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aozora_Togawa-1937-1のコンテキスト表示

title Miminashi Hoichi no Hanashi (The Story of Mimi Nashi Hoichi)
author Koizumi, Yakumo (translator: Togawa, Meizo)
date 1904
source Aozora Bunko (https://www.aozora.gr.jp/cards/000258/card42927.html)
genre fiction
subcorpus Aozora Bunko
terms of use Creative Commons license


 1耳無芳一 の 話
 2THESTORYOFMIMI-NASHI-HOICHI
 3小泉八雲 LafcadioHearn
 4戸川明三 訳
 5七百 年 以上 も 昔 の 事 、 下ノ関海峡 の 壇ノ浦 で 、 平家 すなわち 平族 と 、 源氏 すなわち 源族 と の 間 の 、 永い 争い の 最後 の 戦闘 が 戦わ れ た 。
 6この 壇ノ浦 で 平家 は 、 その 一族 の 婦人 子供 ならびに その 幼帝 ―― 今日 安徳天皇 として 記憶 さ れ て いる ―― と共に 、 まったく 滅亡 し た 。
 7そうして その 海 と 浜辺 と は 七百 年間 その 怨霊 に 祟ら れ て い た ……
 8他 の 個処 で 私 は そこ に 居る 平家蟹 という 不思議 な 蟹 の 事 を 読者諸君 に 語っ た 事 が ある が 、 それ は その 背中 が 人間 の 顔 に なっ て おり 、 平家 の 武者 の 魂 で ある と 云わ れ て いる の で ある 。
 9しかし その 海岸一帯 に は 、 たくさん 不思議 な 事 が 見聞き さ れる 。
 10闇夜 に は 幾千 と なき 幽霊火 が 、 水うち際 に ふわふわ さすらう か 、 もしくは 波 の 上 に ちらちら 飛ぶ ――
 11すなわち 漁夫 の 呼ん で 鬼火 すなわち 魔 の 火 と 称する 青白い 光り で ある 。
 12そして 風 の 立つ 時 に は 大きな 叫び声 が 、 戦 の 叫喚 の よう に 、 海 から 聞え て 来る 。
 13平家 の 人達 は 以前 は 今 より も 遥か に 焦慮い て い た 。
 14夜 、 漕ぎ 行く 船 の ほとり に 立ち顕れ 、 それ を 沈め よう と し 、 また 水泳 する 人 を たえず 待ち受け て い て は 、 それ を 引きずり込も う と する の で ある 。
 15これ等 の 死者 を 慰める ため に 建立 さ れ た の が 、 すなわち 赤間ヶ関 の 仏教 の 御寺 なる 阿彌陀寺 で あっ た が 、 その 墓地 も また 、 それ に 接し て 海岸 に 設け られ た 。
 16そして その 墓地 の 内 に は 入水 さ れ た 皇帝 と 、 その 歴歴 の 臣下 と の 名 を 刻みつけ た 幾 箇 か の 石碑 が 立て られ 、 かつ それ等 の 人々 の 霊 の ため に 、 仏教 の 法会 が そこ で 整然 と 行わ れ て い た の で ある 。
 17この 寺 が 建立 さ れ 、 その 墓 が 出来 て から 以後 、 平家 の 人達 は 以前 より も 禍い を する 事 が 少く なっ た 。
 18しかし それでも なお 引き続い て おりおり 、 怪しい 事 を する の で は あっ た ――
 19彼等 が 完き 平和 を 得 て い なかっ た 事 の 証拠 として 。
 20幾百 年 か 以前 の 事 、 この 赤間ヶ関 に 芳一 という 盲人 が 住ん で い た が 、 この 男 は 吟誦 し て 、 琵琶 を 奏する に 妙 を 得 て いる の で 世 に 聞え て い た 。
