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aozora_Saito-1963のコンテキスト表示

タイトル 私の飼った犬
Title Watashi no katta inu
筆者 斉藤弘吉
author Saitoo Hirokichi
年/year 1963
出典 「愛犬ものがたり」文藝春秋新社
source "Aiken monogatari, Bungeishunjuu shinsha"
genre essay
subcorpus Aozora Bunko


 1私 の 飼っ た 犬
 2斎藤弘吉
 3最初 は カラフト犬
 4私 が 最初 に 飼っ た 犬 は 、 カラフト犬 でし た 。
 5大正 の 終わりごろ です が 、 その 当時 は ほしい と 思う 日本犬 が 手にはいら なかっ た ので 、 立耳巻尾 で 形 が 似 て いる カラフト犬 を 、 ホロナイ河口 で 漁業組合長 を し て い た 友人 に 頼ん で 送っ て もらっ た の です 。
 6生後二カ月余 、 全身 黒褐色 で 胸 の ところ に 白毛 が あり 、 ムクムク ふとっ て 、 ちょうど クマ の 子 そっくり でし た ので “ クマ ” と 名づけ まし た 。
 7東京 の 気候 は 、 カラフト犬 に は 暖か すぎる ので 、 夜 も 外 に つない で おき まし た 。
 8ところが 、 これ が わざわい と なっ た の です 。
 9というのは 、 飼っ て 間 も なく 夜半 に 外 から 侵入 し て 来 た 狂犬病 の 浮浪犬 に かま れ 、 この 恐ろしい 病気 を うつさ れ て 、 とうとう 私 自身 の 手 で 悲しい 処置 を し なけれ ば なら なく なっ た の でし た 。
 10犬 を 飼っ たら 、 決して 外 から 他 の 犬 が はいっ て 来 られる ところ に 置く もの で ない と 覚っ た こと でし た 。
 11土佐闘犬 の 子犬
 12自分 の 家 の 犬 が 狂犬病 に なっ た ので 、 一家中 十八 日間 も 毎日 世田谷 の 家 から 目黒 の 伝染病研究所 に 通っ て 予防注射 を 受け 、 もう 再び 犬 は 飼う もの で ない と 決心 し た の でし た が 、 一 度 かわいい 純真 な 犬 の 愛情 を 知る と 、 もう どう に も さびしく て たまら ず 、 つぎ に 飼っ た の が 血統 の 正しい 土佐闘犬 の 子 でし た 。
 13うす茶色 の 美しい 犬 でし た が 、 残念 ながら 骨軟症 という 骨 の 病気 に かかり 、 これ を なおそ う と 牛 の 骨 を 食べ させ すぎ て 、 胃腸 を 悪く し 、 とうとう 死な せ て しまい まし た 。
 14その 後 、 私 は 日本犬保存会 を 作り 、 日本犬 の 調査 や 研究 を 始め た ので 、 よい 日本犬 が 手にはいり 、 戦前 まで 飼っ た 犬 は 全部 日本犬 で 、 合計 十数 頭 に のぼり ます 。
 15この うち 、 いま なお 忘れ られ ない 犬 の こと を 少し 述べ ましょ う 。
 16秋田犬“出羽”号
 17秋田犬 “ 出羽 ” は 秋田県大館市 の ある 畜犬商 が 種犬 に し て い た 犬 で 、 うす赤 の 、 肩 の 高さ 六十一 センチ ぐらい 、 耳 が 小さく 立ち 、 尾 は 太く 左巻き で 、 体型 も 気性 も まこと に よい 犬 でし た 。
 18当時 、 私 の 家 は 山小屋ふう の 洋館 で 、 板敷 でし た ので 、 夜 は 家 の 中 に 入れ て 自由 に し て おき まし た 。
 19家 から 十六 メートル ばかり 離れ た 中門 の あたり に 人 が 来る と 、 私たち に は その 足音 も 聞こえ ない のに 、 出羽 は もう 玄関 の ドア の 前 に 行っ て 低く ウーッ と うなっ て いる の です 。
