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aozora_Natsume-1908のコンテキスト表示

title Yume zyuya
author Natsume, Soseki
date 1908
publisher Asahi Shinbun
source Aozora Bunko (http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/card799.html)
genre fiction
subcorpus Aozora Bunko
terms of use Creative Commons license


 1夢十夜
 2夏目漱石
 3第一 夜
 4こんな 夢 を 見 た 。
 5腕組 を し て 枕元 に 坐っ て いる と 、 仰向 に 寝 た 女 が 、 静か な 声 で もう 死に ます と 云う 。
 6女 は 長い 髪 を 枕 に 敷い て 、 輪郭 の 柔らか な 瓜実顔 を その 中 に 横たえ て いる 。
 7真白 な 頬 の 底 に 温かい 血 の 色 が ほどよく 差し て 、 唇 の 色 は 無論 赤い 。
 8とうてい 死に そう に は 見え ない 。
 9しかし 女 は 静か な 声 で 、 もう 死に ます と 判然 云っ た 。
 10自分 も 確 に これ は 死ぬ な と 思っ た 。
 11そこで 、 そう かね 、 もう 死ぬ の かね 、 と 上 から 覗き込む よう に し て 聞い て 見 た 。
 12死に ます とも 、 と 云い ながら 、 女 は ぱっちり と 眼 を 開け た 。
 13大きな 潤 の ある 眼 で 、 長い 睫 に 包ま れ た 中 は 、 ただ 一面 に 真黒 で あっ た 。
 14その 真黒 な 眸 の 奥 に 、 自分 の 姿 が 鮮 に 浮かん で いる 。
 15自分 は 透き徹る ほど 深く 見える この 黒眼 の 色沢 を 眺め て 、 これ で も 死ぬ の か と 思っ た 。
 16それで 、 ねんごろ に 枕 の 傍 へ 口 を 付け て 、 死ぬ ん じゃ なかろ う ね 、 大丈夫 だろう ね 、 と また 聞き返し た 。
 17すると 女 は 黒い 眼 を 眠 そう に ※ た まま 、 やっぱり 静か な 声 で 、 でも 、 死ぬ ん です もの 、 仕方 が ない わ と 云っ た 。
 18じゃ 、 私 の 顔 が 見える かい と 一心 に 聞く と 、 見える かい って 、 そら 、 そこ に 、 写っ てる じゃ あり ませ ん か と 、 にこりと 笑っ て 見せ た 。
 19自分 は 黙っ て 、 顔 を 枕 から 離し た 。
 20腕組 を し ながら 、 どう し て も 死ぬ の かな と 思っ た 。
 21しばらく し て 、 女 が また こう 云っ た 。
 22「 死ん だら 、 埋め て 下さい 。
 23大きな 真珠貝 で 穴 を 掘っ て 。
 24そうして 天 から 落ち て 来る 星 の 破片 を 墓標 に 置い て 下さい 。
 25そうして 墓 の 傍 に 待っ て い て 下さい 。
 26また 逢い に 来 ます から 」
 27自分 は 、 いつ 逢い に 来る かね と 聞い た 。
 28「 日 が 出る でしょう 。
 29それから 日 が 沈む でしょう 。
 30それから また 出る でしょう 、
 31そうして また 沈む でしょう 。
 32―― 赤い 日 が 東 から 西 へ 、 東 から 西 へ と 落ち て 行く うち に 、―― あなた 、 待っ て い られ ます か 」
 33自分 は 黙っ て 首肯い た 。
 34女 は 静か な 調子 を 一段 張り上げ て 、 「 百 年 待っ て い て 下さい 」 と 思い切った 声 で 云っ た 。
 35「 百 年 、 私 の 墓 の 傍 に 坐っ て 待っ て い て 下さい 。
 36きっと 逢い に 来 ます から 」
 37自分 は ただ 待っ て いる と 答え た 。
 38すると 、 黒い 眸 の なか に 鮮 に 見え た 自分 の 姿 が 、 ぼうっと 崩れ て 来 た 。
 39静か な 水 が 動い て 写る 影 を 乱し た よう に 、 流れ出し た と 思っ たら 、 女 の 眼 が ぱちり と 閉じ た 。
 40長い 睫 の 間 から 涙 が 頬 へ 垂れ た 。
 41―― もう 死ん で い た 。
 42自分 は それから 庭 へ 下り て 、 真珠貝 で 穴 を 掘っ た 。
 43真珠貝 は 大きな 滑か な 縁 の 鋭どい 貝 で あっ た 。
 44土 を すくう たび に 、 貝 の 裏 に 月 の 光 が 差し て きらきら し た 。
 45湿っ た 土 の 匂 も し た 。
 46穴 は しばらく し て 掘れ た 。
 47女 を その 中 に 入れ た 。
 48そうして 柔らかい 土 を 、 上 から そっと 掛け た 。
 49掛ける たび に 真珠貝 の 裏 に 月 の 光 が 差し た 。
 50それから 星 の 破片 の 落ち た の を 拾っ て 来 て 、 かろく 土 の 上 へ 乗せ た 。
 51星 の 破片 は 丸かっ た 。
 52長い 間 大空 を 落ち て いる 間 に 、 角 が 取れ て 滑か に なっ た ん だろう と 思っ た 。
 53抱き上げ て 土 の 上 へ 置く うち に 、 自分 の 胸 と 手 が 少し 暖く なっ た 。
 54自分 は 苔 の 上 に 坐っ た 。
 55これ から 百 年 の 間 こうして 待っ て いる ん だ な と 考え ながら 、 腕組 を し て 、 丸い 墓石 を 眺め て い た 。
 56その うち に 、 女 の 云っ た 通り 日 が 東 から 出 た 。
 57大きな 赤い 日 で あっ た 。
 58それ が また 女 の 云っ た 通り 、 やがて 西 へ 落ち た 。
 59赤い まんま で のっと 落ち て 行っ た 。
 60一 つ と 自分 は 勘定 し た 。
 61しばらく する と また 唐紅 の 天道 が のそりと 上っ て 来 た 。
 62そうして 黙っ て 沈ん で しまっ た 。
 63二 つ と また 勘定 し た 。
 64自分 は こう云う 風 に 一 つ 二 つ と 勘定 し て 行く うち に 、 赤い 日 を いく つ 見 た か 分ら ない 。
 65勘定 し て も 、 勘定 し て も 、 し つくせ ない ほど 赤い 日 が 頭 の 上 を 通り越し て 行っ た 。
 66それでも 百 年 が まだ 来 ない 。
 67しまい に は 、 苔 の 生え た 丸い 石 を 眺め て 、 自分 は 女 に 欺さ れ た の で は なかろ う か と 思い 出し た 。
 68すると 石 の 下 から 斜 に 自分 の 方 へ 向い て 青い 茎 が 伸び て 来 た 。
 69見る間 に 長く なっ て ちょうど 自分 の 胸 の あたり まで 来 て 留まっ た 。
 70と 思う と 、 すらりと 揺ぐ 茎 の 頂 に 、 心持 首 を 傾け て い た 細長い 一 輪 の 蕾 が 、 ふっくら と 弁 を 開い た 。
 71真白 な 百合 が 鼻 の 先 で 骨 に 徹える ほど 匂っ た 。
 72そこ へ 遥 の 上 から 、 ぽたり と 露 が 落ち た ので 、 花 は 自分 の 重み で ふらふら と 動い た 。
 73自分 は 首 を 前 へ 出し て 冷たい 露 の 滴る 、 白い 花弁 に 接吻 し た 。
 74自分 が 百合 から 顔 を 離す 拍子 に 思わず 、 遠い 空 を 見 たら 、 暁 の 星 が たった 一 つ 瞬い て い た 。
 75「 百 年 は もう 来 て い た ん だ な 」 と この 時 始めて 気がつい た 。
 76第二 夜
 77こんな 夢 を 見 た 。
 78和尚 の 室 を 退がっ て 、 廊下伝い に 自分 の 部屋 へ 帰る と 行灯 が ぼんやり 点っ て いる 。
 79片膝 を 座蒲団 の 上 に 突い て 、 灯心 を 掻き立て た とき 、 花 の よう な 丁子 が ぱたりと 朱塗 の 台 に 落ち た 。
