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aozora_Yamanokuchi-1937のコンテキスト表示

タイトル ダルマ船日記
Title Darumasen nikki
筆者 山之口貘
author Ymanokuchi Baku
年/year 1937
出典 「中央公論」中央公論社、1937年12月号
source "Chuuoookooron, December, 1937"
genre essay
subcorpus Aozora Bunko


 1× 月 × 日 金
 2眼 を 覚まし て みる と 、 側 に 寝 て い た 筈 の 六さん の 姿 は 見え なかっ た 。
 3居候 の くせ に 、 なぜ こう も 寝坊 する の であろう か 。
 4桝 の よう な 船室 から 首 を 出し て 、 甲板 を 見廻わす と 、 既に 、 七輪 の 薬罐 が 湯気 を 吹きあげ て い た 。
 5この 船 の 名 は 、 水神丸 。
 6積載量 百 トン 。
 7型 は 、 通称 ダルマ と 言っ て いる 。
 8年齢 は 、 三十五 歳 。
 9生れ は 深川 。
 10まるで 、 老人 みたい な 風貌 だ 。
 11無数 の 皺 の 合間合間 に は 、 鉄錆び が 汚みつい て いる 。
 12艫 に は 船室 が あっ て 、 三 畳敷 位 。
 13そこ に 船頭さん と 僕 と が 一緒 に 暮らし て いる 。
 14その 他 、 押入 が 一 間 と 、 それ に 向い合っ て 神棚 が あり 、 押入 の 下 に は 、 古道具屋 の よう に 炊事道具 など 一杯 詰まっ て いる 。
 15それから 、 片方 の 壁 に は 蝶ネクタイ と 背広 の 上下 を 掛け て ある 。
 16それ は 僕 の で は なく 六さん の 外着 で ある 。
 17六さん とは 、 即ち 、 この ダルマ水神丸 の 船頭さん な の で ある 。
 18どこ に い て も 、 僕 にとって 一番 の 不便 は 、 先ず 、 放尿 の 場合 で ある 。
 19折角 、 出かかっ て いる 小便 でも 、 身辺 に 人 の 跫音 が きこえる と 、 直ぐ に 中途 で 引っ込ん で しまう 。
 20だから 街 を 歩い て いる 時 など 、 僕 は 他人 の よう に あっさり と は 立ち小便 の 出来 ない 質 で ある 。
 21これ だけ は 、 動物 みたい な 僕 に も 似合わ ず 殊勝 な こと だ と 思え ば 思える の で ある 。
 22とは言え 、 その こと の 不便 は 、 乗船以来 一 日 も 欠かさ ず 僕 を 苦しめ て いる の だ 。
 23堪え 切れ なく なる と 、 陸 に 這い上り 、 人 の 気配 を 避け た 横丁 を 物色 し て 僕 は 用 を 足さ ね ば なら ない の だ 。
 24なおさら 、 困まる の は 糞 の 始末 で ある 。
 25その 始末方法 に就て は 、 六さん が 彼 の 実地 を以て 、 或る 夜 、 説明付 で 僕 に 教える の だっ た 。
 26こんな 風 に する ん だ と 言い ながら 、 彼 は まくりあげ て 船端 に しゃがん で 見せ た 。
 27そうして 、 片方 の 手 を さしのべ て 鉤 の よう に 舷 の 内枠 に かけ 、 片方 の 手 は 股 の 間 に 入れる の だっ た 。
 28その 手 は なん だ と 訊く と 、 船 に 小便 を ひっかけ て は いか ぬ から 、 こう し て あれ を 川面 の 方 へ 押し向け て 置く の だ と 言う の で あっ た 。
 29僕 は 、 教え られ た 通り の ポーズ を し て 、 暫らく は しゃがん で い た の で ある 。
