コーパス概要 タグ 文字列検索 ツリー検索
クレジット
English
ABC

      コンテキスト表示 について      Leaf-ancestor コンテキスト Leaf-root コンテキスト      括弧付きツリーをダウンロード

aozora_Nomura-13-1954のコンテキスト表示

title Zuihitsu Zenigata Heiji (13 Heiji minoue banashi)
author Nomura, Kodo
date 1954
source Aozora Bunko (https://www.aozora.gr.jp/cards/001670/card56323.html)
genre essay
subcorpus Aozora Bunko
terms of use Creative Commons license


 1随筆銭形平次
 2平次身の上話
 3野村胡堂
 4+ 目次
 5
 6銭形平次 の 住居 は ――
 7神田明神下 の ケチ な 長屋 、
 8町名 を はっきり 申上げる と 、 神田お台所町 、
 9もう 少し 詳しく いえ ば 鰻 の 神田川 の 近所 、
 10後ろ は 共同井戸 が あっ て 、 ドブ板 は 少し 腐っ て 、 路地 に は 白犬 が 寝そべっ て いる 。
 11恋女房 の お静 は 、 両国 の 水茶屋 の 茶汲女 を し た こと も ある が 、 二十三 に なっ て も 、 娘気 の 失せ ない 内気 な 羞かみや で 、 たった 六 畳 二た間 に 入口 が 二 畳 、 それ に お勝手 という 狭い 家 だ が 、 ピカピカ に 磨か れ て 、 土竈 から 陽炎 が 立ちそう 。
 12その くせ 、 年がら年中 、 ピイピイ の 暮らし向き 、
 13店賃 が 三 つ 溜っ て いる が 、 大家 は 人 が 良い から 、 あまり 文句 を いわ ない 。
 14酒量 は 大した こと も ない が 、 煙草 は 尻 から 煙 が 出る ほど たしなむ 。
 15お宗旨 は 親代々 の 門徒 、
 16年 は 何時 まで 経っ て も 三十一 、
 17これ が 、 銭形平次 の 戸籍調べ で ある 。
 18
 19実際 は 元禄 以前 、 寛文 万治 まで さかのぼっ た 時代 の 人 として 書き起こさ れ た もの で ある が 御存知 の 通り 、 それ は 挿絵 の 勝手 、 風俗 の 問題 ―― 衣裳 から 小道具 まで 、 はなはだ 読物 の 世界 に 不便 で ある ため に 作者 の 我がまま で 幕末 ―― 化政 ( 文化・文政 〈 一八〇四 ― 三〇 年 〉 ) 度 の 風景 として 書か れ 、 特別 な 考証 を 要する もの 以外 は 、 はなはだ 済ま ない こと で は ある が 、 頬冠り の まま で 押し通し て いる 。
 20芝居道 で いえ ば 、 「 寺子屋 」 の 春藤玄蕃 が 赤い 裃 を 着 て 威張っ たり 、 「 鎌倉三代記 」 の 時姫 が お振り袖 を ジャラジャラ さ せ 、 「 妹背山 」 の 鱶七 が 長裃 を 着ける の と 、 同じ 筆法 と 御許し を 願い たい 。
 21銭形平次 の 物語 を 書き 始め て から 二十 年 に なる が 、 平次 は どうして 年 を とら ない の だ という 小言 を ひっきりなし に 頂戴 し て いる 。
 22それ について 、 いつ か 「 週刊朝日 」 の 誌上 で 辰野隆博士 の 質問 に 答え て いる が 、 連続小説 の 主人公 の 年齢 を 読物 の 経過 する 年月 と共に 老い込ま せ て いく の は およそ 愚劣 な こと で 、 モーリス・ルブラン の ルパン が その 馬鹿馬鹿しい 例 を 示し て いる と 私 は 答え て おい た 。
 23小説 の 主人公 は 何時 まで も 若く て それ で よい の だ 。
