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aozora_Togawa-1937-2のコンテキスト表示

title Mujina
author Koizumi, Yakumo (translator: Togawa, Meizo)
date 1904
source Aozora Bunko (https://www.aozora.gr.jp/cards/000258/card42928.html)
genre fiction
subcorpus Aozora Bunko
terms of use Creative Commons license


 1
 2小泉八雲
 3東京 の 、 赤坂 へ の 道 に 紀国坂 という 坂道 が ある ――
 4これ は 紀伊の国 の 坂 という 意 で ある 。
 5何故 それ が 紀伊の国 の 坂 と 呼ば れ て いる の か 、
 6それ は 私 の 知ら ない 事 で ある 。
 7この 坂 の 一方 の 側 に は 昔 から の 深い 極わめて 広い 濠(ほり) が あっ て 、 それ に 添っ て 高い 緑 の 堤 が 高く 立ち 、 その 上 が 庭地 に なっ て いる 、 ――
 8道 の 他 の 側 に は 皇居 の 長い 宏大 な 塀 が 長く つづい て いる 。
 9街灯 、 人力車 の 時代 以前 にあって は 、 その 辺 は 夜 暗く なる と 非常 に 寂しかっ た 。
 10ため に おそく 通る 徒歩者 は 、 日没後 に 、 ひとり で この 紀国坂 を 登る より は 、 むしろ 幾 哩 も り道 を し た もの で ある 。
 11これ は 皆 、 その 辺 を よく 歩い た 貉 の ため で ある 。
 12貉 を 見 た 最後 の 人 は 、 約三十 年 前 に 死ん だ 京橋 方面 の 年 とっ た 商人 で あっ た 。
 13当人 の 語っ た 話 という の は こう で ある 、 ――
 14この 商人 が ある 晩 おそく 紀国坂 を 急い で 登っ て 行く と 、 ただ ひとり 濠(ほり) の 縁(ふち) に 踞(かが)ん で 、 ひどく 泣い て いる 女 を 見 た 。
 15身 を 投げる の で は ない か と 心配 し て 、 商人 は 足 を とどめ 、 自分 の 力 に 及ぶ だけ の 助力 、 もしくは 慰藉 を 与え よう と し た 。
 16女 は 華奢 な 上品 な 人 らしく 、 服装(みなり) も 綺麗 で あっ た し 、 それから 髪 は 良家 の 若い 娘 の それ の よう に 結ば れ て い た 。 ――
 17『 お女中 』 と 商人 は 女 に 近寄っ て 声 を かけ た ――
 18『 お女中 、 そんな に お泣き なさる な ! ……
 19何 が お困り な の か 、 私 に 仰しゃい 。
 20その 上 で お助け を する 道 が あれ ば 、 喜ん で お助け 申し ましょ う 』
 21( 実際 、 男 は 自分 の 云っ た 通り の 事 を する 積り で あっ た 。
 22何となれば 、 この 人 は 非常 に 深切 な 人 で あっ た から 。 )
 23しかし 女 は 泣き 続け て い た ――
 24その 長い 一方 の 袖 を 以 て 商人 に 顔 を 隠し て 。
 25『 お女中 』 と 出来る 限り やさしく 商人 は 再び 云っ た ――
 26『 どうぞ 、 どうぞ 、 私 の 言葉 を 聴い て 下さい ! ……
 27ここ は 夜 若い 御婦人 など の 居る べき 場処 で は あり ませ ん !
 28御頼み 申す から 、 お泣き なさる な ! ――
 29どう し たら 少し で も 、 お助け を する 事 が 出来る の か 、 それ を 云っ て 下さい ! 』
 30徐ろに 女 は 起ち上っ た が 、 商人 に は 背中 を 向け て い た 。
 31そして その 袖 の うしろ で 呻き咽び つづけ て い た 。
 32商人 は その 手 を 軽く 女 の 肩 の 上 に 置い て 説き立て た ――
 33『 お女中 ! ――
 34お女中 ! ――
 35お女中 !
 36私 の 言葉 を お聴き なさい 。
 37ただ ちょっと で いい から ! ……
 38お女中 ! ――
 39お女中 ! 』 ……
 40すると その お女中 なる もの は 向きかえっ た 。
 41そして その 袖 を 下 に 落し 、 手 で 自分 の 顔 を 撫で た ――
 42見る と 目 も 鼻 も 口 も ない ――
 43きゃッ と 声 を あげ て 商人 は 逃げ出し た 。
 44一目散 に 紀国坂 を かけ登っ た 。
 45自分 の 前 は すべて 真暗 で 何 も ない 空虚 で あっ た 。
 46振り返っ て みる 勇気 も なくて 、 ただ ひた走り に 走り つづけ た 挙句 、 ようよう 遥か 遠く に 、 蛍火 の 光っ て いる よう に 見える 提灯 を 見つけ て 、 その 方 に 向っ て 行っ た 。
 47それ は 道側(みちばた) に 屋台 を 下し て い た 売り歩く 蕎麦屋 の 提灯 に 過ぎ ない 事 が 解っ た 。
 48しかし どんな 明かり でも 、 どんな 人間 の 仲間 でも 、 以上 の よう な 事 に 遇っ た 後 に は 、 結構 で あっ た 。
 49商人 は 蕎麦売り の 足下 に 身 を 投げ倒し て 声 を あげ た
 50『 ああ ! ああ ああ ※ [ # 感嘆符 三 つ 、 231-8 ] 』 ……
 51『 これ ! これ ! 』 と 蕎麦屋 は あらあらしく 叫ん だ
 52『 これ 、 どう し た ん だ ?
 53誰れ か に やら れ た の か ? 』
 54『 否 ( いや ) 、 ―― 誰れ に も やら れ た の で は ない 』 と 相手 は 息 を 切らし ながら 云っ た ――
 55『 ただ …… ああ ! ―― ああ ! 』 ……
 56『 ―― ただ おどかさ れ た の か ? 』 と 蕎麦売り は すげなく 問う た
 57『 盗賊(どろぼう) に か ? 』
 58『 盗賊(どろぼう) で は ない ―― 盗賊(どろぼう) で は ない 』 と おじけ た 男 は 喘ぎ ながら 云っ た
 59『 私 は 見 た の だ ……
 60女 を 見 た の だ ――
 61濠 の 縁(ふち) で ―― その 女 が 私 に 見せ た の だ ……
 62ああ !
 63何 を 見せ た って 、 そりゃ 云え ない 』 ……
 64『 へえ ! その 見せ た もの は こんな もの だっ た か ? 』 と 蕎麦屋 は 自分 の 顔 を 撫で ながら 云っ た ――
 65それ と共に 、 蕎麦売り の 顔 は 卵 の よう に なっ た ……
 66そして 同時 に 灯火 は 消え て しまっ た 。