 20家 の 者 が 来客 と 話し て 、 警戒 し なく て も よい 人間 と わかる と 、 もう 身 を 引い て おとなしく なり ます 。
 21私 が 来客 と 話し て いる とき は 、 いつも 私 の イス の 側 に 横 に なっ て いる の です が 、 客 と 議論 し たり し て 声高 に なる と 、 出羽 は 立っ て ウーッ と 攻撃 の 姿勢 を とる の でし た 。
 22夜 、 私たち は 二 階 に やすみ 、 出羽 は 階段 の 下 の 洗面所 の ドア の 前 に 寝 て 、 私たち を 守っ て くれる の が いつも の ならわし でし た が 、 年の暮れ の ある 夜半 の こと です 。
 23突然 出羽 が 猛然 と ほえ た ので 、 びっくり し て 飛び起き まし た 。
 24出羽 の ほえ声 は 実に 大きな 威力 の ある 声 で 、 数百 メートル 離れ た 駅 まで も 聞こえる ほど だっ た の です 。
 25階段 を 下り て 見る と 、 出羽 は 洗面所 の ドア に向かって ほえ て いる ので 、 ドア を 開け て 見る と 、 上 の 回転窓 が 閉め 忘れ た と みえ 開い て いる の です 。
 26ちょうど 雪 の 降っ た 晩 でし た が 、 かなり 遠い 道路 から 畑 を まっすぐ に 横切っ て この 窓 の 下 まで 来 て 、 また まっすぐ に 道路 まで 逃げ て 行っ た 人間 の 足跡 が 、 雪 の 上 に 残っ て い まし た 。
 27当時 は 、 有名 な “ 説教強盗 ” と 呼ば れ た 怪盗 が 出没 し 、 どう にも 捕え られ なかっ た とき です 。
 28私たち は 、 きっと 説教強盗 に 違いない 、 開い て い た 回転窓 から 忍び込も う と 近よっ て 、 出羽 の あの 猛烈 な 勢い に 逃げ た もの だろう と ウワサ を し た こと でし た 。
 29説教強盗 は 、 はいっ た 家 で は 必ず 「 番犬 を 飼い なさい 」 と 説教 し て い た そう です 。
 30暗い 山中 で 人 を 助ける
 31この 出羽 が 、 一 度 人 を 助け た こと が あり まし た 。
 32私 は 毎日 、 出羽 と メス の “ 松 ” を 朝 と 夕方 の 二 回 、 近所 の 大山園 に 運動 に 引い て 行く の が 日課 でし た 。
 33ある 日 、 来客 の ため 夕方 の 運動 が おくれ て 、 九 時 ごろ に なり まし た 。
 34当時 、 大山園 は 電灯 の ない 立ち木 の 多い 山 でし た が 、 暗い ところ で も 犬 は 見え ます し 、 忠実 な 強い 出羽 が いっしょ です ので 、 夜 で も 安心 だっ た わけ です 。
 35山 の 中 で 急 に 出羽 が 道 を それ て 、 やぶ の 中 へ 引き綱 を 引っぱっ て 進み ます 。
 36何 か ある な と 私 も それ に つい て 行き ます と 、 出羽 は 急 に 立ち止まっ て 低く ウーッ と うなり 出し まし た 。
 37やみ を すかし て 見 ます と 立ち木 を 掘っ た 跡 の 丸い くぼ地 に 、 若い アベック が しゃがみこん で い て 、 それ を ヤクザふう の 男 が おどし て いる ところ でし た 。
 38私 は とっさ に 「 駅 なら こちら です よ 。 私 も 行く ところ です から 案内 し ましょ う 」 と 声 を かける と 、 その 不良 は 「 おれ は 犬 なんか こわく ない ぞ 」 と 叫び ながら 、 私 に 向かっ て 来 よう と し た その 瞬間 、 出羽 が うなり声 とともに 猛然 と 飛びかかり まし た 。
