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aozora_Murou-1922のコンテキスト表示

title Tengu
author Murou, Saisei
date 1922
publisher Gendai, December edition
source Aozora Bunko (http://www.aozora.gr.jp/cards/001579/card53175.html)
genre fiction
subcorpus Aozora Bunko
terms of use Creative Commons license


 1天狗
 2室生犀星
 3
 4城下 の 町なみ は 、 古い 樹木 に 囲ま れ て い た ため 、 よく 、 小間使い や 女中 、 火の見仲間 など が 、 夕方 近い 、 うす暗がり の なか で 、 膝がしら を 斬ら れ た 。
 5何 か 小石 の よう な もの に 躓ずい た よう な 気 が する と 、 新月がた の 、 きれ傷 が 、 よく 白い 脛 に 紅い 血 を 走ら せ た 。
 6それ は 鎌いたち に 違いない と 人々 は 言っ て い た が 、 その 鎌鼬 という 名 の こと で 、 赤星重右 の こと が 、 どういう 屋敷うち で も 、 口 の 上 に のぼっ た 。
 7城下 の 北はずれ の 台所町 に 、 いつごろ から 流れ込ん だ もの か 、 赤星重右 という 、 名 も ない 剣客 が 住ん で い た 。
 8ふしぎ な こと に は 、 かれ が 通り合せる と 、 必ず 彼 の 不機嫌 な とき に は 、 きまって 向脛 を 切ら れ た 。
 9というより 不意 に 、 足 や 額 に 痛み を 感じ 、 感じる とき は 既う 額ぎわ を 切ら れ て い た 。
 10―― それ故 城下 の 剣客 は 誰一人 として 立向う こと が でき なかっ た 。
 11大桶口 、 犀川口 を 固め て いる 月番詰所 の 小役人達 も 、 かれ が 通る と なるべく 、 彼 を 怒ら せ まい と し て い た 。
 12それ ほど 、 女子供 は 云う までも なく 、 中家老 、 年寄 を初め 、 いったい 彼 が 何故 に あれ ほど 剣道 に 達し て いる か という こと を 不思議がっ た 。
 13が 、 誰一人 として 小脛 を 払う もの さえ 、 広い 城下 に は い なかっ た 。
 14それ故 、 かまいたち という 、 薄暗がり の 樹 の 上 に かがん で いる 鼠 の よう な 影 が 、 いかに も 赤星重右 に 似 て い た から 、 人々 は 、 鎌いたち と さえ 云え ば 、 なり の 低い 、 重右 の 姿 を 思い出し た 。
 15―― 晩方 、 重右 の 屋敷 へ 忍び込ん で 見 た もの の 話 で は 、 かれ は 何時も の よう に 普通 の 人 なみ に 寝 て い た が 、 しかし 、 得体 の わから ない 陰気 な 顔 を し て い た と 答え た 。
 16かまいたち その物 が 、 ひょっとしたら 赤星重右 で は ある まい か と 、 人々 は 、 蒼白い 晩方 の 店さき や 詰所 など で 、 噂 し 合っ て 気味わるく 感じ た 。
 17が 、 べつに 赤星重右 は 不思議 な 人物 で は ない 。
 18なり の 矮い 、 骨格 の 秀で た 、 どこ か 陰気 な 煤皺 の 寄っ た よう な 顔 を し て い た 。
 19
 20城内 で は 、 得体 の わから ない 赤星 に 盾衝く 剣客 が い なかっ た ので 、 かれ を どう か し て 他 の 藩 に 追い遣る か 、 召抱える か し なけれ ば なら なかっ た 。
 21が 、 召抱える という こと は 、 性 の 分ら ない この 剣客 に は 、 家老達 も 不賛成 を し た 。
 22何 か の 理由 の もと で 、 何処 か へ 封じ て しまっ たら という 発議 が 、 城内役人 の 間 に 起っ て い た 。
 23というのは 、 どう 考え て も 、 彼 自身 が 何 かしら 憑きもの が ある よう な 、 よく 町裏 の 小暗い ところ を 歩い て い たり し て いる 様子 が 、 どこ か 普通 の 人間 離れ し た ところ を あらわし て い た 。
 24こと に 、 高塀 や 樹 の 上 へ 攀じ上る こと が 、 殆ど 目 に とまら ない くらい 迅かっ た 、