 24大衆文芸 の 面白さ は その コツ だ と いっ て も よい 。
 25平次 の 女房 の お静 は 、 両国 の 水茶屋 時分 、 平次 と 親しく いい交わす よう に なっ て 、 平次 の ため に 不思議 な 事件 の うず の 中 に 飛び込み 、 危うく 命 を かけ た 大手柄 は 、 二十三 年 ( 昭和 六 年 ) 前 「 オール読物 」 に 書い た 、 銭形平次 の 第一 話 「 金色の処女 」 に 詳しく 書い て ある 。
 26しかし そんな 事 は どう でも よい 。
 27お静 は 何時 まで も 若く て 愛嬌 が あっ て そして 、 フレッシュ で あれ ば いい と いう と 、 辰野隆博士 は 面白 そう に カラカラ と 笑っ た 。
 28ところで 、 その 銭形平次 は 実在 の 人間 か ―― という こと を よく 訊か れる 。
 29大岡越前守 や 、 遠山左衛門尉 と 同じ よう に 、 『 武鑑 』 に 載っ て いる 人間 で は ない が 、 江戸時代 の 記録 が 散逸 し て 、 襖 の 下張り に なっ て いる から 、 お寺 に 人別 が あっ た かどうか 、 私 と いえ ども 判然 と し ない 。
 30恐らく 岡本綺堂 の 半七親分 や 、 佐々木味津三 の むっつり右門君 と 同じ こと で あろ う と 思う 、
 31在り と 信ずる 人 に は 実在 し 、 無い と 観ずる 人 に は 架空 の 人物 で あっ た に 違いあるまい 。
 32
 33吉川英治氏 が 『 江戸三国志 』 が 映画化 さ れ た とき 、 最早 二十五六 年 も 前 の こと だ が ―― 新聞社 の 試写会 で 挨拶 を さ せ られ た こと が ある 。
 34それ に 先だっ て 、 吉川氏 が 「 今晩 は 一 つ 種あかし を し て 、 主人公 以下 悉く 架空 の 人物 だ という こと を 話そ う 」 と いう の で ある 。
 35その 頃 その 新聞社 の 学芸部長 で あっ た 私 は 、 驚い て それ を 止め 「 そいつ は いけない 。 読者 は 皆 、 作中 の 人物 を 九郎判官義経 ほど の 実在 の 人物 だ と 思っ て いる 。 読者 の 幻想 を 打ちこわさ ない よう に 願い たい 」 と いう と 、 吉川氏 が それ に 応え て 、 要領 よく やっ て くれ た こと は 申す までも ない 。
 36熱海 に お宮の松 が あり 、 逗子 に は 浪子不動 が ある 。
 37千葉県 の 富山 に は 八犬伝 の 碑 が あり 浅草 の 花屋敷 に は 、 半七塚 を 我々 捕物作家クラブ員 が 建立 し た 。
 38小説 の 中 の 人物 が 、 塚 に なり 碑 に なっ て 、 実在 の 人 より も 遥か に 実在らしく 生き て いる こと は 、 その 例 非常 に 少なく ない 。
 39京都 、 大阪 に は 、 東京 以上 に 、 小説 、 浄瑠璃 中 の 人物 の 遺跡 が 保存 さ れ て いる そう で ある 。
 40偉人 傑士 といえども 、 御時世 が 変わる と 、 百 代 の 後 に まで 遺す 気 で 建て られ た 銅像 も 鋳潰さ れ たり する の で ある 。
 41現に 不思議 な 時代 に 遭遇 し て 、 我々 は それ を 嫌 に なる ほど 見聞 し た はず で ある 。
 42その 中 に 、 小説 や 詩 や 浄瑠璃 に 創造 さ れ た 架空 の 人物 が 、 民俗 の 記憶 の 底 深く しまいこま れ 、 塚 と なり 碑 と なる の は 、 むしろ 嬉しい こと で は ある まい か 。
 43明治 中頃 に 重野安繹 という 学者 が あっ た 。