 39私 が 引き綱 を 握っ て い なかっ たら 、 その 男 は おし倒さ れ 、 ひどい 傷 を 負わ さ れ た でしょう 。
 40この 出羽 の 勢い に 驚い て 、 男 は やみ の 中 へ 逃げ て いっ て しまい まし た 。
 41私 は 若い 二人 を 駅前通り まで 案内 し ながら 、 二 度 と あんな ところ へ 夜 行っ て は いけ ませ ん よ 、 と 注意 し て あげ まし た 。
 42私 は 、 いま まで 出羽 ほど 迫力 の ある 犬 は 見 た こと が あり ませ ん 。
 43柴犬 の いわれ
 44小型日本犬 を 柴犬 と 呼ぶ こと は 、 いま で は 犬好き なら だれ でも 知っ て いる こと です が 、 実は この 柴犬 を 最初 に 都会 で 飼い 、 柴犬 の 名 を 広め た の は 私 な の です 。
 45ただし その 名 の いわれ は いろいろ の 説 が あっ て 、 いま で も はっきり し ませ ん 。
 46柴やぶ を 巧み に くぐり抜ける から 、 あるいは 毛色 が 赤褐色 で 柴 の 色 に 似 て いる から 、 また 小さい もの は シバグリ など の よう に シバ と いう から など 、 いろいろ いわ れ て い ます 。
 47この 柴犬 が どこ か に 残っ て い ない か と 捜し て いる と 、 出入り の 肉屋 の 主人 が 、 自分 の 郷里 に 近い 群馬多野郡 の 神流川上流 上野村 の 山奥 に は イノシシ や シカ の 猟師 が い て 、 耳 の 立っ た 尾 の 巻き上がっ た 昔 から の 犬 を 飼っ て いる と 教え て くれ まし た 。
 48私 の 持っ て いる 江戸時代 の 徳川将軍家 の 巻狩り の 時 の 猪鹿狩名犬調査書 に も 、 この 地方 に 良犬 が 多い と 調べ が のこっ て いる ので ぜひ 調査 に 行き たい と 考え て いる と 、 昭和 三 年 秋 、 ちょうど この 神流川 の 入口 に 近い 藤岡 という 町 の 浅見さん が 、 近く の 古墳 から 犬 の ハニワ を 発掘 し た という 知らせ が あっ た ので 、 この 日本最初 の 犬 の ハニワ を 調査 し に 出かけ まし た 。
 49その 夜 、 同地方 の 愛犬家 と の 座談会 の とき 、 この 藤岡 から 西南 八十 キロ の 群馬 、 長野 の 県境 十石峠 の 下 に あたる 、 神流川上流 の 上野村字中沢集落 に は 、 喜六 という 老猟師 が い て 、 猪鹿狩り の 名犬 を 飼っ て おり 、 付近 の 集落 に も 猟師 が 多い 話 を する と 、 日本犬愛好者 の 医師・原徳人さん が 、 私 と 探査 に 同行 し よう と 申し出 まし た 。
 50柴犬 を さがし に 山奥 へ
 51藤岡 から 自動車 で 鬼石町 に 出 て 、 これ から 神流川 に沿って 十石街道 を のぼり 、 万場町 を 通っ て 新羽 で 自動車 を 乗り捨て 、 それから 村 の 自転車 を 借り て 約十二 キロ 、 坂下集落 で 自転車 を 預け 、 それから 沢伝い に のぼる こと 十 キロ 、 ようやく 中沢集落 に 着い て 、 喜六老人 を たずね て 一泊 し まし た 。
 52老人 の 犬 は 、 茶褐色 立耳巻尾 の 柴犬 で 、 右肩 に 逆V字形 の 大傷 の あと が あり ます 。
 53これ は 同村 の 猟師 が この 犬 を 借り て ウラ の 三国山 に イノシシ狩り に 行っ た ところ 、 不幸 に も 牙 に かけ られ て 、 内臓 が 出る ほど の 大傷 を 負い まし た 。