 25たとえば 、 彼 の 右 の 手 の かかっ た 土塀 で は 、 その 手 が 塀庇 に つかまる と同時に 、 もう 、 塀 を 越え て しまっ て い た から で ある 。
 26―― そういう 噂 が つたわる ほど 、 大手さき御門 から 西町 や 、 長町 の 六番丁 まで の 椎 の 繁っ た 下屋敷 で は 、 鎌鼬 が 夕刻 ばかり で は なく 、 明るい 白昼 の 道路 に も 、 ふい に 、 通行人 の 脛 か 腰 の あたり を 掠め た 、 と 、 話す ひとびと は 必らず その あたり の 通り に 、 うす汚ない 重右 の 姿 を 見 ない もの は なかっ た 。
 27では 、 この 赤星 は 内弟子 でも 取っ て い た か と いう と 、 そういう もの は 一切 とら なかっ た 。
 28どうして 食っ て いる か さえ 分ら なかっ た 。
 29台所町 の 彼 の 住居 は 、 六 畳 の 仲間部屋 しか なかっ た 。
 30昼 も 晩 も 寝通し で いる 事 が ある か と 思う と 夜中 に ふい に 出 て 行く こと が あっ た 。
 31地震 の 珍らしい この 城下 で は 、 よく 赤星 が 樹 の 上 に のぼり 、 樹 を ゆすぶっ て い た という もの さえ 居 た 。
 32そして 地震 の 来る の を 恐がり ながら 、 緑葉 の 間 から 叫ん で い た 、 と 。
 33ともあれ 、 城内 で は 、 赤星重右 を 西方 の 、 大乗寺山 の 奥峰 に あたる 、 という 山頂 の 小さい 社 を 中心 に し て 九万 歩 の 地所 を あたえる という 名義 で 、 この 赤星 を 封じる こと に 決議 さ れ た 。
 34なぜ というに 、 この 決議 からして 赤星 を 憑きもの扱い に し て い て 重右 が それ を 承諾 する かどうか を 試めし た の だっ た 。
 35ところが 重右 は 却って 喜ん で 、 この 黒壁 の 権現堂 に 上っ た 。
 36―― が 、 それ きり 二 年 も 三 年 も 誰 も かれ の 姿 を 見 た もの が なかっ た 。
 37雪 の 深い この 地方 の 冬 を どうして 越す だろう と さえ 云う 者 も 居 なかっ た 。
 38年 に 二 度あて 、 村役人 は べつ に 黒壁 へ 行き も し ない で 、 彼 の 無事 で ある こと を 報告 する だけ で 、 役人 自身 も 登山 し よう と も し なかっ た 。
 39いつ の 間 に か 忘れる とも なく 、 人々 は 赤星重右 の こと を 口 に し なかっ た 。
 40というのは 、 れいの 鎌鼬 に 脛 を 切ら れる もの が 、 それ と 前後 し て 居 なく なっ た の で ある から ――、
 41が 、 やはり 重右 の 話 が 出る と 、 ひとびと は 、 憑きもの より 外 に 、 どう という 特別 新しい 考え を 述べ なかっ た 。
 42
 43黒壁権現 は 、 断岩 の 上 に あっ て 、 流れ を 徒歩 で わたる と 、 二 条 の 鉄鎖 が 下り て あっ た 。
 44誰 が 云う となく 、 権現 に は 天狗 が 住ん で いる と いう もの が 、 次第に その 数 を 殖 し て き た 。
 45雪 の 多い 朝 、 雪 を 下ろし に 屋根 へ 上っ た 小者 が 、 それ きり 吹雪 の なか に 行方知れず なっ た こと や 、 いま の いま まで 居 た 老婆 が 、 ふい に 縁側 から 辷り落ち た よう に 見え なく なっ た こと さえ あっ た 。
 46それ と 同時 に 、 誰 が いう となく 黒壁 の 権現 に 詣る もの が 多かっ た 。
 47えやみ や 足なえ 憑きもの の 類 が 、 ふしぎ に 願 を かける と 癒る という こと だっ た 。
 48そして 供物 や 供米 を 権現堂 に そなえ て ゆく ばかり で なく 、 人々 は 、 荒廃 し た 堂宇 に 、 多く の 天狗 の 額 を 奉納 し た 。
 49それ は 土人形 の よう な 天狗 の 面 を 形作っ た 額面 だっ た 。
 50が 、 ふしぎ な こと に 、 その 額面 に 金網 を かけ た もの に限って 取下ろさ れ て あっ た から 、 人々 は 天狗 を 、 金網 に 封じる こと を 恐れ た 。
 51が 、 ここ に 不思議 な こと は 、 権現堂 で 白鼠 の 姿 を 見 た もの は 、 きまって 病気 が なおる と 云わ れ て い た こと と 、 決っ て その 白鼠 が ちょろちょろ と 蝕ん だ 板の間 を 這い歩い て いる こと だっ た 。
