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aozora_Sakaguchi-1947のコンテキスト表示

title Hakuchi
author Sakaguchi, Ango
date 1947
source Aozora Bunko (https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/card42621.html)
genre fiction
subcorpus Aozora Bunko
terms of use Creative Commons license


 1白痴
 2坂口安吾
 3その 家 に は 人間 と 豚 と 犬 と 鶏 と 家鴨 が 住ん で い た が 、 まったく 、 住む 建物 も 各々 の 食物 も 殆ど 変っ て い や し ない 。
 4物置 の よう な ひん曲っ た 建物 が あっ て 、 階下 に は 主人夫婦 、 天井裏 に は 母 と 娘 が 間借り し て い て 、 この 娘 は 相手 の 分ら ぬ 子供 を 孕ん で いる 。
 5伊沢 の 借り て いる 一室 は 母屋 から 分離 し た 小屋 で 、 ここ は 昔 この 家 の 肺病 の 息子 が ね て い た そう だ が 、 肺病 の 豚 に も 贅沢 すぎる 小屋 で は ない 。
 6それでも 押入 と 便所 と 戸棚 が つい て い た 。
 7主人夫婦 は 仕立屋 で 町内 の お針 の 先生 など も やり ( それ故 肺病 の 息子 を 別 の 小屋 へ 入れ た の だ ) 町会 の 役員 など も やっ て いる 。
 8間借り の 娘 は 元来 町会 の 事務員 だっ た が 、 町会事務所 に 寝泊り し て い て 町会長 と 仕立屋 を 除い た 他 の 役員 の 全部 の 者 ( 十数 人 ) と 公平 に 関係 を 結ん だ そう で 、 その うち の 誰 か の 種 を 宿し た わけ だ 。
 9そこで 町会 の 役員共 が 醵金 し て この 屋根裏 で 子供 の 始末 を つけ させ よう と いう の だ が 、 世間 は 無駄 が ない もの で 、 役員 の 一人 に 豆腐屋 が い て 、 この 男 だけ 娘 が 姙娠 し て この 屋根裏 に ひそん だ 後 も 通っ て き て 、 結局 娘 は この 男 の 妾 の よう に きまっ て しまっ た 。
 10他 の 役員共 は これ が 分る と さっそく 醵金 を やめ て しまい 、 この 分れ目 の 一 ヶ月 分 の 生活費 は 豆腐屋 が 負担 す べき だ と 主張 し て 、 支払い に 応じ ない 八百屋 と 時計屋 と 地主 と 何屋 だか 七八 人 あり ( 一人 当り 金 五 円 ) 娘 は 今 に 至る まで 地団駄 ふん で いる 。
 11この 娘 は 大きな 口 と 大きな 二 つ の 眼 の 玉 を つけ て い て 、 その くせ ひどく 痩せこけ て い た 。
 12家鴨 を 嫌っ て 、 鶏 に だけ 食物 の 残り を やろ う と する の だ が 、 家鴨 が 横 から まきあげる ので 、 毎日 腹 を 立て て 家鴨 を 追っかけ て いる 。
 13大きな 腹 と 尻 を 前後 に 突きだし て 奇妙 な 直立 の 姿勢 で 走る 恰好 が 家鴨 に 似 て いる の で あっ た 。
 14この 路地 の 出口 に 煙草屋 が あっ て 、 五十五 という 婆さん が 白粉 つけ て 住ん で おり 、 七 人目 とか 八 人目 とか の 情夫 を 追いだし て 、 その 代り を 中年 の 坊主 に し よう か 矢張り 中年 の 何屋 だか に し よう か と 煩悶中 の 由 で あり 、 若い 男 が 裏口 から 煙草 を 買い に 行く と 幾 つ か 売っ て くれる 由 で ( 但し 闇値 ) 先生 ( 伊沢 の こと ) も 裏口 から 行っ て ごらん なさい と 仕立屋 が 言う の だ が 、 あいにく 伊沢 は 勤め先 で 特配 が ある ので 婆さん の 世話 に なら ずに すん で い た 。
 15ところが その 筋向い の 米 の 配給所 の 裏手 に 小金 を 握っ た 未亡人 が 住ん で い て 、 兄 ( 職工 ) と 妹 と 二人 の 子供 が ある の だ が 、 この 真実 の 兄妹 が 夫婦 の 関係 を 結ん で いる 。
 16けれども 未亡人 は 結局 その 方 が 安上り だ と 黙認 し て いる うち に 、 兄 の 方 に 女 が でき た 。
 17そこで 妹 の 方 を かたづける 必要 が あっ て 親戚 に 当る 五十 とか 六十 とか の 老人 の ところ へ 嫁入り という こと に なり 、 妹 が 猫イラズ を 飲ん だ 。
 18飲ん で おい て 仕立屋 ( 伊沢 の 下宿 ) へ お稽古 に き て 苦しみ はじめ 、 結局 死ん で しまっ た が 、 その とき 町内 の 医者 が 心臓麻痺 の 診断書 を くれ て 話 は その まま 消え て しまっ た 。
 19え ? どの 医者 が そんな 便利 な 診断書 を くれる ん です か 、 と 伊沢 が 仰天 し て 訊ねる と 、 仕立屋 の 方 が 呆気にとられ た 面持 で 、 なん です か 、 よそ じゃ 、 そう じゃ ない ん です か 、 と 訊い た 。
 20この へん は 安アパート が 林立 し 、 それら の 部屋 の 何分の一 か は 妾 と 淫売 が 住ん で いる 。
 21それら の 女達 に は 子供 が なく 、 又 、 各々 の 部屋 を 綺麗 に する という 共通 の 性質 を もっ て いる ので 、 その ため に 管理人 に 喜ば れ て 、 その 私生活 の 乱脈さ 背徳性 など は 問題 に なっ た こと が 一 度 も ない 。
 22アパート の 半数 以上 は 軍需工場 の 寮 と なり 、 そこ に も 女子挺身隊 の 集団 が 住ん で い て 、 何課 の 誰さん の 愛人 だの 課長殿 の 戦時夫人 ( というのは つまり 本物 の 夫人 は 疎開中 という こと だ ) だの 重役 の 二 号 だの 会社 を 休ん で 月給 だけ 貰っ て いる 姙娠中 の 挺身隊 だの が いる の で ある 。
 23中 に 一人 五百 円 の 妾 という の が 一 戸 を 構え て い て 羨望 の 的 で あっ た 。
 24人殺し が 商売 だっ た という 満洲浪人 ( この 妹 は 仕立屋 の 弟子 ) の 隣 は 指圧 の 先生 で 、 その 隣 は 仕立屋銀次 の 流れ を くむ その 道 の 達人 だ という こと で あり 、 その 裏 に 海軍少尉 が いる の だ が 、 毎日 魚 を 食い 珈琲 を のみ 缶詰 を あけ 酒 を 飲み 、 この あたり は 一 尺 掘る と 水 が でる ので 、 防空壕 の 作りよう も ない というのに 、 少尉 だけ は セメント を 用い て 自宅 より も 立派 な 防空壕 を もっ て い た 。
 25又 、 伊沢 が 通勤 に 通る 道筋 の 百貨店 ( 木造 二 階建 ) は 戦争 で 商品 が なく 休業中 だ が 、 二 階 で は 連日 賭場 が 開帳 さ れ て おり 、 その 顔役 は 幾 つ か の 国民酒場 を 占領 し て 行列 の 人民共 を 睨みつけ て 連日 泥酔 し て い た 。
 26伊沢 は 大学 を 卒業 する と 新聞記者 に なり 、 つづい て 文化映画 の 演出家 ( まだ 見習い で 単独演出 し た こと は ない ) に なっ た 男 で 、 二十七 の 年齢 に くらべれ ば 裏側 の 人生 に いくら か 知識 は ある 筈 で 、 政治家 、 軍人 、 実業家 、 芸人 など の 内幕 に 多少 の 消息 は 心得 て い た が 、 場末 の 小工場 と アパート に とりかこま れ た 商店街 の 生態 が こんな もの だ と は 想像 も し て い なかっ た 。
 27戦争以来 人心 が 荒ん だ せい だろう と 訊い て みる と 、 いえ 、 なん です よ 、 この へん じゃ 、 先 から こんな もの でし た ねえ 、 と 仕立屋 は 哲学者 の よう な 面持 で 静か に 答える の で あっ た 。
 28けれども 最大 の 人物 は 伊沢 の 隣人 で あっ た 。
 29この 隣人 は 気違い だっ た 。
 30相当 の 資産 が あり 、 わざわざ 路地 の どん底 を 選ん で 家 を 建て た の も 気違い の 心づかい で 、 泥棒 乃至 無用 の 者 の 侵入 を 極度 に 嫌っ た 結果 だろう と 思わ れる 。
 31なぜなら 、 路地 の どん底 に 辿りつき この 家 の 門 を くぐっ て 見廻す けれども 戸口 という もの が ない から で 、 見渡す 限り 格子 の はまっ た 窓 ばかり 、 この 家 の 玄関 は 門 と 正反対 の 裏側 に あっ て 、 要するに いっぺん グルリ と 建物 を 廻っ た 上 で ない と 辿りつく こと が でき ない 。
 32無用 の 侵入者 は 匙 を 投げ て 引下る 仕組 で あり 、 乃至は 玄関 を 探し て うろつく うち に 何者 か の 侵入 を 見破っ て 警戒管制 に 入る という 仕組 で も あっ て 、 隣人 は 浮世 の 俗物ども を 好ん で い ない の だ 。
 33この 家 は 相当 間数 の ある 二 階建 で あっ た が 、 内部 の 仕掛 に就いて は 物知り の 仕立屋 も 多く 知ら なかっ た 。
 34気違い は 三十 前後 で 、 母親 が あり 、 二十五六 の 女房 が あっ た 。
 35母親 だけ は 正気 の 人間 の 部類 に 属し て いる 筈 だ という 話 で あっ た が 、 強度 の ヒステリイ で 、 配給 に 不服 が ある と 跣足 で 町会 へ 乗込ん で くる 町内唯一 の 女傑 で あり 、 気違い の 女房 は 白痴 で あっ た 。
 36ある 幸 多き 年 の こと 、 気違い が 発心 し て 白装束 に 身 を かため 四国遍路 に 旅立っ た が 、 その とき 四国 の どこ かしら で 白痴 の 女 と 意気投合 し 、 遍路みやげ に 女房 を つれ て 戻っ て き た 。