 30ところが ここ は まるっきり 、 便所 の 中 と は 世界 が 違っ て い た 。
 31僕 に は 、 総て の 物 が 眼 の 球 の ある 物 の よう に 思わ れ 、 しゃがん で いる 真下 の 水 の 音 まで が 気 に なり出し て 、 一向 落ち着く こと が 出来 なかっ た 。
 32僕 は 幾 度 も 幾 度 も 、 水 の 音 だ から 構う もん か という よう に 自分 に 言いきかせ て は 思い 力み 、 努めて 平気 な 面 を 装う て 下腹 に 力 を いれ たり する ん だ が 、 その うち に 曳船 の ポンポン の 音 が きこえ て 来 て 、 ついに 目的 を 果す こと が 出来 なかっ た 。
 33どう し て も 駄目 な ん だ 。 と 、 六さん に 僕 は 訴え た が 、 六さん に言わせると 、 人間 じゃ ない と いう の だっ た 。
 34事実 、 この 世界 の 生活者達 は 、 老若男女 、 夜 であろう が ひるま だろう が 、 僕 みたい な 者 が 物珍らしく 見 て いよ う が 、 生理 の ため に は 、 悠々 と 船端 に しゃがん で いる 彼等 で ある 。
 35いつ に なっ たら 僕 も 便秘 を し なく なる だろう 。
 36水神丸 の 仕事 として は 、 鉄屑 の 運搬 で ある 。
 37この ダルマ は 、 本所緑町 一 丁目 の 、 製鉄原料問屋 鈴木徳五郎商店 の 専属船 だ 。
 38いま 、 商店 の 川っ縁 で 、 七、八 人 の 人夫達 が 、 二十五、六 貫 ずつ に まとめ られ た 鉄屑 を 担い で は 、 水神丸 に 積み込ん で いる 。
 39午過ぎ 、 積荷 が 終る と 、 僕ら は 、 甲板 の 掃除 を し たり シイト を 覆う たり し て 、 出帆 の 準備 を 整え た 。
 40雨 に で も なら なけれ ば 、 今夜 七 時 か 八 時頃 、 船 を 一 つ目 の 口 まで 出し て 置き 、 夜中 の 二 時頃 に は 、 鶴見 へ 出帆 の 予定 だ が 、 この 空模様 で は 多分 雨 だ と 自信ありげ に 六さん が 言う 。
 41一 つ目 の 口 と は 、 竪川一の橋 の こと で 、 そこ から 鶴見 まで は 、 所謂 、 曳船 で 行く との こと だ 。
 42水神丸 の 船腹 は 深く 沈み 、 僅か に 七、八 寸 位 しか 浮い て い ない 。
 43この まま 動き出し て は 、 たちまち 水浸り に なり そう な 表情 を し て 、 船 は 平べったく 腹這い に なっ て いる 。
 44一体 、 どれ 位 の 鉄屑 を 積ん だ の であろう か と きい て み た 。
 45百 トン 以上 は 積める ん だ が 、 おじさん が 乗っ て いる から 遠慮 し て 、 九十三 トン に し ちゃっ た 。 と 、 六さん が 言う の だっ た 。
 46おじさん と は 僕 の こと 。
 47だが 、 鶴見 へ 行く と 二 寸 位 は 船 が 浮き出す と いう 。
 48水 と 湖 と の 相違 な の だ 。
 49夜 。
 50雨 に なっ た ので 、 六さん は えらい と 言っ て やっ た 。
 51すると 、 彼 は 得意気 に 、 それ は おじさん 第六感 だ よ と 言う の だっ た 。
 52× 月 × 月 土
 53雨 は 上り 、 陽 の 光 が 白く 降っ て い た 。
 54それ だ のに 、 船 を 出す の は 夜 の 八 時頃 だ と いう 。
 55いま は 満潮 だ から であろう か 。
 56この 間 、 亀戸 の 東京鋼材会社 の 帰り の こと だっ た 。
 57亀島橋 という 貧弱 な 橋 だっ た が 、 その 橋 に さしかかる と 、 水神丸 の 図体 が 大きく 反動 し た 。
