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aozora_Ogawa-1909のコンテキスト表示

title Nukegami
author Ogawa, Mimei
date 1909
source Aozora Bunko (https://www.aozora.gr.jp/cards/001475/card53159.html)
genre fiction
subcorpus Aozora Bunko
terms of use Creative Commons license


 1抜髪
 2小川未明
 3ブリキ屋根 の 上 に 、 糠 の よう な 雨 が 降っ て いる 。
 4五 月 の 緑 は 暗く 丘 に 浮き出 て 、 西 と 東 の 空 を 、 くっきり と 遮っ た 。
 5ブリキ屋根 は 黒く 塗っ て ある 。
 6家 の 壁板 も 黒い 。
 7まだ 新しい けれど 粗末 な 家 で あっ た 。
 8家 の 傍 に は 、 幹 ばかり の 青桐 が 二 本 立 て いる 。
 9若葉 が 、 びらびら と 湿っぽい 風 に 揺れ て いる 。
 10井戸 が その 下 に あっ て 、 汲手 も なく 淋しい 。
 11やはり 雨 が 降っ て いる 。
 12この 家 に は 若い 女 が 一人 で 住ん で いる の だ 。
 13私 は 、 この 若い 女 を 見 た こと が ない 。
 14暮春 で ある けれど 、 寒い 日 で あっ た 。
 15私 は 、 窓 から 頭 を 出し て 、 黒い 家 を 見 た 。
 16ひょろひょろ と し た 青桐 が 、 木 の よう に 見え ぬ 。
 17人 の 立っ て いる よう だ 。
 18此方向 の 黒い 壁板 に は 一 つ も 窓 が なかっ た 。
 19彼方 に は 窓 が ある かも知れない 。
 20私 は 、 まだ その 家 を 廻っ て 見 た こと が ない 。
 21ただ 、 若い 女 が 住ん で いる という こと を 聞い た 。
 22「 女 は 、 どう し て いる だろう 。 」 と 思っ た 。
 23女 は 、 琴 を 弾か ない 。
 24また 歌わ ない 。
 25いつも あの 黒い 家 に は 音 が なかっ た 。
 26私 は 、 どう か し て 、 井戸 に 水 を 汲み に 出る 姿 でも 見 たい と 思っ た が 、 つい その 女 の 姿 を 見 た こと が ない 。
 27私 は 心 で 、 いろいろ その 女 を 想像 し て 見 た 。
 28或 時 は 、 痩せ た 青い 顔 の 女 だ と 思っ た 。
 29或 時 は 、 もう 寡婦 で 艶気 の ない 、 頭髪 の 薄い 、 神経質 な 女 だ と 思っ た 。
 30私 は 、 女 の こと を 考え て いる うち に 、 日 が 暮れ た 。
 31やはり 雨 が 降っ て いる 。
 32こう 幾 日 も つづい て 降っ たら 皆な 物 が 腐れ て しまう だろう 。
 33「 そう だ 。 皆な 物 が 腐れ て しまっ たら …… 。 」 と 思っ た 。
 34黒い 夜 だ 。
 35腐れ て 毒 と 化 た よう な 夜 だ 。
 36暗い 色 は 漠 と し て いる だけ だ 。
 37黒い 色 に は 底 に 力 が ある 。
 38私 は 暗い 夜 で ない 黒い 夜 だ と 思っ た 。
 39私 は 、 深い 穴 を 覗く よう な 気 が し た 。
 40冷た な 舌 で なめる よう に 風 が 当る 。
 41もう 黒い 家 は 分ら ぬ 。
 42ある けれど 分ら ぬ 。
 43私 は 不安 で あっ た 。
 44けれど やはり 私 は 窓 から 頭 を 出し て い た 。
 45明る 日 も 雨 だ 。
 46私 の 空想 は もはや 疲れ た 。
 47朝 から 、 青桐 に 来 て 烏 が 止っ て いる 。
 48茫然 と 窓 に 凭れ て 、 張り付け た よう な 空 を 見 て いる と 、 烏 が 、 時々 頭 を 傾げ て 何物 か に 瞳 を 凝し て いる 。