 37気違い は 風采堂々 たる 好男子 で あり 、 白痴 の 女房 は これ も 然るべき 家柄 の 然るべき 娘 の よう な 品 の 良さ で 、 眼 の 細々 と うっとうしい 、 瓜実顔 の 古風 の 人形 か 能面 の よう な 美しい 顔立ち で 、 二人 並べ て 眺め た だけ で は 、 美男美女 、 それも 相当 教養深遠 な 好一対 と しか 見受け られ ない 。
 38気違い は 度 の 強い 近眼鏡 を かけ 、 常に 万巻 の 読書 に 疲れ た よう な 憂わしげ な 顔 を し て い た 。
 39ある 日 この 路地 で 防空演習 が あっ て オカミさん達 が 活躍 し て いる と 、 着流し姿 で ゲタゲタ 笑い ながら 見物 し て い た の が この 男 で 、 その うち 俄 に 防空服装 に 着かえ て 現れ て 一人 の バケツ を ひったくっ た か と 思う と 、 エイ とか 、 ヤー とか 、 ホーホー という 数 種類 の 奇妙 な 声 を かけ て 水 を 汲み 水 を 投げ 、 梯子 を かけ て 塀 に 登り 、 屋根 の 上 から 号令 を かけ 、 やがて 一場 の 演説 ( 訓辞 ) を 始め た 。
 40伊沢 は この とき に 至っ て 始めて 気違い で ある こと に 気付い た ので 、 この 隣人 は 時々 垣根 から 侵入 し て き て 仕立屋 の 豚小屋 で 残飯 の バケツ を ぶちまけ ついで に 家鴨 に 石 を ぶつけ 、 全然 何食わぬ顔 を し て 鶏 に 餌 を やり ながら 突然 蹴とばし たり する の で あっ た が 、 相当 の 人物 と 考え て い た ので 、 静か に 黙礼 など を 取交し て い た の で あっ た 。
 41だが 、 気違い と 常人 と どこ が 違っ て いる と いう の だ 。
 42違っ て いる といえば 、 気違い の 方 が 常人 より も 本質的 に 慎み深い ぐらい の もの で 、 気違い は 笑い たい 時 に ゲタゲタ 笑い 、 演説 し たい 時 に 演説 を やり 、 家鴨 に 石 を ぶつけ たり 、 二 時間 ぐらい 豚 の 顔 や 尻 を 突つい て い たり する 。
 43けれども 彼等 は 本質的 に はるか に 人目 を 怖れ て おり 、 私生活 の 主要 な 部分 は 特別 細心 の 注意 を 払っ て 他人 から 絶縁 し よう と 腐心 し て いる 。
 44門 から グルリと 一廻り し て 玄関 を つけ た の も その ため で あり 、 彼等 の 私生活 は 概して 物音 が すくなく 、 他 に対して 無用 なる 饒舌 に 乏しく 、 思索的 な もの で あっ た 。
 45路地 の 片側 は アパート で 伊沢 の 小屋 に のしかかる よう に 年中 水 の 流れる 音 と 女房ども の 下品 な 声 が 溢れ て おり 、 姉妹 の 淫売 が 住ん で い て 、 姉 に 客 の ある 夜 は 妹 が 廊下 を 歩き つづけ て おり 妹 に 客 の ある 時 は 姉 が 深夜 の 廊下 を 歩い て いる 。
 46気違い が ゲタゲタ 笑う という だけ で 人々 は 別 の 人種 だ と 思っ て い た 。
 47白痴 の 女房 は 特別 静か で おとなしかっ た 。
 48何 か おどおど と 口 の 中 で 言う だけ で 、 その 言葉 は 良く ききとれ ず 、 言葉 の ききとれる 時 で も 意味 が ハッキリ し なかっ た 。
 49料理 も 、 米 を 炊く こと も 知ら ず 、 やら せれ ば 出来る かも知れない が 、 ヘマ を やっ て 怒ら れる と おどおど し て 益々 ヘマ を やる ばかり 、 配給物 を とり に 行っ て も 自身 で は 何 も でき ず 、 ただ 立っ て いる という だけ で 、 みんな 近所 の 者 が し て くれる の だ 。
 50気違い の 女房 です もの 白痴 で も 当然 、 その 上 の 慾 を 言っ て は いけ ます まい と 人々 が 言う が 、 母親 は 大 の 不服 で 、 女 が 御飯 ぐらい 炊け なくっ て 、 と 怒っ て いる 。
 51それでも 常 は たしなみ の ある 品 の 良い 婆さん な の だ が 、 何がさて 一方ならぬ ヒステリイ で 、 狂い 出す と 気違い 以上 に 獰猛 で 三 人 の 気違い の うち 婆さん の 叫喚 が 頭ぬけ て 騒がしく 病的 だっ た 。
 52白痴 の 女 は 怯え て しまっ て 、 何事 も ない 平和 な 日々 で すら 常に おどおど し 、 人 の 跫音 に も ギクリと し て 、 伊沢 が ヤア と 挨拶 する と 却って ボンヤリ し て 立ちすくむ の で あっ た 。
 53白痴 の 女 も 時々 豚小屋 へ やってき た 。
 54気違い の 方 は 我家 の 如く に 堂々 と 侵入 し て き て 家鴨 に 石 を ぶつけ たり 豚 の 頬っぺた を 突き廻し たり し て いる の だ が 、 白痴 の 女 は 音 も なく 影 の 如く に 逃げこん で き て 豚小屋 の 蔭 に 息 を ひそめ て いる の で あっ た 。
 55いわば 此処 は 彼女 の 待避所 で 、 そういう 時 に は 大概 隣家 で オサヨさん オサヨさん と よぶ 婆さん の 鳥類的 な 叫び が 起り 、 その たび に 白痴 の 身体 は すくん だり 傾い たり 反響 を 起し 、 仕方なく 動き 出す に は 虫 の 抵抗 の 動き の よう な 長い 反復 が ある の で あっ た 。
 56新聞記者 だの 文化映画 の 演出家 など は 賤業中 の 賤業 で あっ た 。
 57彼等 の 心得 て いる の は 時代 の 流行 という こと だけ で 、 動く 時間 に 乗遅れ まい と する こと だけ が 生活 で あり 、 自我 の 追求 、 個性 や 独創 という もの は この 世界 に は 存在 し ない 。
 58彼等 の 日常 の 会話 の 中 に は 会社員 だの 官吏 だの 学校 の 教師 に 比べ て 自我 だの 人間 だの 個性 だの 独創 だの という 言葉 が 氾濫 し すぎ て いる の で あっ た が 、 それ は 言葉 の 上 だけ の 存在 で あり 、 有金 を はたい て 女 を 口説い て 宿酔 の 苦痛 が 人間 の 悩み だ と 云う よう な 馬鹿馬鹿しい もの な の だっ た 。
 59ああ 日の丸 の 感激 だの 、 兵隊さん よ 有難う 、 思わず 目頭 が 熱く なっ たり 、 ズドズドズド は 爆撃 の 音 、 無我夢中 で 地上 に 伏し 、 パンパンパン は 機銃 の 音 、 およそ 精神 の 高さ も なけれ ば 一 行 の 実感 すら も ない 架空 の 文章 に 憂身 を やつし 、 映画 を つくり 、 戦争 の 表現 とは そういう もの だ と 思いこん で いる 。
 60又 ある 者 は 軍部 の 検閲 で 書きよう が ない と 言う けれども 、 他 に 真実 の 文章 の 心当り が ある わけ で なく 、 文章 自体 の 真実 や 実感 は 検閲 など に は 関係 の ない 存在 だ 。
 61要するに 如何なる 時代 に も この 連中 に は 内容 が なく 空虚 な 自我 が ある だけ だ 。
 62流行 次第 で 右 から 左 へ どう に でも なり 、 通俗小説 の 表現 など から お手本 を 学ん で 時代 の 表現 だ と 思いこん で いる 。
 63事実 時代 という もの は 只 それ だけ の 浅薄愚劣 な もの で も あり 、 日本 二千 年 の 歴史 を 覆す この 戦争 と 敗北 が 果して 人間 の 真実 に 何 の 関係 が あっ た であろう か 。
 64最も 内省 の 稀薄 な 意志 と 衆愚 の 妄動 だけ によって 一 国 の 運命 が 動い て いる 。
 65部長 だの 社長 の 前 で 個性 だの 独創 だの と 言い 出す と 顔 を そむけ て 馬鹿 な 奴 だ という 言外 の 表示 を 見せ て 、 兵隊さん よ 有難う 、 ああ 日の丸 の 感激 、 思わず 目頭 が 熱く なり 、 OK 、 新聞記者 とは それ だけ で 、 事実 、 時代 そのもの が それ だけ だ 。
 66師団長閣下 の 訓辞 を 三 分間 も かかっ て 長々 と 写す 必要 が あり ます か 、 職工達 の 毎朝 の ノリト の よう な 変テコ な 唄 を 一 から 十 まで 写す 必要 が ある の です か 、 と 訊い て みる と 、 部長 は プイ と 顔 を そむけ て 舌打ち し て やにわに 振向く と 貴重品 の 煙草 を グシャリ 灰皿 へ 押しつぶし て 睨みつけ て 、 おい 、 怒濤 の 時代 に 美 が 何物 だい 、 芸術 は 無力 だ ! ニュース だけ が 真実 な ん だ ! と 呶鳴る の で あっ た 。
 67演出家ども は 演出家ども で 、 企画部員 は 企画部員 で 、 徒党 を 組み 、 徳川時代 の 長脇差 と 同じ よう な 情誼 の 世界 を つくりだし 義理人情 で 才能 を 処理 し て 、 会社員 より も 会社員的 な 順番制度 を つくっ て いる 。
 68それ によって 各自 の 凡庸さ を 擁護 し 、 芸術 の 個性 と 天才 による 争覇 を 罪悪視 し 組合違反 と 心得 て 、 相互扶助 の 精神 による 才能 の 貧困 の 救済組織 を 完備 し て い た 。
 69内 に あっ て は 才能 の 貧困 の 救済組織 で ある けれども 外 に 出で て は アルコール の 獲得組織 で 、 この 徒党 は 国民酒場 を 占領 し 三四 本 ずつ ビール を 飲み 酔っ払っ て 芸術 を 論じ て いる 。
 70彼等 の 帽子 や 長髪 や ネクタイ や 上着 は 芸術家 で あっ た が 、 彼等 の 魂 や 根性 は 会社員 より も 会社員的 で あっ た 。
 71伊沢 は 芸術 の 独創 を 信じ 、 個性 の 独自性 を 諦める こと が でき ない ので 、 義理人情 の 制度 の 中 で 安息 する こと が でき ない ばかりか 、 その 凡庸さ と 低俗卑劣 な 魂 を 憎ま ずに い られ なかっ た 。
 72彼 は 徒党 の 除け者 と なり 、 挨拶 し て も 返事 も さ れ ず 、 中 に は 睨む 者 も ある 。