 58橋 を くぐる の で は なく て 橋 に めりこん で しまっ た の だ 。
 59僕 は 、 舵棒 に 足 を 払わ れ て 倒れ 、 六さん は 、 胸壁 で 押し て い た 棹 を 川 の 中 へ 放っぽり 出し て 、 前のめり に 舷 に とりすがっ て い た 。
 60ふたり が 起きあがっ た 時 は 、 水神丸 は 牛 の よう に 船首 を 橋 に 突っ込ん で い て 、 船尾 を 横 に 振っ た なり 動こ う と も し なかっ た 。
 61ふたり は 、 舳先 の 両側 に 駈け寄っ て 、 前こごみ に まるめ た 背中 を 橋 に あてがい 、 もがく よう に し ながら 、 船 と 橋 と を 突っ放そ う と する ん だ が 、 全力 を しぼり 出し て も それ は なお 無力 を かんじる ばかり の こと に 過ぎ なかっ た 。
 62おまけ に 、 潮 の 流れ が 満潮 で 、 その まま ぐずつい て いる うち に は 、 しまい に 船首 で 橋 を 持ち上げ て しまう と いう 。
 63これ を また 、 その 筋 に 見つかっ て は うるさい こと に も なる という わけ で 、 いよいよ ふたり は 狼狽てる の だっ た 。
 64が 、 ようやく の こと 、 僕ら は 梃子 の 段取り を し た 。
 65やがて 、 張り切っ た ゴム を うんと 押し て いる よう な かんじ が 、 梃子 を 伝わっ て 力一杯 の 全身 に かんじ られ た 。
 66たっぷり と し た 川面 の 弾力 が 船首 を 跳ね返す と 、 橋 の 梁 から 舳先 を 引っ外ずす の だっ た 。
 67あの 時 の 船 は 空っぽ で 、 従って 船腹 は 高く 浮い て い た 。
 68僕ら は とうとう 潮 の 干く 時 まで 橋際 に 停船 し て い なけれ ば なら なかっ た 。
 69しかし 、 今度 の 船 は 荷物 を 満載 し て い て 、 こんな に も 平べったく なっ て いる で は ない か 。
 70たとえ どぶ川 の 橋 が 大川 の 橋 と は 違っ て どんな に 低く て も 、 これ なら 、 満潮 とは言え 以前 の よう な 失敗 なんか ある まい と 僕 は 思っ た が 、 今度 は 今度 で また 別 に 理 が ある の で あっ た 。
 71それ は 、 夜 の 八 時頃 が 、 丁度 、 満潮 の とまり だ から 、 その 頃 を 見計らっ て 徐ろに 干潮 の 流れ を 利用 すれ ば 、 楽 で も あり 、 船 も ヒアがる 心配 が ない の で ある と いう 。
 72空っぽ の ダルマ は 、 その 頭 が 橋 に つかえ ない 程度 に 満潮 を 避け 、 満腹 の ダルマ は その 腹 を 気 に し て 、 川底 に 摺りむか ない 程度 に 干潮 を 避け 、 それぞれ の ダルマ が 一様 に 、 魚 みたい な 眼 を し て 潮 の 加減 を 伺っ て いる よう だ 。
 73夕方 。
 74六さん と 、 三つ目通り の 元徳稲荷 の 縁日 を 振らつい た 。
 75お茶 の 半 斤 と 、 糠味噌漬 に する 胡瓜 と 菜っ葉 と を 買い 、 こころもち 船乗り 気分 に 酔い ながら 帰船 。
 76直ぐ に 六さん は 、 蝶ネクタイ を 解き 、 折り目 の あざやか な 紳士めい た ズボン を 脱ぎ棄て 、 「 鈴徳商店 」 と 染めぬか れ た 印半纏 に 身 を くるん だ 。
 77僕 は 、 よれよれ の ルパシュカ姿 。
 78六さん が 棹 。
 79僕 は 舵 。
 80三十 分 の 後 、 一 つ目 の 口 に 繋船 。
 81× 日 × 日 日
 82荒々しく 吹き込ん で 来 た 風 に たたき起さ れ て 、 跳ね起きる 途端 に 頭 の 上 に 物 が 落っこち た 。