 49私 は 、 手 を 上げ て 逐う の も 物憂かっ た 。
 50自然 に 逃げ て 行く の を 待 て いる と 、 烏 は 昵と し て 動か なかっ た 。
 51私 は 、 窓 を 閉め た 。
 52急 に 室 の 中 が 暗く 陰気 と なっ た 。
 53暫く し て 、 また 窓 を 開け て 見る と 、 まだ 烏 が 青桐 に 止っ て い た 。
 54…… とうとう 日 が 暮れ て しまう 。
 55或 晩 ふと 眼 を 醒す と 、 窓 の 障子 が 明るかっ た 。
 56戸 を 開け て 見る と 、 雲 が 晴れ て 、 空 は 暗碧 だ 。
 57古沼 に 浮い た 鏡 の よう に 青い 月 が 出 た 。
 58銀光 が 戦き戦き 泳い で 来る 。
 59幾 万里 の 間 音 が 亡び て 空 は 薄青い 沈黙 で ある 。
 60二 本 の 青桐 も 目醒 た よう に 立っ て いる 。
 61黒い 家 も その 儘 だ 。
 62ただ 湿れ た ブリキ屋根 に 青い 光 が 落ち て 、 東 、 西 の 黒い 森 に も 青み を 帯ん だ 光り は 流れ て い た 。
 63私 は 暫らく 、 窓 に 凭っ て 青い 月 の 光り を 受け た 黒い 家 を 見 て い た が 、 いうにいわれぬ 悲しさ が シミジミ と 胸 に 湧い た 。
 64「 若い 女 !
 65まだ 見 ぬ 若い 女 ! 」
 66ああ 、 その 若い 女 が 恋しい 。
 67私 は なぜ 今 迄 その 女 を 見 なかっ た だろう 。
 68私 は 余り 考え 過ぎ た 。
 69考え 過ぎ て いる うち に 春 も 過ぎ て しまっ た 。
 70この 青い 月 の 光り !
 71もう 春 で ない 。
 72淡い 夏 が 来 た の で ない か 。
 73夏 ?
 74そう だ
 75夏 だ 。
 76病的 な 、 暗愁 の 多い 春 は 去 て 、 淡々 と し て 白い 夏 が 来 た の だ !
 77しかし 、 もう 遅い 。
 78春 は 去 て しまっ た 。
 79私 は 、 過去 の 邪推 、 疑念 、 無駄 な 空想 を 呪っ た !
 80後悔 し た !
 81私 は 始めて 、 若い 女 は 唇 の 紅い 、 髪 の 緑 の 、 眼 の 美しい 、 処女 で あっ た という こと …… そして その 女 は 、 恥しく て 姿 を 隠し て い た の で ない か という こと を 考え た 。
 82醒めよ 。
 83春 は 逝い て しまっ た ! と いわ ん ばかり に 月 の 光り は 淡かっ た 。
 84幾 日 か 降っ た 雨 、
 85それ は 恋しい 、 懐しい 、 春 の 行く の を 泣い た 泣い た 女 の 涙 で あっ た だろう ……
 86私 は 、 その 夜 後悔 と 慚愧 に 悶え た 。
 87悶え た 。
 88白い 雲 が 、 日 の 光り に 輝く 青葉 の 上 を 飛ん で いる 。
 89緑葉 は 一夜 の うち に 黒ずん だ 。
 90青桐 の 葉 は 大きく 延び た 。
 91その 蔭 が 地 の 上 に 落ち 、 はっきり と 刻ん だ 。
 92井戸 の 釣瓶 の 縄 は いつ の 間 に か 切れ て 、 もはや 水 を 上げる 役 に たた ない 。
 93ブリキ屋根 に は 赤い 錆 が 出 て 、 黒塗 の 壁板 に は 蛞蝓 の 歩い た 痕 が 縦横 に つい て い た 。
 94私 は 、 黒い 家 の 周囲 を 廻っ た 。
 95果して 窓 が あっ た 。
 96東向 に なっ て いる 窓 が 閉っ て い た 。
 97私 は 、 窓 の 傍 に 近づい て 、 戸 を 開け て 見 た 。
 98裡 は 暗く て 、 人 の 住ん で いる 気はい も ない 。
 99物 の 腐れ た 臭い が 激しく 鼻 を 衝い て 来る 。
 100僅か に 射し込ん だ 日 の 光り で 、 狭い 、 室 の 中 が 見え た が 、 畳 の 上 に は 、 女 の 抜髪 が 一握 程 落ち て い た …… 。
 101若い 女 は 、 もはや この 家 に 住ん で い なかっ た 。