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aozora_Tsuboi-1968のコンテキスト表示

title Hitotsumi no Kimono
author Tsuboi, Sakae
date 1968
source Aozora Bunko (https://www.aozora.gr.jp/cards/001875/card58921.html)
genre fiction
subcorpus Aozora Bunko
terms of use Creative Commons license


 1一つ身の着物
 2壺井栄
 3赤ん坊 の 名 を 右文 と いっ た 。
 4生後 一 年 で 孤児 に なり 、 私 の 家 へ くる こと に なっ た 。
 5赤ん坊 の ひいおばあさん に あたる 人 から この 話 を もちこま れる 前 に 、 私たち 夫婦 は もう その 覚悟 で い た の だ が 、 いよいよ と なる と 、 さまざま な 難問題 が 湧い て き た 。
 6しかし 、 だからといって 肩 を はずす わけ に も 行く まい と 考え られ た ので 、 とにかく 引き取ろ う という こと に なっ た 。
 7その 中 どこ から か 救い の 手 が のび て くる だろう という 空だのみ も あっ た し 、 また 一方 で は 、 赤ん坊 という 新鮮 な 存在 が 、 もう とっく に 初老 を すぎ た 私たち の 、 沈滞 し た 家庭生活 を 若返ら せ も し よう か という 、 とてつもない 希望 も 抱か せ られ た 。
 8「 うち に 赤ん坊 が できる なんて 、 なかなか いい じゃ ない か 。
 9この たび 老妻 に 男の子 が 生れ まし た ―― と みんな に 通知 し て 、 一 つ お祝い を し て 貰う ん だ ね 。 」
 10夫 が そう いう と 、 娘 の 正子 まで が のり気 に なっ て 、 本気 な 顔 で いっ た 。
 11「 そう よ 、
 12そう よ 、
 13ほんと に うち で は これ まで よそ の 赤ちゃん に ばかり お祝い し てる ん です もの 、
 14今度 は そう し ましょ う よ 。
 15みんな 驚く わ よ 。
 16ねえ お母さん 、 わたし が 育てる から さ 。
 17うち に 生れ た 子 だ と 思っ たら 、 育てる の あたり前 です もの 。 」
 18まるで 私 一人 が 二の足 でも ふん で いる よう な いい方 に 、 私 は にやり と し 、
 19「 そりゃ そう さ 。
 20うち に 生れ た と 思え ば いい ん だ けど ね 、
 21なかなか そう は 思え ない から ね 。 」
 22「 なぜ 。 」
 23「 だって 、 どっち の 子供 さ 。
 24お母さん が 生ん だ つもり に なる の かい 。
 25それとも 正子 かね 。 」
 26「 あら 、 失礼 ね 。 」
 27正子 は 顔 赤らめ て きゃっきゃっ と 笑う 。
 28実子 の ない 私たち は 、 この 正子 を も 小さい 時 から 育て た の で ある 。
 29正子 は 私 の 姪 に あたる 。
 30結果 として 生母 の 生命 を 奪っ て この世 に 生れ て き た 正子 を 私たち が 育てる こと に なっ た の は 、 正直 に いっ て 三 分 の 迷惑 と 七 分 の 義理 から で あっ た が 、 お父さん お母さん と 呼ば れ て 一 つ 屋根 に 暮し て いる 中 に 、 いつ か 義理 や 迷惑 は 消え て しまっ て 、 自然 な 情 に 結ば れ た 平穏無事 な 親 と 子 に なっ て いる 。
 31それどころか 正子 は もう 厳然 たる 存在 で 、 私たち の 家庭 で 正子 の 部門 を 占め て い た 。
 32正子 を ぬい て は 、 まったく 私たち の 生活 は 形 を 変え ね ば なら ぬ ほど 、 彼女 は 私たち にとって 有りがたい 存在 だっ た 。
 33あまり 健康 で ない 私 は 、 朝寝坊 の 寝床 の 中 で 台所 の 朝 の 音 を 聞き ながら 、 隣り の 夫 に 、
 34「 ほんと に 正子 が いれ ば こそ よ 。
 35もう 二十三 です から ね 。