 83痛む 頭 を 片手 で おさえ 、 狼狽て て 甲板 に 這い上る と 、 舵棒 に 腰 を 下ろし て 六さん が 揺れ て い た 。
 84船 は 、 既に 、 隅田河口 を 脱け出し 、 東京湾 を 走っ て いる 。
 85いくら 起こし て も 起き なかっ た という ので 、 六さん は 不機嫌 だっ た 。
 86時 に 午前 の 四 時頃 で ある 。
 87陸 の 背中 は 白みがかり 、 湾 を 抱い て いる 怪物 の よう だ 。
 88湾内 として は 相当 に 荒れ て いる らしく 、 唇 から しきり に 煙草 の 煙 を ひきちぎる 風 だ 。
 89波 は 波除け に あたり 飛沫 を 高く 浴びせかけ て いる 。
 90大森沖 で ある 。
 91三十 馬力 の 小蒸汽 に 曳か れ て いる ダルマ が 三 隻 、 後退り する よう に 寄り添う て 来 た 。
 92それ は 、 こちら の 小蒸汽 に 曳か せる ため だっ た 。
 93やがて 、 大森沖 を 過ぎ 、 羽田沖 で ある 。
 94直ぐ 右手 の 沖合い に は 、 灯台 が ひと つ 立っ て い て まばたき し た 。
 95左手 の 方 に は 、 別 の 曳船 が 七 隻 。
 96その むこう に は 十 隻 。
 97こちら の は 都合 四 隻 。
 98まるで 点線 の よう に 、 三 行 の ダルマ が 同じ 方向 へ いそいそ と 急い で いる 。
 99丁度 ここ の 辺り 、 大正 十一 年 の 十 月頃 だ か に 、 暴風 に 逢っ た 七 隻 の ダルマ 一行 が 、 小蒸汽 もろとも 海底 に もぐっ て しまっ た と いう 。
 100それ は 横浜 から 東京 へ の 曳船 だっ た との こと 。
 101実際 、 こうして 見 た ところ 、 こんな 風 に 荷物 の 積み具合い からして 、 そもそも と 言い たい かんじ な の で ある 。
 102載せる 物 は 鉄屑 に限らず 、 無理 でも 居候 でも 何 でも 載っけ させ て 置い て 、 もぐる まで は 押し黙っ て い そう な 、 ダルマ の 表情 は まったく 特別 な の だ 。
 103僕 は 、 六さん に 替わっ て 舵棒 を 握っ た 。
 104小蒸汽 の 速力 に 全身 の 力 を ひったぐら れ て 、 流石 に 舵 は 重い 。
 105普通 、 曳船 の 小蒸汽 は 、 三十 馬力 と きい て い た の で ある が 、 いま 水神丸 一 党 を 引っ張っ て いる 小蒸汽 は 、 八十 馬力 。
 106両側 の 曳船 を 抜い て 先頭 を 走っ て いる 。
 107灯台 を 右 へ 曲り 、 羽田沖 を 過ぎ 、 多摩川 の 下流 六郷川 の 沖 を 過ぎ た 頃 、 真正面 に は 、 鶴見 の 工場地帯 が 待ち受け て いる 。
 108製鉄会社 日本鋼管 の 岸壁 に 着い た の は 五 時 頃 で 、 一 つ目 の 口 から は 約三 時間 。
 109二、三十 隻 ずつ 、 一塊り に なっ た 一群 の ダルマ は 、 二百 隻 以上 も あろ う か 。
 110東岸壁 から 西岸壁 を 埋め て い て 水 の 上 に 街 を なし て いる 。
 111みんな 鉄屑 を 満載 し て 、 湖 と 摺れ摺れ に 平たく 家鴨 の よう な 姿勢 を 保ち ながら 、 荷揚げ の 順番 を 待ち あぐん で いる 。
 112この 一帯 の 風景 は 、 すべて が 勿論 、 鉄錆び の 色調 だ 。
 113物 の 形 は すべて が 荒々しく 、 すべて は 堅い 。
 114生活 という 感 を ぎっしり 詰め て ある よう に 、 質 の 堅さ が どこ から でも 見張っ て いる 。