 73思いきっ て 社長室 へ 乗込ん で 、 戦争 と 芸術性 の 貧困 と に 理論上 の 必然性 が あり ます か 。 それとも 軍部 の 意思 です か 、 ただ 現実 を 写す だけ なら カメラ と 指 が 二三 本 ある だけ で 沢山 です よ 。 如何なる アングル によって 之 を 裁断 し 芸術 に 構成 する か という 特別 な 使命 の ため に 我々 芸術家 の 存在 が ――
 74社長 は 途中 に 顔 を そむけ て 苦り きっ て 煙草 を ふかし 、 お前 は なぜ 会社 を やめ ない の か 、 徴用 が 怖い から か 、 という 顔附 で 苦笑 を はじめ 、 会社 の 企画 通り 世間なみ の 仕事 に 精 を だす だけ で 、 それ で 月給 が 貰える なら よけい な こと を 考える な 、 生意気 すぎる という 顔附 に なり 、 一言 も 返事 せ ずに 、 帰れ という 身振り を 示す の で あっ た 。
 75賤業中 の 賤業 で なくて 何物 で あろ う か 。
 76ひと思い に 兵隊 に とら れ 、 考える 苦しさ から 救わ れる なら 、 弾丸 も 飢餓 も むしろ 太平楽 の よう に すら 思わ れる 時 が ある ほど だっ た 。
 77伊沢 の 会社 で は 「 ラバウル を 陥す な 」 とか 「 飛行機 を ラバウル へ ! 」 とか 企画 を たて コンテ を 作っ て いる うち に 米軍 は もう ラバウル を 通りこし て サイパン に 上陸 し て い た 。
 78「 サイパン決戦 ! 」
 79企画会議 も 終ら ぬ うち に サイパン 玉砕 、
 80その サイパン から 米機 が 頭上 に とび はじめ て いる 。
 81「 焼夷弾 の 消し方 」
 82「 空 の 体当り 」
 83「 ジャガ芋 の 作り方 」
 84「 一 機 も 生き て 返す まじ 」
 85「 節電 と 飛行機 」
 86不思議 な 情熱 で あっ た 。
 87底知れぬ 退屈 を 植えつける 奇妙 な 映画 が 次々 と 作ら れ 、 生フィルム は 欠乏 し 、 動く カメラ は 少なく なり 、 芸術家達 の 情熱 は 白熱的 に 狂躁 し 「 神風特攻隊 」 「 本土決戦 」 「 ああ桜は散りぬ 」 何もの か に 憑か れ た 如く 彼等 の 詩情 は 興奮 し て いる 。
 88そして 蒼ざめ た 紙 の 如く 退屈無限 の 映画 が つくら れ 、 明日 の 東京 は 廃墟 に なろ う と し て い た 。
 89伊沢 の 情熱 は 死ん で い た 。
 90朝 目 が さめる 。
 91今日 も 会社 へ 行く の か と 思う と 睡く なり 、 うとうと する と 警戒警報 が なりひびき 、 起き上り ゲートル を まき 煙草 を 一 本 ぬきだし て 火 を つける 。
 92ああ 会社 を 休む と この 煙草 が なくなる の だ な 、 と 考える の で あっ た 。
 93ある 晩 、 おそく なり 、 ようやく 終電 に とりつく こと の でき た 伊沢 は 、 すでに 私線 が なかっ た ので 、 相当 の 夜道 を 歩い て 我家 へ 戻っ て き た 。
 94あかり を つける と 奇妙 に 万年床 の 姿 が 見え ず 、 留守中 誰 か が 掃除 を し た という こと も 、 誰 か が 這入っ た こと すら も 例 が ない ので 訝り ながら 押入 を あける と 、 積み重ね た 蒲団 の 横 に 白痴 の 女 が かくれ て い た 。
 95不安 の 眼 で 伊沢 の 顔色 を うかがい 蒲団 の 間 へ 顔 を もぐら し て しまっ た が 、 伊沢 の 怒ら ぬ こと を 知る と 、 安堵 の ため に 親しさ が 溢れ 、 呆れる ぐらい 落着い て しまっ た 。
 96口 の 中 で ブツブツ と 呟く よう に しか 物 を 言わ ず 、 その 呟き も こっち の 訊ねる こと と 何 の 関係 も ない こと を ああ 言い 又 こう 言い 自分自身 の 思いつめ た こと だけ を それも 至極 漠然 と 要約 し て 断片的 に 言い綴っ て いる 。
 97伊沢 は 問わ ずに 事情 を さとり 、 多分 叱ら れ て 思い余っ て 逃げこん で 来 た の だろう と 思っ た から 、 無益 な 怯え を なるべく 与え ぬ 配慮 によって 質問 を 省略 し 、 いつごろ どこ から 這入っ て き た か という こと だけ を 訊ねる と 、 女 は 訳 の 分ら ぬ こと を あれこれ ブツブツ 言っ た あげく 、 片腕 を まくりあげ て 、 その 一 ヶ所 を なで て ( そこ に は カスリ傷 が つい て い た ) 、 私 、 痛い の 、 とか 、 今 も 痛む の 、 とか 、 さっき も 痛かっ た の 、 とか 、 色々 時間 を こまかく 区切っ て いる ので 、 ともかく 夜 に なっ て から 窓 から 這入っ た こと が 分っ た 。
 98跣足 で 外 を 歩き まわっ て 這入っ て き た から 部屋 を 泥 で よごし た 、 ごめんなさい ね 、 という 意味 も 言っ た けれども 、 あれこれ 無数 の 袋小路 を うろつき 廻る 呟き の 中 から 意味 を まとめ て 判断 する ので 、 ごめんなさい ね 、 が どの 道 に 連絡 し て いる の だ か 決定的 な 判断 は でき ない の だっ た 。
 99深夜 に 隣人 を 叩き起し て 怯え きっ た 女 を 返す の も やり にくい こと で あり 、 さりとて 夜 が 明け て 女 を 返し て 一 夜 泊め た という こと が 如何なる 誤解 を 生みだす か 、 相手 が 気違い の こと だ から 想像 すら も つか なかっ た 。
 100ままよ 、 伊沢 の 心 に は 奇妙 な 勇気 が 湧い て き た 。
 101その 実体 は 生活上 の 感情喪失 に対する 好奇心 と 刺戟 と の 魅力 に 惹か れ た だけ の もの で あっ た が 、 どうに でも なる が いい 、 ともかく この 現実 を 一 つ の 試錬 と 見る こと が 俺 の 生き方 に 必要 な だけ だ 。 白痴 の 女 の 一 夜 を 保護 する という 眼前 の 義務 以外 に 何 を 考え 何 を 怖れる 必要 も ない の だ と 自分自身 に 言いきかし た 。
 102彼 は この 唐突千万 な 出来事 に 変 に 感動 し て いる こと を 羞ず べき こと で は ない の だ と 自分自身 に 言いきかせ て い た 。
 103二 つ の 寝床 を しき 女 を ねせ て 電燈 を 消し て 一二 分 も し た か と 思う と 、 女 は 急 に 起き上り 寝床 を 脱け で て 、 部屋 の どこ か 片隅 に うずくまっ て いる らしい 。
 104それ が もし 真冬 で なけれ ば 伊沢 は 強いて こだわら ず 眠っ た かも知れなかっ た が 、 特別 寒い 夜更け で 、 一人 分 の 寝床 を 二人 に 分割 し た だけ で も 外気 が じかに 肌 に せまり 身体 の 顫え が とまら ぬ ぐらい 冷めたかっ た 。
 105起き上っ て 電燈 を つける と 、 女 は 戸口 の ところ に 襟 を かき合せ て うずくまっ て おり 、 まるで 逃げ場 を 失っ て 追いつめ られ た 眼 の 色 を し て いる 。
 106どう し た の 、 ねむり なさい 、 と 言え ば 呆気ない ほど すぐ 頷い て 再び 寝床 に もぐりこん だ が 、 電気 を 消し て 一二 分 も する と 、 又 、 同じ よう に 起き て しまう 。
 107それ を 寝床 へ つれもどし て 心配 する こと は ない 、 私 は あなた の 身体 に 手 を ふれる よう な こと は し ない から と 言いきかせる と 、 女 は 怯え た 眼附 を し て 何 か 言訳じみ た こと を 口 の 中 で ブツブツ 言っ て いる の で あっ た 。
 108その まま 三 たび目 の 電気 を 消す と 、 今度 は 女 は すぐ 起き上り 、 押入 の 戸 を あけ て 中 へ 這入っ て 内側 から 戸 を しめ た 。
 109この 執拗 な やり方 に 伊沢 は 腹 を 立て た 。
 110手荒く 押入 を 開け放し て あなた は 何 を 勘違い を し て いる の です か 、 あれ ほど 説明 も し て いる のに 押入 へ 這入っ て 戸 を しめる など と は 人 を 侮辱 する も 甚しい 、 それ ほど 信用 でき ない 家 へ なぜ 逃げこん で き た の です か 、 それ は 人 を 愚弄 し 、 私 の 人格 に 不当 な 恥 を 与え 、 まるで あなた が 何 か 被害者 の よう で は あり ませ ん か 、 茶番 も いい加減 に し たまえ 。
 111けれども その 言葉 の 意味 も この 女 に は 理解 する 能力 すら も ない の だ と 思う と 、 これ くらい 張合 の ない 馬鹿馬鹿しさ も ない もの で 女 の 横ッ面 を 殴りつけ て さっさと 眠る 方 が 何 より 気 が きい て いる と 思う の だっ た 。
 112すると 女 は 妙 に 割切れ ぬ 顔附 を し て 何 か 口 の 中 で ブツブツ 言っ て いる 、
 113私 は 帰り たい 、 私 は 来 なけれ ば よかっ た 、 という 意味 の 言葉 で ある らしい 。
 114でも 私 は もう 帰る ところ が なくなっ た から 、 と 言う ので 、 その 言葉 に は 伊沢 も さすが に 胸 を つか れ て 、 だから 、 安心 し て ここ で 一 夜 を 明かし たら いい でしょう 、 私 が 悪意 を もた ない のに まるで 被害者 の よう な 思いあがっ た こと を する から 腹 を 立て た だけ の こと です 、 押入 の 中 など に はいら ずに 蒲団 の 中 で おやすみ なさい 。
 115すると 女 は 伊沢 を 見つめ て 何 か 早口 に ブツブツ 言う 。
 116え ?
 117なん です か 、
 118そして 伊沢 は 飛び上る ほど 驚い た 。
 119なぜなら 女 の ブツブツ の 中 から 私 は あなた に 嫌わ れ て い ます もの 、 という 一 言 が ハッキリ ききとれ た から で ある 。
 120え 、 なん です って ?