 21子供 の 時 から 吟誦 し 、 かつ 弾奏 する 訓練 を 受け て い た の で ある が 、 まだ 少年 の 頃 から 、 師匠達 を 凌駕 し て い た 。
 22本職 の 琵琶法師 として この 男 は 重もに 、 平家 及び 源氏 の 物語 を 吟誦 する の で 有名 に なっ た 、
 23そして 壇ノ浦の戦 の 歌 を 謡う と 鬼神 すら も 涙 を とどめ 得 なかっ た という 事 で ある 。
 24芳一 に は 出世 の 首途 の 際 、 はなはだ 貧しかっ た が 、 しかし 助け て くれる 深切 な 友 が あっ た 。
 25すなわち 阿彌陀寺 の 住職 という の が 、 詩歌 や 音楽 が 好き で あっ た ので 、 たびたび 芳一 を 寺 へ 招じ て 弾奏 さ せ また 、 吟誦 さ し た の で あっ た 。
 26後 に なり 住職 は この 少年 の 驚く べき 技倆 に ひどく 感心 し て 、 芳一 に 寺 をば 自分 の 家 と する よう に と 云い出し た の で ある が 、 芳一 は 感謝 し て この 申し出 を 受納 し た 。
 27それで 芳一 は 寺院 の 一室 を 与え られ 、 食事 と 宿泊 と に対する 返礼 として 、 別に 用 の ない 晩 に は 、 琵琶 を 奏し て 、 住職 を 悦ば す という 事 だけ が 注文 さ れ て い た 。
 28ある 夏 の 夜 の 事 、 住職 は 死ん だ 檀家 の 家 で 、 仏教 の 法会 を 営む よう に 呼ば れ た ので 、 芳一 だけ を 寺 に 残し て 納所 を 連れ て 出 て 行っ た 。
 29それ は 暑い 晩 で あっ た ので 、 盲人 芳一 は 涼も う と 思っ て 、 寝間 の 前 の 縁側 に 出 て い た 。
 30この 縁側 は 阿彌陀寺 の 裏手 の 小さな 庭 を 見下し て いる の で あっ た 。
 31芳一 は 住職 の 帰来 を 待ち 、 琵琶 を 練習 し ながら 自分 の 孤独 を 慰め て い た 。
 32夜半 も 過ぎ た が 、 住職 は 帰っ て 来 なかっ た 。
 33しかし 空気 は まだ なかなか 暑く て 、 戸 の 内 で は くつろぐ わけ に は いか ない 、
 34それで 芳一 は 外 に 居 た 。
 35やがて 、 裏門 から 近よっ て 来る 跫音 が 聞え た 。
 36誰れ か が 庭 を 横断 し て 、 縁側 の 処 へ 進みより 、 芳一 の すぐ 前 に 立ち 止っ た ――
 37が 、 それ は 住職 で は なかっ た 。
 38底力 の ある 声 が 盲人 の 名 を 呼ん だ ―― 出し抜け に 、 無作法 に 、 ちょうど 、 侍 が 下下 を 呼びつける よう な 風 に ――
 39『 芳一 ! 』
 40芳一 は あまり に 吃驚 し て しばらく は 返事 も 出 なかっ た 、
 41すると 、 その 声 は 厳しい 命令 を 下す よう な 調子 で 呼ばわっ た ――
 42『 芳一 ! 』
 43『 はい ! 』 と 威嚇 する 声 に 縮み上っ て 盲人 は 返事 を し た ――
 44『 私 は 盲目 で 御座い ます !――
 45どなた が お呼び に なる の か 解り ませ ん ! 』
 46見知らぬ 人 は 言葉 を やわらげ て 言い 出し た 、
 47『 何 も 恐わがる 事 は ない 、
 48拙者 は この 寺 の 近処 に 居る もの で 、 お前 の 許 へ 用 を 伝える よう に 言いつかっ て 来 た もの だ 。
 49拙者 の 今 の 殿様 と云う の は 、 大した 高い 身分 の 方 で 、 今 、 たくさん 立派 な 供 を つれ て この 赤間ヶ関 に 御滞在 なさ れ て いる が 、 壇ノ浦 の 戦場 を 御覧 に なり たい と いう ので 、 今日 、 そこ を 御見物 に なっ た の だ 。
