い 笑声 を 漏らし た 。
 55「 君 は 酒 と 肉 さえ あれ ば 満足 し て いる の だ から 、 風流 だ ね 。 」
 56「 無論 さ 。
 57大杯 の 酒 に 大塊 の 肉 が あれ ば 、 能事畢る ね 。
 58これ から また 遼陽 へ 帰っ て 、 会社 の お役人 を 遣ら なくて は なら ない 。
 59実は そんな 事 は よし て 南清 の 方 へ 行き たい の だ が 、 人生 意 の 如く なら ず だ 。 」
 60「 君 は 無邪気 だ よ 。
 61あの 驢馬 を 貰っ た 時 の 、 君 の 喜びよう と 云っ たら なかっ た ね 。
 62僕 は そう 思っ た よ 。
 63君 だの 、 あの 騾馬 を 手に入れ て 喜ん だ 司令官 の 爺いさん なんぞ は 、 仙人 だ と 思っ た よ 。
 64己 は 騎兵科 で 、 こんな 服 を 着 て 徒歩 を する の は つらかっ た が 、 これ が あれ ば 、 もう てくてく歩き は し なくっ て も 好い と 云っ て 、 ころころ し て い た 司令官 も 、 随分 好人物 だっ た ね 。
 65あれ から 君 は 驢馬 を どう し た ね 。 」
 66記者 が 通訳あがり に 問う た の で ある 。
 67「 なに 。
 68十里河 まで 行く と 、 兵站部 で 取り上げ られ て しまっ た 。 」
 69記者 は 主人 の 顔 を ちょいと 見 て 、 狡猾げ に 笑っ た 。
 70主人 は 記者 の 顔 を 、 同じ よう な 目附 で 見返し た 。
 71「 そこ へ 行く と 、 君 は 罪 が 深い 。
 72酒 と 肉 で は 満足 し ない の だ から 。 」
 73「 うん 。
 74大した 違い は ない が 、 僕 は 今 一 つ の 肉 を 要求 する 。
 75金 も 悪く は ない が 、 その 今 一 つ の 肉 を 得る 手段 に 過ぎ ない 。
 76金 その物 に 興味 を 持っ て いる 君 と は 違う 。
 77しかし 友達 に は 、 君 の よう な 人 が ある の が 好い 。 」
 78主人 は 持前 の 苦笑 を し た 。
 79「 今 一 つ の 肉 は 好い が 、 営口 に 来 て 酔っ た 晩 に 話し た 、 あの 事件 は 凄い ぜ 。 」
 80こう 云っ て 、 女房 の 方 を ちょいと 見 た 。
 81上さん は 薄い 脣 の 間 から 、 黄ばん だ 歯 を 出し て 微笑ん だ 。
 82「 本当 に 小川さん は 、 優しい 顔 は し て い て も 悪党 だ わ ねえ 。 」
 83小川 と云う の は 記者 の 名 で ある 。
 84小川 は 急所 を 突か れ た と でも 云う よう な 様子 で 、 今 まで 元気 の 好かっ た の に 似 ず 、 しょげ返っ て 、 饌 の 上 の 杯 を 手 に 取っ た の さえ 、 てれ隠し で は ない か と 思わ れ た 。
 85「 あら 。
 86それ は もう 冷え て いる わ 。
 87熱い の に なさい よ 。 」
 88上さん は 横 から 小川 の 顔 を 覗く よう に し て こう 云っ て 、 女中 の 置い て 行っ た 銚子 を 取り上げ た 。
 89小川 は 冷え た 酒 を 汁椀 の 中 へ 明け て 、 上さん の 注ぐ 酒 を 受け た 。
 90酒 を 注ぎ ながら 、 上さん は 甘ったるい 調子 で 云っ た 、
 91「 でも 営口 で 内 に 置い て い た 、 あの 子 に は 、 小川さん も ※わ なかっ た わ ね 。 」
 92「 名古屋もの に は 小川君 に も 負け ない 奴 が いる よ 。 」
 93主人 が 傍 から 口 を 挟ん だ 。
 94やはり 小川 の 顔 を 横 から 覗く よう に し て 、 上さん が 云っ た 。