 36あなた も あんまり がみがみ いわ ない で よ 。
 37正子 が い なけれ ば 私たち は 誰 から も お父さん お母さん と 呼ば れ なかっ た の よ 。 」
 38夫 が 正子 を こっぴどく 叱りつけ たり し た 翌朝 など 、 私 は よく こんな こと を いっ た 。
 39すると 夫 は 一先ず 私 の 言葉 を 素直 に うけ 、
 40「 わかっ た よ 、
 41わかっ た よ 、
 42しかし ね 、 がみがみ いう の は 本当 は 隔て が ない から いう ん だ が ね 。
 43分ら ない かなア 。
 44それに お前 は 俺 だけ が 口やかましい よう に いう けれど 、 お前 だって いいかげん いっ てる よ 。 」
 45「 そりゃあ 私 は 自分 の つながり です もの 、
 46聞く 方 も 流せる の よ 。
 47そこ へ ゆく と あなた は 謂わば 義理 の 中 よ 。 」
 48「 じょうだん じゃ ない 。
 49二十 年 も 一しょ に 暮し て 、 義理 も へちま も ある かい 、
 50愛情 なんて もの は ね 、 ぜったい に そんな もの じゃ ない よ 。
 51もしも 正子 が そんな ふう に 考え てる なら 、 俺 ア 本当 に 怒る よ 。 」
 52いつも の 口ぐせ だっ た 。
 53しかし それ が ただ 口ぐせ だけ で ない の を 私 は 知っ て い た 。
 54真実 の 心 を 割っ て み た ならば 、 血 の つながっ て いる 私 より も 、 夫 の 方 が 純粋 な 情愛 を 正子 に 抱い て いる かもしれない と 思う こと が よく ある 。
 55しかし 若い 正子 は それ を 見抜く まで に 到っ て い ない 。
 56だが 正子 として は 、 両親 の 愛情 を 秤 に かけ て み なけれ ば なら ない ほど 複雑 に は なら なく て も よい らしい 。
 57父親 に 叱ら れ て すね て みる こと は あっ て も 、 結局 は 一人っ子 の 苦労 以外 の 苦労 は あまり 知ら ずに 育っ て しまっ た の だ 。
 58彼女 の 日頃 の 言葉 の 中 に は 、 一人っ子 の 嘆き が いつも あっ た 。
 59だから 今 、 赤ん坊 が くる かも知れぬ という こと に なる と 、 彼女 は 単純 に 喜ん で しまっ た 。
 60「 右文 なんて めずらしい 名前 ね 。
 61右文ちゃん なんて 呼び にくい から 、 私 、 右坊 って 呼ぶ わ 。
 62でも 、 右坊 も へん ね 。
 63何 て よぼ う かな 。 」
 64正子 は 楽し そう に 眼 を 細く し て い た 。
 65それ に 水 を ぶっかける よう に 私 は わざと いっ て みる 。
 66「 そんな こと より も さ 、 大へん な ん だ よ 正子 、
 67その 右坊 という 子 が お前 普通 の 子 なら いい けれど 、 発育 の おくれ た 、 手 の かかる 子 らしい よ 。 」
 68「 いい わ よ 。 」
 69「 いい わ よ と いう が ね 、 子育て なんて 、 そんな 生やさしい こと じゃ ない の よ 。
 70正子 で 身 に しみ た から ね 。 」
 71「 じゃあ 、 ことわる って いう の 。 」
 72「 そんな わけ に は 行き そう も ない から 、 ためいき な ん だ よ 。 」
 73「 そんなら 仕方 が ない じゃ ない の 。
 74私 、 弟 が でき た と 思っ て 可愛がっ て やる わ 。
 75ご恩返し に ね 。 」
 76「 だれ の ご恩返し さ 。 」
 77「 お母さん の よ 。 」
 78「 あ 、 そりゃ 有りがたい 。
 79そんなら 正子 に 頼む わ ね 。 」
 80「 大丈夫 よ 。
 81夜 も 抱い て ねる わ よ 。 」
 82「 やれやれ 。 」
 83「 おしめ の 洗濯 なんて 、 ぜったい に お母さん の 手 かり ない わ 。
 84朝 の 中 に ちょこちょこっ と すませる から いい 。 」
 85「 ああ 、 ああ 、 かんたん だ ね 。 」
 86「 大丈夫 。
 87だって 私 より も 若い 人 が 子供 うん でる もの 。
 88私 は 子供好き です もの 、
 89ほんと に 大丈夫 と 思う 。