 50ところで 、 お前 が その 戦争 の 話 を 語る の が 、 上手 だ という 事 を お聞き に なり 、 お前 の その 演奏 を お聞き に なり たい との 御所望 で ある 、
 51であるから 、 琵琶 を もち 即刻 拙者 と 一緒 に 尊い 方方 の 待ち受け て おら れる 家 へ 来る が 宜い 』
 52当時 、 侍 の 命令 と 云え ば 容易 に 、 反く わけ に は いか なかっ た 。
 53で 、 芳一 は 草履 を はき 琵琶 を もち 、 知ら ぬ 人 と 一緒 に 出 て 行っ た が 、 その 人 は 巧者 に 芳一 を 案内 し て 行っ た けれども 、 芳一 は よほど 急ぎ足 で 歩か なけれ ば なら なかっ た 。
 54また 手引き を し た その 手 は 鉄 の よう で あっ た 。
 55武者 の 足どり の カタカタ いう 音 は やがて 、 その 人 が すっかり 甲冑 を 著け て いる 事 を 示し た ――
 56定めし 何 か 殿居 の 衛士 で でも あろ う か 、 芳一 の 最初 の 驚き は 去っ て 、 今や 自分 の 幸運 を 考え 始め た ――
 57何故 か と いう に 、 この 家来 の 人 の 「 大した 高い 身分 の 人 」 と 云っ た 事 を 思い出し 、 自分 の 吟誦 を 聞き たい と 所望 さ れ た 殿様 は 、 第一流 の 大名 に 外ならぬ と 考え た から で ある 。
 58やがて 侍 は 立ち止っ た 。
 59芳一 は 大きな 門口 に 達し た の だ と 覚っ た ――
 60ところで 、 自分 は 町 の その 辺 に は 、 阿彌陀寺 の 大門 を 外 に し て は 、 別 に 大きな 門 が あっ た と は 思わ なかっ た ので 不思議 に 思っ た 。
 61「 開門 ! 」 と 侍 は 呼ばわっ た ――
 62すると 閂 を 抜く 音 が し て 、 二人 は 這入っ て 行っ た 。
 63二人 は 広い 庭 を 過ぎ 再び ある 入口 の 前 で 止っ た 。
 64そこ で この 武士 は 大きな 声 で 「 これ 誰れ か 内 の もの ! 芳一 を 連れ て 来 た 」 と 叫ん だ 。
 65すると 急い で 歩く 跫音 、 襖 の あく 音 、 雨戸 の 開く 音 、 女達 の 話し声 など が 聞え て 来 た 。
 66女達 の 言葉 から 察し て 、 芳一 は それ が 高貴 な 家 の 召使 で ある 事 を 知っ た 。
 67しかし どういう 処 へ 自分 は 連れ られ て 来 た の か 見当 が 付か なかっ た 。
 68が 、 それ を とにかく 考え て いる 間 も なかっ た 。
 69手 を 引か れ て 幾 箇 か の 石段 を 登る と 、 その 一番 最後 の 段 の 上 で 、 草履 を ぬげ と 云わ れ 、 それから 女 の 手 に 導か れ て 、 拭き込ん だ 板鋪 の はてしのない 区域 を 過ぎ 、 覚え 切れ ない ほど たくさん な 柱 の 角 を ※り 、 驚く べき ほど 広い 畳 を 敷い た 床 を 通り ―― 大きな 部屋 の 真中 に 案内 さ れ た 。
 70そこ に 大勢 の 人 が 集っ て い た と 芳一 は 思っ た 。
 71絹 の すれる 音 は 森 の 木の葉 の 音 の よう で あっ た 。
 72それから また 何んだか ガヤガヤ 云っ て いる 大勢 の 声 も 聞え た ――
 73低音 で 話し て いる 。
 74そして その 言葉 は 宮中 の 言葉 で あっ た 。
 75芳一 は 気楽 に し て いる よう に と 云わ れ 、 座蒲団 が 自分 の ため に 備え られ て いる の を 知っ た 。