 95「 なかなか 別品 だっ た わ ねえ 。
 96それに 肌 が 好くっ て 。 」
 97この 時 通訳あがり が 突然 大声 を し て 云っ た 。
 98「 その 凄い 話 と云う の を 、 僕 は 聞き たい なあ 。 」
 99「 よせ 」 と 、 小川 は 鋭く 通訳あがり を 睨ん だ 。
 100主人 は どっしり し た 体 で 、 胡坐 を 掻い て 、 ちびりちびり 酒 を 飲み ながら 、 小川 の 表情 を 、 睫毛 の 動く の を も 見遁がさ ない よう に 見 て いる 。
 101そのくせ 顔 は 通訳あがり の 方 へ 向け て い て 、 笑談 らしい 、 軽い 調子 で 話し 出し た 。
 102「 平山君 は あの 話 を まだ しら ない の かい 。
 103まあ どうせ 泊る と 極め て いる 以上 は 、 ゆっくり 話す と し よう 。
 104なんでも 黒溝台 の 戦争 の 済ん だ 跡 で 、 奉天攻撃 は まだ 始まら なかっ た 頃 だっ た そう だ 。
 105なんとか 窩棚 と云う 村 に 、 小川君 は 宿舎 を 割り当て られ て い た の だ 。
 106小さい 村 で 、 人民 は 大抵 避難 し て しまっ て 、 明家 の 沢山 出来 て いる 所 な の だ ね 。
 107小川君 は 隣 の 家 も 明家 だ と 思っ て い た ところが 、 ある 晩 便所 に 行っ て 用 を 足し て いる 時 、 その 明家 の 中 で 何 か 物音 が する と 云う の だ 。 」
 108通訳あがり は 平山 と云う 男 で ある 。
 109小川 は 迷惑 だ が 、 もう こう なれ ば 為方がない ので 、 諦念め て 話さ せる と云う 様子 で 、 上さん の 注ぐ 酒 を 飲ん で いる 。
 110主人 は 話し 続け た 。
 111「 便所 は 例の 通り 氷っ て いる 土 を 少し ばかり 掘り上げ て 、 板 が 渡し て ある の だ ね 。
 112そいつ に 跨がっ て 、 尻 の 寒い の を 我慢 し て 、 用 を 足し ながら 、 小川君 が 耳 を 澄まし て 聞い て いる と 、 その 物音 が 色々 に 変化 し て 聞える 。
 113どう も 鼠 や なん ぞ で は ない らしい 。
 114狗 で も ない らしい 。
 115小川君 は 好奇心 が 起っ て 溜まら なく なっ た 。
 116その 家 は 表 から は 開けひろげ た よう に なっ て 見え て いる 。
 117※ の 縁 に し て ある 材木 は どこ か へ 無くなっ て 、 築き上げ た 土 が 暴露 し て いる 。
 118その 奥 は 土地 で 磚 と 云っ て いる 煉瓦 の よう な もの が 一ぱい 積み上げ て ある 。
 119どう し て も 奥 の 壁 に 沿う て 積み上げ て ある と しか 思わ れ ない 。
 120小川君 は 物音 の 性質 を 聞き定め よう と する と同時に 、 その 場所 を 聞き定め よう と し て 努力 し た そう だ 。
 121自分 の 跨がっ て いる 坑 の 直前 は 背丈 位 の 石垣 に なっ て い て 、 隣 の 家 の 横側 が その 石垣 と 密接 し て いる 。
 122物音 は その 一番 奥 の 所 で し て いる 。
 123表 から 磚 の 積ん だ の が 見え て いる 辺 で ある 。
 124これ だけ の 事 を 考え て 、 小川君 は とうとう 探検 に 出掛ける 決心 を し た そう だ 。
 125無論 便所 に 行く に だって 、 毛皮 の 大外套 を 着 た まま で 行く 。
 126まくっ た 尻 を 卸し て しまえ ば 、 寒く は ない 。