 44その 頃 独自 の 史論 を 発表 し て 、 児島高徳 の 存在 を 否定 し 、 武蔵坊弁慶 を 撲滅 し 、 面白可笑しい 逸話 を 持っ た 、 史上 の 大物 を 片っ端 から 否定 し て 、 抹殺博士 という 綽名 で 呼ば れ た こと は 、 老人方 は 記憶 し て おら れる であろう 。
 45歴史上 の 人物 らしく 思わ れ て いる 人 でさえ 、 洗っ て 見る と 、 架空 の 人物 は 少なく ない 。
 46まして 職業作家 が 、 踊ら せ 、 話さ せ 、 心中 し たり 、 切り合い まで さ せる 人間 が 、 全部 実在 の 人間 で あり 得 よう はず は ない の で ある 。
 47もっとも 昔 の 人 は これ を 一 つ の 劫 と 観じ 、 謡曲 の 作者 は 、 紫式部 を さえ 罪人扱い に し て いる が 、 今 の 人 は 、 作中 の 人物 を なつかしん で 、 碑 を 建て 塚 を 築い て いる 。
 48血肉 を もっ た 実在 の 人間 より 、 それ は 浄化 さ れ 神格化 さ れ て いる ため で も あろ う か 。
 49シェクスピーア の 場合 、 史劇 あるいは 悲劇 は 大概 粉本 が ある らしく 、 ハムレット も 、 オセロ も 、 マクベス も 、 リア王 も 、 恐らく 実在 し た こと であろう 。
 50だが 、 実在 の 王子ハムレット は 、 シェクスピーア の 描い た ハムレット 程 は 偉人 で なく 「 在る べき か 、 在る べき で ない か 、 それ は 疑問 で ある 」 など と 、 六つかしい こと は いわ なかっ た に 違いない 。
 51これ は 余事 に 亙る が 、 日本 の 歴史小説 も 、 史実 の 詮索 に 溺れる より も 、 シェクスピーア の 偉大さ と 深さ を 学ぶ べき で は ある まい か 。
 52もっとも 歴史小説 という もの を 書か ない 私 は 、 気楽 に こんな こと が いえる の かもしれない 。
 53歴史 は 歴史家 に 任せ て 、 小説家 は 小説 を 書け ば よい の だ 。
 54史上 の 人物 を 踊ら せ て 、 新しい 創造 を すれ ば よい の だ 。
 55ピカソ の 美人 は 顔 が 二 つ あり 、 マルシャン の 太陽 は 青い 。
 56それ で よい で は ない か 。
 57
 58亡くなっ た 菅忠雄君 が 、 新聞社 の 応接間 に 私 を 訪ね て 「 雑誌 を 創める こと に なっ た が 、 その 初 号 から 、 岡本綺堂さん の 半七 の よう な もの を 書い て くれ ない か 」 と 持ち込ん だ の は 、 昭和 六 年 の 春 の こと で ある 。
 59「 綺堂先生 の よう に は 出来 ない が 、 私 は 私 なり に やっ て み よう 」 と 簡単 に 引き受け て しまっ た が 、 それ から 実に 二十三 年 、 銭形平次 の 捕物 を 今 で も 書き 続け て いる 。
 60四十 枚 から 五十 枚 の 短篇 だけ で も 三百 篇 、 中篇 長篇 を 加え たら 、 三百二十 篇 に は なる だろう 。
 61作者 の 私 自身 も 、 よく も こんな に 書き 続け た もの だ と 思っ て いる 。
 62昔 から 、 長い 小説 は 随分 ある 。
 63『 源氏物語 』 『 アラビアン・ナイト 』 『 南総里見八犬伝 』 『 戦争と平和 』 『 水滸伝 』 『 大菩薩峠 』 と 。
 64だが 、 その 多く は 一 つ の 筋 の 発展 で 、 起承転結 の ある 、 幾百 の 小説 の 集積 は あまり ない 。
 65探偵小説 に は フランス の 『 ファントマ 』 や 、 イギリス の 『 セキストン・ブレーク 』 が ある が 、 それ は 多勢 の 作者 が 力 を 協せ た 作品 で 、 一人 の 頭脳 と 手 から 生まれ た もの で は ない 。