 80同時 に 部屋 が ぱっと 明かるく なっ た 。
 81襖 の 画 は 蕪村 の 筆 で ある 。
 82黒い 柳 を 濃く 薄く 、 遠近 と かい て 、 寒む そう な 漁夫 が 笠 を 傾け て 土手 の 上 を 通る 。
 83床 に は 海中文殊 の 軸 が 懸っ て いる 。
 84焚き 残し た 線香 が 暗い 方 で いまだ に 臭っ て いる 。
 85広い 寺 だ から 森閑 と し て 、 人気 が ない 。
 86黒い 天井 に 差す 丸行灯 の 丸い 影 が 、 仰向く 途端 に 生き てる よう に 見え た 。
 87立膝 を し た まま 、 左 の 手 で 座蒲団 を 捲っ て 、 右 を 差し込ん で 見る と 、 思っ た 所 に 、 ちゃんと あっ た 。
 88あれ ば 安心 だ から 、 蒲団 を もと の ごとく 直し て 、 その 上 に どっかり 坐っ た 。
 89お前 は 侍 で ある 。
 90侍 なら 悟れ ぬ はず は なかろ う と 和尚 が 云っ た 。
 91そう いつ まで も 悟れ ぬ ところ をもって 見る と 、 御前 は 侍 で は ある まい と 言っ た 。
 92人間 の 屑 じゃ と 言っ た 。
 93ははあ 怒っ た な と 云っ て 笑っ た 。
 94口惜しけれ ば 悟っ た 証拠 を 持っ て 来い と 云っ て ぷいと 向 を むい た 。
 95怪しからん 。
 96隣 の 広間 の 床 に 据え て ある 置時計 が 次 の 刻 を 打つ まで に は 、 きっと 悟っ て 見せる 。
 97悟っ た 上 で 、 今夜 また 入室 する 。
 98そうして 和尚 の 首 と 悟り と 引替 に し て やる 。
 99悟ら なけれ ば 、 和尚 の 命 が 取れ ない 。
 100どう し て も 悟ら なけれ ば なら ない 。
 101自分 は 侍 で ある 。
 102もし 悟れ なけれ ば 自刃 する 。
 103侍 が 辱しめ られ て 、 生き て いる 訳 に は 行か ない 。
 104綺麗 に 死ん で しまう 。
 105こう 考え た 時 、 自分 の 手 は また 思わず 布団 の 下 へ 這入っ た 。
 106そうして 朱鞘 の 短刀 を 引き摺り出し た 。
 107ぐっと 束 を 握っ て 、 赤い 鞘 を 向 へ 払っ たら 、 冷たい 刃 が 一 度 に 暗い 部屋 で 光っ た 。
 108凄い もの が 手元 から 、 すうすう と 逃げ て 行く よう に 思わ れる 。
 109そうして 、 ことごとく 切先 へ 集まっ て 、 殺気 を 一 点 に 籠め て いる 。
 110自分 は この 鋭い 刃 が 、 無念 に も 針 の 頭 の よう に 縮め られ て 、 九 寸 五 分 の 先 へ 来 て やむをえず 尖っ てる の を 見 て 、 たちまち ぐさりと やり たく なっ た 。
 111身体 の 血 が 右 の 手首 の 方 へ 流れ て 来 て 、 握っ て いる 束 が にちゃにちゃ する 。
 112唇 が 顫え た 。
 113短刀 を 鞘 へ 収め て 右脇 へ 引きつけ て おい て 、 それから 全伽 を 組ん だ 。
 114趙州 ―― 無 と 曰く 。
 115無 とは 何 だ 。
 116糞坊主め と はがみ を し た 。
 117奥歯 を 強く 咬み締め た ので 、 鼻 から 熱い 息 が 荒く 出る 。
 118こめかみ が 釣っ て 痛い 。
 119眼 は 普通 の 倍 も 大きく 開け て やっ た 。
 120懸物 が 見える 。
 121行灯 が 見える 。
 122畳 が 見える 。
 123和尚 の 薬缶頭 が ありあり と 見える 。
 124鰐口 を 開い て 嘲笑っ た 声 まで 聞える 。
 125怪しからん 坊主 だ 。
 126どう し て も あの 薬缶 を 首 に し なくて は なら ん 。
 127悟っ て やる 。
 128無 だ 、 無 だ と 舌 の 根 で 念じ た 。
 129無 だ と 云う のに やっぱり 線香 の 香 が し た 。
 130何だ 線香 の くせ に 。
 131自分 は いきなり 拳骨 を 固め て 自分 の 頭 を いやと云うほど 擲っ た 。
 132そうして 奥歯 を ぎりぎり と 噛ん だ 。
 133両腋 から 汗 が 出る 。
 134背中 が 棒 の よう に なっ た 。
 135膝 の 接目 が 急 に 痛く なっ た 。
 136膝 が 折れ たって どう ある もの か と 思っ た 。
 137けれども 痛い 。
 138苦しい 。
 139無 は なかなか 出 て 来 ない 。
 140出 て 来る と 思う と すぐ 痛く なる 。
 141腹 が 立つ 。
 142無念 に なる 。
 143非常 に 口惜しく なる 。
 144涙 が ほろほろ 出る 。
 145ひと思 に 身 を 巨巌 の 上 に ぶつけ て 、 骨 も 肉 も めちゃめちゃ に 砕い て しまい たく なる 。
 146それでも 我慢 し て じっと 坐っ て い た 。
 147堪え がたい ほど 切ない もの を 胸 に 盛れ て 忍ん で い た 。
 148その 切ない もの が 身体中 の 筋肉 を 下 から 持上げ て 、 毛穴 から 外 へ 吹き出 よう 吹き出 よう と 焦る けれども 、 どこ も 一面 に 塞がっ て 、 まるで 出口 が ない よう な 残刻 極まる 状態 で あっ た 。
 149その うち に 頭 が 変 に なっ た 。
 150行灯 も 蕪村 の 画 も 、 畳 も 、 違棚 も 有っ て 無い よう な 、 無くっ て 有る よう に 見え た 。
 151と云って 無 は ちっとも 現前 し ない 。
 152ただ 好加減 に 坐っ て い た よう で ある 。
 153ところ へ 忽然 隣座敷 の 時計 が チーンと 鳴り 始め た 。
 154はっと 思っ た 。
 155右 の 手 を すぐ 短刀 に かけ た 。
 156時計 が 二 つ目 を チーンと 打っ た 。
 157第三 夜
 158こんな 夢 を 見 た 。
 159六 つ に なる 子供 を 負っ てる 。
 160たしか に 自分 の 子 で ある 。
 161ただ 不思議 な 事 に は いつ の 間 に か 眼 が 潰れ て 、 青坊主 に なっ て いる 。
 162自分 が 御前 の 眼 は いつ 潰れ た の かい と 聞く と 、 なに 昔 から さ と 答え た 。
 163声 は 子供 の 声 に 相違ない が 、 言葉つき は まるで 大人 で ある 。
 164しかも 対等 だ 。
 165左右 は 青田 で ある 。
 166路 は 細い 。
 167鷺 の 影 が 時々 闇 に 差す 。
 168「 田圃 へ かかっ た ね 」 と 背中 で 云っ た 。
 169「 どうして 解る 」 と 顔 を 後ろ へ 振り向ける よう に し て 聞い たら 、 「 だって 鷺 が 鳴く じゃ ない か 」 と 答え た 。
 170すると 鷺 が はたして 二 声 ほど 鳴い た 。
 171自分 は 我 子 ながら 少し 怖く なっ た 。
 172こんな もの を 背負っ て い て は 、 この 先 どう なる か 分ら ない 。
 173どこ か 打遣ゃる 所 は なかろ う か と 向う を 見る と 闇 の 中 に 大きな 森 が 見え た 。
 174あすこ ならば と 考え 出す 途端 に 、 背中 で 、 「 ふふん 」 と云う 声 が し た 。
 175「 何 を 笑う ん だ 」
 176子供 は 返事 を し なかっ た 。
 177ただ 「 御父さん 、 重い かい 」 と 聞い た 。
 178「 重かあ ない 」 と 答える と 「 今 に 重く なる よ 」 と 云っ た 。
 179自分 は 黙っ て 森 を 目標 に あるい て 行っ た 。
 180田 の 中 の 路 が 不規則 に うねっ て なかなか 思う よう に 出 られ ない 。
 181しばらく する と 二股 に なっ た 。