 115ほんの 僅か ばかり の 緑 が 、 西岸壁 の 彼方 の 埋立地 に 淡く 汚みつい て いる 。
 116ダルマ という その 名 や 形 からして 、 これ は 鈍重 な かんじ を 免れ ない 船 で は ある が 、 舵 という 神経質 な 物 を 備え て いる の が 憎らしく 、 僕 は 疲れ 果て て 、 ぐっすり と 夕方 まで 寝 て しまっ た 。
 117夕食後 。
 118またしても 六さん は 蝶ネクタイ を 結ん だ 。
 119お茶 を のみ に で は なく 、 珈琲 を のみ に 横浜 へ 行こ う と いう の で ある 。
 120僕ら は 上陸 し た 。
 121船のり風 に は 、 陸 《 おか 》 に 上っ た という ところ だ 。
 122鉄屑 の 山々 の 裾 を 曲りくねり 、 鋼管 の 守衛詰所 に 立ち寄っ て 、 口髯 の 黒い 守衛 に 通門票 を もらっ た 。
 123その 際 、 あっち を 見 て いる ふり を し て 、 僕ら の 風采 ばかり を 気 に 止め て いる よう な 守衛 も あっ た が 、 別段 何事 も 言わ なかっ た 。
 124× 月 × 日 月
 125朝 から 雨 。
 126天井 の 出入口 まで 、 すっぽり と シイト を 覆い 、 石油ランプ の 古ぼけ た 光 の なか に 、 僕ら は 土竜 の よう に 一 日中 船室 に 閉じこもっ て い た 。
 127ひるめし の 時 、 六さん に 、 僕 は 炊事上 の 注意 など 受け た 。
 128水 の 使い方 が あんまり 荒 すぎる との 言い分 だっ た 。
 129亀戸 や 竪川 で の 場合 は 、 溝水 だ から 使え ない が 、 ここ の は 潮水 で きれい だ から 、 米 も 食器 も お新香 も 、 潮水 で 洗え と 言う 。
 130いよいよ ダルマ生活 の 伝統 に 触れ て 来 た の か と 思う と 、 僕 の 食欲 さえ が いささか 鈍る 様子 で あっ た 。
 131事実 、 潮水 を 汲も う と すれ ば 、 下ろし た バケツ の ぐるり を 、 くるり と 一廻わり など し て 見せる か の よう に 、 なまなましい 排泄物 や 塵芥 やら が 漂う て いる こと も 稀れ な こと で は ない 。
 132いくら 潮水 で も それ は きたない ん だ から と 、 一応 の 反駁 を 僕 は 試み た の で ある 。
 133しかし 六さん が 言う の に は 、 土 の 上 で は ある まい し そんな 物 は 流れ て しまう ん だ から あと は きれい だ と 逆襲 し 、 更に 彼 は 、 潮水 で とい だ お米 が おいしい ん だ と 言い張っ た 。
 134日記 を 書い て いる と 、 書い て いる もの を 六さん が のぞい た 。
 135朗読 し て きかせる と 、 六さん という 自分 の 名 を きく 度 に 彼 は 微笑 する の だっ た 。
 136ついで に 僕 は 、 ダルマ の 生活道具 や 生計 など に就て きい て 見 た 。
 137滞船中 、 船 から 陸 へ 架け て ある あの 細長い 板 の 橋 を アイビ と 言っ て いる 。
 138アイビ の 優秀 な 物 は 、 日本杉 だ そう だ が 、 それ は 値 が 高く て 多く は 米松 を 使っ て いる と いう 。
 139ロープ の こと を モヤイ と 言い 、 モヤイ を 結えつける ため の 出臍 の よう な 突起 が 甲板 に あっ て 、 それ を ボーズ と 称し て いる 。
 140ハリカイ という の は つっかえ棒 の よう な 物 で 、 潮 が 干い て も 船 を ヒアがら せ ない 用心 として 、 予め 適当 な 水深 の 位置 に 船 を 支え て 置く の に 使用 する 物 で ある 。