 54とても 助から ぬ 傷 ゆえ 、 長く 苦しませる の は かわいそう と 、 その 猟師 が 自分 の 鉄砲 を 向け 「 気の毒 な こと を し た 」 と 声 を かけ た ところ 、 目 を 開き 、 少し 首 を 持ち上げ た ので 、 借り て き た 他人 の 犬 を 息 の ある うち 殺す の は 悪い と 、 背負っ て 山 を 下っ た の を 、 喜六老 が 傷 を 縫い合せ 、 八方 手 を 尽し て 介抱 、 幸い 全快 し て 、 再び 猟 に 行ける よう に なっ た もの だ と いう の です 。
 55これ は 、 折りよく 来合わせ た 借り人 の 猟師 の 炉辺 の 思い出話 でし た 。
 56この あたり の 猟師 は 皆 この 埼玉 、 山梨 、 群馬 、 長野 にわたる 関東第一 の 森林地帯 三国山 を 猟場 と し て いる の です 。
 57柴犬 “ 十石 ” を 手に入れる
 58付近 の 集落 を 全部 調査 し て 、 黒川村 の 飯山猟師 の 飼犬 七 歳 の オス 、 肩 の 高さ 四十一 センチ 、 茶褐色 、 巻尾 の 体型 の 最優秀 の 柴犬 を ゆずり受け 、 坂下 まで 猟師 に 連行 し て もらっ て 、 そこ で ビール の 空箱 に 入れ て 自転車 の 荷台 に つけ 、 新羽 まで 出 、 それから 自動車 に 乗っ て 、 途中 魚尾 に 一泊 、 藤岡 に 帰る こと が でき まし た 。
 59原医師宅 に 泊まり 、 つぎ の 朝 、 引き運動 に 連れ出す と 、 近所 の はなし飼い の 犬 に かま れ て 左横腹 に 八 センチ ばかり の 傷 を 負い まし た が 、 原医師 に 縫合 さ れ て いる 間 、 ジッと 歯 を くいしばっ て 、 声 も 出さ ずに 痛さ に 耐え て いる 根性 に は 、 さすが 猛猪 と たたかっ て き た 犬 だ と 、 感心 し た こと でし た 。
 60飯山猟師 に 聞く と 、 この 犬 は 子供 の とき 、 三国山 の 西側 の 長野県南佐久郡川上村字梓山 で もらいうけ 、 山越し に 連れ て 来 た もの だ そう です 。
 61私 は 黒川集落 の 上 の 十石峠 に ちなん で 名 を “ 十石 ” と 付け 、 昭和 六 年 八 月 十 歳 で 病死 する まで 、 愛育 し まし た 。
 62昔 、 よい 県知事 を 良二千石 《 りょうにせんき 》 と いっ た もの です 。
 63これ は 米 二千 石 の 俸給 を 与える の に ふさわしい 立派 な 知事 という 意味 です が 、 この 十石 も 、 米 十 石 に 値 する 名犬 という 意味 を ふくん で 名づけ た の でし た 。
 64東京 の 宅 に 着く と 、 前 から いる 秋田犬 が 体 が 何 倍 も ある 出羽 に 敢然 と 向かっ て 行き まし た が 、 出羽 の 方 が 私 の いいつけ で 、 相手 に し なかっ た ので 、 この 二 頭 の 日本犬オス は じき に 仲よく なり まし た 。
 65出羽 も そう だっ た よう に 、 十石 も 町 の 放し飼い の 犬 に 、 自分 から けんか を 売る よう な こと は あり ませ ん でし た が 、 相手 に 向かわ れる と 、 どんな に 力強く 大きい 相手 でも 、 相手 が 逃げる まで は 向かっ て 行く 犬 でし た 。
 66おさえつけ られ 、 かま れ 、 振り回さ れ て も 、 はねかえし はねかえし 向かっ て 行く 犬 でし た 。
 67十石 に すれ ば 、 どんな に 大きな 犬 でも 、 イノシシ より は 小さく 見え た の かもしれません 。
 68気魄 の ある 小型犬
 69ある 暴風雨 の あっ た 翌日 の こと 、 私 が ハシゴ を かけ て 屋根 に のぼり 、 ずれ た カワラ を 直し て いる と 、 腰 の ところ に 何 か 触れる もの が あり ます 。