 182自分 は 股 の 根 に 立っ て 、 ちょっと 休ん だ 。
 183「 石 が 立っ てる はず だ が な 」 と 小僧 が 云っ た 。
 184なるほど 八 寸 角 の 石 が 腰 ほど の 高さ に 立っ て いる 。
 185表 に は 左り 日ヶ窪 、 右 堀田原 と ある 。
 186闇 だ のに 赤い 字 が 明か に 見え た 。
 187赤い 字 は 井守 の 腹 の よう な 色 で あっ た 。
 188「 左 が 好い だろう 」 と 小僧 が 命令 し た 。
 189左 を 見る と さっき の 森 が 闇 の 影 を 、 高い 空 から 自分ら の 頭 の 上 へ 抛げかけ て い た 。
 190自分 は ちょっと 躊躇 し た 。
 191「 遠慮 し ない で も いい 」 と 小僧 が また 云っ た 。
 192自分 は 仕方なし に 森 の 方 へ 歩き 出し た 。
 193腹 の 中 で は 、 よく 盲目 の くせ に 何 でも 知っ てる な と 考え ながら 一筋道 を 森 へ 近づい て くる と 、 背中 で 、 「 どう も 盲目 は 不自由 で いけない ね 」 と 云っ た 。
 194「 だから 負っ て やる から いい じゃ ない か 」
 195「 負ぶっ て 貰っ て すまない が 、 どう も 人 に 馬鹿にさ れ て いけない 。
 196親 に まで 馬鹿にさ れる から いけない 」
 197何だか 厭 に なっ た 。
 198早く 森 へ 行っ て 捨て て しまお う と 思っ て 急い だ 。
 199「 もう 少し 行く と 解る 。 ―― ちょうど こんな 晩 だっ た な 」 と 背中 で 独言 の よう に 云っ て いる 。
 200「 何 が 」 と 際どい 声 を 出し て 聞い た 。
 201「 何 が って 、 知っ てる じゃ ない か 」 と 子供 は 嘲ける よう に 答え た 。
 202すると 何だか 知っ てる よう な 気 が し 出し た 。
 203けれども 判然 と は 分ら ない 。
 204ただ こんな 晩 で あっ た よう に 思える 。
 205そうして もう 少し 行け ば 分る よう に 思える 。
 206分っ て は 大変 だ から 、 分ら ない うち に 早く 捨て て しまっ て 、 安心 し なくっ て は なら ない よう に 思える 。
 207自分 は ますます 足 を 早め た 。
 208雨 は さっき から 降っ て いる 。
 209路 は だんだん 暗く なる 。
 210ほとんど 夢中 で ある 。
 211ただ 背中 に 小さい 小僧 が くっつい て い て 、 その 小僧 が 自分 の 過去 、 現在 、 未来 を ことごとく 照 し て 、 寸分 の 事実 も 洩らさ ない 鏡 の よう に 光っ て いる 。
 212しかも それ が 自分 の 子 で ある 。
 213そうして 盲目 で ある 。
 214自分 は たまら なく なっ た 。
 215「 ここ だ 、
 216ここ だ 。
 217ちょうど その 杉 の 根 の 処 だ 」
 218雨 の 中 で 小僧 の 声 は 判然 聞え た 。
 219自分 は 覚えず 留っ た 。
 220いつ しか 森 の 中 へ 這入っ て い た 。
 221一 間 ばかり 先 に ある 黒い もの は たしか に 小僧 の 云う 通り 杉 の 木 と 見え た 。
 222「 御父さん 、 その 杉 の 根 の 処 だっ た ね 」
 223「 うん 、 そう だ 」 と 思わず 答え て しまっ た 。
 224「 文化 五 年 辰年 だろう 」
 225なるほど 文化 五 年 辰年 らしく 思わ れ た 。
 226「 御前 が おれ を 殺し た の は 今 から ちょうど 百 年 前 だ ね 」
 227自分 は この 言葉 を 聞く や否や 、 今 から 百 年 前 文化 五 年 の 辰年 の こんな 闇 の 晩 に 、 この 杉 の 根 で 、 一人 の 盲目 を 殺し た と云う 自覚 が 、 忽然 と し て 頭 の 中 に 起っ た 。
 228おれ は 人殺 で あっ た ん だ な と 始めて 気がつい た 途端 に 、 背中 の 子 が 急 に 石地蔵 の よう に 重く なっ た 。
 229第四 夜
 230広い 土間 の 真中 に 涼み台 の よう な もの を 据え て 、 その 周囲 に 小さい 床几 が 並べ て ある 。
 231台 は 黒光り に 光っ て いる 。
 232片隅 に は 四角 な 膳 を 前 に 置い て 爺さん が 一人 で 酒 を 飲ん で いる 。
 233肴 は 煮しめ らしい 。
 234爺さん は 酒 の 加減 で なかなか 赤く なっ て いる 。
 235その 上 顔中 つやつや し て 皺 と 云う ほど の もの は どこ に も 見当ら ない 。
 236ただ 白い 髯 を ありたけ 生やし て いる から 年寄 と云う 事 だけ は わかる 。
 237自分 は 子供 ながら 、 この 爺さん の 年 は いく つ な ん だろう と 思っ た 。
 238ところ へ 裏 の 筧 から 手桶 に 水 を 汲ん で 来 た 神さん が 、 前垂 で 手 を 拭き ながら 、 「 御爺さん は いく つ かね 」 と 聞い た 。
 239爺さん は 頬張っ た 煮〆 を 呑み込ん で 、 「 いく つ か 忘れ た よ 」 と 澄まし て い た 。
 240神さん は 拭い た 手 を 、 細い 帯 の 間 に 挟ん で 横 から 爺さん の 顔 を 見 て 立っ て い た 。
 241爺さん は 茶碗 の よう な 大きな もの で 酒 を ぐいと 飲ん で 、 そうして 、 ふうと 長い 息 を 白い 髯 の 間 から 吹き出し た 。
 242すると 神さん が 、 「 御爺さん の 家 は どこ かね 」 と 聞い た 。
 243爺さん は 長い 息 を 途中 で 切っ て 、 「 臍 の 奥 だ よ 」 と 云っ た 。
 244神さん は 手 を 細い 帯 の 間 に 突込ん だ まま 、 「 どこ へ 行く かね 」 と また 聞い た 。
 245すると 爺さん が 、 また 茶碗 の よう な 大きな もの で 熱い 酒 を ぐいと 飲ん で 前 の よう な 息 を ふうと 吹い て 、 「 あっち へ 行く よ 」 と 云っ た 。
 246「 真直 かい 」 と 神さん が 聞い た 時 、 ふうと 吹い た 息 が 、 障子 を 通り越し て 柳 の 下 を 抜け て 、 河原 の 方 へ 真直 に 行っ た 。
 247爺さん が 表 へ 出 た 。
 248自分 も 後 から 出 た 。
 249爺さん の 腰 に 小さい 瓢箪 が ぶら下がっ て いる 。
 250肩 から 四角 な 箱 を 腋の下 へ 釣るし て いる 。
 251浅黄 の 股引 を 穿い て 、 浅黄 の 袖無し を 着 て いる 。
 252足袋 だけ が 黄色い 。
 253何だか 皮 で 作っ た 足袋 の よう に 見え た 。
 254爺さん が 真直 に 柳 の 下 まで 来 た 。
 255柳 の 下 に 子供 が 三四 人 い た 。
 256爺さん は 笑い ながら 腰 から 浅黄 の 手拭 を 出し た 。
 257それ を 肝心綯 の よう に 細長く 綯っ た 。
 258そうして 地面 の 真中 に 置い た 。
 259それから 手拭 の 周囲 に 、 大きな 丸い 輪 を 描い た 。
 260しまい に 肩 に かけ た 箱 の 中 から 真鍮 で 製らえ た 飴屋 の 笛 を 出し た 。
 261「 今 に その 手拭 が 蛇 に なる から 、 見 て おろ う 。 見 て おろ う 」 と 繰返し て 云っ た 。
 262子供 は 一生懸命 に 手拭 を 見 て い た 。
 263自分 も 見 て い た 。
 264「 見 て おろ う 、 見 て おろ う 、 好い か 」 と 云い ながら 爺さん が 笛 を 吹い て 、 輪 の 上 を ぐるぐる 廻り 出し た 。
 265自分 は 手拭 ばかり 見 て い た 。
 266けれども 手拭 は いっこう 動か なかっ た 。