 141船室 の 床板 を 剥がす と 水 が 溜まっ て いる 。
 142それ が アカ 。
 143この 船 は 年 を とっ て いる せい であろう 。
 144皮膚 が 弱っ て いる と 見え 、 若い ダルマ より アカ の 溜まり具合 が はげしく 、 一 日 に 一 回 は 必ず 甲板 の 排水ポンプ で 汲み出さ ね ば なら ない の だ 。
 145勿論 船室 は 湿めっぽい 。
 146荷揚げ する こと を 水揚げする と 言い 、 船 を 数える に は 、 一 パイ 、 二 ハイ 、…… と やっ て いる 。
 147水神丸 の 航海数 は 、 一 ヵ月 二 航海 半 位 。
 148一 航海 の 収入 が 約八十 円 。
 149一 ヵ月 二百 円 内外 の 収入 で ある 。
 150小蒸汽 に 支払う 曳船賃 は 一 航海 十五、六 円 。
 151税金 は 半 期 分 三 円 五十 銭 。
 152差引 百五、六十 円 を 一 ヵ月 に 稼ぐ の で ある 。
 153その 外 に 滞船料 という の が ある 。
 154それ は しかし 、 輸入鉄屑 を 積載 し て いる ダルマ に 限り 、 水揚げ の 順番 を 待っ て いる 間 を 一 日 二 円 七、八十 銭 の 割 で もらえる と いう 。
 155水神丸 が 、 正に その 舶来鉄屑 を 満載 し て いる ので 六さん は にこにこ し て いる の で ある 。
 156船室 の 床板 を 一 枚 めくり 、 箒 の 柄 を さし て アカ の 溜まり具合 を 見 た 。
 157この 雨 で 九 寸 程 も 溜まっ て いる ので ポンプ を 押さ ね ば なる まい 。
 158× 月 × 日 火
 159照りつけ て いる 陽 を 幸い に 、 乗船以来 の 大掃除 を し た 。
 160夜具 や 茣蓙 など 取り出し て 、 甲板 の 上 、 鉄屑 の 上 に 展げ て 干し た 。
 161草 の トランク は 、 湿気 を 吸い込ん で たるん で いる 。
 162鼻 も 邪魔 に なる ほど すべて の 物 が 黴び て い て 、 黴 の なか で 暮らし て いる よう な もの で ある 。
 163昨日 は 、 一 日中 船室 に 閉じこもっ て い た せい か 、 今日 は 朝 から 甲板 で ある 。
 164そうして 、 六さん と の 話 は 昨日 の つづき だ 。
 165日本鋼管 の 向う岸 の 建物 が 昭和鋼管 。
 166前 に は 独立 し て いる 会社 で あっ た が 、 いま は 日本鋼管 と 合併 し て いる との こと で ある 。
 167その 斜向う に 見える 黒い 所 が 、 三井 の 貯炭場 。
 168こちら に 見える の が 鉄道省 の 発電所 。
 169その 対岸 は 東電 。
 170東電 の 方 に あの 変 な の が ある だろう 。 と 六さん は 言っ て 彼方 を 指ざし ながら 、 自動的 に 今度 は クレン の 説明 に 移る の だっ た 。
 171いま こちら側 で 、 鉄屑 を 揚げ て いる これ も クレン だ 。 これ も あれ も 型 は 異っ て いる が どちら も クレン 。 東電 の が 、 オールヤード・クレン 。 こちら の は マグネット・クレン 。 直ぐ 手前 の 小型 の 奴 は モーター・クレン 。 三井 の 貯炭場 に ある クレン は 、 あれ は 単に 、 ヤード・クレン 。 と 言う の だっ た 。
 172クレン 一 台 の 水揚げ能力 は 、 一 日 平均 七十 トン 位 だ と 言う 。
 173日本鋼管 の 岸壁 で は 、 いま 四 台 の クレン を 運転 し て いる ところ だ が 、 一 日 三百 トン 位 の 鉄屑 を ダルマ から 引き揚げ て いる わけ だ 。