 121伊沢 が 思わず 目 を 見開い て 訊き返す と 、 女 の 顔 は 悄然 と し て 、 私 は こ なけれ ば よかっ た 、 私 は きらわ れ て いる 、 私 は そう は 思っ て い なかっ た 、 という 意味 の 事 を くどくど と 言い 、 そして あらぬ 一 ヶ所 を 見つめ て 放心 し て しまっ た 。
 122伊沢 は はじめて 了解 し た 。
 123女 は 彼 を 怖れ て いる の で は なかっ た の だ 。
 124まるで 事態 は あべこべ だ 。
 125女 は 叱ら れ て 逃げ場 に 窮し て それ だけ の 理由 によって 来 た の で は ない 。
 126伊沢 の 愛情 を 目算 に 入れ て い た の で あっ た 。
 127だが いったい 女 が 伊沢 の 愛情 を 信じる こと が 起り 得る よう な 何事 が あっ た であろう か 。
 128豚小屋 の あたり や 路地 や 路上 で ヤア と 云っ て 四五 へん 挨拶 し た ぐらい 、
 129思えば すべて が 唐突 で 全く 茶番 に 外なら ず 、 伊沢 の 前 に 白痴 の 意志 や 感受性 や 、 ともかく 人間 以外 の もの が 強要 さ れ て いる だけ だっ た 。
 130電燈 を 消し て 一二 分 たち 男 の 手 が 女 の からだ に 触れ ない ため に 嫌わ れ た 自覚 を いだい て 、 その 羞しさ に 蒲団 を ぬけだす という こと が 、 白痴 の 場合 は それ が 真実 悲痛 な こと で ある の か 、 伊沢 が それ を 信じ て いい の か 、 これ も ハッキリ は 分ら ない 。
 131遂に は 押入 へ 閉じこもる 。
 132それ が 白痴 の 恥辱 と 自卑 の 表現 と 解し て いい の か 、 それ を 判断 する 為 の 言葉 すら も ない の だ から 、 事態 は ともかく 彼 が 白痴 と 同格 に 成り下る 以外 に 法 が ない 。
 133なまじい に 人間らしい 分別 が 、 なぜ 必要 で あろ う か 。
 134白痴 の 心 の 素直さ を 彼 自身 も 亦 もつ こと が 人間 の 恥辱 で あろ う か 。
 135俺 に も この 白痴 の よう な 心 、 幼い 、 そして 素直 な 心 が 何 より 必要 だっ た の だ 。
 136俺 は それ を どこ か へ 忘れ 、 ただ あくせく し た 人間共 の 思考 の 中 で うすぎたなく 汚れ 、 虚妄 の 影 を 追い 、 ひどく 疲れ て い た だけ だ 。
 137彼 は 女 を 寝床 へ ねせ て 、 その 枕元 に 坐り 、 自分 の 子供 、 三 ツ か 四 ツ の 小さな 娘 を ねむら せる よう に 額 の 髪の毛 を なで て やる と 、 女 は ボンヤリ 眼 を あけ て 、 それ が まったく 幼い 子供 の 無心さ と 変る ところ が ない の で あっ た 。
 138私 は あなた を 嫌っ て いる の で は ない 、 人間 の 愛情 の 表現 は 決して 肉体 だけ の もの で は なく 、 人間 の 最後 の 住みか は ふるさと で 、 あなた は いわば 常に その ふるさと の 住人 の よう な もの な の だ から 、 など と 伊沢 も 始め は 妙 に しかつめらしく そんな こと も 言いかけ て み た が 、 もとより それ が 通じる わけ で は ない の だ し 、 いったい 言葉 が 何物 で あろ う か 、 何 ほど の 値打 が ある の だろう か 、 人間 の 愛情 すら も それ だけ が 真実 の もの だ という 何 の あかし も あり 得 ない 、
 139生 の 情熱 を 託する に 足る 真実 な もの が 果して どこ に 有り 得る の か 、
 140すべて は 虚妄 の 影 だけ だ 。
 141女 の 髪の毛 を なで て いる と 、 慟哭 し たい 思い が こみあげ 、 さだまる 影 すら も ない この 捉え がたい 小さな 愛情 が 自分 の 一生 の 宿命 で ある よう な 、 その 宿命 の 髪の毛 を 無心 に なで て いる よう な 切ない 思い に なる の で あっ た 。
 142この 戦争 は いったい どう なる の であろう 。
 143日本 は 負け 米軍 は 本土 に 上陸 し て 日本人 の 大半 は 死滅 し て しまう の かも知れない 。
 144それ は もう 一 つ の 超自然 の 運命 、 いわば 天命 の よう に しか 思わ れ なかっ た 。
 145彼 に は 然し もっと 卑小 な 問題 が あっ た 。
 146それ は 驚く ほど 卑小 な 問題 で 、 しかも 眼 の 先 に 差迫り 、 常に ちらつい て 放れ なかっ た 。
 147それ は 彼 が 会社 から 貰う 二百 円 ほど の 給料 で 、 その 給料 を いつ まで 貰う こと が できる か 、 明日 に も クビ に なり 路頭 に 迷い は し ない か という 不安 で あっ た 。
 148彼 は 月給 を 貰う 時 、 同時 に クビ の 宣告 を 受け は し ない か と ビクビク し 、 月給袋 を 受取る と 一 月 延び た 命 の ため に 呆れる ぐらい 幸福感 を 味う の だ が 、 その 卑小さ を 顧み て いつも 泣き たく なる の で あっ た 。
 149彼 は 芸術 を 夢み て い た 。
 150その 芸術 の 前 で は ただ 一 粒 の 塵埃 で しか ない よう な 二百 円 の 給料 が どうして 骨身 に からみつき 、 生存 の 根底 を ゆさぶる よう な 大きな 苦悶 に なる の であろう か 。
 151生活 の 外形 のみ の こと で は なく その 精神 も 魂 も 二百 円 に 限定 さ れ 、 その 卑小さ を 凝視 し て 気 も 違わ ずに 平然 と し て いる こと が 尚更 なさけなく なる ばかり で あっ た 。
 152怒濤 の 時代 に 美 が 何物 だい 。
 153芸術 は 無力 だ ! という 部長 の 馬鹿馬鹿しい 大声 が 、 伊沢 の 胸 に まるで 違っ た 真実 を こめ 鋭い そして 巨大 な 力 で 食いこん で くる 。
 154ああ 日本 は 敗ける 。
 155泥人形 の くずれる よう に 同胞たち が バタバタ 倒れ 、 吹きあげる コンクリート や 煉瓦 の 屑 と 一緒くた に 無数 の 脚 だの 首 だの 腕 だの が 舞いあがり 、 木 も 建物 も 何 も ない 平 な 墓地 に なっ て しまう 。
 156どこ へ 逃げ 、 どの 穴 へ 追いつめ られ 、 どこ で 穴 もろとも 吹きとばさ れ て しまう の だ か 、
 157夢 の よう な 、 けれども それ は もし 生き残る こと が でき たら 、 その 新鮮 な 再生 の ため に 、 そして 全然 予測 の つか ない 新世界 、 石屑だらけ の 野原 の 上 の 生活 の ため に 、 伊沢 は むしろ 好奇心 が うずく の だっ た 。
 158それ は 半 年 か 一 年 さき の 当然 訪れる 運命 だっ た が 、 その 訪れ の 当然さ にも拘らず 、 夢 の 中 の 世界 の よう な 遥か な 戯れ に しか 意識 さ れ て い なかっ た 。
 159眼 の さき の 全べて を ふさぎ 、 生きる 希望 を 根こそぎ さらい去る たった 二百 円 の 決定的 な 力 、
 160夢 の 中 に まで 二百 円 に 首 を しめら れ 、 うなされ 、 まだ 二十七 の 青春 の あらゆる 情熱 が 漂白 さ れ て 、 現実 に すでに 暗黒 の 曠野 の 上 を 茫々 と 歩く だけ で は ない か 。
 161伊沢 は 女 が 欲しかっ た 。
 162女 が 欲しい という 声 は 伊沢 の 最大 の 希望 で すら あっ た のに 、 その 女 と の 生活 が 二百 円 に 限定 さ れ 、 鍋 だの 釜 だの 味噌 だの 米 だの みんな 二百 円 の 咒文 を 負い 、 二百 円 の 咒文 に 憑か れ た 子供 が 生まれ 、 女 が まるで 手先 の よう に 咒文 に 憑か れ た 鬼 と 化し て 日々 ブツブツ 呟い て いる 。
 163胸 の 灯 も 芸術 も 希望 の 光 も みんな 消え て 、 生活 自体 が 道ばた の 馬糞 の よう に グチャグチャ に 踏みしだか れ て 、 乾きあがっ て 風 に 吹か れ て 飛びちり 跡形 も なくなっ て 行く 。
 164爪 の 跡 すら 、 なくなっ て 行く 。
 165女 の 背 に は そういう 咒文 が 絡みつい て いる の で あっ た 。
 166やりきれない 卑小 な 生活 だっ た 。
 167彼 自身 に は この 現実 の 卑小さ を 裁く 力 すら も ない 。
 168ああ 戦争 、 この 偉大 なる 破壊 、 奇妙奇天烈 な 公平さ で みんな 裁か れ 日本中 が 石屑だらけ の 野原 に なり 泥人形 が バタバタ 倒れ 、 それ は 虚無 の なんという 切ない 巨大 な 愛情 だろう か 。
 169破壊 の 神 の 腕 の 中 で 彼 は 眠りこけ たく なり 、 そして 彼 は 警報 が なる と むしろ 生き生き し て ゲートル を まく の で あっ た 。
 170生命 の 不安 と 遊ぶ こと だけ が 毎日 の 生きがい だっ た 。
 171警報 が 解除 に なる と ガッカリ し て 、 絶望的 な 感情 の 喪失 が 又 はじまる の で あっ た 。
 172この 白痴 の 女 は 米 を 炊く こと も 味噌汁 を つくる こと も 知ら ない 。
 173配給 の 行列 に 立っ て いる の が 精一杯 で 、 喋る こと すら も 自由 で は ない の だ 。
 174まるで 最も 薄い 一 枚 の ガラス の よう に 喜怒哀楽 の 微風 に すら 反響 し 、 放心 と 怯え の 皺 の 間 へ 人 の 意志 を 受け入れ 通過 さ せ て いる だけ だ 。
 175二百 円 の 悪霊 すら も 、 この 魂 に は 宿る こと が でき ない の だ 。
 176この 女 は まるで 俺 の ため に 造ら れ た 悲しい 人形 の よう で は ない か 。
 177伊沢 は この 女 と 抱き 合い 、 暗い 曠野 を 飄々 と 風 に 吹か れ て 歩い て いる 、 無限 の 旅路 を 目 に 描い た 。
 178それ にも拘らず 、 その 想念 が 何 か 突飛 に 感じ られ 、 途方もない 馬鹿げ た こと の よう に 思わ れる の は 、 そこ に も 亦 卑小 きわまる 人間 の 殻 が 心 の 芯 を むしばん で いる せい な の だろう 。
 179そして それ を 知り ながら 、 しかも 尚 、 わきでる よう な この 想念 と 愛情 の 素直さ が 全然 虚妄 の もの に しか 感じ られ ない の は なぜ だろう 。
 180白痴 の 女 より も あの アパート の 淫売婦 が 、 そして どこ か の 貴婦人 が より 人間的 だ という 何 か 本質的 な 掟 が 在る の だろう か 。
 181けれども まるで その 掟 が 厳 と し て 存在 し て いる 馬鹿馬鹿しい 有様 な の で あっ た 。
 182俺 は 何 を 怖れ て いる の だろう か 。