 267爺さん は 笛 を ぴいぴい 吹い た 。
 268そうして 輪 の 上 を 何 遍 も 廻っ た 。
 269草鞋 を 爪立てる よう に 、 抜足 を する よう に 、 手拭 に 遠慮 を する よう に 、 廻っ た 。
 270怖 そう に も 見え た 。
 271面白 そう に も あっ た 。
 272やがて 爺さん は 笛 を ぴたりと やめ た 。
 273そうして 、 肩 に 掛け た 箱 の 口 を 開け て 、 手拭 の 首 を 、 ちょいと 撮ん で 、 ぽっと 放り込ん だ 。
 274「 こう し て おく と 、 箱 の 中 で 蛇 に なる 。 今 に 見せ て やる 。 今 に 見せ て やる 」 と 云い ながら 、 爺さん が 真直 に 歩き 出し た 。
 275柳 の 下 を 抜け て 、 細い 路 を 真直 に 下り て 行っ た 。
 276自分 は 蛇 が 見 たい から 、 細い 道 を どこ まで も 追い て 行っ た 。
 277爺さん は 時々 「 今 に なる 」 と 云っ たり 、 「 蛇 に なる 」 と 云っ たり し て 歩い て 行く 。
 278しまい に は 、 「 今 に なる 、 蛇 に なる 、 きっと なる 、 笛 が 鳴る 、 」 と 唄い ながら 、 とうとう 河 の 岸 へ 出 た 。
 279橋 も 舟 も ない から 、 ここ で 休ん で 箱 の 中 の 蛇 を 見せる だろう と 思っ て いる と 、 爺さん は ざぶざぶ 河 の 中 へ 這入り 出し た 。
 280始め は 膝 くらい の 深さ で あっ た が 、 だんだん 腰 から 、 胸 の 方 まで 水 に 浸っ て 見え なく なる 。
 281それでも 爺さん は 「 深く なる 、 夜 に なる 、 真直 に なる 」 と 唄い ながら 、 どこ まで も 真直 に 歩い て 行っ た 。
 282そうして 髯 も 顔 も 頭 も 頭巾 も まるで 見え なく なっ て しまっ た 。
 283自分 は 爺さん が 向岸 へ 上がっ た 時 に 、 蛇 を 見せる だろう と 思っ て 、 蘆 の 鳴る 所 に 立っ て 、 たった 一人 いつ まで も 待っ て い た 。
 284けれども 爺さん は 、 とうとう 上がっ て 来 なかっ た 。
 285第五 夜
 286こんな 夢 を 見 た 。
 287何でも よほど 古い 事 で 、 神代 に 近い 昔 と 思わ れる が 、 自分 が 軍 を し て 運 悪く 敗北 た ため に 、 生擒 に なっ て 、 敵 の 大将 の 前 に 引き据え られ た 。
 288その 頃 の 人 は みんな 背 が 高かっ た 。
 289そうして 、 みんな 長い 髯 を 生やし て い た 。
 290革 の 帯 を 締め て 、 それ へ 棒 の よう な 剣 を 釣る し て い た 。
 291弓 は 藤蔓 の 太い の を その まま 用い た よう に 見え た 。
 292漆 も 塗っ て なけれ ば 磨き も かけ て ない 。
 293極めて 素樸 な もの で あっ た 。
 294敵 の 大将 は 、 弓 の 真中 を 右 の 手 で 握っ て 、 その 弓 を 草 の 上 へ 突い て 、 酒甕 を 伏せ た よう な もの の 上 に 腰 を かけ て い た 。
 295その 顔 を 見る と 、 鼻 の 上 で 、 左右 の 眉 が 太く 接続っ て いる 。
 296その 頃 髪剃 と云う もの は 無論 なかっ た 。
 297自分 は 虜 だ から 、 腰 を かける 訳 に 行か ない 。
 298草 の 上 に 胡坐 を かい て い た 。
 299足 に は 大きな 藁沓 を 穿い て い た 。
 300この 時代 の 藁沓 は 深い もの で あっ た 。
 301立つ と 膝頭 まで 来 た 。
 302その 端 の 所 は 藁 を 少し 編 残し て 、 房 の よう に 下げ て 、 歩く と ばらばら 動く よう に し て 、 飾り と し て い た 。
 303大将 は 篝火 で 自分 の 顔 を 見 て 、 死ぬ か 生きる か と 聞い た 。
 304これ は その 頃 の 習慣 で 、 捕虜 に は だれ でも 一応 は こう 聞い た もの で ある 。
 305生きる と 答える と 降参 し た 意味 で 、 死ぬ と 云う と 屈服 し ない と云う 事 に なる 。
 306自分 は 一言 死ぬ と 答え た 。
 307大将 は 草 の 上 に 突い て い た 弓 を 向う へ 抛げ て 、 腰 に 釣る し た 棒 の よう な 剣 を するりと 抜き かけ た 。
 308それ へ 風 に 靡い た 篝火 が 横 から 吹きつけ た 。
 309自分 は 右 の 手 を 楓 の よう に 開い て 、 掌 を 大将 の 方 へ 向け て 、 眼 の 上 へ 差し上げ た 。
 310待て と云う 相図 で ある 。
 311大将 は 太い 剣 を かちゃりと 鞘 に 収め た 。
 312その 頃 で も 恋 は あっ た 。
 313自分 は 死ぬ 前 に 一目 思う 女 に 逢い たい と 云っ た 。
 314大将 は 夜 が 開け て 鶏 が 鳴く まで なら 待つ と 云っ た 。
 315鶏 が 鳴く まで に 女 を ここ へ 呼ば なけれ ば なら ない 。
 316鶏 が 鳴い て も 女 が 来 なけれ ば 、 自分 は 逢わ ずに 殺さ れ て しまう 。
 317大将 は 腰 を かけ た まま 、 篝火 を 眺め て いる 。
 318自分 は 大きな 藁沓 を 組み合わし た まま 、 草 の 上 で 女 を 待っ て いる 。
 319夜 は だんだん 更ける 。
 320時々 篝火 が 崩れる 音 が する 。
 321崩れる たび に 狼狽え た よう に 焔 が 大将 に なだれかかる 。
 322真黒 な 眉 の 下 で 、 大将 の 眼 が ぴかぴか と 光っ て いる 。
 323すると 誰 やら 来 て 、 新しい 枝 を たくさん 火 の 中 へ 抛げ 込ん で 行く 。
 324しばらく する と 、 火 が ぱちぱち と 鳴る 。
 325暗闇 を 弾き返す よう な 勇ましい 音 で あっ た 。
 326この 時 女 は 、 裏 の 楢 の 木 に 繋い で ある 、 白い 馬 を 引き出し た 。
 327鬣 を 三 度 撫で て 高い 背 に ひらりと 飛び乗っ た 。
 328鞍 も ない 鐙 も ない 裸馬 で あっ た 。
 329長く 白い 足 で 、 太腹 を 蹴る と 、 馬 は いっさん に 駆け 出し た 。
 330誰 か が 篝り を 継ぎ足し た ので 、 遠く の 空 が 薄明るく 見える 。
 331馬 は この 明るい もの を 目懸け て 闇 の 中 を 飛ん で 来る 。
 332鼻 から 火 の 柱 の よう な 息 を 二 本 出し て 飛ん で 来る 。
 333それでも 女 は 細い 足 で しきりなし に 馬 の 腹 を 蹴っ て いる 。
 334馬 は 蹄 の 音 が 宙 で 鳴る ほど 早く 飛ん で 来る 。
 335女 の 髪 は 吹流し の よう に 闇 の 中 に 尾 を 曳い た 。
 336それでも まだ 篝 の ある 所 まで 来 られ ない 。
 337すると 真闇 な 道 の 傍 で 、 たちまち こけこっこう という 鶏 の 声 が し た 。
 338女 は 身 を 空様 に 、 両手 に 握っ た 手綱 を うんと 控え た 。
 339馬 は 前足 の 蹄 を 堅い 岩 の 上 に 発矢と 刻み込ん だ 。
 340こけこっこう と 鶏 が また 一 声 鳴い た 。
 341女 は あっ と 云っ て 、 緊め た 手綱 を 一 度 に 緩め た 。
 342馬 は 諸膝 を 折る 。
 343乗っ た 人 と共に 真向 へ 前 へ のめっ た 。
 344岩 の 下 は 深い 淵 で あっ た 。
 345蹄 の 跡 は いまだ に 岩 の 上 に 残っ て いる 。
 346鶏 の 鳴く 真似 を し た もの は 天探女 で ある 。