 66こう いう と 、 大層 自慢らしく 聴こえる が 、 誰 も やっ た こと の ない 事 を やり遂げる という の は 、 誰 にしても なかなか 楽しい もの で ある 。
 67ビル から ビル へ 針金 を 渡し て 綱渡り する の も 一 升 何 合 の 大飯 を 食う の も 、 私 が 夥しい 小説 を 書い た の と 、 あまり 大して 変わら ぬ 優越感 で あろ う 。
 68『 大菩薩峠 』 の 作者 は 屡々 その 長い の を もっ て 誇っ て い た が 、 私 も また 、 その 例 に 漏れ ない の に 気がつい て 、 今さら 苦笑 する 次第 で ある 。
 69考え て みる と 、 モリ蕎麦 を 背丈 ほど 喰う の を 誇り と する アンチャン と 、 大して 変わら ぬ 無邪気 な 自慢話 で ある 。
 70申す までも なく 、 二十三 年 の 間 に は 、 実に いろいろ の こと が あっ た 。
 71どう にも こう にも 書け そう も なく なっ た こと も 三 度 や 五 度 で は ない 。
 72幾 度 か は お辞儀 を し て しまっ た こと も ある はず で ある 。
 73が 、 眼 が 悪く なっ て 、 原稿紙 の 枡目 さえ も 覚束なく なっ た 今 でも 、 どう やら 書き 続け て いる の で ある 。
 74これ は 決して 洒落 や 道楽 で 出来る こと で は ない 。
 75生活 と 四 つ に 組ん で 、 創作慾 に 引きずら れ て 、 弱い マラソン選手 の よう に 、 喘ぎ喘ぎ 駆け 続け て いる の が 本当 の 姿 で ある 。
 76「 鼻唄 を 歌い ながら 書く 」 と 、 某新聞 に 書い た の は 、 無闇 に 芸術がる 人達 、 名匠苦心談 の 製造 に 憂身 を やつす 人達 に対する 、 私 の ささやか な 反語 で あっ た が 、 最近 作家 の 某氏 が 三十 年 振り に 私 を 訪ね て 「 鼻唄 を 歌い ながら 小説 を 書く という の は 、 あれ は 羨ましい 境地 だ 」 と 褒め て くれ た に は 胆 を つぶし た 。
 77どこ の 世界 に 鼻唄 を 歌い ながら 小説 を 書ける 化物 が ある だろう 。
 78「 名匠苦心談 」 という もの を 、 私 は 何より 嫌い で ある 。
 79満足 に 三 度 の もの に あり付い て 、 一 つ の 芸事 を 仕上げる もの に 、 おろそか な 心掛け は ない はず で ある 。
 80芸事 に対して あえて 芸術 と は いわ ない ―― 俺 だけ が 彫心鏤骨 の 苦心 を し て いる と 自惚れる 人間 は 、 私 だけ が 熱烈 なる 恋 を し て いる と 思い込む 芸者 と 、 あまり 大した 違い の ない 低能 で ある 。
 81また 「 消耗品 の 芸術論 」 に なり そう で ある が 、 私 は いつ でも 、 いかなる 世界 で も 、 職業 と 、 それ に 打ち込む 労作 を 尊む 、
 82俺 だけ が 芸術家 だ と 思う 人間 は 、 消え て 無くなっ た 方 が よろしい 。
 83昔 から 、 そんな 者 は ろくな 仕事 を し た 例 は ない の で ある 。
 84
 85木村名人 は 私 に 訊ね た こと が ある 。
 86「 あの 平次 の 夥しい トリック は 、 どうして 拵える の だ 」 ―― と 。
 87木村名人 は 私 の 心友 の 一人 で ある 。
 88私 は 将棋 の 駒 の 並べ方 も 知ら ない が 、 木村名人 と は 二十 年 も 机 を 並べ た 間柄 で 、 あの 聡明さ と 、 江戸ッ児らしい 気前 と 、 情誼 の こまやかさ に は 敬服 し て いる 。