 52いつ の ころ と云う こと も なく 、 白鼠 が 堂宇 に 充ち て い た の で ある 。
 53が 、 一 つ 不思議 な こと は 、 その 人気 の ない 堂宇 に 、 れいの 赤星重右 が いつも 供米 や 神酒 に 酔い痴れ て 寝ころん で い た 。
 54が 、 滅多 に つとめて 自分 の 姿 を あらわす という こと が なかっ た だけ 、 人々 は 却って 赤星重右 を 天狗 か 何 か の よう に 敬まっ て い た の で ある 。
 55なぜ というに 、 かれ は 決して 饒舌る よう な こと が なかっ た し 、 特に 起き て 働く という こと が なかっ た 。
 56かれ は 、 ただ 、 暇 さえ あれ ば 跼ん で 唾 を 吐き ながら 居 た の で ある 。
 57―― ことに 最っと 不思議 な こと は 、 晩 、 登山 し た もの が 、 この 堂宇 の 裏 から 陰気 な 犬 の 遠吼え の よう な 唸り が 絶え間なく 漏れ て くる こと 、 それ が 月夜 の 晩 など に は 殊に 酷く 吼えたけっ て いる という こと が 村人 に つたわっ て い た 。
 58実際 堂宇 で ある 赤星重右 が おかしな こと に は 、 月夜 に なる と 断岩 や 樹 の 下 へ 跼ん で その 蒼白い 顔 を 空 に 向け て 、 まるで 犬 の よう に 吼え て いる という こと が 、 しばしば 村人 の 目 に さえ 留る よう に なっ て い た 。
 59それ が ため に 、 権現 の 霊顕 に対して これ を 疑う もの は なかっ た 。
 60その 年 の 秋 に 、 赤星重右 が 断岩 の 陰っ た ところ で 、 蠅 の うずまき の 中 に 、 死体 と なっ て いる の を 村人 は 見つけ た 。
 61お城下 の 蘭医派 の 菊坂長政 は 、 一種 の 病毒不明 の 、 併しながら 何等 か の 犬畜 に 犯さ れ た らしい 診断 を し た だけ 、 それ を 別 に 取り立て て 噂 する もの が なかっ た 。
 62が 、 村人 は これ を 丁寧 に その 堂宇 の かたわら に 碑 を 立て た 。
 63それ と 前後 し て いつ の 間 に か 神 の 使者 で ある べき 白鼠 の 姿 は 次第に 影 を かくし て しまっ た 。
 64それ故 、 村人 は 赤星重右 を 一種 の 、 何 か ふしぎ な 天狗 の 一種 の よう な 、 決して おろそか に でき ない もの の よう な 考え を 持ち 、 それ を 祠 の なか に 加え た の で ある 。
 65
 66―― 私 は ここ まで 話す と 、 客 は すぐ 微笑い 出し 、 それ は 詰らない 極く ありふれ た 話 だ と 云っ た 。
 67「 それ は 全然 恐犬病 な ん だ 。
 68はじめ から 特殊 な 精神異常者 に すぎ ない ん だ 。
 69むかし の 狐憑き とかいう 奴 は みな いま の 恐犬病 な ん だ から 。 」
 70私 も それ に 同意 し た 。
 71「 恐犬病 は たしか な ん だ 。
 72ところが 今 でも その 黒壁 に は 、 権現堂 が あっ て 天狗 が まつっ て ある の だ 。
 73ことに 僕 の 国 の 方 で は その 天狗 という もの が 、 実に 流行っ て いる の だ 。 」
 74子供 の 時分 に 、 すこし 外 が 暗く なる と 、 すぐ この 天狗 が 出る という こと を 、 母親 や 近所 の もの から 教え られ た 。
 75実際 どういう 神社 へ 行っ て も 必っと 天狗 の 額 が かかっ て い た の で ある 。
 76「 だから 古い 樹 に は きっと 天狗 が 棲ん で いる と 云わ れ た もの だ 。 」
 77「 では 今 でも 君 は そういう こと が ある と 思っ て いる の かい 。 」
 78そう いう 客 に 、 私 は 頭 を 振っ て 見せ 、 これ を 否定ん だ 。
 79「 いや 、 ただ そういう 古い 樹 に は 古い と云う 事 丈 が 人間 に 何 かしら 陰気 な 考え を 持た せる 丈 な ん だ 。
 80その 外 に は 何ん で も ない 。 」
 81私 は そう いう と 客 と 二人 で 、 黙っ て 対い 合っ た 。
 82古い 樹 という もの の 沈鬱 な 、 おおいかぶさる よう な 枝ぶり が 、 私 の 目 に は 暗い かげ を 作り 、 だんだん 郷里 の 町 の 方 へ 、 私 の 考え を 連れ込ん で 行っ た 。