 347この 蹄 の 痕 の 岩 に 刻みつけ られ て いる 間 、 天探女 は 自分 の 敵 で ある 。
 348第六 夜
 349運慶 が 護国寺 の 山門 で 仁王 を 刻ん で いる と云う 評判 だ から 、 散歩 ながら 行っ て 見る と 、 自分 より 先 に もう 大勢 集まっ て 、 しきりに 下馬評 を やっ て い た 。
 350山門 の 前 五六 間 の 所 に は 、 大きな 赤松 が あっ て 、 その 幹 が 斜め に 山門 の 甍 を 隠し て 、 遠い 青空 まで 伸び て いる 。
 351松 の 緑 と 朱塗 の 門 が 互い に 照り 合っ て みごと に 見える 。
 352その 上松 の 位地 が 好い 。
 353門 の 左 の 端 を 眼障 に なら ない よう に 、 斜 に 切っ て 行っ て 、 上 に なる ほど 幅 を 広く 屋根 まで 突出 し て いる の が 何となく 古風 で ある 。
 354鎌倉時代 と も 思わ れる 。
 355ところが 見 て いる もの は 、 みんな 自分 と 同じく 、 明治 の 人間 で ある 。
 356その 中 で も 車夫 が 一番 多い 。
 357辻待 を し て 退屈 だ から 立っ て いる に 相違ない 。
 358「 大きな もん だ なあ 」 と 云っ て いる 。
 359「 人間 を 拵える より も よっぽど 骨 が 折れる だろう 」 と も 云っ て いる 。
 360そう か と 思う と 、 「 へえ 仁王 だ ね 。 今 でも 仁王 を 彫る の かね 。 へえ そう かね 。 私ゃ また 仁王 は みんな 古い の ばかり か と 思っ て た 」 と 云っ た 男 が ある 。
 361「 どう も 強 そう です ね 。 なんだって え ます ぜ 。 昔 から 誰 が 強い って 、 仁王 ほど 強い 人 あ 無い って 云い ます ぜ 。 何でも 日本武尊 より も 強い ん だ ってえ から ね 」 と 話しかけ た 男 も ある 。
 362この 男 は 尻 を 端折っ て 、 帽子 を 被ら ずに い た 。
 363よほど 無教育 な 男 と 見える 。
 364運慶 は 見物人 の 評判 に は 委細 頓着なく 鑿 と 槌 を 動かし て いる 。
 365いっこう 振り向き も し ない 。
 366高い 所 に 乗っ て 、 仁王 の 顔 の 辺 を しきりに 彫り抜い て 行く 。
 367運慶 は 頭 に 小さい 烏帽子 の よう な もの を 乗せ て 、 素袍 だ か 何 だ か わから ない 大きな 袖 を 背中 で 括っ て いる 。
 368その 様子 が いかに も 古くさい 。
 369わいわい 云っ てる 見物人 と は まるで 釣り合 が 取れ ない よう で ある 。
 370自分 は どうして 今時分 まで 運慶 が 生き て いる の かな と 思っ た 。
 371どう も 不思議 な 事 が ある もの だ と 考え ながら 、 やはり 立っ て 見 て い た 。
 372しかし 運慶 の 方 で は 不思議 と も 奇体 と も とんと 感じ 得 ない 様子 で 一生懸命 に 彫っ て いる 。
 373仰向い て この 態度 を 眺め て い た 一人 の 若い 男 が 、 自分 の 方 を 振り向い て 、 「 さすが は 運慶 だ な 。 眼中 に 我々 なし だ 。 天下 の 英雄 は ただ 仁王 と 我れ と ある のみ と云う 態度 だ 。 天晴れ だ 」 と 云っ て 賞め 出し た 。
 374自分 は この 言葉 を 面白い と 思っ た 。
 375それで ちょっと 若い 男 の 方 を 見る と 、 若い 男 は 、 すかさず 、 「 あの 鑿 と 槌 の 使い方 を 見 たまえ 。 大自在 の 妙境 に 達し て いる 」 と 云っ た 。
 376運慶 は 今 太い 眉 を 一 寸 の 高さ に 横 へ 彫り抜い て 、 鑿 の 歯 を 竪 に 返す や否や 斜す に 、 上 から 槌 を 打ち下し た 。
 377堅い 木 を 一と刻み に 削っ て 、 厚い 木屑 が 槌 の 声 に応じて 飛ん だ と 思っ たら 、 小鼻 の おっ開い た 怒り鼻 の 側面 が たちまち 浮き上がっ て 来 た 。
 378その 刀 の 入れ方 が いかに も 無遠慮 で あっ た 。
 379そうして 少し も 疑念 を 挾ん で おら ん よう に 見え た 。
 380「 よく ああ 無造作 に 鑿 を 使っ て 、 思う よう な 眉 や 鼻 が できる もの だ な 」 と 自分 は あんまり 感心 し た から 独言 の よう に 言っ た 。
 381すると さっき の 若い 男 が 、 「 なに 、 あれ は 眉 や 鼻 を 鑿 で 作る ん じゃ ない 。 あの 通り の 眉 や 鼻 が 木 の 中 に 埋っ て いる の を 、 鑿 と 槌 の 力 で 掘り出す まで だ 。 まるで 土 の 中 から 石 を 掘り出す よう な もの だ から けっして 間違う はず は ない 」 と 云っ た 。
 382自分 は この 時 始めて 彫刻 とは そんな もの か と 思い 出し た 。
 383はたして そう なら 誰 に でも できる 事 だ と 思い 出し た 。
 384それで 急 に 自分 も 仁王 が 彫っ て み たく なっ た から 見物 を やめ て さっそく 家 へ 帰っ た 。
 385道具箱 から 鑿 と 金槌 を 持ち出し て 、 裏 へ 出 て 見る と 、 せんだって の 暴風 で 倒れ た 樫 を 、 薪 に する つもり で 、 木挽 に 挽か せ た 手頃 な 奴 が 、 たくさん 積ん で あっ た 。
 386自分 は 一番 大きい の を 選ん で 、 勢いよく 彫り 始め て 見 た が 、 不幸 に し て 、 仁王 は 見当ら なかっ た 。
 387その 次 の に も 運 悪く 掘り当てる 事 が でき なかっ た 。
 388三 番目 の に も 仁王 は い なかっ た 。
 389自分 は 積ん で ある 薪 を 片っ端 から 彫っ て 見 た が 、 どれ も これ も 仁王 を 蔵し て いる の は なかっ た 。
 390ついに 明治 の 木 に は とうてい 仁王 は 埋っ て い ない もの だ と 悟っ た 。
 391それで 運慶 が 今日 まで 生き て いる 理由 も ほぼ 解っ た 。
 392第七 夜
 393何でも 大きな 船 に 乗っ て いる 。
 394この 船 が 毎日 毎夜 すこし の 絶間 なく 黒い 煙 を 吐い て 浪 を 切っ て 進ん で 行く 。
 395凄じい 音 で ある 。
 396けれども どこ へ 行く ん だ か 分ら ない 。
 397ただ 波 の 底 から 焼火箸 の よう な 太陽 が 出る 。
 398それ が 高い 帆柱 の 真上 まで 来 て しばらく 挂っ て いる か と 思う と 、 いつ の 間 に か 大きな 船 を 追い越し て 、 先 へ 行っ て しまう 。
 399そうして 、 しまい に は 焼火箸 の よう に じゅっ と いっ て また 波 の 底 に 沈ん で 行く 。
 400その たんび に 蒼い 波 が 遠く の 向う で 、 蘇枋 の 色 に 沸き返る 。
 401すると 船 は 凄じい 音 を 立て て その 跡 を 追かけ て 行く 。
 402けれども 決して 追つか ない 。
 403ある 時 自分 は 、 船 の 男 を 捕まえ て 聞い て 見 た 。
 404「 この 船 は 西 へ 行く ん です か 」
 405船 の 男 は 怪訝 な 顔 を し て 、 しばらく 自分 を 見 て い た が 、 やがて 、 「 なぜ 」 と 問い返し た 。
 406「 落ち て 行く 日 を 追かける よう だ から 」
 407船 の 男 は からから と 笑っ た 。
 408そうして 向う の 方 へ 行っ て しまっ た 。
 409「 西 へ 行く 日 の 、 果 は 東 か 。 それ は 本真 か 。 東 出る 日 の 、 御里 は 西 か 。 それ も 本真 か 。 身 は 波 の 上 。 ※枕 。 流せ 流せ 」 と 囃し て いる 。