 70振りかえっ て みる と 、 十石 が のぼっ て 来 て いる の でし た 。
 71山 で けわしい 崖 を のぼり 、 丸太 を 渡っ て い たり し た ので ハシゴ を のぼる くらい は 平気 だっ た の でしょう 。
 72なん でも 高い ところ に のぼっ て 四方 を 見渡し ながら 番 を し て いる の が 好き でし た 。
 73その 後 は 、 ハシゴ を かけはなし に し て おい たり 、 屋根 と 松 の 木 と の 間 に ハシゴ を 渡し たり し て おく と 、 屋根 の 上 で 遊ん だり 、 ハシゴ を 渡り歩い たり し て い まし た 。
 74犬舎 に つない で おく と 、 その 自分 の 住まい の 上 に すわっ て いる こと が 多い くらい でし た 。
 75小柄 ながら あの 精かん な 気魄 は 、 いま で も 忘れる こと が でき ませ ん 。
 76昭和 の はじめ 、 日本犬 を 保存 し よう という 運動 を はじめ た ころ 、 甲府市 で 検事 を し て い た 安達氏 は 、 この 山国 に は 、 必ず どこ か に 残存 し て いる もの と 調査 さ れ 、 昭和 六 年 八 月 とうとう 中巨摩郡芦安村 で カモシカ猟 に 用い られ て き た 虎毛 の 日本犬 を 発見 さ れ まし た 。
 77私 は 、 芦安 より もっと 山奥 の 南巨摩郡西山村奈良田部落 ( 現 早川町 ) を 調査 し よう と 考え 、 昭和 七 年 五 月 甲府 の 愛犬家 小林氏 ら とともに 、 奈良田部落 に 行っ て 、 猟師 の 犬 を 集め て 調査 し まし た 。
 78たくましかっ た 虎毛 “ 百 ”
 79奈良田部落 の 調査 を 終え て 、 それから 高山 、 トノコヤ峠 を 越え て 芦安村 に 出る ため 、 深沢さん という 猟師 に 道案内 を 頼み まし た が 、 この 人 の 連れ て い た 虎毛 八 カ月 の オス犬 が 実に 名犬 でし た 。
 80この あたり は 、 ほとんど 岩山 で 、 しかも くずれ やすい ぼろぼろ の 岩 、 ちょっと 足 を かけ て も 、 ガラガラ と くだけ落ちる 石ころ の 道 です が 、 この 黒虎毛 は 、 実に たくみ に 、 軽く その 上 を 飛び歩い て 、 決して 石 を 落とし ませ ん 。
 81石ころ を 落とし て は 、 その 音 で 獲物 の カモシカ が 逃げ て しまう から でしょう 。
 82案内 の 深沢さん が 、 一行 の 先頭 に 立つ と 、 この 黒虎毛 は 安心 し た 様子 で 、 百 メートル ぐらい 先 を 歩い て い ます 。
 83道 の 分かれ て いる ところ で は 、 振り返っ て 、 深沢さん の 左右 の 手 の 合図 で 、 その 方 に 進ん で 行き ます 。
 84試み に 私 が 先頭 に 立っ て みる と 、 早速 引き返し て き て 、 深沢さん の 側 に つい て 離れ ませ ん 。
 85この 利口さ に は 、 私 も びっくり し まし た 。
 86毛 が 保護色 の 役 も
 87虎毛犬 の 毛色 は 、 大体 三 系統 に 区別 する こと が でき ます 。
 88第一 は 黒色 の 勝っ た もの で 、 白色がかっ た 綿毛 に 茶褐色 の 毛 が まじり 、 その 間 に やや 長目 の 黒毛 が 生え て 不規則 な 虎斑 《 とらふ 》 に なっ て いる もの で 、 私 は これ を 黒虎毛 と いっ て い ます 。
 89第二 は 黒毛 が 茶褐色 と 半々 ぐらい の もの で 、 虎毛 と いっ て い ます 。
 90第三 は 茶褐色 または うす茶 の 地色 に 、 黒褐色 の シマ状 の 斑 の はいっ た もの で 、 これ が 赤虎毛 です 。