 183まるで あの 二百 円 の 悪霊 が ――
 184俺 は 今 この 女 によって その 悪霊 と 絶縁 し よう と し て いる のに 、 その くせ 矢張り 悪霊 の 咒文 によって 縛りつけ られ て いる で は ない か 。
 185怖れ て いる の は ただ 世間 の 見栄 だけ だ 。
 186その 世間 とは アパート の 淫売婦 だの 妾 だの 姙娠 し た 挺身隊 だの 家鴨 の よう な 鼻 に かかっ た 声 を だし て 喚い て いる オカミサン達 の 行列会議 だけ の こと だ 。
 187その ほか に 世間 など は どこ に も あり は し ない のに 、 その くせ この 分り きっ た 事実 を 俺 は 全然 信じ て い ない 。
 188不思議 な 掟 に 怯え て いる の だ 。
 189それ は 驚く ほど 短い ( 同時 に それ は 無限 に 長い ) 一 夜 で あっ た 。
 190長い 夜 の まるで 無限 の 続き だ と 思っ て い た のに 、 いつ かしら 夜 が 白み 、 夜明け の 寒気 が 彼 の 全身 を 感覚 の ない 石 の よう に かたまら せ て い た 。
 191彼 は 女 の 枕元 で 、 ただ 髪の毛 を なで つづけ て い た の で あっ た 。
 192その 日 から 別 な 生活 が はじまっ た 。
 193けれども それ は 一 つ の 家 に 女 の 肉体 が ふえ た という こと の 外 に は 別 で も なけれ ば 変っ て すら も い なかっ た 。
 194それ は まるで 嘘 の よう な 空々しさ で 、 たしか に 彼 の 身辺 に 、 そして 彼 の 精神 に 、 新た な 芽生え の 唯 一 本 の 穂先 すら 見出す こと が でき ない の だ 。
 195その 出来事 の 異常さ を ともかく 理性的 に 納得 し て いる という だけ で 、 生活 自体 に 机 の 置き場所 が 変っ た ほど の 変化 も 起き て は い なかっ た 。
 196彼 は 毎朝 出勤 し 、 その 留守宅 の 押入 の 中 に 一人 の 白痴 が 残さ れ て 彼 の 帰り を 待っ て いる 。
 197しかも 彼 は 一足 でる と 、 もう 白痴 の 女 の こと など は 忘れ て おり 、 何 か そういう 出来事 が もう 記憶 に も 定か で は ない 十 年 二十 年 前 に 行わ れ て い た か の よう な 遠い 気持 が する だけ だっ た 。
 198戦争 という 奴 が 、 不思議 に 健全 な 健忘性 な の で あっ た 。
 199まったく 戦争 の 驚く べき 破壊力 や 空間 の 変転性 という 奴 は たった 一 日 が 何百 年 の 変化 を 起し 、 一 週間 前 の 出来事 が 数 年 前 の 出来事 に 思わ れ 、 一 年 前 の 出来事 など は 、 記憶 の 最も どん底 の 下積 の 底 へ 隔て られ て い た 。
 200伊沢 の 近く の 道路 だの 工場 の 四囲 の 建物 など が 取りこわさ れ 町 全体 が ただ 舞いあがる 埃 の よう な 疎開騒ぎ を やらかし た の も つい 先頃 の こと で あり 、 その 跡 すら も 片づい て い ない のに 、 それ は もう 一 年 前 の 騒ぎ の よう に 遠ざかり 、 街 の 様相 を 一変 する 大きな 変化 が 二 度目 に それ を 眺める 時 に は ただ 当然 な 風景 で しか なく なっ て い た 。
 201その 健康 な 健忘性 の 雑多 な カケラ の 一 つ の 中 に 白痴 の 女 が やっぱり 霞ん で いる 。
 202昨日 まで 行列 し て い た 駅前 の 居酒屋 の 疎開跡 の 棒切れ だの 爆弾 に 破壊 さ れ た ビル の 穴 だの 街 の 焼跡 だの 、 それら の 雑多 の カケラ の 間 に はさま れ て 白痴 の 顔 が ころがっ て いる だけ だっ た 。
 203けれども 毎日 警戒警報 が なる 。
 204時に は 空襲警報 も なる 。
 205すると 彼 は 非常 に 不愉快 な 精神状態 に なる の で あっ た 。
 206それ は 彼 の 留守宅 の 近い ところ に 空襲 が あり 知ら ない 変化 が 現に 起っ て い ない か という 懸念 で あっ た が 、 その 懸念 の 唯一 の 理由 は ただ 女 が とりみだし て 、 とびだし て すべて が 近隣 へ 知れ渡っ て い ない か という 不安 な の だっ た 。
 207知ら ない 変化 の 不安 の ため に 、 彼 は 毎日 明るい うち に 家 へ 帰る こと が でき なかっ た 。
 208この 低俗 な 不安 を 克服 し 得 ぬ 惨めさ に 幾 たび 虚しく 反抗 し た か 、
 209彼 は せめて 仕立屋 に 全て を 打開け て しまい たい と 思う の だっ た が 、 その 卑劣さ に 絶望 し て 、 なぜなら それ は 被害 の 最も 軽少 な 告白 を 行う こと によって 不安 を まぎらす 惨め な 手段 に すぎ ない ので 、 彼 は 自分 の 本質 が 低俗 な 世間なみ に すぎ ない こと を 咒い 憤る のみ だっ た 。
 210彼 に は 忘れ 得 ぬ 二 つ の 白痴 の 顔 が あっ た 。
 211街角 を 曲る 時 だの 、 会社 の 階段 を 登る 時 だの 、 電車 の 人ごみ を 脱けでる 時 だの 、 はから ざる 随所 に 二 つ の 顔 を ふと 思いだし 、 その たび に 彼 の 一切 の 思念 が 凍り 、 そして 一瞬 の 逆上 が 絶望的 に 凍りつい て いる の で あっ た 。
 212その 顔 の 一 つ は 彼 が 始めて 白痴 の 肉体 に ふれ た 時 の 白痴 の 顔 だ 。
 213そして その 出来事 自体 は その 翌日 に は 一 年 昔 の 記憶 の 彼方 へ 遠ざけ られ て いる の で あっ た が 、 ただ 顔 だけ が 切り放さ れ て 思いださ れ て くる の で ある 。
 214その 日 から 白痴 の 女 は ただ 待ちもうけ て いる 肉体 で ある に すぎ ず その 外 の 何 の 生活 も 、 ただ ひと きれ の 考え すら も ない の で あっ た 。
 215常に ただ 待ちもうけ て い た 。
 216伊沢 の 手 が 女 の 肉体 の 一部 に ふれる という だけ で 、 女 の 意識 する 全部 の こと は 肉体 の 行為 で あり 、 そして 身体 も 、 そして 顔 も 、 ただ 待ちもうけ て いる のみ で あっ た 。
 217驚く べき こと に 、 深夜 、 伊沢 の 手 が 女 に ふれる という だけ で 、 眠り痴れ た 肉体 が 同一 の 反応 を 起し 、 肉体 のみ は 常に 生き 、 ただ 待ちもうけ て いる の で ある 。
 218眠り ながら も !
 219けれども 、 目覚め て いる 女 の 頭 に 何事 が 考え られ て いる か と 云え ば 、 元々 ただ の 空虚 で あり 、 在る もの は ただ 魂 の 昏睡 と 、 そして 生き て いる 肉体 のみ で は ない か 。
 220目覚め た 時 も 魂 は ねむり 、 ねむっ た 時 も その 肉体 は 目覚め て いる 。
 221在る もの は ただ 無自覚 な 肉慾 のみ 。
 222それ は あらゆる 時間 に 目覚め 、 虫 の 如き 倦ま ざる 反応 の 蠢動 を 起す 肉体 で ある に すぎ ない 。
 223も 一 つ の 顔 、 それ は 折 から 伊沢 の 休み の 日 で あっ た が 、 白昼 遠から ぬ 地区 に 二 時間 にわたる 爆撃 が あり 、 防空壕 を もた ない 伊沢 は 女 と共に 押入 に もぐり 蒲団 を 楯 に かくれ て い た 。
 224爆撃 は 伊沢 の 家 から 四五百 米 離れ た 地区 へ 集中 し た が 、 地軸 もろとも 家 は ゆれ 、 爆撃 の 音 と 同時 に 呼吸 も 思念 も 中絶 する 。
 225同じ よう に 落ち て くる 爆弾 で も 焼夷弾 と 爆弾 で は 凄み において 青大将 と 蝮 ぐらい の 相違 が あり 、 焼夷弾 に は ガラガラ という 特別 不気味 な 音響 が 仕掛け て あっ て も 地上 の 爆発音 が ない の だ から 音 は 頭上 で スウと 消え失せ 、 竜頭蛇尾 とは この こと で 、 蛇尾 どころか 全然 尻尾 が なくなる の だ から 、 決定的 な 恐怖感 に 欠け て いる 。
 226けれども 爆弾 という 奴 は 、 落下音 こそ 小さく 低い が 、 ザア という 雨降り の 音 の よう な ただ 一 本 の 棒 を ひき 、 此奴 が 最後 に 地軸 もろとも 引裂く よう な 爆発音 を 起す の だ から 、 ただ 一 本 の 棒 に こもっ た 充実 し た 凄味 といったら 論外 で 、 ズドズドズド と 爆発 の 足 が 近づく 時 の 絶望的 な 恐怖 と き て は 額面通り に 生き た 心持 が ない の で ある 。
 227おまけ に 飛行機 の 高度 が 高い ので 、 ブンブン という 頭上 通過 の 米機 の 音 も 至極 かすか に 何食わぬ 風 に 響い て い て 、 それ は まるで よそ見 を し て いる 怪物 に 大きな 斧 で 殴りつけ られる よう な もの だ 。
 228攻撃 する 相手 の 様子 が 不確か だ から 爆音 の 唸り の 変 な 遠さ が 、 甚だ 不安 で ある ところ へ 、 そこ から ザア と 雨降り の 棒 一 本 の 落下音 が のび て くる 。
 229爆発 を 待つ ま の 恐怖 、
 230全く 此奴 は 言葉 も 呼吸 も 思念 も とまる 。
 231愈々 今度 は お陀仏 だ という 絶望 が 発狂 寸前 の 冷たさ で 生き て 光っ て いる だけ だ 。
 232伊沢 の 小屋 は 幸い 四 方 が アパート だの 気違い だの 仕立屋 など の 二 階屋 で とりかこま れ て い た ので 、 近隣 の 家 は 窓ガラス が われ 屋根 の 傷ん だ 家 も あっ た が 、 彼 の 小屋 のみ ガラス に 罅 すら も はいら なかっ た 。
 233ただ 豚小屋 の 前 の 畑 に 血だらけ の 防空頭巾 が 落ち て き た ばかり で あっ た 。
 234押入 の 中 で 、 伊沢 の 目 だけ が 光っ て い た 。
 235彼 は 見 た 。
 236白痴 の 顔 を 。
 237虚空 を つかむ その 絶望 の 苦悶 を 。
 238ああ 人間 に は 理智 が ある 。
 239如何なる 時 に も 尚 いくら か の 抑制 や 抵抗 は 影 を とどめ て いる もの だ 。
 240その 影 ほど の 理智 も 抑制 も 抵抗 も ない という こと が 、 これ ほど あさましい もの だ とは !
 241女 の 顔 と 全身 に ただ 死 の 窓 へ ひらか れ た 恐怖 と 苦悶 が 凝り つい て い た 。
 242苦悶 は 動き 苦悶 は もがき 、 そして 苦悶 が 一 滴 の 涙 を 落し て いる 。
 243もし 犬 の 眼 が 涙 を 流す なら 犬 が 笑う と 同様 に 醜怪 きわまる もの で あろ う 。
 244影 すら も 理智 の ない 涙 とは 、 これ ほど も 醜悪 な もの だ とは !