 410舳 へ 行っ て 見 たら 、 水夫 が 大勢 寄っ て 、 太い 帆綱 を 手繰っ て い た 。
 411自分 は 大変 心細く なっ た 。
 412いつ 陸 へ 上が れる 事 か 分ら ない 。
 413そうして どこ へ 行く の だ か 知れ ない 。
 414ただ 黒い 煙 を 吐い て 波 を 切っ て 行く 事 だけ は たしか で ある 。
 415その 波 は すこぶる 広い もの で あっ た 。
 416際限 も なく 蒼く 見える 。
 417時に は 紫 に も なっ た 。
 418ただ 船 の 動く 周囲 だけ は いつ でも 真白 に 泡 を 吹い て い た 。
 419自分 は 大変 心細かっ た 。
 420こんな 船 に いる より いっそ 身 を 投げ て 死ん で しまお う か と 思っ た 。
 421乗合 は たくさん い た 。
 422たいてい は 異人 の よう で あっ た 。
 423しかし いろいろ な 顔 を し て い た 。
 424空 が 曇っ て 船 が 揺れ た 時 、 一人 の 女 が 欄 に 倚りかかっ て 、 しきりに 泣い て い た 。
 425眼 を 拭く 手巾 の 色 が 白く 見え た 。
 426しかし 身体 に は 更紗 の よう な 洋服 を 着 て い た 。
 427この 女 を 見 た 時 に 、 悲しい の は 自分 ばかり で は ない の だ と 気がつい た 。
 428ある 晩 甲板 の 上 に 出 て 、 一人 で 星 を 眺め て い たら 、 一人 の 異人 が 来 て 、 天文学 を 知っ てる か と 尋ね た 。
 429自分 は つまらない から 死の う と さえ 思っ て いる 。
 430天文学 など を 知る 必要 が ない 。
 431黙っ て い た 。
 432すると その 異人 が 金牛宮 の 頂 に ある 七星 の 話 を し て 聞か せ た 。
 433そうして 星 も 海 も みんな 神 の 作っ た もの だ と 云っ た 。
 434最後 に 自分 に 神 を 信仰 する か と 尋ね た 。
 435自分 は 空 を 見 て 黙っ て い た 。
 436或 時 サローン に 這入っ たら 派手 な 衣裳 を 着 た 若い 女 が 向うむき に なっ て 、 洋琴 を 弾い て い た 。
 437その 傍 に 背 の 高い 立派 な 男 が 立っ て 、 唱歌 を 唄っ て いる 。
 438その 口 が 大変 大きく 見え た 。
 439けれども 二人 は 二人 以外 の 事 に は まるで 頓着 し て い ない 様子 で あっ た 。
 440船 に 乗っ て いる 事 さえ 忘れ て いる よう で あっ た 。
 441自分 は ますます つまら なく なっ た 。
 442とうとう 死ぬ 事 に 決心 し た 。
 443それで ある 晩 、 あたり に 人 の い ない 時分 、 思い切っ て 海 の 中 へ 飛び込ん だ 。
 444ところが ―― 自分 の 足 が 甲板 を 離れ て 、 船 と 縁 が 切れ た その 刹那 に 、 急 に 命 が 惜しく なっ た 。
 445心 の 底 から よせ ば よかっ た と 思っ た 。
 446けれども 、 もう 遅い 。
 447自分 は 厭 で も 応 で も 海 の 中 へ 這入ら なけれ ば なら ない 。
 448ただ 大変 高く でき て い た 船 と 見え て 、 身体 は 船 を 離れ た けれども 、 足 は 容易 に 水 に 着か ない 。
 449しかし 捕まえる もの が ない から 、 しだいしだい に 水 に 近づい て 来る 。
 450いくら 足 を 縮め て も 近づい て 来る 。
 451水 の 色 は 黒かっ た 。
 452その うち 船 は 例の 通り 黒い 煙 を 吐い て 、 通り過ぎ て しまっ た 。
 453自分 は どこ へ 行く ん だ か 判ら ない 船 で も 、 やっぱり 乗っ て いる 方 が よかっ た と 始めて 悟り ながら 、 しかも その 悟り を 利用 する 事 が でき ずに 、 無限 の 後悔 と 恐怖 と を 抱い て 黒い 波 の 方 へ 静か に 落ち て 行っ た 。
 454第八 夜
 455床屋 の 敷居 を 跨い だら 、 白い 着物 を 着 て かたまっ て い た 三四 人 が 、 一 度 に いらっしゃい と 云っ た 。
 456真中 に 立っ て 見廻す と 、 四角 な 部屋 で ある 。
 457窓 が 二 方 に 開い て 、 残る 二 方 に 鏡 が 懸っ て いる 。
 458鏡 の 数 を 勘定 し たら 六 つ あっ た 。
 459自分 は その 一 つ の 前 へ 来 て 腰 を おろし た 。
 460すると 御尻 が ぶくりと 云っ た 。
 461よほど 坐り心地 が 好く でき た 椅子 で ある 。
 462鏡 に は 自分 の 顔 が 立派 に 映っ た 。
 463顔 の 後 に は 窓 が 見え た 。
 464それから 帳場格子 が 斜 に 見え た 。
 465格子 の 中 に は 人 が い なかっ た 。
 466窓 の 外 を 通る 往来 の 人 の 腰 から 上 が よく 見え た 。
 467庄太郎 が 女 を 連れ て 通る 。
 468庄太郎 は いつ の 間 に か パナマ の 帽子 を 買っ て 被っ て いる 。
 469女 も いつ の 間 に 拵らえ た もの やら 。
 470ちょっと 解ら ない 。
 471双方 とも 得意 の よう で あっ た 。
 472よく 女 の 顔 を 見 よう と 思う うち に 通り過ぎ て しまっ た 。
 473豆腐屋 が 喇叭 を 吹い て 通っ た 。
 474喇叭 を 口 へ あてがっ て いる んで 、 頬ぺた が 蜂 に 螫さ れ た よう に 膨れ て い た 。
 475膨れ た まんま で 通り越し た もの だ から 、 気がかり で たまら ない 。
 476生涯 蜂 に 螫さ れ て いる よう に 思う 。
 477芸者 が 出 た 。
 478まだ 御化粧 を し て い ない 。
 479島田 の 根 が 緩ん で 、 何だか 頭 に 締り が ない 。
 480顔 も 寝ぼけ て いる 。
 481色沢 が 気の毒 な ほど 悪い 。
 482それで 御辞儀 を し て 、 どうも 何 とか です と 云っ た が 、 相手 は どう し て も 鏡 の 中 へ 出 て 来 ない 。
 483すると 白い 着物 を 着 た 大きな 男 が 、 自分 の 後ろ へ 来 て 、 鋏 と 櫛 を 持っ て 自分 の 頭 を 眺め 出し た 。
 484自分 は 薄い 髭 を 捩っ て 、 どう だろう 物 に なる だろう か と 尋ね た 。
 485白い 男 は 、 何に も 云わ ずに 、 手 に 持っ た 琥珀色 の 櫛 で 軽く 自分 の 頭 を 叩い た 。
 486「 さあ 、 頭 も だ が 、 どう だろう 、 物 に なる だろう か 」 と 自分 は 白い 男 に 聞い た 。
 487白い 男 は やはり 何 も 答え ずに 、 ちゃきちゃき と 鋏 を 鳴らし 始め た 。
 488鏡 に 映る 影 を 一 つ 残ら ず 見る つもり で 眼 を ※っ て い た が 、 鋏 の 鳴る たんび に 黒い 毛 が 飛ん で 来る ので 、 恐ろしく なっ て 、 やがて 眼 を 閉じ た 。
 489すると 白い 男 が 、 こう 云っ た 。
 490「 旦那 は 表 の 金魚売 を 御覧 なすっ た か 」
 491自分 は 見 ない と 云っ た 。
 492白い 男 は それ ぎり で 、 しきりと 鋏 を 鳴らし て い た 。
 493すると 突然 大きな 声 で 危険 と 云っ た もの が ある 。
 494はっと 眼 を 開ける と 、 白い 男 の 袖 の 下 に 自転車 の 輪 が 見え た 。
 495人力 の 梶棒 が 見え た 。
 496と 思う と 、 白い 男 が 両手 で 自分 の 頭 を 押え て うんと 横 へ 向け た 。