 127丁度 便所 の 坑 の 傍 に 、 実 を むしり 残し た 向日葵 の 茎 を 二三 本 縛り寄せ た の を 、 一 本 の 棒 に 結び附け て ある 。
 128その 棒 が 石垣 に 倒れ掛かっ て いる 。
 129それ に 手 を 掛け て 、 小川君 は 重い 外套 を 着 た まま で 、 造做もなく 石垣 の 上 に 乗っ て 、 向側 を 見卸し た そう だ 。
 130空 は 青く 澄ん で 、 星 が きらきら し て いる 。
 131そこら 一面 に 雪 が 積っ て 氷っ て いる 。
 132夜 の 二 時頃 で も あろ う が 、 明るい 事 は 明るい の だ ね 。 」
 133小川 は つぶやく よう に 口 を 挟ん だ 。
 134「 人 の 出たらめ を 饒舌っ た の を 、 好く そんな に 覚え て いる もの だ 。 」
 135「 好い から 黙っ て 聞い て い 給え 。
 136石垣 の 向側 は やはり 磚 が 積ん で あっ て 降りる に は 足場 が 好い 。
 137降り て 家 の 背後 へ 廻っ て 見る と 、 そこ は 当り前 の 壁 で は ない 。
 138窓 を 締め て 、 外 から 磚 で 塞い だ もの と 見える 。
 139暫く その 外 に 立っ て 聞い て いる と 、 物音 は じき 窓 の 内 で し て いる 。
 140家 の 構造 から 考え て 見る と 、 どう し て も ※ の 上 な の だ 。
 141表 から 見える 、 土 の 暴露 し て いる ※ は 、 鉤なり に 曲っ た ※ の 半分 で 、 跡 の 半分 は 積み上げ た 磚 で 隠れ て いる もの と 思わ れる 。
 142物音 の する の は 、 どう し て も その 跡 の 半分 の ※ の 上 な の だ 。
 143こう なる と 、 小川君 は どう も この 窓 の 内 を 見 なくて は 気 が 済ま ない 。
 144そこで 磚 を 除け て 、 突き上げ に なっ て いる 障子 を 内 へ 押せ ば 好い わけ だ 。
 145ところが その 磚 が ひどく ぞんざい に 、 疎 に 積ん で あっ て 、 十 ばかり も 卸し て しまえ ば 、 窓 が 開き そう だ 。
 146小川君 は 磚 を 卸し 始め た 。
 147その 時 物音 が ぴったり と 息ん だ そう だ 。 」
 148小川 は 諦念め て 飲ん で いる 。
 149平山 は 次第に 熱心 に 傾聴 し て いる 。
 150上さん は 油断 なく 酒 を 三 人 の 杯 に 注い で 廻る 。
 151「 小川君 は 磚 を 一 つ 一 つ 卸し ながら 考え た と 云う の だ ね 。
 152どう も これ は 塞ぎ切 に 塞い だ もの で は ない 。
 153出入口 に し て いる らしい 。
 154しかし 中 に 人 が 這入っ て いる と する と 、 外 から 磚 が 積ん で ある の が 不思議 だ 。
 155兎に角 拳銃 が 寝床 に 置い て あっ た の を 、 持っ て 来れ ば 好かっ た と 思っ た が 、 好奇心 が それ を 取り に 帰る 程 の 余裕 を 与え ない し 、 それ を 取り に 帰っ たら 、 一しょ に いる 人 が 目 を 醒ます だろう と 思っ て 諦念め た そう だ 。
 156磚 は 造做もなく 除け て しまっ た 。
 157窓 へ 手 を 掛け て 押す と なん の 抗抵 も なく 開く 。
 158その 時 がさがさ と云う 音 が し た そう だ 。
 159小川君 が そっと 中 を 覗い て 見る と 、 粟稈 が 一ぱい に 散らばっ て いる 。
 160それ が 窓 に 障っ て 、 がさがさ 云っ た の だ ね 。
 161それ は 好い が 、 そこら に 甑 の よう な 物 やら 、 籠 の よう な 物 やら 置い て あっ て 、 その 奥 に 粟稈 に 半分 埋まっ て 、 人 が いる 。