 76それで その 上 に 座 を 取っ て 、 琵琶 の 調子 を 合わせる と 、 女 の 声 が ―― その 女 を 芳一 は 老女 すなわち 女 の する 用向き を 取り締る 女中頭 だ と 判じ た ―― 芳一 に向って こう 言いかけ た ――
 77『 ただ今 、 琵琶 に 合わせ て 、 平家 の 物語 を 語っ て いただき たい という 御所望 に 御座い ます 』
 78さて それ を すっかり 語る の に は 幾 晩 も かかる 、
 79それ故 芳一 は 進ん で こう 訊ね た ――
 80『 物語 の 全部 は 、 ちょっと は 語ら れ ませ ぬ が 、 どの 条下 を 語れ という 殿様 の 御所望 で 御座い ます か ? 』
 81女 の 声 は 答え た ――
 82『 壇ノ浦の戦 の 話 を お語り なされ ――
 83その 一条下 が 一番 哀れ の 深い 処 で 御座い ます から 』
 84芳一 は 声 を 張り上げ 、 烈しい 海戦 の 歌 を うたっ た ―― 琵琶 を以て 、 あるいは 橈 を 引き 、 船 を 進める 音 を 出さし たり 、 はッし と 飛ぶ 矢 の 音 、 人々 の 叫ぶ 声 、 足踏み の 音 、 兜 に あたる 刃 の 響き 、 海 に 陥る 打た れ た もの音 等 を 、 驚く ばかり に 出さし たり し て 。
 85その 演奏 の 途切れ途切れ に 、 芳一 は 自分 の 左右 に 、 賞讃 の 囁く 声 を 聞い た 、 ――
 86「 何 という 巧い 琵琶師 だろう ! 」 ――
 87「 自分達 の 田舎 で は こんな 琵琶 を 聴い た 事 が ない ! 」 ――
 88「 国中 に 芳一 の よう な 謡い手 は また と ある まい ! 」
 89すると いっそう 勇気 が 出 て 来 て 、 芳一 は ますます うまく 弾き かつ 謡っ た 。
 90そして 驚き の ため 周囲 は 森と し て しまっ た 。
 91しかし 終り に 美人弱者 の 運命 ―― 婦人 と 子供 と の 哀れ な 最期 ―― 双腕 に 幼帝 を 抱き 奉っ た 二 位 の 尼 の 入水 を 語っ た 時 に は ―― 聴者 は ことごとく 皆 一様 に 、 長い 長い 戦き慄える 苦悶 の 声 を あげ 、 それ から 後 という もの 一同 は 声 を あげ 、 取り乱し て 哭き悲しん だ ので 、 芳一 は 自分 の 起こさ し た 悲痛 の 強烈 な の に 驚かさ れ た くらい で あっ た 。
 92しばらく の 間 は むせび悲しむ 声 が 続い た 。
 93しかし 、 おもむろに 哀哭 の 声 は 消え て 、 また それ に 続い た 非常 な 静かさ の 内 に 、 芳一 は 老女 で ある と 考え た 女 の 声 を 聞い た 。
 94その 女 は こう 云っ た ――
 95『 私共 は 貴方 が 琵琶 の 名人 で あっ て 、 また 謡う 方 で も 肩 を 並べる もの の ない 事 は 聞き及ん で い た 事 で は 御座い ます が 、 貴方 が 今晩 御聴かせ 下すっ た よう な あんな お腕前 を お有ち に なろ う と は 思い も 致し ませ ん でし た 。
 96殿様 に は 大層 御気 に 召し 、 貴方 に 十分 な 御礼 を 下さる 御考え で ある 由 を 御伝え申す よう に との 事 に 御座い ます 。
 97が 、 これ から 後 六 日 の 間 毎晩 一 度 ずつ 殿様 の 御前 で 演奏 を お聞き に 入れる よう との 御意 に 御座い ます ――
 98その 上 で 殿様 に は たぶん 御帰り の 旅 に 上ら れる 事 と 存じ ます 。
 99それ故 明晩 も 同じ 時刻 に 、 ここ へ 御出向き なされ ませ 。
 100今夜 、 貴方 を 御案内 いたし た あの 家来 が 、 また 、 御迎え に 参る で 御座い ましょ う ……