 91深沢さん の 犬 は 、 この 黒虎毛 に 属する もの で 、 森林地帯 に はいっ て 地上 に うずくまる と 、 虎斑 が 、 木 の 枝 や 葉 を もれる 日光 の 、 地上 に 影さす 点々 と 同じ よう に 見え て 、 全く 犬 の いる の が わかり にくい 保護色 の よう な 効果 が あり まし た 。
 92激流 も おどり飛ぶ
 93この 犬 は 谷川 を 渡る とき など は 、 激流 の しぶき に 体 を ぬらし ながら 、 流れ の 中 の 岩 から 岩 へ と おどり飛ん で 、 野獣 の よう な 柔軟 な 飛躍 を 見せ 、 見 て い て ほれぼれ する 身 の こなし でし た 。
 94また 両岸 数十 メートル の 絶壁 で 、 岸壁間 に 大丸太 を 横 に 渡し 、 その 上 に 中丸太 三 本 を たて に のせ て 、 長い 橋 を かけ 、 下 は 激流 が 白アワ を ふい て 流れ 、 目 も くらむ よう な ところ で も 、 この 黒虎毛 は 平気 な 顔 を し て 、 軽く 渡っ て 歩く の に は これまた 驚き まし た 。
 95私 は むり に 深沢さん に 頼ん で この 黒虎毛 を 譲り受け 、 “ 百 ” と 名付け まし た 。
 96中里介山著 の 「 大菩薩峠 」 の 中 に 出 て くる 甲斐 の 義盗 “ ガンリキの百 ” と その 風ぼう や 走りっぷり が そっくり だっ た から です 。
 97“ 百 ” は 後 に 、 甲府 の 甲斐犬保存会 に 種犬 に 懇望 さ れ て 寄贈 し 、 同地 で 亡くなり まし た が 、 私 が 甲斐犬 の 審査 に 行っ た 時 、 一緒 に 御嶽昇仙峡 に 行き 、 有名 な パノラマ台 の 大岩 の 上 に “ 百 ” も 上がっ て 、 眼下 数百 メートル の 渓谷 を 平気 で ながめ て 、 その 身軽さ と 大胆さ で 、 同地 の 愛犬家たち を 驚か せ た こと も あり まし た 。
 98私 も “ 百 ” ほど 野性味 の ある 犬 は 、 いま まで 見 た こと が あり ませ ん 。
 99悲しい 思い出 “ ギャングの虎 ”
 100この 犬 は 、 岐阜県 の 山 で 生まれ た 虎毛 の 犬 で 、 家 の 者 に は たいへん おとなしく 、 ふろしき包み や バスケット を くわえ て 、 買い物 の お供 を する よう な 犬 でし た が 、 他人 に は 猛犬 で 、 その 顔付 も ヤクザ の すごん で いる 時 の 顔 に 似 て い た ので 、 “ ギャングの虎 ” と 呼ん で い まし た 。
 101老年 に なっ て 、 フィラリヤ病 から 皮膚病 を 併発 し 、 全く なおる 見込み が なくなっ て しまっ た 時 、 私 は “ 虎 ” の 苦し そう な 様子 を 見る に 忍び ず 、 安楽死 を さ せ よう と 、 医師 に 毒薬 を もらい受け 、 夜半 に 肉 に 包ん で 与え まし た 。
 102“ 虎 ” は 毒薬 の はいっ て いる の も 知ら ず 、 うれし そう に かすか に 毛 を ふり ながら 私 の 手 から この 肉 を 食べ まし た 。
 103いそい で 寝室 に かえっ た 私 は 、 家内 と かたく 抱き あっ て 悔ん だ の です が 、 その 時 は もう どう し よう も あり ませ ん でし た 。
 104ウー と 一声 、 最後 の 声 を 聞い た とき の こと は 、 いま で も 耳 に 残っ て 忘れ ませ ん 。
 105私 は その 後 、 犬 を 飼う こと を ばったり やめ まし た 。