 162慥か に 人 だ 。
 163土人 の 着る 浅葱色 の 外套 の よう な 服 で 、 裾 の 所 が ひっくり返っ て いる の を 見る と 、 羊 の 毛皮 が 裏 に 附け て ある 。
 164窓 の 方 へ 背中 を 向け て 頭 を 粟稈 に 埋める よう に し て いる が 、 その 背中 は ぶるぶる 慄え て いる と 云う の だ ね 。 」
 165小川 は 杯 を 取り上げ たり 、 置い たり し て 不安らしい 様子 を し て いる 。
 166平山 は ますます 熱心 に 聞い て いる 。
 167主人 は わざと 間 を 置い て 、 二人 を 等分 に 見 て 話し 続け た 。
 168「 ところが その 人間 の 頭 が 辮子 で ない 。
 169女 な の だ 。
 170それ が 分かっ た 時 、 小川君 は それ まで 交っ て い た 危険 と云う 念 が 全く 無くなっ て 、 好奇心 が 純粋 の 好奇心 に なっ た そう だ 。
 171これ は さも あり そう な 事 だ ね 。
 172※ と 声 に 力 を 入れ て 呼ん で 見 た が 、 ただ 慄え て いる ばかり だ 。
 173小川君 は ※ の 上 へ 飛び上がっ た 。
 174女 の 肩 に 手 を 掛け て 、 引き起し て 、 窓 の 方 へ 向け て 見る と 、 まだ 二十 に なら ない 位 な 、 すばらしい 別品 だっ た と 云う の だ 。 」
 175主人 は また 間 を 置い て 二人 を 見較べ た 。
 176そして ゆっくり 酒 を 一 杯 飲ん だ 。
 177「 これ から 先 は 端折っ て 話す よ 。
 178これ まで の よう な 珍らしい 話 と は 違っ て 、 いつ 誰 が どこ で 遣っ て も 同じ 事 だ から ね 。
 179一体 支那人 は いざ と なる と 、 覚悟 が 好い 。
 180首 を 斬ら れる 時 なぞ も 、 尋常 に 斬ら れる 。
 181女 は 尋常 に 服従 し た そう だ 。
 182無論 小川君 の 好嫖致 な 所 も 、 女 の 諦念 を 容易 なら しめ た に は 相違ない さ 。
 183そこ で 女 の 服従 し た の は 好い が 、 小川君 は 自分 の 顔 を 見覚え られ た の が こわく なっ た の だ ね 。 」
 184ここ まで 話し て 、 主人 は 小川 の 顔 を ちょっと 見 た 。
 185赤かっ た 顔 が 蒼く なっ て いる 。
 186「 もう よし 給え 」 と 云っ た 小川 の 声 は 、 小さく 、 異様 に 空洞 に 響い た 。
 187「 うん 。
 188よす よ
 189よす よ 。
 190もう おしまい に なっ た じゃ ない か 。
 191なんでも その 女 に は 折々 土人 が 食物 を こっそり 窓 から 運ん で い た の だ 。
 192女 は それ を 夜なか に 食っ たり 、 甑 の 中 へ 便 を 足し たり する こと に なっ て い た の を 、 小川君 が 聞き 附け た の だ ね 。
 193顔 が 綺麗 だ から 、 兵隊 に 見せ まい と 思っ て 、 隠し て 置い た の だろう 。
 194羊 の 毛皮 を 二 枚 着 て い た そう だ が 、 それ で 粟稈 の 中 に 潜っ て い た にしても 、 ※ は 焚か れ ない から 、 随分 寒かっ た だろう ね 。
 195支那人 は 辛抱強い こと は 無類 だ よ 。
 196兎に角 その 女 は それ きり 粟稈 の 中 から 起き ずに しまっ た そう だ 。 」
 197主人 は 最後 の 一 句 を 、 特別 に ゆっくり 言っ た 。