 89余事 は さておき 、 私 は この 問 に対して 、 「 それ は なんでもない こと だ 、 将棋さし が 詰将棋 の 手 を 考える の と 同じ こと だ 、 木村名人 が 生涯 に 三百 題 の 詰将棋 を 考え た ところ で 、 少し の 不思議 も ない で は ない か 」 ―― と 。
 90捕物 又は 探偵小説 の トリック は 、 もう 一 つ の 例 を 挙げる と 、 数学 の 教科書 の 問題 を 作る の と 同じ こと だ と も いえる だろう 。
 91解く もの にとって は 、 神妙不可思議 の 手段 が ある よう に 思える だろう が 、 拵える もの にとって は 、 それ は 大した 六つかしい もの で は ない 。
 92碁 や 将棋 の うまい 人 は 、 夥しい 定石 を 研究 し 、 それ を 体得 し て 、 自分 の 手 を 生み出す 。
 93探偵小説 又は 捕物作家 も 、 夥しい 型 を 記憶 し て おい て 、 その 古い 型 を 土台 に 、 新しい 手 を 考える 外 は ない の で ある 。
 94江戸川乱歩氏 は 、 古今東西 の 探偵小説 を 読破 し 、 その 幾百 、 幾千 の トリック を 分類 し 、 幾 つ か の 型 を 作っ て 、 その 上 に 、 前人未踏 の トリック を 発見 し よう と し て いる という こと で ある 。
 95これ は 仲間人 の 単なる 噂 で 、 江戸川氏 本人 から 聴い た こと で ない から 、 真偽 の ほど は 定か で ない が 、 江戸川氏 の よう な 緻密 な 頭脳 を 持っ た 人 に は 、 さも あり そう な 事 で も ある の で ある 。
 96探偵 、 捕物小説 の トリック の 世界 にあって は 、 古い 手 は 絶対 に いけない 。
 97換言 すれ ば 、 誰 か が 使っ た トリック を 、 二 度 と 用いる こと は 許さ れ ない の で ある 。
 98私 は かつて 現代探偵小説 に 、 低圧電気 による 殺人 を 書い た こと が あっ た が 、 それ は 専門医 に たしかめ て 書い た もの で あっ た にかかわらず 、 前後 し て 故小酒井不木博士 が 、 同じ トリック を 用い て 、 まったく 違っ た 小説 を 書い て 発表 し た ため に 、 恐ろしい 暗合 に 腐っ て しまっ た こと が ある 。
 99もっとも 、 トリック の 新奇 を 競う 結果 、 探偵 又は 捕物小説 は 、 神経 が 繊細 に なり 、 怪奇 に なり 、 現代人 の 生活 や 常識 から 、 かけ離れ て いく 傾向 の ある こと も また 已むを得ない 。
 100激しい 競争 や 、 高度 の 文化 の 惹き起こす 混乱 は 、 口惜しい こと で は ある が 、 何時 でも こういった もの で ある 。
 101生前 の 正岡子規 が 、 明治 三十二三 年 の 頃 、 後輩 の 俳人 に 教え て こう いっ た こと が ある 。
 102「 俳句 に 上達 し たけれ ば 、 少なくとも 一万 句 は 作り捨てる が よい 、 君達 の 思想 に コビリ付い て いる 先人 の 残滓 、 例えば 、 蛙飛び込む水の音 とか 、 日ねもすのたりのたりかな とか 、 そういった 月並 な 考え方 は みんな 出 尽くし て しまっ て 、 それ から 始めて 銘々 の 本当 の もの が 出 て 来る 」 と 。
 103まこと に 面白い 言葉 だ 。
 104俳句 も 詩 も 小説 も 、 作る もの の 苦心 に 変わり の ある はず は ない 、
 105まして 先人 の 真似 も 許さ れ ない 探偵 、 捕物小説 の 構成 や 、 その 生命 と も いう べき トリック は 、 生涯 書い て 書い て 、 書き捨て て 、 始めて 新しい 良い もの が 生まれる の で は ある まい か と 、 私 は いい たい の で ある 。