 90どこ の 赤ちゃん でも すぐ 馴つく ん だ もの 。 」
 91「 それでは 万事 正子 に 任せ て 、 私 は おばあちゃん て こと に なろ う かね 。 」
 92「 それ で いい わ 。
 93私 の 年 で 二人 くらい の お母さん の 人 も あっ て よ 。 」
 94正子 は なかなか 積極的 だっ た 。
 95彼女 が のり気 に なっ て くれる こと は 、 何 より も 有りがたかっ た 。
 96赤ん坊 は 私 の 兄 の 孫 に あたる ので 、 正子 にとって も 従弟ちがい という わけ だ から 、 将来 力 に なり 合う の も 不自然 で は ない と 、 ひそか に 私 は 考え た 。
 97だが 、 それ を 見届ける だけ の 生命 が 私 に ある かどうか の 自信 は なかっ た 。
 98しかし 、 見届け ね ば なら ぬ こと も ない だろう し 、 見届け たい ため に 引きとる の で は 尚更 ない の だ から 、 精一ぱい に 育て さえ すれ ば 、 あと は 又 あと の 風 が 吹く だろう 。
 99秋晴れ の 暖かい 日 、 私たち は 夫婦づれ で 赤ん坊 を 引きとり に 出かけ た 。
 100赤ん坊 は 横浜 に 母 と 二人 で 暮し て い た の だ が 、 母親 の 死後 親戚 に 預け られ て い た 。
 101八 歳 を 頭 に 四 人 の 男の子 が ある という その 仮り親 の 家 で の ひと 月 足らず の あけ暮れ は 赤ん坊 にとって は 憂うつ 極まる もの で あっ た らしい 。
 102つまり 、 四 人 の 幼い 男の子たち は 、 仔犬 を 可愛がる と 同じ よう に 赤ん坊 を かまっ た の で も あろ う か 。
 103赤ん坊 は すっかり 気むずかしや に なっ て い た 。
 104その 一 か月 の 仮り の 母 は 、 それ が 赤ん坊 の 天性 で でも ある よう に いっ た 。
 105「 右文ちゃん は とても 子供ぎらい でし て ね 、
 106子供 を みる と 泣き 出す ん です よ 。 」
 107しかし 大人 を み て も 笑い は し なかっ た 。
 108泣き も 笑い も せ ず 、 ただ 物憂げ な 力ない まなざし で 、 私たち を 見 た 。
 109何 の 意志 も 表せ ない その まなざし 、 四 人 の いたずらっ子 に とりまか れ た 生活 から 、 大人 ばかり の 家 に つれ て ゆか れる と も 知ら ず 、 他人 の 手 から 手 へ 小荷物 の よう に 渡さ れる 一人 の 赤ん坊 。
 110「 右文ちゃん 、 さあ 、 今日 から は この 小母ちゃん が お母さん よ 。 」
 111泣き も 嘆き も さ れ ず 、 赤ん坊 は 私 の 手 の 中 に 渡さ れ た 。
 112ひと 月 前 に み た とき より も やせ て しぼん で い た 。
 113抱い て み て その 軽さ に も びっくり せ ずに い られ なかっ た 。
 114焼跡 の でこぼこ道 を 歩い て 帰り ながら 、 私 は 自然 な 動作 で 背 の 子 を 軽く ゆさぶり 、 母親らしく 話しかけ て いる 自分 の 姿 を 不思議 に 思わ ずに は い られ なかっ た 。
 115不思議 は 私 だけ で なく 、 夫 まで が 神妙 に 、 父親らしく わき に つれ添っ て いる の だ 。
 116しかも おしめ の 包み を 片手 に 下げ て いる 。
 117「 私たち は 、 ほんと に 姪 や 甥 の 育てぶに が ある の ね 。 」
 118「 生め ない ん だ から 、 それ ぐらい の こと あっ て も いい の かもしれん な 。 」
 119「 そう かもしれない 。
 120だけど こうして 無理矢理 ―― で も ない けれど とにかく 強引 に 背負わさ れ て さ 、 さあ 今日 から お母さん だ よ と 宣告 さ れ て も 、 正直 な ところ まだ 愛情 より も 不憫さ の 方 が 強い 感じ ね 。
 121それ が 可哀そう だ と 思わ ない ? 」
 122「 ふーん 。 」
 123「 これ が お母さん だ よ なんて 、 ずい分 越権 です よ 。 」
 124錆トタン の 掘立小屋 が 点々 と 散らばっ て いる その 間 を 縫っ て 、 焼跡 の 通路 は でこぼこ し ながら 往来 へ のび て いる 。