 198違棚 の 上 で しつっこい 金 の 装飾 を し た 置時計 が ちいんと 一 つ 鳴っ た 。
 199「 もう 一 時 だ 。
 200寝 よう かな 。 」
 201こう 云っ た の は 、 平山 で あっ た 。
 202主客 は 暫く ぐずぐず し て い た が 、 それ から は どう し た 事 か 、 話 が 栄え ない 。
 203とうとう 一同 寝る と云う こと に なっ て 、 客 を 二 階 へ 案内 さ せる ため に 、 上さん が 女中 を 呼ん だ 。
 204一同 が 立ち上がる 時 、 小川 の 足元 は 大ぶ 怪しかっ た 。
 205主人 が 小川 に 言っ た 。
 206「 さっき の 話 は 旧暦 の 除夜 だっ た と 君 は 云っ た から 、 丁度 今日 が 七 回忌 だ 。 」
 207小川 は 黙っ て 主人 の 顔 を 見 た 。
 208そして 女中 の 跡 に 附い て 、 平山 と 並ん で 梯子 を 登っ た 。
 209二 階 は 西洋まがい の 構造 に なっ て い て 、 小さい 部屋 が 幾 つ も 並ん で いる 。
 210大勢 の 客 を 留める 計画 を し て 建て た 家 と 見える 。
 211廊下 に は 暗い 電燈 が 附い て いる 。
 212女中 が 平山 に 、 「 あなた は こちら で 」 と 一 つ の 戸 を 指さし た 。
 213戸 の 撮み に 手 を 掛け て 、 「 さようなら 」 と 云っ た 平山 の 声 が 小川 に は ひどく 不愛相 に 聞え た 。
 214女中 は ずんずん 先 へ 立っ て 行く 。
 215「 まだ 先 かい 」 と 小川 が 云っ た 。
 216「 ええ 。
 217あちら の 方 に 煖炉 が 焚い て ござい ます 。 」
 218こう 云っ て 、 女中 は 廊下 の 行き留まり の 戸 まで 連れ て 行っ た 。
 219小川 は 戸 を 開け て 這入っ た 。
 220瓦斯煖炉 が 焚い て 、 電燈 が 附け て ある 。
 221本当 の 西洋間 で は ない 。
 222小川 は 国 で 這入っ て い た 中学 の 寄宿舎 の よう だ と 思っ た 。
 223壁 に 沿う て 棚 を 吊っ た よう に 寝床 が 出来 て いる 。
 224その 下 は 押入れ に なっ て いる 。
 225煖炉 が ある のに 、 枕元 に 真鍮 の 火鉢 を 置い て 、 湯沸かし が 掛け て ある 。
 226その 傍 に 九谷焼 の 煎茶道具 が 置い て ある 。
 227小川 は 吭 が 乾く ので 、 急須 に 一 ぱい 湯 を さし て 、 茶 は 出 て も 出 なくて も 好い と 思っ て 、 直ぐ に 茶碗 に 注い で 、 一 口 に ぐっと 呑ん だ 。
 228そして 着 て い た ジャケツ も 脱が ずに 、 行きなり 布団 の 中 に 這入っ た 。
 229横 に なっ て から 、 頭 の 心 が 痛む の に 気が附い た 。
 230「 ああ 、 酒 が 変 に 利い た 。
 231誰 だっ た か 、
 232丸く 酔わ ない で 三角 に 酔う と 云っ た が 、 己 は 三角 に 酔っ た よう だ 。
 233それに 深淵奴 が あんな 話 を し やがる もの だ から 、 不愉快 に なっ て しまっ た 。
 234あいつ 奴 、
 235妙 な 客間 を 拵え やがっ た なあ 。
 236あいつ の 事 だ から 、 賭場 でも 始める の じゃ ある まい か 。
 237畜生 。
 238布団 は 軟か で 好い が 、 厭 な 寝床 だ なあ 。
 239※ の よう だ 。
 240そう だ 。
 241丸で ※ だ 。
 242ああ 。
 243厭 だ 。 」
 244こんな 事 を 思っ て いる うち に 、 酔 と 疲れ と が 次第に 意識 を 昏まし て しまっ た 。