 106私 の 一生 の 日本犬保存事業 へ の 奉仕 と 、 現在 の 動物愛護協会 の 奉仕 も 、 この 時 に 約束 さ れ た と いっ て も よく 、 いま で も 、 この “ 虎 ” へ の 罪ほろぼし を と 思う のみ です 。
 107マタギ系 の メス犬 “ 松 ”
 108私 の いま まで 飼っ た 犬 は 十数 頭 に なり 、 みな 思い出 の 深い 犬 ばかり です が 、 その 中 で も “ 松 ” という 秋田マタギ系 の メス が 、 一番 忘れ られ ない 純情 な 犬 でし た 。
 109昭和 二 年 春 、 秋田県大館 の 畜犬商 から 秋田犬オス と メス を 買い まし た 。
 110オス は 淡赤 、 立耳 、 肩 の 高さ 六十一 センチ の 、 実に 体型 の よい 気性 の 鋭い 犬 で “ 出羽 ” と 名づけ まし た 。
 111メス は 肩 の 高さ 五十 センチ の 中型 で 秋田マタギ ( 獣猟 ) 系 で “ 松 ” という 名 でし た 。
 112毛色 は 赤 に ゴマ毛まじり 、 立ち耳 、 差し毛 、 顔 が ちょっと しゃくれ て 、 ひいき目 に も 器量 が よい と は いえ ない 犬 でし た 。
 113後 で その 畜犬商 に 聞く と “ 松 ” は 大館郊外 の ある リンゴ園 の 番犬 に 飼わ れ て い て 、 六 ぴき の 子 を 産ん だ の を 買い取り 、 子犬 が いる から 逃げ出す こと は ない だろう と 、 自分 の 家 に 放し飼い に し たら 、 その 夜 の うち に “ 松 ” は 子犬 を 一 ぴき こと 口 に くわえ て 、 朝 まで に 旧主 の リンゴ園 に みんな 運ん で 帰っ て しまっ た の でし た 。
 114畜犬商 の 家 は リンゴ園 から 四 キロ ほど 離れ て いる ところ な の です 。
 115そんな こと で この 犬 は 放し飼い に でき ず 、 手数 が かかる ので 子犬 が 乳離れ する と すぐ 私 に 譲っ た の でし た 。
 116私 は 毎日 朝夕 “ 出羽 ” と “ 松 ” を 連れ て 散歩 に で まし た が 、 出羽 は 知ら ぬ 人 に は 危険 な 犬 でし た ので 綱 を つけ て 引き 、 松 は おとなしい 犬 でし た ので 、 放し飼い でし た 。
 117夜 は さびしい 道 を 歩く とき 、 先方 から 何 か 近づい て 来る と 、 一番 早く 気がつく の は “ 松 ” です 。
 118すぐ 十 メートル ほど 先 に 飛び出し て 、 地 に 腹ばい に なっ て 先方 を すかし て 見 て 、 もし 犬 だっ たり する と 突然 ぴょんぴょん と とび上がっ て おどす の です 。
 119先方 が びっくり し て 逃げる と 、 ちょっと 追いかけ て から 尾 を 振り ながら 私 の ところ へ もどっ て 来る の です 。
 120先方 が 気 の 強い 犬 で 、 その まま 歩い て 来る と “ 松 ” は 急 に 尾 を 下げ て しおしおと 帰っ て き て 、 私 と “ 出羽 ” の 後 に かくれる の でし た 。
 121“ 松 ” を ゆずる
 122その 後 、 私ども と 親しく し て い た 都新聞 ( 今 の 東京新聞 ) の 論説委員長Hさん夫妻 が 、 しきり に “ 松 ” を ほし がり ます ので 、 とうとう 差し上げる こと に 決心 し まし た 。
 123H氏夫妻 は お子さん が なく 愛情深い 方々 でし た 。
 124東京世田谷区東北沢 の 私 の 家 から “ 松 ” を 自動車 に のせ て 、 わざと 都内 を ぐるぐる 回っ て 、 高田馬場近く の H家 に 連れ て 行っ た の です 。
 125“ 松 ” は しっかり 鎖 に つない で 、 夜 は 屋内 に 入れ て 絶対 に 放さ ぬ ように と いっ て 帰宅 し まし た 。