 125焼トタン に 囲ま れ た 小さな 小屋 の 人たち が 、 思い思い の 足跡 で ふみ固め 、 つない で 行く 太々しい 記録 な の だ 。
 126五 つ と 七 つ 位 の 男の子 が 地べた に 足 を 投げ出し て ぼんやり と こちら を み て いる 。
 127光り の ない 目 の 色 、 変っ た 人種 か と 思う ほど 赤黒い 皮膚 の 色 。
 128その そば に 母親 らしい やはり 色 の 黒い 女 が 、 野天 で さつま芋 を 切っ て いる 。
 129俎板 は 柱 の よう な 四角 な 木切れ だっ た 。
 130人 も 家 も 、 大人 も 子供 も 、 俎板 も さつま芋 も 、 どす黒い 煙 に いぶさ れ た よう な 色 だっ た 。
 131畳 に すれ ば 僅か 二 枚 ほど の その 哀れ な 住居 の 前 を 人々 は 不遠慮 に 歩い て いる 。
 132見 られる こと も 見る こと も 何 と も 思っ ちゃ い られ ぬ 風景 で ある 。
 133しかし あの はだし の 男の子 に は 母親 が ある 。
 134「 空襲 で は 助かっ て 、 病気 で 死ぬ なんて 、 順ちゃん も 死に きれ なかっ た でしょう ね 、
 135その 子 を 私 が 育てる なんて 、 不思議 だ 。 」
 136私 は ため息 を し た 。
 137死ん で いっ た 若い 、 そして 貧しかっ た 母 の 名 を 順子 と いう 。
 138彼女 は 死 の 床 で 私たち の 名 を 呼び 赤ん坊 を 頼む と いっ た そう で ある 。
 139「 まったく 死に きれ なかっ たろ う 。
 140空襲 で 助かっ て 、 終戦 を 迎え た とたん に 死ぬ なんて 、 要するに 戦争 で 死ん だ よう な もの さ 。
 141金 でも あっ て 闇 の もの でも うんと 食っ てれ ば 抵抗力 も あっ たろ う から な 。 」
 142栄養不足 の 哀れ な 若い 未亡人 は 、 ひょいと つまずい て 倒れ た きり 、 立ち上る 力 が なかっ た の だ 。
 143あたら 若い 生命 を 飢 で すり減らす など 、 何 という 哀しさ だろう 。
 144しかも これ から さき 、 八千万 の 日本人 は 八 人 に 一人 の 餓死者 を 出す だろう と 新聞 は 報じ て い た 。
 145八 人 に 一人 、 この 迫りくる 飢餓線 を 、 赤ん坊 もろとも ふみ越え て ゆける かどうか 、 私 は 思わず 背 の 子 を ふりかえっ た 。
 146赤ん坊 は 寝息 も かすか に 、 ぐったり と 頸 を 横 に 曲げ て い た 。
 147晴れ た 秋空 の 下 で は 、 その 顔色 は 余計 に 黄色く 、 くろずん で 見える 。
 148ゆきつく 先 も 知ら ず 、 流れる 水 の よう に 柔順 な その 姿 の どこ に 生後 一 年 の 溌剌さ が 宿っ て いる の だろう か 。
 149「 あたら 男の子 よ 。
 150ほしく て ほしく て なら ない 人 も ある だろう に 、 ただ 一 片 の 義理 と 不憫さ の 中 で 育つ なんて 、 可哀そう よ 。 」
 151私 の 馬鹿正直さ は 、 この 子 を 可愛い とも 、 可愛らしい とも いえ なかっ た 。
 152「 今 に 可愛く なる よ 。
 153よちよち 歩き 出し たり 、 片言 を いい 出し たり する よう に なれ ば 、 親子 の 情 なんて 自然 に 湧い て くる さ 。 」
 154「 それ は そう よ 。
 155私 が 辛がっ てる の は 今 の 気持 な の 。
 156この 出発 が 哀しい の よ 。
 157愛情 の 中 に 迎え られ て い ない という こと 。
 158私 なんて 、 ずい分 薄情 な ん だ わ 。 」
 159私 は 涙ぐん で い た 。
 160「 正直 な ん だろ 。 」
 161夫 が とりなす よう に いう 。
 162「 どう だ か ね 。
 163とにかく 嘘 で ない 気持 な の よ 。
 164私 、 この 子 を 可愛い と は まだ 思え ない ん だ もの 。
 165―― でも 正子 で 助かる わ 。
 166正子 は 無条件 らしい から 。