 245小川 は ふい と 目 を 醒まし た 。
 246電燈 が 消え て いる 。
 247しかし 部屋 の 中 は 薄明り が さし て いる 。
 248窓 から さし て いる か と 思っ て 、 窓 を 見れ ば 、 窓 は 真っ暗 だ 。
 249「 瓦斯煖炉 の 明り かな 」 と 思っ て 見る と 、 なるほど 、 礬土 の 管 が 五 本 並ん で 、 下 の 端 だけ 樺色 に 燃え て いる 。
 250しかし その 火 の 光 は 煖炉 の 前 の 半畳敷 程 の 床 を 黄いろ に 照し て いる だけ で ある 。
 251それ と 室内 の 青白い よう な 薄明り と は 違う らしい 。
 252小川 は 兎に角 電燈 を 附け よう と 思っ て 、 体 を 半分 起し た 。
 253その 時 正面 の 壁 に 意外 な 物 が はっきり 見え た 。
 254それ は こわい 物 で も なん で も ない が 、 それ が 見える と同時に 、 小川 は 全身 に 水 を 浴せ られ た よう に 、 ぞっと し た 。
 255見え た の は 紅唐紙 で 、 それ に 「 立春大吉 」 と 書い て ある 。
 256その 吉 の 字 が 半分 裂け て 、 ぶらり と 下がっ て いる 。
 257それ を 見 て から は 、 小川 は 暗示 を 受け た よう に 目 を その 壁 から 放す こと が 出来 ない 。
 258「 や 。
 259あの 裂け た 紅唐紙 の 切れ の ぶら下っ て いる 下 は 、 一面 の 粟稈 だ 。
 260その 上 に 長い 髪 を うねら せ て 、 浅葱色 の 着物 の 前 が 開い て 、 鼠色 に よごれ た 肌着 が 皺くちゃ に なっ て 、 あいつ が 仰向け に 寝 て い やがる 。
 261顋 だけ 見え て 顔 は 見え ない 。
 262どう か し て 顔 が 見 たい もの だ 。
 263あ 。
 264下脣 が 見える 。
 265右 の 口角 から 血 が 糸 の よう に 一筋 流れ て いる 。 」
 266小川 は きゃっ と 声 を 立て て 、 半分 起し た 体 を 背後 へ 倒し た 。
 267翌朝 深淵 の 家 へ は 医者 が 来 たり 、 警部 や 巡査 が 来 たり し て 、 非常 に 雑※ し た 。
 268夕方 に なっ て 、 布団 を 被せ た 吊台 が 舁き出さ れ た 。
 269近所 の 人 が どう し た の だろう と 囁き 合っ た が 、 吊台 の 中 の 人 は 誰 だ か 分から なかっ た 。
 270「 いずれ 号外 が 出 ましょ う 」 など と 云う もの も あっ た が 、 号外 は 出 なかっ た 。
 271その 次 の 日 の 新聞 を 、 近所 の 人 は 待ち 兼ね て 見 た 。
 272記事 は 同じ 文章 で 諸新聞 に 出 て い た 。
 273多分 どの 通信社 か の 手 で 廻し た の だろう 。
 274しかし 平凡 極まる 記事 な ので 、 読ん で 失望 し ない もの は なかっ た 。
 275「 小石川区 小日向台町 何 丁目 何 番地 に 新築 落成 し て 横浜市 より 引き移り し 株式業 深淵某氏 宅 にて は 、 二 月 十七 日 の 晩 に 新宅祝 として 、 友人 を 招き 、 宴会 を 催し 、 深更 に 及び し 為め 、 一二 名 宿泊 する こと と なり たる に 、 其 一 名 にて 主人 の 親友 なる 、 芝区 南佐久間町 何 丁目 何 番地 住 何新聞記者 小川某氏 其 夜 脳溢血症 にて 死亡 せ り と 云ふ 。
 276新宅祝 の 宴会 に 死亡者 を 出し たる は 、 深淵氏 の 為め 、 気の毒 なり し と 、 近所 にて 噂 し 合へ り 。 」
 277( 明治 四十五 年 四 月 )