 101それから も 一 つ 貴方 に 御伝え する よう に 申しつけ られ た 事 が 御座い ます 。
 102それ は 殿様 が この 赤間ヶ関 に 御滞在 中 、 貴方 が この 御殿 に 御上り に なる 事 を 誰れ に も 御話し に なら ぬ よう との 御所望 に 御座い ます 。
 103殿様 に は 御忍び の 御旅行 ゆえ 、 かよう な 事 は いっさい 口外 致さ ぬ よう に との 御上意 に より ます ので 。
 104…… ただ今 、 御自由 に 御坊 に 御帰り あそばせ 』
 105芳一 は 感謝 の 意 を 十分 に 述べる と 、 女 に 手 を 取ら れ て この 家 の 入口 まで 来 、 そこ に は 前 に 自分 を 案内 し て くれ た 同じ 家来 が 待っ て い て 、 家 に つれ られ て 行っ た 。
 106家来 は 寺 の 裏 の 縁側 の 処 まで 芳一 を 連れ て 来 て 、 そこ で 別れ を 告げ て 行っ た 。
 107芳一 の 戻っ た の は やがて 夜明け で あっ た が 、 その 寺 を あけ た 事 に は 、 誰れ も 気が付か なかっ た ――
 108住職 は よほど 遅く 帰っ て 来 た ので 、 芳一 は 寝 て いる もの と 思っ た の で あっ た 。
 109昼 の 中 芳一 は 少し 休息 する 事 が 出来 た 。
 110そして その 不思議 な 事件 について は 一言 も し なかっ た 。
 111翌日 の 夜中 に 侍 が また 芳一 を 迎え に 来 て 、 かの 高貴 の 集り に 連れ て 行っ た が 、 そこ で 芳一 は また 吟誦 し 、 前囘 の 演奏 が 贏ち得 た その 同じ 成功 を 博し た 。
 112しかるに この 二 度目 の 伺候中 、 芳一 の 寺 を あけ て いる 事 が 偶然 に 見つけ られ た 。
 113それで 朝 戻っ て から 芳一 は 住職 の 前 に 呼びつけ られ た 。
 114住職 は 言葉やわらか に 叱る よう な 調子 で こう 言っ た 、――
 115『 芳一 、 私共 は お前 の 身の上 を 大変 心配 し て い た の だ 。
 116目 が 見え ない のに 、 一人 で 、 あんな に 遅く 出かけ て は 険難 だ 。
 117何故 、 私共 に ことわら ずに 行っ た の だ 。
 118そう すれ ば 下男 に 供 を さ し た もの に 、
 119それから また どこ へ 行っ て い た の かな 』
 120芳一 は 言い※れる よう に 返事 を し た ――
 121『 和尚様 、 御免 下さい まし !
 122少々 私用 が 御座い まし て 、 他 の 時刻 に その 事 を 処置 する 事 が 出来 ませ ん でし た ので 』
 123住職 は 芳一 が 黙っ て いる ので 、 心配 し た というより むしろ 驚い た 。
 124それ が 不自然 な 事 で あり 、 何 か よく ない 事 でも ある の で は なかろ う か と 感じ た の で あっ た 。
 125住職 は この 盲人 の 少年 が あるいは 悪魔 に つか れ た か 、 あるいは 騙さ れ た の であろう と 心配 し た 。
 126で 、 それ 以上 何 も 訊ね なかっ た が 、 ひそか に 寺 の 下男 に 旨 を ふくめ て 、 芳一 の 行動 に 気 を つけ て おり 、 暗く なっ て から 、 また 寺 を 出 て 行く よう な 事 が あっ た なら 、 その 後 を 跟ける よう に と 云いつけ た 。
 127すぐ その 翌晩 、 芳一 の 寺 を 脱け出し て 行く の を 見 た ので 、 下男達 は 直ちに 提灯 を ともし 、 その 後 を 跟け た 。
 128しかるに それ が 雨 の 晩 で 非常 に 暗かっ た ため 、 寺男 が 道路 へ 出 ない 内 に 、 芳一 の 姿 は 消え失せ て しまっ た 。