 174この クレン と 称する 人夫がわり の 利器 に 食い荒らさ れ て しまっ た よう に 、 ここ で は 殆ど 人夫 らしい 人夫 の 姿 を 見受け ない 。
 175東岸壁 の 方 で 、 僅か に 八、九 人 の 人夫達 が 、 生き残っ た 蟻 の よう に 、 黒々 と かたまっ た 石炭 の 笊 を 運ん で いる 。
 176六さん の 知合い だ という 二、三 の 労働服 の 男達 が 、 水神丸 に やっ て 来 て は 、 毎日 午睡 を し たり 、 お茶 を のん だり 、 伝言 など を とりかわし たり し て 、 いつ の 間 に か また い なく なっ たり する 。
 177彼等 は クレン の 運転士 だ 。
 178それにしても 彼等 の 様子 を以て 、 休憩時間 を 過す ため の それ で ある と 思う に は 、 お茶 や 午睡 の 時間 が 長 過ぎ た 。
 179聞け ば 、 しかし 道理 で あっ た 。
 180彼等 の 就業時間 は 、 三 時間 交替 だ と 言う の だっ た 。
 181クレン 運転士 の 一 ヵ月 の 報酬 は 百 円 内外 と 。
 182日本鋼管 に は 、 三千四、五百 人 の 職工 が 働い て いる と いう 。
 183僕 は 、 三 度 相手 を 変え て 、 その 職工数 を 訊ね て 見 た 。
 184三 度 の 答え が 一様 に 三千四、五百 人 と 言う の で あっ た 。
 185が また 三 人 が 三 人 共 一様 に 、 その うち の 半数 が 、 在郷軍人 だ と 付け加え て いう の だっ た 。
 186その 点 、 僕 に は 一種 の 疑問符 の よう に 彼等 の 心理 が 変 な 風 に 見える の だっ た 。
 187けれども それ は 結局 、 僕 の 長髪 や ルパシュカ に対する 反撥 の 反映 で あっ た らしく 、 案の定 、 みんな が 、 一 度 は 必ず 六さん に 僕 の こと を きく そう だ 。
 188あの 男 は 赤 で は ない か 。 と 。
 189× 月 × 日 日
 190次第 に 、 六さん は 主人らしく 振舞っ て 来 た 。
 191東京 へ 用達 し に 行く ん だ との 名目 だ が 、 行先 が 時々 喫茶店 で あっ たり する こと は 、 例 によって 黙認 。
 192ところが 、 蝶ネクタイ を 結び 、 出掛ける 段 に なる と 、 彼 は 定まっ て 留守中 の 仕事 を 僕 に 言いつける 習慣 の 味 を 覚え た らしい 。
 193キャベツ の 葉っぱ を 糠味噌 に 漬け て 置く こと 。
 194室内 の 整頓 を し て 置く こと 。
 195ランプ の ホヤ を 拭い て 置く こと 。
 196船底 の アカ を 汲み出し て 置く こと 。
 197どの 仕事 も 詩人 を 恐わがら なく なっ た よう な 顔付 の 仕事諸君 で ある 。
 198それ ならば と 言う ので 、 詩人 も 今日 は 陸 を 踏ん で 見 たく なっ た の で ある 。
 199川崎駅 まで 六さん を 送り 、 僕 は 、 砂町 の 佐藤惣之助氏 を 訪ね た 。
 200近況 を 告げる と 、 氏 も また 、 なにゆえ ダルマ に 乗っ た の で ある か を 訊く の で あっ た 。
 201つまり は 、 陸 に 住め なく なっ た ん です よ 。 と 答える と 、 あ 、 そうか そうか と いう の で あっ た 。
 202話 は お灸 の 話 と なっ て 、 所望 さ れる まま 惣之助氏 に 肩 の コリ の 灸 を 、 夫人 に は 胃腸 の 良く なる 灸 を 。
 203川崎駅 で 六さん を 待つ 時刻 に は 、 未だ 早 すぎ た 。
 204その 間 を 川崎 の 町 に 振らつき 、 泡盛屋 を 見つけ て 泡盛 を あおる 。