 245爆撃 の さ中 に於て 四五 歳 乃至 六七 歳 の 幼児達 は 奇妙 に 泣か ない もの で ある 。
 246彼等 の 心臓 は 波 の よう な 動悸 を うち 、 彼等 の 言葉 は 失わ れ 、 異様 な 目 を 大きく 見開い て いる だけ だ 。
 247全身 に 生き て いる の は 目 だけ で ある が 、 それ は 一見 し た ところ 、 ただ 大きく 見開か れ て いる だけ で 、 必ずしも 不安 や 恐怖 という もの の 直接 劇的 な 表情 を 刻ん で いる と いう ほど で は ない 。
 248むしろ 本来 の 子供 より も 却って 理智的 に 思わ れる ほど 情意 を 静か に 殺し て いる 。
 249その 瞬間 に は あらゆる 大人 も それ だけ で 、 或いは むしろ それ 以下 で 、 なぜなら むしろ 露骨 な 不安 や 死 へ の 苦悶 を 表わす から で 、 いわば 子供 が 大人 より も 埋智的 に すら 見える の だっ た 。
 250白痴 の 苦悶 は 、 子供達 の 大きな 目 と は 似ても似つかぬ もの で あっ た 。
 251それ は ただ 本能的 な 死 へ の 恐怖 と 死 へ の 苦悶 が ある だけ で 、 それ は 人間 の もの で は なく 、 虫 の もの で すら も なく 、 醜悪 な 一 つ の 動き が ある のみ だっ た 。
 252やや 似 た もの が ある と すれ ば 、 一 寸 五 分 ほど の 芋虫 が 五 尺 の 長さ に ふくれあがっ て もがい て いる 動き ぐらい の もの だろう 。
 253そして 目 に 一 滴 の 涙 を こぼし て いる の で ある 。
 254言葉 も 叫び も 呻き も なく 、 表情 も なかっ た 。
 255伊沢 の 存在 すら も 意識 し て は い なかっ た 。
 256人間 ならば かほど の 孤独 が 有り 得る 筈 は ない 。
 257男 と 女 と ただ 二人 押入 に い て 、 その 一方 の 存在 を 忘れ果てる という こと が 、 人 の 場合 に 有り 得 べき 筈 は ない 。
 258人 は 絶対 の 孤独 と いう が 他 の 存在 を 自覚 し て のみ 絶対 の 孤独 も 有り 得る ので 、 かほど まで 盲目的 な 、 無自覚 な 、 絶対 の 孤独 が 有り 得 よう か 。
 259それ は 芋虫 の 孤独 で あり 、 その 絶対 の 孤独 の 相 の あさましさ 。
 260心 の 影 の 片鱗 も ない 苦悶 の 相 の 見るに堪えぬ 醜悪さ 。
 261爆撃 が 終っ た 。
 262伊沢 は 女 を 抱き起し た が 、 伊沢 の 指 の 一 本 が 胸 に ふれ て も 反応 を 起す 女 が 、 その 肉慾 すら 失っ て い た 。
 263この むくろ を 抱い て 無限 に 落下 し つづけ て いる 、
 264暗い 、 暗い 、 無限 の 落下 が ある だけ だっ た 。
 265彼 は その 日 爆撃 直後 に 散歩 に で て 、 なぎ倒さ れ た 民家 の 間 で 吹きとばさ れ た 女 の 脚 も 、 腸 の とびだし た 女 の 腹 も 、 ねじきれ た 女 の 首 も 見 た の で あっ た 。
 266三 月 十 日 の 大空襲 の 焼跡 も まだ 吹きあげる 煙 を くぐっ て 伊沢 は 当 も なく 歩い て い た 。
 267人間 が 焼鳥 と 同じ よう に あっちこっち に 死ん で いる 。
 268ひとかたまり に 死ん で いる 。
 269まったく 焼鳥 と 同じ こと だ 。
 270怖く も なけれ ば 、 汚く も ない 。
 271犬 と 並ん で 同じ よう に 焼か れ て いる 死体 も ある が 、 それ は 全く 犬死 で 、 然し そこ に は その 犬死 の 悲痛さ も 感慨 すら も 有り は し ない 。
 272人間 が 犬 の 如く に 死ん で いる の で は なく 、 犬 と 、 そして 、 それ と 同じ よう な 何物 か が 、 ちょうど 一 皿 の 焼鳥 の よう に 盛ら れ 並べ られ て いる だけ だっ た 。
 273犬 で も なく 、 もとより 人間 で すら も ない 。
 274白痴 の 女 が 焼け死ん だら ―― 土 から 作ら れ た 人形 が 土 に かえる だけ で は ない か 。
 275もし この 街 に 焼夷弾 の ふりそそぐ 夜 が き たら ……
 276伊沢 は それ を 考える と 、 変 に 落着い て 沈み考え て いる 自分 の 姿 と 自分 の 顔 、 自分 の 目 を 意識 せ ずに い られ なかっ た 。
 277俺 は 落着い て いる 。
 278そして 、 空襲 を 待っ て いる 。
 279よかろ う 。
 280彼 は せせら笑う の だっ た 。
 281俺 は ただ 醜悪 な もの が 嫌い な だけ だ 。
 282そして 、 元々 魂 の ない 肉体 が 焼け て 死ぬ だけ の こと で は ない か 。
 283俺 は 女 を 殺し は し ない 。
 284俺 は 卑劣 で 、 低俗 な 男 だ 。
 285俺 に は それ だけ の 度胸 は ない 。
 286だが 、 戦争 が たぶん 女 を 殺す だろう 。
 287その 戦争 の 冷酷 な 手 を 女 の 頭上 へ 向ける ため の ちょっとした 手掛り だけ を つかめ ば いい の だ 。
 288俺 は 知ら ない 。
 289多分 、 何 か ある 瞬間 が 、 それ を 自然 に 解決 し て いる に すぎ ない だろう 。
 290そして 伊沢 は 空襲 を きわめて 冷静 に 待ち構え て い た 。
 291それ は 四 月 十五 日 で あっ た 。
 292その 二 日 前 、 十三 日 に 、 東京 で は 二 度目 の 夜間大空襲 が あり 、 池袋 だの 巣鴨 だの 山手方面 に 被害 が あっ た が 、 たまたま その 罹災証明 が 手にはいっ た ので 、 伊沢 は 埼玉 へ 買出し に でかけ 、 いくら か の 米 を リュック に 背負っ て 帰っ て 来 た 。
 293彼 が 家 へ 着く と同時に 警戒警報 が 鳴り だし た 。
 294次 の 東京 の 空襲 が この 街 の あたり だろう という こと は 焼け残り の 地域 を 考えれ ば 誰 に も 想像 の つく こと で 、 早けれ ば 明日 、 遅く とも 一 ヶ月 とは かから ない この 街 の 運命 の 日 が 近づい て いる 。
 295早けれ ば 明日 と 考え た の は 、 これ まで の 空襲 の 速度 、 編隊夜間爆撃 の 準備期間 の 間隔 が 早く て 明日 ぐらい で あっ た から で 、 この 日 が その 日 に なろ う と は 伊沢 は 予想 し て い なかっ た 。
 296それ故 買出し に も 出掛け た ので 、 買出し と 云っ て も 目的 は 他 に も あり 、 この 農家 は 伊沢 の 学生時代 に 縁故 の あっ た 家 で あり 、 彼 は 二 つ の トランク と リュック に つめ た 物品 を 預ける こと が むしろ 主要 な 目的 で あっ た 。
 297伊沢 は 疲れ きっ て い た 。
 298旅装 は 防空服装 で も あっ た から 、 リュック を 枕 に その まま 部屋 の まんなか に ひっくりかえっ て 、 彼 は 実際 この 差しせまっ た 時間 に うとうと と ねむっ て しまっ た 。
 299ふと 目 が さめる と 諸方 の ラジオ は がんがん がなりたて て おり 、 編隊 の 先頭 は もう 伊豆 南端 に せまり 、 伊豆 南端 を 通過 し た 。
 300同時 に 空襲警報 が なり だし た 。
 301愈々 この 街 の 最後 の 日 だ 、
 302伊沢 は 直覚 し た 。
 303白痴 を 押入 の 中 に 入れ 、 伊沢 は タオル を ぶらさげ 歯ブラシ を くわえ て 井戸端 へ でかけ た が 、 伊沢 は その 数 日 前 に ライオン煉歯磨 を 手に入れ 長い 間 忘れ て い た 煉歯磨 の 口中 に しみわたる 爽快さ を なつかしん で い た ので 、 運命 の 日 を 直覚 する と どういう わけ だ か 歯 を みがき 顔 を 洗う 気 に なっ た が 、 第一 に その 煉歯磨 が 当然 ある べき 場所 から ほんの ちょっと 動い て い た だけ で 長い 時間 ( それ は 実に 長い 時間 に 思わ れ た ) 見当ら ず 、 ようやく それ を 見附ける と 今度 は 石鹸 ( この 石鹸 も 芳香 の ある 昔 の 化粧石鹸 ) が これ も ちょっと 場所 が 動い て い た だけ で 長い 時間 見当ら ず 、
 304ああ 俺 は 慌て て いる な 、
 305落着け 、
 306落着け 、
 307頭 を 戸棚 に ぶつけ たり 机 に つまずい たり 、 その ため に 彼 は 暫時 の 間 一切 の 動き と 思念 を 中絶 さ せ て 精神統一 を はかろ う と する が 、 身体 自体 が 本能的 に 慌て だし て 滑り動い て 行く の で ある 。
 308ようやく 石鹸 を 見つけだし て 井戸端 へ 出る と 仕立屋夫婦 が 畑 の 隅 の 防空壕 へ 荷物 を 投げこん で おり 、 家鴨 に よく 似 た 屋根裏 の 娘 が 荷物 を ブラさげ て うろうろ し て い た 。
 309伊沢 は ともかく 煉歯磨 と 石鹸 を 断念 せ ずに 突きとめ た 執拗さ を 祝福 し 、 果して この 夜 の 運命 は どう なる の だろう と 思っ た 。
 310まだ 顔 を ふき 終ら ぬ うち に 高射砲 が なり はじめ 、 頭 を あげる と 、 もう 頭上 に 十何 本 の 照空燈 が 入りみだれ て 真上 を さし て 騒い で おり 、 光芒 の まんなか に 米機 が ぽっかり 浮い て いる 。
 311つづい て 一 機 、 また 一 機 、 ふと 目 を 下方 へ おろし たら 、 もう 駅前 の 方角 が 火 の 海 に なっ て い た 。
 312愈々 来 た 。
 313事態 が ハッキリ する と 伊沢 は ようやく 落着い た 。
 314防空頭巾 を かぶり 、 蒲団 を かぶっ て 軒先 に 立ち 二十四 機 まで 伊沢 は 数え た 。
 315ポッカリ 光芒 の まんなか に 浮い て 、 みんな 頭上 を 通過 し て いる 。
 316高射砲 の 音 だけ が 気 が 違っ た よう に 鳴り つづけ 、 爆撃 の 音 は 一向に 起ら ない 。
 317二十五 機 を 数える 時 から 例の ガラガラ と ガード の 上 を 貨物列車 が 駆け去る 時 の よう な 焼夷弾 の 落下音 が 鳴り 始め た が 、 伊沢 の 頭上 を 通り越し て 、 後方 の 工場地帯 へ 集中 さ れ て いる らしい 。
 318軒先 から は 見え ない ので 豚小屋 の 前 まで 行っ て 後 を 見る と 、 工場地帯 は 火 の 海 で 、 呆れ た こと に は 今 迄 頭上 を 通過 し て い た 飛行機 と 正反対 の 方向 から も 次々 と 米機 が 来 て 後方 一帯 に 爆撃 を 加え て いる の だ 。