 129まさしく 芳一 は 非常 に 早足 で 歩い た の だ ――
 130その 盲目 な 事 を 考え て みる と それ は 不思議 な 事 だ 、
 131何故 か と 云う に 道 は 悪るかっ た の で ある から 。
 132男達 は 急い で 町 を 通っ て 行き 、 芳一 が いつも 行き つけ て いる 家 へ 行き 、 訊ね て み た が 、 誰れ も 芳一 の 事 を 知っ て いる もの は なかっ た 。
 133しまい に 、 男達 は 浜辺 の 方 の 道 から 寺 へ 帰っ て 来る と 、 阿彌陀寺 の 墓地 の 中 に 、 盛ん に 琵琶 の 弾じ られ て いる 音 が 聞える ので 、 一同 は 吃驚 し た 。
 134二 つ 三 つ の 鬼火 ―― 暗い 晩 に 通例 そこ に ちらちら 見える よう な ―― の 外 、 そちら の 方 は 真暗 で あっ た 。
 135しかし 、 男達 は すぐ に 墓地 へ と 急い で 行っ た 、
 136そして 提灯 の 明かり で 、 一同 は そこ に 芳一 を 見つけ た ―― 雨 の 中 に 、 安徳天皇 の 記念 の 墓 の 前 に 独り 坐っ て 、 琵琶 を ならし 、 壇ノ浦の合戦 の 曲 を 高く 誦し て 。
 137その 背後 と 周囲 と それから 、 到る 処 たくさん の 墓 の 上 に 死者 の 霊火 が 蝋燭 の よう に 燃え て い た 。
 138いまだ かつて 人 の 目 に これ ほど の 鬼火 が 見え た 事 は なかっ た ……
 139『 芳一さん ! ―― 芳一さん ! 』
 140下男達 は 声 を かけ た
 141『 貴方 は 何 か に 魅さ れ て いる の だ !…… 芳一さん ! 』
 142しかし 盲人 に は 聞え ない らしい 。
 143力 を 籠め て 芳一 は 琵琶 を 錚錚※※ と 鳴らし て い た ――
 144ますます 烈しく 壇ノ浦の合戦 の 曲 を 誦し た 。
 145男達 は 芳一 を つかまえ ―― 耳 に 口 を つけ て 声 を かけ た ――
 146『 芳一さん ! ―― 芳一さん ! ―― すぐ 私達 と 一緒 に 家 に お帰ん なさい ! 』
 147叱る よう に 芳一 は 男達 に向って 云っ た ――
 148『 この 高貴 の 方方 の 前 で 、 そんな 風 に 私 の 邪魔 を する と は 容赦 は なら ん ぞ 』
 149事柄 の 無気味 な に拘らず 、 これ に は 下男達 も 笑わ ずに は い られ なかっ た 。
 150芳一 が 何 か に 魅さ れ て い た の は 確か な ので 、 一同 は 芳一 を 捕え 、 その 身体 を もち上げ て 起た せ 、 力まかせ に 急い で 寺 へ つれ帰っ た ――
 151そこ で 住職 の 命令 で 、 芳一 は 濡れ た 著物 を 脱ぎ 、 新しい 著物 を 著せ られ 、 食べもの や 、 飲みもの を 与え られ た 。
 152その 上 で 住職 は 芳一 の この 驚く べき 行為 を ぜひ 十分 に 説き明かす 事 を 迫っ た 。
 153芳一 は 長い 間 それ を 語る に 躊躇 し て い た 。
 154しかし 、 遂に 自分 の 行為 が 実際 、 深切 な 住職 を 脅かし かつ 怒らし た 事 を 知っ て 、 自分 の 緘黙 を 破ろ う と 決心 し 、 最初 、 侍 の 来 た 時 以来 、 あっ た 事 を いっさい 物語っ た 。
 155すると 住職 は 云っ た ……
 156『 可哀そう な 男 だ 。
 157芳一 、 お前 の 身 は 今 大変 に 危うい ぞ !
 158もっと 前 に お前 が この 事 を すっかり 私 に 話さ なかっ た の は いかに も 不幸 な 事 で あっ た !