 106本当 の 天才 の 境地 を 私 は 知ら ない 、
 107我々 凡才 、 濁っ た 脳漿 を 持っ た もの は 、 汲み出し 、 汲み捨てる より 外 に 、 智恵 を 浄化 する 術 は ない の で ある 。
 108私 は 捕物小説 を 書き 始め た 頃 、 時々 翻案 で は ない か という 疑い を 受け た 。
 109評論家 の 高田某 、 作家 の 奥村君 は その 代表的 な 人達 で あっ た 。
 110奥村五十嵐君 は 、 後 に 捕物小説 を 書く よう に なっ て から 「 いや 済ま ない こと し た 、 あれ は 翻案 など で ある べき はず は ない 」 と 素直 に 詫び て くれ た が 、 惜しい こと に 五 年 前 に 世 を 早く し た 。
 111捕物 又は 探偵小説 に 種本 は 無い 。
 112それ は 筋 や トリック を 生命 と し て いる から で ある 。
 113古典文学 に 、 こういった 物語 の 粉本 の 少ない の は 、 背景 に なる 社会生活 が 単純 で 、 人々 は ことごとく 割り切っ た 暮らし を し て い た ため で あろ う 。
 114もっとも 旧約時代 の ソロモン の 伝説 が 、 大岡政談 に 採り用い られ た 例 も あり 、 仏説 に も 『 古事記 』 以後 の 史書 に も 、 淡い 探偵的 な 話 は ある 。
 115謡曲 の 「 草紙洗 」 は 唯一 の 探偵物語 で ある が 浄瑠璃 に は 非常 に 夥しい 。
 116忠臣蔵 の 勘平 など は 、 なかなか の 探偵劇 だ と いっ て よい
 117―― だが 、 そんな もの は 一 つ も 利用 さ れる もの で は ない 。
 118中国 に は 、 詐術 又は 裁判小説 は 夥しく 、 『 棠蔭比事 』 など は その 代表的 な もの だ が 、 私 は その 中 の トリック を 逆 に 用い た 例 は ある 。
 119もっとも 盗用 と 思わ れる の が 厭 で 、 出所 は 明らか に し て ある はず で ある 。
 120西鶴 の 『 本朝桜蔭比事 』 は 叙述 の 精妙さ で 帽子 を 脱ぐ が 、 今 用い られる よう な トリック や 材料 は 少なく 、 『 棠蔭比事 』 以下 の 比事物 や 用心記 も 大同小異 と いっ て 差支え は ない 。
 121我々 の 範 と する の は 、 やはり ボアゴベ 、 ガボリオ 、 ポー 以後 の 外国探偵小説 で ある が 、 これ は 、 コナン・ドイル 以前 の 古典 に 属する もの ほど 面白く 、 精緻巧妙 に は なっ て も 、 近代 の もの に 私 は 心 惹か れ ない 。
 122それ は 、 トリック に 嘘 が 多く 、 筋 も 拵え 過ぎ て 、 人物 が 浮彫 さ れ て い ない から で ある 。
 123つまり 、 人間 の 描か れ て い ない もの は 、 何が何でも 、 読む 気 に は なれ ない から で ある 。
 124新しい 探偵小説 に は 、 謎解き として の 面白さ は あっ て も 、 打ち込ん で 読む 気 に なれ ない もの が 多い 。
 125化学方程式 の ない 毒薬 、 変幻怪奇 な 仕掛け 、 製造工程 を 無視 し た レコード 、 それ で は 困る の で ある 。
 126その 意味 において 、 髷物 の 捕物小説 の よさ は いろいろ の 制約 が ある ため だ と 私 は いお う と し て いる 。
 127そこ に は ピストル も 無けれ ば 、 自動車 も 電話 も 無く 、 青酸加里 も 無けれ ば モルヒネ も 無い 。
 128ある もの は 石見銀山 と 匕首 と 、 そして 細引 だけ で ある 。