 167それ で かんべん し て もらお う 。 」
 168「 俺たち だって 、 何 も 条件 なんか ない ぜ 。 」
 169「 あ 、 そう だ わ 。
 170そう ね 。
 171正子 じゃ ない けど 、 うち に 生れ た と 思え ば それ で いい ん だ わ 。
 172たとえ 憎く たって それ で いい ん だ から 。 」
 173「 そう さ 、
 174ぽかっと 男の子 が 出来る なんて いい よ 。 」
 175「 あんた も 正子 も 、 まるで 棚 の 上 の 牡丹餅 ぐらい に 考え てる の ね 。 」
 176「 そう 考え た 方 が 楽しい よ 。 」
 177「 おんぶ する の は 私 です から ね 。 」
 178「 そう 深刻 に 考える な よ 。 」
 179家 へ 帰る と 正子 は 玄関 の 外 で 待ちうけ て い た 。
 180気 が 軽く なっ て 私 は 思わず 「 ただいま 。 」 と 若々しく いっ た 。
 181「 さあ さあ 、 右文ちゃん 、 お前さん の うち だ よ 。 」
 182私 の 手 は 子育て に なれ た 女 の 手つき を し て おぶい紐 を 解い て い た 。
 183するする と すべら せる よう に し て 茶の間 の まん中 に 坐ら せる と 、 赤ん坊 は 急 に おびえ た 声 を 出し 両手 を ひろげ て 私 に かじりつい て き た 。
 184「 あ 、 よしよし 、 よしよし 。 」
 185抱きよせ て 背 を 撫で て やる と 、 やっと 安心 し た らしい 。
 186だが 夫 に も 正子 に も ゆこ う と し なかっ た 。
 187僅か 三 時間 ほど 馴染ん だ だけ で 、 これ だけ の 信頼 を 見せる 右文 の 動作 は いたく 私 の 心 を うっ た 。
 188部屋 の 隅 で 子守唄 を 歌っ て やる と 、 すぐ 眠っ た 。
 189二十 年ぶり の 子守唄 だっ た 。
 190それ は 正子 に 歌っ て やっ た と 同じ 子守唄 だっ た 。
 191正子 が しのび足 で うしろ から そっと のぞい て いる 。
 192「 あした に なれ ば 正子 に 馴れる よ 。
 193おっぱい を やっ たり 、 抱っこ し たり 、 それ を 正子 が 受け持っ たら 、 たちまち 正子っ子 に なる わ よ 。 」
 194少し がっかり し て いる よう な 正子 の 機嫌 を とる よう に 私 は いっ た 。
 195「 疲れ た でしょ お母さん 、
 196おんぶ し て 肩 はら なかっ た ?
 197もみ ましょ う か 。 」
 198きゅうん と こたえ て 私 は いそい で 次 の 間 に ゆき 、 座ぶとん の 隅かけ に 寝かせつけ た 。
 199「 何しろ 二十 年ぶり だ もの 、
 200肩 も はる さ 。 」
 201正子 は やはり つい て き て 、 寝かせ方 を み て いる 。
 202「 あした から 、 私 が する わ 。 」
 203「 ありがとう 。 」
 204私 は もう かくそ う と せ ずに 、 正子 の 前 で 目 を しばたたい た 。
 205「 あと で ね 正子 、 右文 の おべべ を 縫う の 手伝っ て おくれ よ 。
 206何に も 着がえ もっ て ない の よ 。 」
 207「 あら 、 なん に も ?
 208一 枚 も ? 」
 209「 そう 、 これ から 仕度 に とりかかる という 季節 だっ た から 、 無理もない さ 。
 210去年 の もの は 駄目 だ もの 。
 211小さく て 、 その上 スフ や 人絹 だ もの ね 。 」
 212「 袷 な の 。 」
 213「 ああ 、 袷 も じゅばん も よ 。
 214一つ身 を 又 縫う なんて こと が あろ う と は 、 思わ なかっ た ね 。 」
 215「 これ も 二十 年ぶり ? 」
 216「 そう とも 。
 217でも ね 、 赤ん坊 の 着物 って もの は …… 」
 218のど が つまっ て 切れ た 言葉 を 、 私 は あわて て つぎ足し た 。
 219「 たのしみ な もの さ 。 」
 220縫っ て いる 中 に 、 だんだん 愛情 と からみつい て き た 正子 の 小さい 時 の こと を 思い出し た の で ある 。