 205じわじわ と 廻わる 酔い を たのしみ ながら 、 夜 の 九 時 、 川崎駅 に 六さん を 待つ 。
 206帰途 。
 207大島町 の うす暗い 通り で 、 小柄 な 男 に 逢っ た 。
 208六さん の 知り合い で ある 。
 209彼 は 、 この 界隈 に 出没 する インチキ女 や カフェー の 女 の こと で 、 のろけ を 言い いっしょ に 歩い て い た 。
 210町 の 外れ に 来 て 、 急 に 小男 は 、 着 て いる その 半纏 の 裾 を ひったぐる よう に し て 頭 から ひっかぶる の だっ た 。
 211六さん は 、 小男 の 肩 を つっつい て 、 気 で も 狂っ た の か と 、 言っ て からかっ た 。
 212すると 小男 は 、 俺 は な 、 あそこ の 酒屋 に 借り が ある ん だ と 言い ざま 、 僕 と 六さん と の 間 に 割り込み 、 しばらく は 肩 を すぼめ 、 森閑 と し て い た 。
 213酒屋 は 、 橋 の 手前 の 陰気 な 店 だっ た 。
 214橋 を 渡る と同時に 小男 は 酒屋 を 振り返り もう いい もう いい と 呟い て い た 。
 215実 に 、 木製 の かんじ の 、 痩せ て 血の気 の ない 小さな 容貌 だっ た 。
 216よだれ らしい じめじめ し た もの さえ 光っ て い て 、 よく 見れ ば 見る ほど に 小さく 消え て ゆく もの の よう に 小汚ない 小男 だっ た 。
 217六さん の 言う ところ に依れば 、 彼奴 も 船頭 な ん だ が その 腕前 ときたら 危なっかしく て 見 ちゃ お れ ない と 言う 。
 218現在 なお 、 船 の こと 一切 は 、 オヤジ に 世話 を やか せ て いる 程 で 、 女房 も 温なしい 女房 を 持っ て い ながら 、 オヤジさん も共に 船 に 置きっ放し で 、 彼奴 は ああ し て 街中 飲み歩い て いる 馬鹿野郎 だ と 言う の だっ た 。
 219通門票 を 示し 、 鋼管 の 門内 へ 這入る と 、 夜業 し て いる 職工達 が あっ た 。
 220彼等 は 熔鉱炉 の 火 に ほてっ た 真赤 な 半身 を 、 夜 の 暗さ に 塗りたくる よう に 働い て い た 。
 221その 近く を 右 へ 曲る と 、 熔鉱炉 の ほとぼり で 酔い が 再び 燃えさかる の だっ た 。
 222潮風 に 吹か れ ながら 、 ダルマ から ダルマ へ 渡り 、 一 パイ 、 二 ハイ 、 三 バイ 、 四 ハイ 、 五 ハイ と 数え て 、 僕ら の 水神丸 だ 。
 223船 に 着く と 、 六さん は 岸壁 を 振り返っ て 舌打ち し た 。
 224なるほど 、 制服 の 守衛 が 、 直立 の 姿勢 で 岸壁 の 方 から こちら の 様子 を 見 て いる の だっ た 。
 225が 、 僕ら は 、 なるべく 素振り を 大胆 に 大げさ に 、 シイト を 高く まくりあげ たり 、 船室 の 蓋 を 開け て は 、 わざわざ 甲板 に 板 の 音 を たて たり し て 見せ た 。
 226それ は 勿論 、 蝶ネクタイ も ルパシュカ も 、 赤 や 青 や 黄色 の 世界 の 者 で は なく 、 ダルマ の 者 だ から 安心 しろ との 意味合い を 含め た つもり で あっ た 。
 227もはや 、 お隣り の 宮下丸 は 寝 て しまっ た の か 話声 も きこえ ない 。
 228やがて 、 六さん が 鼾 を かき出し た 。
 229魚達 も 寝 た の であろう 。
 230起き て いる もの は 、 僕 と 水 の 音 。
 231明日 の 晩 に は 、 六郷河岸 に 花火 が あがる と いう 。