 497自転車 と 人力車 は まるで 見え なく なっ た 。
 498鋏 の 音 が ちゃきちゃき する 。
 499やがて 、 白い 男 は 自分 の 横 へ 廻っ て 、 耳 の 所 を 刈り 始め た 。
 500毛 が 前 の 方 へ 飛ば なく なっ た から 、 安心 し て 眼 を 開け た 。
 501粟餅や 、 餅やあ 、 餅や 、 と云う 声 が すぐ 、 そこ で する 。
 502小さい 杵 を わざと 臼 へ あて て 、 拍子 を 取っ て 餅 を 搗い て いる 。
 503粟餅屋 は 子供 の 時 に 見 た ばかり だ から 、 ちょっと 様子 が 見 たい 。
 504けれども 粟餅屋 は けっして 鏡 の 中 に 出 て 来 ない 。
 505ただ 餅 を 搗く 音 だけ する 。
 506自分 は あるたけ の 視力 で 鏡 の 角 を 覗き込む よう に し て 見 た 。
 507すると 帳場格子 の うち に 、 いつ の 間 に か 一人 の 女 が 坐っ て いる 。
 508色 の 浅黒い 眉毛 の 濃い 大柄 な 女 で 、 髪 を 銀杏返し に 結っ て 、 黒繻子 の 半襟 の かかっ た 素袷 で 、 立膝 の まま 、 札 の 勘定 を し て いる 。
 509札 は 十 円 札 らしい 。
 510女 は 長い 睫 を 伏せ て 薄い 唇 を 結ん で 一生懸命 に 、 札 の 数 を 読ん で いる が 、 その 読み方 が いかに も 早い 。
 511しかも 札 の 数 は どこ まで 行っ て も 尽きる 様子 が ない 。
 512膝 の 上 に 乗っ て いる の は たかだか 百 枚 ぐらい だ が 、 その 百 枚 が いつ まで 勘定 し て も 百 枚 で ある 。
 513自分 は 茫然 と し て この 女 の 顔 と 十 円 札 を 見つめ て い た 。
 514すると 耳 の 元 で 白い 男 が 大きな 声 で 「 洗い ましょ う 」 と 云っ た 。
 515ちょうど うまい 折 だ から 、 椅子 から 立ち上がる や否や 、 帳場格子 の 方 を ふり返っ て 見 た 。
 516けれども 格子 の うち に は 女 も 札 も 何に も 見え なかっ た 。
 517代 を 払っ て 表 へ 出る と 、 門口 の 左側 に 、 小判なり の 桶 が 五 つ ばかり 並べ て あっ て 、 その 中 に 赤い 金魚 や 、 斑入 の 金魚 や 、 痩せ た 金魚 や 、 肥っ た 金魚 が たくさん 入れ て あっ た 。
 518そうして 金魚売 が その 後 に い た 。
 519金魚売 は 自分 の 前 に 並べ た 金魚 を 見つめ た まま 、 頬杖 を 突い て 、 じっと し て いる 。
 520騒がしい 往来 の 活動 に は ほとんど 心 を 留め て い ない 。
 521自分 は しばらく 立っ て この 金魚売 を 眺め て い た 。
 522けれども 自分 が 眺め て いる 間 、 金魚売 は ちっとも 動か なかっ た 。
 523第九 夜
 524世の中 が 何となく ざわつき 始め た 。
 525今 に も 戦争 が 起り そう に 見える 。
 526焼け出され た 裸馬 が 、 夜昼 となく 、 屋敷 の 周囲 を 暴れ 廻る と 、 それ を 夜昼 となく 足軽共 が 犇き ながら 追かけ て いる よう な 心持 が する 。
 527それでいて 家 の うち は 森と し て 静か で ある 。
 528家 に は 若い 母 と 三 つ に なる 子供 が いる 。
 529父 は どこ か へ 行っ た 。
 530父 が どこ か へ 行っ た の は 、 月 の 出 て い ない 夜中 で あっ た 。
 531床 の 上 で 草鞋 を 穿い て 、 黒い 頭巾 を 被っ て 、 勝手口 から 出 て 行っ た 。
 532その 時 母 の 持っ て い た 雪洞 の 灯 が 暗い 闇 に 細長く 射し て 、 生垣 の 手前 に ある 古い 檜 を 照らし た 。
 533父 は それ きり 帰っ て 来 なかっ た 。
 534母 は 毎日 三 つ に なる 子供 に 「 御父様 は 」 と 聞い て いる 。
 535子供 は 何 と も 云わ なかっ た 。
 536しばらく し て から 「 あっち 」 と 答える よう に なっ た 。
 537母 が 「 いつ 御帰り 」 と 聞い て も やはり 「 あっち 」 と 答え て 笑っ て い た 。
 538その 時 は 母 も 笑っ た 。
 539そうして 「 今 に 御帰り 」 と云う 言葉 を 何 遍 となく 繰返し て 教え た 。
 540けれども 子供 は 「 今 に 」 だけ を 覚え た のみ で ある 。
 541時々 は 「 御父様 は どこ 」 と 聞か れ て 「 今 に 」 と 答える 事 も あっ た 。
 542夜 に なっ て 、 四隣 が 静まる と 、 母 は 帯 を 締め 直し て 、 鮫鞘 の 短刀 を 帯 の 間 へ 差し て 、 子供 を 細帯 で 背中 へ 背負っ て 、 そっと 潜り から 出 て 行く 。
 543母 は いつ でも 草履 を 穿い て い た 。
 544子供 は この 草履 の 音 を 聞き ながら 母 の 背中 で 寝 て しまう 事 も あっ た 。
 545土塀 の 続い て いる 屋敷町 を 西 へ 下っ て 、 だらだら 坂 を 降り 尽くす と 、 大きな 銀杏 が ある 。
 546この 銀杏 を 目標 に 右 に 切れる と 、 一 丁 ばかり 奥 に 石 の 鳥居 が ある 。
 547片側 は 田圃 で 、 片側 は 熊笹 ばかり の 中 を 鳥居 まで 来 て 、 それ を 潜り抜ける と 、 暗い 杉 の 木立 に なる 。
 548それから 二十 間 ばかり 敷石伝い に 突き当る と 、 古い 拝殿 の 階段 の 下 に 出る 。
 549鼠色 に 洗い出さ れ た 賽銭箱 の 上 に 、 大きな 鈴 の 紐 が ぶら下がっ て 昼間 見る と 、 その 鈴 の 傍 に 八幡宮 と云う 額 が 懸っ て いる 。
 550八の字 が 、 鳩 が 二 羽 向い あっ た よう な 書体 に でき て いる の が 面白い 。
 551その ほか に も いろいろ の 額 が ある 。
 552たいてい は 家中 の もの の 射抜い た 金的 を 、 射抜い た もの の 名前 に 添え た の が 多い 。
 553たまに は 太刀 を 納め た の も ある 。
 554鳥居 を 潜る と 杉 の 梢 で いつ でも 梟 が 鳴い て いる 。
 555そうして 、 冷飯草履 の 音 が ぴちゃぴちゃ する 。
 556それ が 拝殿 の 前 で やむ と 、 母 は まず 鈴 を 鳴らし て おい て 、 すぐ に しゃがん で 柏手 を 打つ 。
 557たいてい は この 時 梟 が 急 に 鳴か なく なる 。
 558それから 母 は 一心不乱 に 夫 の 無事 を 祈る 。
 559母 の 考え で は 、 夫 が 侍 で ある から 、 弓矢 の 神 の 八幡 へ 、 こう やっ て 是非 ない 願 を かけ たら 、 よもや 聴か れ ぬ 道理 は なかろ う と 一図 に 思いつめ て いる 。
 560子供 は よく この 鈴 の 音 で 眼 を 覚まし て 、 四辺 を 見る と 真暗 だ もの だ から 、 急 に 背中 で 泣き 出す 事 が ある 。
 561その 時 母 は 口 の 内 で 何 か 祈り ながら 、 背 を 振っ て あやそ う と する 。
 562すると 旨く 泣き やむ 事 も ある 。
 563また ますます 烈しく 泣き立てる 事 も ある 。
 564いずれ に し て も 母 は 容易 に 立た ない 。
 565一通り 夫 の 身の上 を 祈っ て しまう と 、 今度 は 細帯 を 解い て 、 背中 の 子 を 摺りおろす よう に 、 背中 から 前 へ 廻し て 、 両手 に 抱き ながら 拝殿 を 上っ て 行っ て 、 「 好い 子 だ から 、 少し の 間 、 待っ て おいで よ 」 と きっと 自分 の 頬 を 子供 の 頬 へ 擦りつける 。