 319すると もう ラジオ は とまり 、 空 一面 は 赤々 と 厚い 煙 の 幕 に かくれ て 、 米機 の 姿 も 照空燈 の 光芒 も 全く 視界 から 失わ れ て しまっ た 。
 320北方 の 一角 を 残し て 四周 は 火 の 海 と なり 、 その 火 の 海 が 次第に 近づい て い た 。
 321仕立屋夫婦 は 用心深い 人達 で 、 常 から 防空壕 を 荷物用 に 造っ て あり 目張り の 泥 も 用意 し て おき 、 万事 手順通り に 防空壕 に 荷物 を つめこみ 目張り を ぬり 、 その 又 上 へ 畑 の 土 も かけ 終っ て い た 。
 322この 火 じゃ とても 駄目 です ね 。
 323仕立屋 は 昔 の 火消し の 装束 で 腕組み を し て 火の手 を 眺め て い た 。
 324消せ ったって 、 これ じゃ 無理 だ 。
 325あたしゃ もう 逃げ ます よ 。
 326煙 に まか れ て 死ん で み て も 始まら ねえ や 、
 327仕立屋 は リヤカー に 一山 の 荷物 を つみこん で おり 、
 328先生 、 いっしょ に 引上げ ましょ う 。
 329伊沢 は その とき 、 騒々しい ほど 複雑 な 恐怖感 に 襲わ れ た 。
 330彼 の 身体 は 仕立屋 と 一緒 に 滑り かけ て いる の で あっ た が 、 身体 の 動き を ふりきる よう な 一 つ の 心 の 抵抗 で 滑り を 止める と 、 心 の 中 の 一角 から 張りさける よう な 悲鳴 の 声 が 同時 に 起っ た よう な 気 が し た 。
 331この 一瞬 の 遅延 の 為 に 焼け て 死ぬ 、
 332彼 は 殆ど 恐怖 の ため に 放心 し た が 、 再び ともかく 自然 に よろめき だす よう な 身体 の 滑り を こらえ て い た 。
 333「 僕 は ね 、 ともかく 、 もう ちょっと 、 残り ます よ 。
 334僕 は ね 、 仕事 が ある の だ 。
 335僕 は ね 、 ともかく 芸人 だ から 、 命 の とことん の 所 で 自分 の 姿 を 見凝め 得る よう な 機会 に は 、 その とことん の 所 で 最後 の 取引 を し て みる こと を 要求 さ れ て いる の だ 。
 336僕 は 逃げ たい が 、 逃げ られ ない の だ 。
 337この 機会 を 逃がす わけ に 行か ない の だ 。
 338もう あなた方 は 逃げ て 下さい 。
 339早く 、
 340早く 、
 341一瞬間 が 全て を 手遅れ に し て しまう 」
 342早く 、
 343早く 。
 344一瞬間 が 全て を 手遅れ に 。
 345全て とは 、 それ は 伊沢 自身 の 命 の こと だ 。
 346早く 早く 、
 347それ は 仕立屋 を せきたてる 声 で は なくて 、 彼 自身 が 一瞬 も 早く 逃げ たい 為 の 声 だっ た 。
 348彼 が この 場所 を 逃げだす ため に は 、 あたり の 人々 が みんな 立去っ た 後 で なけれ ば なら ない の だ 。
 349さもなければ 、 白痴 の 姿 を 見 られ て しまう 。
 350じゃ 先生 、 お大事 に 。
 351リヤカー を ひっぱりだす と 仕立屋 も 慌て て い た 。
 352リヤカー は 路地 の 角々 に ぶつかり ながら 立去っ た 。
 353それ が この 路地 の 住人達 の 最後 に 逃げ去る 姿 で あっ た 。
 354岩 を 洗う 怒濤 の 無限 の 音 の よう な 、 屋根 を 打つ 高射砲 の 無数 の 破片 の 無限 の 落下 の 音 の よう な 、 休止 と 高低 の 何 も ない ザアザア という 無気味 な 音 が 無限 に 連続 し て いる の だ が 、 それ が 府道 を 流れ て いる 避難民達 の 一かたまり の 跫音 な の だ 。
 355高射砲 の 音 など は もう 間 が 抜け て 、 跫音 の 流れ の 中 に 奇妙 な 命 が こもっ て い た 。
 356高低 と 休止 の ない 奇怪 な 音 の 無限 の 流れ を 世 の 何 人 が 跫音 と 判断 し 得 よう 。
 357天地 は ただ 無数 の 音響 で いっぱい だっ た 。
 358米機 の 爆音 、 高射砲 、 落下音 、 爆発 の 音響 、 跫音 、 屋根 を 打つ 弾片 、
 359けれども 伊沢 の 身辺 の 何十 米 か の 周囲 だけ は 赤い 天地 の まんなか で ともかく 小さな 闇 を つくり 、 全然 ひっそり し て いる の だっ た 。
 360変てこ な 静寂 の 厚み と 、 気 の 違い そう な 孤独 の 厚み が とっぷり 四周 を つつん で いる 。
 361もう 三十 秒 、 もう 十 秒 だけ 待と う 。
 362なぜ 、 そして 誰 が 命令 し て いる の だ か 、
 363どうして それ に 従わ ね ば なら ない の だ か 、
 364伊沢 は 気違い に なり そう だっ た 。
 365突然 、 もだえ 、 泣き喚い て 盲目的 に 走り だし そう だっ た 。
 366その とき 鼓膜 の 中 を 掻き廻す よう な 落下音 が 頭 の 真上 へ 落ち て き た 。
 367夢中 に 伏せる と 、 頭上 で 音響 は 突然 消え失せ 、 嘘 の よう な 静寂 が 再び 四周 に 戻っ て いる 。
 368やれやれ 、 脅かし やがる 。
 369伊沢 は ゆっくり 起き上っ て 、 胸 や 膝 の 土 を 払っ た 。
 370顔 を あげる と 、 気違い の 家 が 火 を 吹い て いる 。
 371何 だい 、
 372とうとう 落ち た の か 、
 373彼 は 奇妙 に 落着い て い た 。
 374気がつく と 、 その 左右 の 家 も 、 すぐ 目 の 前 の アパート も 火 を ふきだし て いる の だ 。
 375伊沢 は 家 の 中 へ とびこん だ 。
 376押入 の 戸 を はねとばし て ( 実際 それ は 外れ て 飛ん で バタバタ と 倒れ た ) 白痴 の 女 を 抱く よう に 蒲団 を かぶっ て 走りで た 。
 377それ から 一 分間 ぐらい の こと が 全然 夢中 で 分ら なかっ た 。
 378路地 の 出口 に 近づい た とき 、 又 、 音響 が 頭上 めがけ て 落ち て き た 。
 379伏せ から 起上る と 、 路地 の 出口 の 煙草屋 も 火 を 吹き 、 向い の 家 で は 仏壇 の 中 から 火 が 吹きだし て いる の が 見え た 。
 380路地 を で て 振りかえる と 、 仕立屋 も 火 を 吹き はじめ 、 どうやら 伊沢 の 小屋 も 燃え はじめ て いる よう だっ た 。
 381四周 は 全く の 火 の 海 で 府道 の 上 に は 避難民 の 姿 も すくなく 、 火の粉 が とびかい 舞い狂っ て いる ばかり 、
 382もう 駄目 だ と 伊沢 は 思っ た 。
 383十字路 へ くる と 、 ここ から 大変 な 混雑 で 、 あらゆる 人々 が ただ 一方 を めざし て いる 。
 384その 方向 が いちばん 火の手 が 遠い の だ 。
 385そこ は もう 道 で は なくて 、 人間 と 荷物 の 悲鳴 の 重り あっ た 流れ に すぎ ず 、 押し あい へし あい 突き進み 踏み越え 押し流さ れ 、 落下音 が 頭上 に せまる と 、 流れ は 一時 に 地上 に 伏し て 不思議 に ぴったり 止まっ て しまい 、 何 人 か の 男 だけ が 流れ の 上 を 踏みつけ て 駆け去る の だ が 、 流れ の 大半 の 人々 は 荷物 と 子供 と 女 と 老人 の 連れ が あり 、 呼びかわし 立ち止り 戻り 突き当り はねとばさ れ 、 そして 火の手 は すぐ 道 の 左右 に せまっ て い た 。
 386小さな 十字路 へ き た 。
 387流れ の 全部 が ここ で も 一方 を めざし て いる の は 矢張り そっち が 火の手 が 最も 遠い から だ が 、 その 方向 に は 空地 も 畑 も ない こと を 伊沢 は 知っ て おり 、 次 の 米機 の 焼夷弾 が 行く手 を ふさぐ と この 道 に は 死 の 運命 が ある のみ だっ た 。
 388一方 の 道 は 既に 両側 の 家々 が 燃え狂っ て いる の だ が 、 そこ を 越す と 小川 が 流れ 、 小川 の 流れ を 数 町 上る と 麦畑 へ で られる こと を 伊沢 は 知っ て い た 。
 389その 道 を 駆けぬけ て 行く 一人 の 影 すら も ない の だ から 、 伊沢 の 決意 も 鈍っ た が 、 ふと 見る と 百五十 米 ぐらい 先 の 方 で 猛火 に 水 を かけ て いる たった 一人 の 男 の 姿 が 見える の で あっ た 。
 390猛火 に 水 を かける といっても 決して 勇しい 姿 で は なく 、 ただ バケツ を ぶらさげ て いる だけ で 、 たまに 水 を かけ て み たり 、 ぼんやり 立っ たり 歩い て み たり 変 に 痴鈍 な 動き で 、 その 男 の 心理 の 解釈 に 苦しむ よう な 間 の 抜け た 姿 な の だっ た 。
 391ともかく 一人 の 人間 が 焼け死に も せ ず 立っ て い られる の だ から と 、 伊沢 は 思っ た 。
 392俺 の 運 を ためす の だ 。
 393運 。
 394まさに 、 もう 残さ れ た の は 、 一 つ の 運 、 それ を 選ぶ 決断 が ある だけ だっ た 。
 395十字路 に 溝 が あっ た 。
 396伊沢 は 溝 に 蒲団 を ひたし た 。
 397伊沢 は 女 と 肩 を 組み 、 蒲団 を かぶり 、 群集 の 流れ に 訣別 し た 。
 398猛火 の 舞い狂う 道 に向って 一足 歩き かける と 、 女 は 本能的 に 立ち止り 群集 の 流れる 方 へ ひき戻さ れる よう に フラフラ と よろめい て 行く 。
 399「 馬鹿 ! 」
 400女 の 手 を 力一杯 握っ て ひっぱり 、 道 の 上 へ よろめい て 出る 女 の 肩 を だきすくめ て 、 「 そっち へ 行け ば 死ぬ だけ な の だ 」 女 の 身体 を 自分 の 胸 に だきしめ て 、 ささやい た 。
 401「 死ぬ 時 は 、 こうして 、 二人 一緒 だ よ 。
 402怖れる な 。
 403そして 、 俺 から 離れる な 。
 404火 も 爆弾 も 忘れ て 、 おい 俺達 二人 の 一生 の 道 は な 、 いつも この 道 な の だ よ 。
 405この 道 を ただ まっすぐ 見つめ て 、 俺 の 肩 に すがりつい て くる が いい 。
 406分っ た ね 」
 407女 は ごくん と 頷い た 。
 408その 頷き は 稚拙 で あっ た が 、 伊沢 は 感動 の ため に 狂い そう に なる の で あっ た 。
 409ああ 、 長い 長い 幾 たび か の 恐怖 の 時間 、 夜昼 の 爆撃 の 下 に於て 、 女 が 表し た 始めて の 意志 で あり 、 ただ 一 度 の 答え で あっ た 。
 410その いじらしさ に 伊沢 は 逆上 し そう で あっ た 。