 159お前 の 音楽 の 妙技 が まったく 不思議 な 難儀 に お前 を 引き込ん だ の だ 。
 160お前 は 決して 人 の 家 を 訪れ て いる の で は なくて 、 墓地 の 中 に 平家 の 墓 の 間 で 、 夜 を 過し て い た の だ という 事 に 、 今 は もう 心付か なくて は いけ ない ――
 161今夜 、 下男達 は お前 の 雨 の 中 に 坐っ て いる の を 見 た が 、 それ は 安徳天皇 の 記念 の 墓 の 前 で あっ た 。
 162お前 が 想像 し て い た 事 は みな 幻影 だ ―― 死ん だ 人 の 訪れ て 来 た 事 の 外 は 。
 163で 、 一 度 死ん だ 人 の 云う 事 を 聴い た 上 は 、 身 を その 為る が まま に 任し た という もの だ 。
 164もし これ まで あっ た 事 の 上 に 、 また も 、 その 云う 事 を 聴い た なら 、 お前 は その 人達 に 八つ裂き に さ れる 事 だろう 。
 165しかし 、 いずれ に し て も 早晩 、 お前 は 殺さ れる ……
 166ところで 、 今夜 私 は お前 と 一緒 に いる わけ に いか ぬ 。
 167私 は また 一 つ 法会 を する よう に 呼ば れ て いる 。
 168が 、 行く 前 に お前 の 身体 を 護る ため に 、 その 身体 に 経文 を 書い て 行か なけれ ば なる まい 』
 169日没前 住職 と 納所 と で 芳一 を 裸 に し 、 筆 を以て 二人 して 芳一 の 、 胸 、 背 、 頭 、 顔 、 頸 、 手足 ―― 身体中 どこ と 云わ ず 、 足 の 裏 に さえ も ―― 般若心経 という お経 の 文句 を 書きつけ た 。
 170それ が 済む と 、 住職 は 芳一 に こう 言いつけ た 。――
 171『 今夜 、 私 が 出 て 行っ たら すぐ に 、 お前 は 縁側 に 坐っ て 、 待っ て い なさい 。
 172すると 迎え が 来る 。
 173が 、 どんな 事 が あっ て も 、 返事 を し たり 、 動い て は なら ぬ 。
 174口 を 利か ず 静か に 坐っ て い なさい ―― 禅定 に 入っ て いる よう に し て 。
 175もし 動い たり 、 少し でも 声 を 立て たり する と 、 お前 は 切りさいなま れ て しまう 。
 176恐わがら ず 、 助け を 呼ん だり し よう と 思っ て は いか ぬ 。
 177―― 助け を 呼ん だ ところ で 助かる わけ の もの で は ない から 。
 178私 が 云う 通り に 間違いなく し て おれ ば 、 危険 は 通り過ぎ て 、 もう 恐わい 事 は なくなる 』
 179日 が 暮れ て から 、 住職 と 納所 と は 出 て 行っ た 、
 180芳一 は 言いつけ られ た 通り 縁側 に 座 を 占め た 。
 181自分 の 傍 の 板鋪 の 上 に 琵琶 を 置き 、 入禅 の 姿勢 を とり 、 じっと 静か に し て い た ―― 注意 し て 咳 も せか ず 、 聞える よう に は 息 も せ ずに 。
 182こうして 待っ て い た 。
 183すると 道路 の 方 から 跫音 の やって来る の が 聞え た 。
 184跫音 は 門 を 通り過ぎ 、 庭 を 横断り 、 縁側 に 近寄っ て 止っ た ―― すぐ 芳一 の 正面 に 。
 185『 芳一 ! 』 と 底力 の ある 声 が 呼ん だ 。
 186が 盲人 は 息 を 凝らし て 、 動か ずに 坐っ て い た 。
 187『 芳一 ! 』 と 再び 恐ろしい 声 が 呼ばわっ た 。
 188ついで 三 度 ―― 兇猛 な 声 で ―― 『 芳一 』
 189芳一 は 石 の よう に 静か に し て い た ――
 190すると 苦情 を 云う よう な 声 で ――
 191『 返事 が ない !――
 192これ は いか ん !