 566そうして 細帯 を 長く し て 、 子供 を 縛っ て おい て 、 その 片端 を 拝殿 の 欄干 に 括りつける 。
 567それから 段々 を 下り て 来 て 二十 間 の 敷石 を 往っ たり 来 たり 御百度 を 踏む 。
 568拝殿 に 括りつけ られ た 子 は 、 暗闇 の 中 で 、 細帯 の 丈 の ゆるす 限り 、 広縁 の 上 を 這い 廻っ て いる 。
 569そう云う 時 は 母 にとって 、 はなはだ 楽 な 夜 で ある 。
 570けれども 縛っ た 子 に ひいひい 泣か れる と 、 母 は 気が気でない 。
 571御百度 の 足 が 非常 に 早く なる 。
 572大変 息 が 切れる 。
 573仕方 の ない 時 は 、 中途 で 拝殿 へ 上っ て 来 て 、 いろいろ すかし て おい て 、 また 御百度 を 踏み 直す 事 も ある 。
 574こう云う 風 に 、 幾 晩 となく 母 が 気 を 揉ん で 、 夜の目 も 寝 ずに 心配 し て い た 父 は 、 とく の 昔 に 浪士 の ため に 殺さ れ て い た の で ある 。
 575こんな 悲い 話 を 、 夢 の 中 で 母 から 聞い た 。
 576第十 夜
 577庄太郎 が 女 に 攫わ れ て から 七 日目 の 晩 に ふらりと 帰っ て 来 て 、 急 に 熱 が 出 て どっと 、 床 に 就い て いる と 云っ て 健さん が 知らせ に 来 た 。
 578庄太郎 は 町内一 の 好男子 で 、 至極 善良 な 正直者 で ある 。
 579ただ 一 つ の 道楽 が ある 。
 580パナマ の 帽子 を 被っ て 、 夕方 に なる と 水菓子屋 の 店先 へ 腰 を かけ て 、 往来 の 女 の 顔 を 眺め て いる 。
 581そうして しきりに 感心 し て いる 。
 582その ほか に は これ と 云う ほど の 特色 も ない 。
 583あまり 女 が 通ら ない 時 は 、 往来 を 見 ない で 水菓子 を 見 て いる 。
 584水菓子 に は いろいろ ある 。
 585水蜜桃 や 、 林檎 や 、 枇杷 や 、 バナナ を 綺麗 に 籠 に 盛っ て 、 すぐ 見舞物 に 持っ て 行ける よう に 二 列 に 並べ て ある 。
 586庄太郎 は この 籠 を 見 て は 綺麗 だ と 云っ て いる 。
 587商売 を する なら 水菓子屋 に 限る と 云っ て いる 。
 588その くせ 自分 は パナマ の 帽子 を 被っ て ぶらぶら 遊ん で いる 。
 589この 色 が いい と 云っ て 、 夏蜜柑 など を 品評 する 事 も ある 。
 590けれども 、 かつて 銭 を 出し て 水菓子 を 買っ た 事 が ない 。
 591ただ で は 無論 食わ ない 。
 592色 ばかり 賞め て いる 。
 593ある 夕方 一人 の 女 が 、 不意 に 店先 に 立っ た 。
 594身分 の ある 人 と 見え て 立派 な 服装 を し て いる 。
 595その 着物 の 色 が ひどく 庄太郎 の 気 に 入っ た 。
 596その 上 庄太郎 は 大変 女 の 顔 に 感心 し て しまっ た 。
 597そこで 大事 な パナマ の 帽子 を 脱っ て 丁寧 に 挨拶 を し たら 、 女 は 籠詰 の 一番 大きい の を 指し て 、 これ を 下さい と 云う んで 、 庄太郎 は すぐ その 籠 を 取っ て 渡し た 。
 598すると 女 は それ を ちょっと 提げ て 見 て 、 大変 重い 事 と 云っ た 。
 599庄太郎 は 元来 閑人 の 上 に 、 すこぶる 気作 な 男 だ から 、 では お宅 まで 持っ て 参り ましょ う と 云っ て 、 女 と いっしょ に 水菓子屋 を 出 た 。
 600それ ぎり 帰っ て 来 なかっ た 。
 601いかな 庄太郎 で も 、 あんまり 呑気 過ぎる 。
 602只事 じゃ 無かろ う と 云っ て 、 親類 や 友達 が 騒ぎ 出し て いる と 、 七 日目 の 晩 に なっ て 、 ふらりと 帰っ て 来 た 。
 603そこで 大勢 寄ってたかって 、 庄さん どこ へ 行っ て い た ん だい と 聞く と 、 庄太郎 は 電車 へ 乗っ て 山 へ 行っ た ん だ と 答え た 。
 604何でも よほど 長い 電車 に 違いない 。
 605庄太郎 の 云う ところ によると 、 電車 を 下りる と すぐ と 原 へ 出 た そう で ある 。
 606非常 に 広い 原 で 、 どこ を 見廻し て も 青い 草 ばかり 生え て い た 。
 607女 と いっしょ に 草 の 上 を 歩い て 行く と 、 急 に 絶壁 の 天辺 へ 出 た 。
 608その 時 女 が 庄太郎 に 、 ここ から 飛び込ん で 御覧 なさい と 云っ た 。
 609底 を 覗い て 見る と 、 切岸 は 見える が 底 は 見え ない 。
 610庄太郎 は また パナマ の 帽子 を 脱い で 再三 辞退 し た 。
 611すると 女 が 、 もし 思い切っ て 飛び込ま なけれ ば 、 豚 に 舐め られ ます が 好う ござんす か と 聞い た 。
 612庄太郎 は 豚 と 雲右衛門 が 大嫌 だっ た 。
 613けれども 命 に は 易え られ ない と 思っ て 、 やっぱり 飛び込む の を 見合せ て い た 。
 614ところ へ 豚 が 一 匹 鼻 を 鳴らし て 来 た 。
 615庄太郎 は 仕方なし に 、 持っ て い た 細い 檳榔樹 の 洋杖 で 、 豚 の 鼻頭 を 打っ た 。
 616豚 は ぐう と 云い ながら 、 ころりと 引っ繰り返っ て 、 絶壁 の 下 へ 落ち て 行っ た 。
 617庄太郎 は ほっと 一と息 接い で いる と また 一 匹 の 豚 が 大きな 鼻 を 庄太郎 に 擦りつけ に 来 た 。
 618庄太郎 は やむをえず また 洋杖 を 振り上げ た 。
 619豚 は ぐう と 鳴い て また 真逆様 に 穴 の 底 へ 転げ込ん だ 。
 620すると また 一 匹 あらわれ た 。
 621この 時 庄太郎 は ふと 気がつい て 、 向う を 見る と 、 遥 の 青草原 の 尽きる 辺 から 幾万 匹 か 数え 切れ ぬ 豚 が 、 群 を なし て 一直線 に 、 この 絶壁 の 上 に 立っ て いる 庄太郎 を 目懸け て 鼻 を 鳴らし て くる 。
 622庄太郎 は 心 から 恐縮 し た 。
 623けれども 仕方 が ない から 、 近寄っ て くる 豚 の 鼻頭 を 、 一 つ 一 つ 丁寧 に 檳榔樹 の 洋杖 で 打っ て い た 。
 624不思議 な 事 に 洋杖 が 鼻 へ 触り さえ すれ ば 豚 は ころりと 谷 の 底 へ 落ち て 行く 。
 625覗い て 見る と 底 の 見え ない 絶壁 を 、 逆さ に なっ た 豚 が 行列 し て 落ち て 行く 。
 626自分 が この くらい 多く の 豚 を 谷 へ 落し た か と 思う と 、 庄太郎 は 我 ながら 怖く なっ た 。
 627けれども 豚 は 続々 くる 。
 628黒雲 に 足 が 生え て 、 青草 を 踏み分ける よう な 勢い で 無尽蔵 に 鼻 を 鳴らし て くる 。
 629庄太郎 は 必死 の 勇 を ふるっ て 、 豚 の 鼻頭 を 七 日 六 晩 叩い た 。
 630けれども 、 とうとう 精根 が 尽き て 、 手 が 蒟蒻 の よう に 弱っ て 、 しまい に 豚 に 舐め られ て しまっ た 。
 631そうして 絶壁 の 上 へ 倒れ た 。
 632健さん は 、 庄太郎 の 話 を ここ まで し て 、 だから あんまり 女 を 見る の は 善く ない よ と 云っ た 。
 633自分 も もっとも だ と 思っ た 。
 634けれども 健さん は 庄太郎 の パナマ の 帽子 が 貰い たい と 云っ て い た 。
 635庄太郎 は 助かる まい 。
 636パナマ は 健さん の もの だろう 。