 411今 こそ 人間 を 抱きしめ て おり 、 その 抱きしめ て いる 人間 に 、 無限 の 誇り を もつ の で あっ た 。
 412二人 は 猛火 を くぐっ て 走っ た 。
 413熱風 の かたまり の 下 を ぬけでる と 、 道 の 両側 は まだ 燃え て いる 火 の 海 だっ た が 、 すでに 棟 は 焼け落ち た あと で 火勢 は 衰え 熱気 は 少く なっ て い た 。
 414そこ に も 溝 が あふれ て い た 。
 415女 の 足 から 肩 の 上 まで 水 を 浴せ 、 もう 一 度 蒲団 を 水 に 浸し て かぶり 直し た 。
 416道 の 上 に 焼け た 荷物 や 蒲団 が 飛び散り 、 人間 が 二人 死ん で い た 。
 417四十 ぐらい の 女 と 男 の よう だっ た 。
 418二人 は 再び 肩 を 組み 、 火 の 海 を 走っ た 。
 419二人 は ようやく 小川 の ふち へ で た 。
 420ところが 此処 は 小川 の 両側 の 工場 が 猛火 を 吹きあげ て 燃え狂っ て おり 、 進む こと も 退く こと も 立止る こと も 出来 なく なっ た が 、 ふと 見る と 小川 に 梯子 が かけ られ て いる ので 、 蒲団 を かぶせ て 女 を 下し 、 伊沢 は 一気 に 飛び降り た 。
 421訣別 し た 人間達 が 三々五々 川 の 中 を 歩い て いる 。
 422女 は 時々 自発的 に 身体 を 水 に 浸し て いる 。
 423犬 で すら そう せ ざる を 得 ぬ 状況 だっ た が 、 一人 の 新た な 可愛い 女 が 生れで た 新鮮さ に 伊沢 は 目 を みひらい て 水 を 浴びる 女 の 姿態 を むさぼり見 た 。
 424小川 は 炎 の 下 を 出外れ て 暗闇 の 下 を 流れ はじめ た 。
 425空 一面 の 火 の 色 で 真 の 暗闇 は 有り 得 なかっ た が 、 再び 生き て 見る こと を 得 た 暗闇 に 、 伊沢 は むしろ 得体 の 知れ ない 大きな 疲れ と 、 涯しれぬ 虚無 と の ため に ただ 放心 が ひろがる 様 を 見る のみ だっ た 。
 426その 底 に 小さな 安堵 が ある の だ が 、 それ は 変 に ケチくさい 、 馬鹿げ た もの に 思わ れ た 。
 427何もかも 馬鹿馬鹿しく なっ て い た 。
 428川 を あがる と 、 麦畑 が あっ た 。
 429麦畑 は 三 方 丘 に かこま れ て 、 三 町 四 方 ぐらい の 広さ が あり 、 その まんなか を 国道 が 丘 を 切りひらい て 通っ て いる 。
 430丘 の 上 の 住宅 は 燃え て おり 、 麦畑 の ふち の 銭湯 と 工場 と 寺院 と 何 か が 燃え て おり 、 その 各々 の 火 の 色 が 白 、 赤 、 橙 、 青 、 濃淡とりどり みんな 違っ て いる の で ある 。
 431にわか に 風 が 吹き だし て ごうごう と 空気 が 鳴り 、 霧 の よう な こまかい 水滴 が 一面 に ふりかかっ て き た 。
 432群集 は 尚 蜿蜒 と 国道 を 流れ て い た 。
 433麦畑 に 休ん で いる の は 数百 人 で 、 蜿蜒 たる 国道 の 群集 に くらべれ ば 物の数 で は ない の で あっ た 。
 434麦畑 の つづき に 雑木林 の 丘 が あっ た 。
 435その 丘 の 林 の 中 に は 殆ど 人 が い なかっ た 。
 436二人 は 木立 の 下 へ 蒲団 を しい て ねころん だ 。
 437丘 の 下 の 畑 の ふち に 一 軒 の 農家 が 燃え て おり 、 水 を かけ て いる 数 人 の 人 の 姿 が 見える 。
 438その 裏手 に 井戸 が あっ て 一人 の 男 が ポンプ を ガチャガチャ やり 水 を 飲ん で いる の で ある 。
 439それ を 目がけ て 畑 の 四 方 から 忽ち 二十 人 ぐらい の 老幼男女 が 駆け集っ て き た 。
 440彼等 は ポンプ を ガチャガチャ やり 、 代る代る 水 を 飲ん で いる の で ある 。
 441それから 燃え落ち よう と する 家 の 火 に 手 を かざし て 、 ぐるり と 並ん で 煖 を とり 、 崩れ落ちる 火 の かたまり に 飛びのい たり 、 煙 に 顔 を そむけ たり 、 話 を し たり し て いる 。
 442誰 も 消火 に 手伝う 者 は い なかっ た 。
 443ねむく なっ た と 女 が 言い 、 私 疲れ た の とか 、 足 が 痛い の とか 、 目 も 痛い の とか の 呟き の うち 三 つ に 一 つ ぐらい は 私 ねむり たい の 、 と 言っ た 。
 444ねむる が いい さ 、 と 伊沢 は 女 を 蒲団 に くる ん で やり 、 煙草 に 火 を つけ た 。
 445何 本目 か の 煙草 を 吸っ て いる うち に 、 遠く 彼方 に 解除 の 警報 が なり 、 数 人 の 巡査 が 麦畑 の 中 を 歩い て 解除 を 知らせ て い た 。
 446彼等 の 声 は 一様 に つぶれ 、 人間 の 声 の よう で は なかっ た 。
 447蒲田署管内 の 者 は 矢口国民学校 が 焼け残っ た から 集れ 、 と ふれ て いる 。
 448人々 が 畑 の 畝 から 起き上り 、 国道 へ 下り た 。
 449国道 は 再び 人 の 波 だっ た 。
 450然し 、 伊沢 は 動か なかっ た 。
 451彼 の 前 に も 巡査 が き た 。
 452「 その 人 は 何 かね 。
 453怪我 を し た の かね 」
 454「 いいえ 、 疲れ て 、 ね て いる の です 」
 455「 矢口国民学校 を 知っ て いる かね 」
 456「 ええ 、 一休み し て 、 あと から 行き ます 」
 457「 勇気 を だし たまえ 。
 458これしき の こと に 」
 459巡査 の 声 は もう 続か なかっ た 。
 460巡査 の 姿 は 消え去り 、 雑木林 の 中 に は とうとう 二人 の 人間 だけ が 残さ れ た 。
 461二人 の 人間 だけ が ――
 462けれども 女 は 矢張り ただ 一 つ の 肉塊 に すぎ ない で は ない か 。
 463女 は ぐっすり ねむっ て い た 。
 464凡て の 人々 が 今 焼跡 の 煙 の 中 を 歩い て いる 。
 465全て の 人々 が 家 を 失い 、 そして 皆な 歩い て いる 。
 466眠り の こと を 考え て すら い ない であろう 。
 467今 眠る こと が できる の は 、 死ん だ 人間 と この 女 だけ だ 。
 468死ん だ 人間 は 再び 目覚める こと が ない が 、 この 女 は やがて 目覚め 、 そして 目覚める こと によって 眠りこけ た 肉塊 に 何物 を 附け加える こと も 有り 得 ない の だ 。
 469微か で ある が 女 は 今 まで 聞き覚え の ない 鼾声 を たて て い た 。
 470それ は 豚 の 鳴声 に 似 て い た 。
 471まったく この 女 自体 が 豚 そのもの だ と 伊沢 は 思っ た 。
 472そして 彼 は 子供 の 頃 の 小さな 記憶 の 断片 を ふと 思いだし て い た 。
 473一人 の 餓鬼大将 の 命令 で 十何 人 か の 子供たち が 仔豚 を 追いまわし て い た 。
 474追いつめ て 、 餓鬼大将 は ジャックナイフ で いくら か の 豚 の 尻肉 を 切りとっ た 。
 475豚 は 痛 そう な 顔 も せ ず 、 特別 の 鳴声 も たて なかっ た 。
 476尻 の 肉 を 切りとら れ た こと も 知ら ない よう に 、 ただ 逃げまわっ て いる だけ だっ た 。
 477伊沢 は 米軍 が 上陸 し て 重砲弾 が 八 方 に 唸り コンクリート の ビル が 吹きとび 、 頭上 に 米機 が 急降下 し て 機銃掃射 を 加える 下 で 、 土煙り と 崩れ た ビル と 穴 の 間 を 転げまわっ て 逃げ歩い て いる 自分 と 女 の こと を 考え て い た 。
 478崩れ た コンクリート の 蔭 で 、 女 が 一人 の 男 に 押えつけ られ 、 男 は 女 を ねじ倒し て 、 肉体 の 行為 に 耽り ながら 、 男 は 女 の 尻 の 肉 を むしりとっ て 食べ て いる 。
 479女 の 尻 の 肉 は だんだん 少く なる が 、 女 は 肉慾 の こと を 考え て いる だけ だっ た 。
 480明方 に 近づく と 冷え はじめ て 、 伊沢 は 冬 の 外套 も き て い た し 厚い ジャケツ も き て いる の だ が 、 寒気 が 堪え がたかっ た 。
 481下 の 麦畑 の ふち の 諸方 に は 尚 燃え つづけ て いる 一面 の 火 の 原 が あっ た 。
 482そこ まで 行っ て 煖 を とり たい と 思っ た が 、 女 が 目 を 覚す と 困る ので 、 伊沢 は 身動き が でき なかっ た 。
 483女 の 目 を 覚す の が なぜ か 堪え られ ぬ 思い が し て い た 。
 484女 の 眠りこけ て いる うち に 女 を 置い て 立去り たい と も 思っ た が 、 それ すら も 面倒くさく なっ て い た 。
 485人 が 物 を 捨てる に は 、 たとえば 紙屑 を 捨てる に も 、 捨てる だけ の 張合い と 潔癖 ぐらい は ある だろう 。
 486この 女 を 捨てる 張合い も 潔癖 も 失わ れ て いる だけ だ 。
 487微塵 の 愛情 も なかっ た し 、 未練 も なかっ た が 、 捨てる だけ の 張合い も なかっ た 。
 488生きる ため の 、 明日 の 希望 が ない から だっ た 。
 489明日 の 日 に 、 たとえば 女 の 姿 を 捨て て み て も 、 どこ か の 場所 に 何 か 希望 が ある の だろう か 。
 490何 を たより に 生きる の だろう 。
 491どこ に 住む 家 が ある の だ か 、 眠る 穴ぼこ が ある の だ か 、 それ すら も 分り は し なかっ た 。
 492米軍 が 上陸 し 、 天地 に あらゆる 破壊 が 起り 、 その 戦争 の 破壊 の 巨大 な 愛情 が 、 すべて を 裁い て くれる だろう 。
 493考える こと も なくなっ て い た 。
 494夜 が 白ん で き たら 、 女 を 起し て 焼跡 の 方 に は 見向き も せ ず 、 ともかく ねぐら を 探し て 、 なるべく 遠い 停車場 を めざし て 歩き だす こと に し よう と 伊沢 は 考え て い た 。
 495電車 や 汽車 は 動く だろう か 。
 496停車場 の 周囲 の 枕木 の 垣根 に もたれ て 休ん で いる とき 、 今朝 は 果して 空 が 晴れ て 、 俺 と 俺 の 隣 に 並ん だ 豚 の 背中 に 太陽 の 光 が そそぐ だろう か と 伊沢 は 考え て い た 。
 497あまり 今朝 が 寒 すぎる から で あっ た 。