 129したがって トリック も また 人間 の 心 の 動き の 盲点 を 利用 し た もの や 、 感情 の 行き違い 、 注意 の ズレ といった 、 心理的 な もの に なり 易く 、 その トリック は 、 時代 や 文化 によって 、 動き 易い もの で は ない 。
 130つまり は 、 明日 は 変わっ て いく 器械的 な トリック で は なくて 、 千古不易 の 心理的 本質的 な トリック に なる こと が 多い から で ある 。
 131叱ら れ 、 罵ら れ 、 時 に は 恥ずかしめ られ ながら も 捕物小説 が 、 民衆 の 間 に 浸透 し て いく の は 、 この 特色 の ため で は ある まい か 。
 132捕物小説 を チャンバラ と 解し 、 時代思想 へ の 逆行 と 考える の は 、 捕物小説 を 読ま ざる もの の 誣言 で ある 。
 133
 134捕物小説 ―― と あえて いわ ない 、
 135私 の 平次物 を 、 勧善懲悪 と 褒め て くれる 人 が ある 。
 136まこと に 有難い よう で は ある が 、 私 に は 、 どう も 有難く ない の で ある 。
 137勧善懲悪 という の は 、 滝沢馬琴流 の 小説 を いう もの で 、 それ は 多分 に 徇法的 屈従的 で あり 長いものに捲かれろ主義 で ある 。
 138換言 すれ ば 『 八犬伝 』 の 忠孝仁義主義 で ある 。
 139ところが 、 わが 銭形平次 は 十中七八 まで は 罪人 を 許し 、 あべこべ に 偽善者 を 罰し たり する 。
 140近代法 の 精神 は 「 行為 を 罰し て 動機 を 罰し ない 」 が 、 銭形平次 は その 動機 に まで 立ち入っ て 、 偽善 と 不義 を 罰する 。
 141こんな 勝手 な 勧善懲悪 は 無い はず で ある 。
 142ヴィクトル・ユーゴー は 、 『 レ・ミゼラブル 』 を 書い て 、 法 の 不備 と その 酷薄さ を 非難 し 、 古今 の 名作 を 生ん だ 。
 143私 は 銭形 の 平次 に 投げ銭 を 飛ばさ し て 、 「 法 の 無可有郷 」 を 作っ て いる の で ある 。
 144そこ で は 善意 の 罪人 は 許さ れる 。
 145こんな 形式 の 法治国 は 、 髷物 の 世界 に 打ち建てる より 外 に は ない 。
 146私 は 貧しい 百姓 の 子 で 、 三 代 前 の 祖先 は 南部藩 の 百姓一揆 に 加わっ て いる はず で ある 。
 147子供 の 時 から 、 侍 の 世界 の 、 虚偽 と 空威張り と 馬鹿馬鹿しさ を 聴かさ れ て 育っ て いる の で ある 。
 148私 が 子供 の 頃 は 、 馬 に 乗っ て 歩い て も 、 侍 の 子孫達 が 来る と 馬 から 降り て お辞儀 を し なけれ ば なら なかっ た もの で ある 。
 149銭形 の 物語 の 中 に 、 祖先 が 人 を 殺し た 手柄 で 、 一生 無駄飯 を 喰っ て いる 、 侍階級 に対する 反抗 が 散見 する の は やむを得ない 。
 150私 は 徹底的 に 江戸 の 庶民 を 書く 。
 151とりわけ 無辜 の 女 を 虐げる 者 は 必ず 罰せ られる だろう 。
 152八五郎 の よう に 、 私 は フェミニスト だ から で ある 。
 153銭形平次 と 八五郎 が 、 みんな に 愛さ れ て いる 限り 、 私 は 書き 続ける だろう 。
 154江戸 という 時代 は 、 制度 の 上 に は 、 誠 に 悪い 時代 で あっ た 、
 155が 、 隠さ れ た 良い 面 が 数 限りなく 存在 する 。
 156私 は それ を 掘りさげ て いき たい 。
 157捕物小説 という 、 変わっ た ゲーム に 便乗 し て 。