 126ところが 翌朝 、 H夫人 から 電話 で 昨夜 “ 松 ” が 逃げ て しまっ た と 知らせ が あり まし た 。
 127驚い て H家 に かけつけ まし た 。
 128“ 松 ” は ときどき H家 に 帰っ て き て は 玄関 を のぞき 、 庭 に 回っ て は 座敷 を のぞき 、 H氏夫妻 が “ 松 ” と 呼ぶ と 逃げ て しまう と いう の です 。
 129“ 松 ” は 私たち が 訪ね て き て ない か と 見 に 来る の だ と わかり まし た ので 、 私 は “ 松 ” に 、 私 が ここ に 来 て いる こと を 知らせ よう と 思っ て 、 玄関 の 前 に 私 の ゲタ を 並べ 、 その 上 に “ 松 ” の 好き な 煮干し を 置き まし た 。
 130一 時間 ばかり する と 、 お手伝いさん が 「 煮干し が あり ませ ん 」 と いう ので 、 私 が 玄関 に 出 て 大声 で “ 松 ” と 呼ぶ と 、 門 の そば の 電柱 と ゴミ箱 の 陰 から “ 松 ” が とび出し 抱きつい て き まし た 。
 131どう にも かわいそう で 、 一応 “ 松 ” を 引き取っ て 帰宅 し まし た 。
 132その 後 H氏 が 世田谷代田 に 移ら れ 、 私 も その 一 軒 置い て 隣 に 家 を 建て まし た 。
 133もう “ 松 ” が 道 に 迷う 心配 も ない ので H氏夫妻 の 希望 どおり お返し し まし た 。
 134ところが “ 松 ” は 毎朝 食事 が すん で 解放 さ れる と 、 すぐ 私 の 家 に き て しまう の です 。
 135その ころ は 仲 の 悪かっ た 秋田犬メス の “ 蕗 ” も 死ん で 、 い ませ ん でし た ので 、 大いばり で 家内 に 甘える の です 。
 136夕方 に なっ て 、 H家 の お手伝いさん が 呼び に 来る と “ 松 ” は その 足音 で 縁の下 に かくれ 、 小さく なっ て 息 を 殺し て いる の です 。
 137家内 が 「 松ちゃん 帰っ て また あす おいで 」 と 声 を かける と 、 さも さびし そう に しおしお と 出 て き て 、 お手伝いさん の 後 に つい て 帰っ て 行く の でし た 。
 138H氏夫妻 が いくら ごちそう し て かわいがっ て も 、 私 の 家 に 通う の を とめる こと が でき ませ ん でし た 。
 139その うち に 家内 が 病臥 する よう に なり まし た 。
 140“ 松 ” は 床 の 下 に はいっ て は 、 家内 の 寝 て いる ちょうど マクラ の 下 に すわっ て いる の です 。
 141家内 が “ 松 ” と 呼ぶ と カタカタ と 尾 を 振る 音 が 聞こえる の です 。
 142寝室 を 変える と “ 松 ” も その 下 に 移っ て すわっ て い ます 。
 143時々 出 て き て は 、 くつぬぎ の 石 の 上 に 乗り 、 縁側 に 前足 を かけ て 、 家内 の 寝 て いる 姿 を のぞき 、 また 床 の 下 へ はいっ て 行く の でし た 。
 144“ 松 ” が 病死 し た とき 、 私 は その 死体 を もらいうけ て 全身 の 骨格 を 私 の 研究資料 に し まし た 。
 145“ 松 ” の 死後 一 年 余 たっ て 家内 も 病死 し て しまい まし た 。
 146私 は 、 家内 の 愛用 し て い た 茶入れ の 中 に 家内 の 歯 と 松 の 歯 と を 一緒 に 納め て 、 墓 に 入れ て やり まし た 。
 147いま で も きっと 毎日 お墓 の 中 で 仲よく し て いる こと でしょう 。