 193…… 奴 、 どこ に 居る の か 見 て やら なけれ やア 』 ……
 194縁側 に 上る 重もくるしい 跫音 が し た 。
 195足 は しずしず と 近寄っ て ―― 芳一 の 傍 に 止っ た 。
 196それから しばらく の 間 ―― その 間 、 芳一 は 全身 が 胸 の 鼓動 する につれて 震える の を 感じ た ―― まったく 森閑 と し て しまっ た 。
 197遂に 自分 の すぐ 傍 で あらあらしい 声 が こう 云い 出し た ――
 198『 ここ に 琵琶 が ある 、
 199だが 、 琵琶師 と 云っ て は ―― ただ その 耳 が 二 つ ある ばかり だ !
 200…… 道理 で 返事 を し ない はず だ 、
 201返事 を する 口 が ない の だ ――
 202両耳 の 外 、 琵琶師 の 身体 は 何 も 残っ て い ない ……
 203よし 殿様 へ この 耳 を 持っ て 行こ う ―― 出来る 限り 殿様 の 仰せ られ た 通り に し た 証拠 に …… 』
 204その 瞬時 に 芳一 は 鉄 の よう な 指 で 両耳 を 掴ま れ 、 引きちぎら れ た の を 感じ た !
 205痛さ は 非常 で あっ た が 、 それでも 声 は あげ なかっ た 。
 206重もくるしい 足踏み は 縁側 を 通っ て 退い て 行き ―― 庭 に 下り ―― 道路 の 方 へ 通っ て 行き ―― 消え て しまっ た 。
 207芳一 は 頭 の 両側 から 濃い 温い もの の 滴っ て 来る の を 感じ た 。
 208が 、 あえて 両手 を 上げる 事 も し なかっ た ……
 209日の出前 に 住職 は 帰っ て 来 た 。
 210急い で すぐ に 裏 の 縁側 の 処 へ 行く と 、 何んだか ねばねば し た もの を 踏みつけ て 滑り 、 そして 慄然 と し て 声 を あげ た ――
 211それ は 提灯 の 光り で 、 その ねばねば し た もの の 血 で あっ た 事 を 見 た から で ある 。
 212しかし 、 芳一 は 入禅 の 姿勢 で そこ に 坐っ て いる の を 住職 は 認め た ―― 傷 から は なお 血 を だらだら 流し て 。
 213『 可哀そう に 芳一 ! 』 と 驚い た 住職 は 声 を 立て た ――
 214『 これ は どう し た 事 か ……
 215お前 、 怪我 を し た の か 』 ……
 216住職 の 声 を 聞い て 盲人 は 安心 し た 。
 217芳一 は 急 に 泣き 出し た 。
 218そして 、 涙ながら に その 夜 の 事件 を 物語っ た 。
 219『 可哀そう に 、 可哀そう に 芳一 ! 』 と 住職 は 叫ん だ ――
 220『 みな 私 の 手落ち だ !――
 221酷い 私 の 手落ち だ !
 222…… お前 の 身体中 くまなく 経文 を 書い た に ―― 耳 だけ が 残っ て い た !
 223そこ へ 経文 を 書く 事 は 納所 に 任し た の だ 。
 224ところで 納所 が 相違なく それ を 書い た か 、 それ を 確かめ て おか なかっ た の は 、 じゅうじゅう 私 が 悪るかっ た !
 225…… いや 、 どう も それ は もう 致し方 の ない 事 だ ――
 226出来る だけ 早く 、 その 傷 を 治す より 仕方 が ない
 227…… 芳一 、 まア 喜べ !――
 228危険 は 今 まったく 済ん だ 。
 229もう 二 度 と あんな 来客 に 煩わさ れる 事 は ない 』
 230深切 な 医者 の 助け で 、 芳一 の 怪我 は ほどなく 治っ た 。
 231この 不思議 な 事件 の 話 は 諸方 に 広がり 、 たちまち 芳一 は 有名 に なっ た 。
 232貴い 人々 が 大勢 赤間ヶ関 に 行っ て 、 芳一 の 吟誦 を 聞い た 。
 233そして 芳一 は 多額 の 金員 を 贈り物 に 貰っ た ――
 234それで 芳一 は 金持ち に なっ た
 235…… しかし この 事件 の あっ た 時 から 、 この 男 は 耳無芳一 という 呼び名 ばかり で 知ら れ て い た 。