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title:Wikipedia article
date:2013/11/05
source:伊達政宗-Wikipedia.html
genre:wikipedia
terms of use:Creative Commons Attribution-ShareAlike License 3.0


 1伊達政宗
 2生涯
 3幼年期
 4永禄 10 年 8 月 3 日 ( 1567 年 9 月 5 日 ) 、 出羽国米沢城 で 生まれ た 。
 5幼名 は 梵天丸 。
 6天正 5 年 ( 1577 年 ) 11 月 15 日 、 元服 し て 伊達藤次郎政宗 と 名乗る 。
 7諱 の 「 政宗 」 は 父 ・ 輝宗 が 伊達家中興 の 祖 と いわ れる 室町時代 の 第9 代 当主 ・ 大膳大夫政宗 に あやかっ て 名づけ た もの で 、 この 大膳大夫政宗 と 区別 する べく 藤次郎政宗 と 呼ぶ こと も 多い 。
 8伊達家 は それ まで 足利将軍 から の 一字拝領 を 慣習 と し て き た が 、 政宗 の 元服 に際して は 、 当時 織田信長 によって 追放 さ れ て い た 足利義昭 から の 一字拝領 を 求め なかっ た 。
 9天正 7 年 ( 1579 年 ) に は 仙道 の 戦国大名 で あっ た 三春城主 田村清顕 の 娘 愛姫 を 正室 と する 。
 10天正 9 年 ( 1581 年 ) 4 月 、 隣接 する 戦国大名 ・ 相馬氏 と の 合戦 で 初陣 を 飾る 。
 11家督相続 から 摺上原の戦い まで
 12天正 12 年 ( 1584 年 ) 10 月 に 18 歳 で 家督 を 相続 し 、 伊達家 17 代 を 継承 する 。
 13政宗 は 若年 を 理由 に 辞退 を 申し出 た が 、 一門 ・ 重臣 の 勧め を 受け て 家督 を 譲り受け た 。
 14小浜城主 ・ 大内定綱 は 二本松城主 ・ 二本松義継 と 手 を 組み 、 田村氏 の 支配 から 脱却 し よう と し た 。
 15天正 13 年 ( 1585 年 ) 、 政宗 は 大内領小手森城 へ 兵 を 進め 、 近隣諸国 へ の 見せしめ の 為 として 撫で斬り を 行い 、 城中 の 者 を 皆殺し に し て いる 。
 16大内定綱 の 没落 を 間近 で 見 た 義継 は 和議 を 申し出 、 輝宗 の 取りなし により 5 ヶ村 のみ を 二本松領 として 安堵 さ れる こと に なっ た 。
 17ところが 輝宗 は 、 所領安堵 の 件 など の 礼 に 来 て い た 義継 の 見送り に 出 た 所 を 拉致 さ れる 。
 18当時 鷹狩り に 出かけ て い た 政宗 は 、 急遽 戻っ て 義継 を 追跡 し 、 鉄砲 を 放っ て 輝宗 もろとも 一人 も 残さ ず 殺害 し た 。
 19この 事件 について は 、 政宗 による 父殺し の 陰謀説 や 正宗 は 追いつい た が 既に 輝宗 死亡 説 など が ある が 、 詳しい こと は 分かっ て い ない 。
 20その後 、 初七日法要 を 済ます と 、 輝宗 の 弔い合戦 と 称し て 二本松城 を 包囲 し た が 、 11 月 17 日 に 二本松城救援 の ため 集結 し た 佐竹氏 率いる 約3万 の 南奥州諸侯連合軍 と 安達郡人取橋 で 激突 し た 。
 21数 に 劣る 伊達軍 は たちまち 潰走 し 、 政宗 自身 も 矢玉 を 浴びる など 危機的状況 に 陥っ た が 、 殿軍 を 務め た 老臣 ・ 鬼庭左月斎 の 捨て身 の 防戦 によって 退却 に 成功 し 、 翌日 の 佐竹軍 の 撤兵 により 辛うじて 窮地 を 脱し た 。
 22関白 ・ 豊臣秀吉 は 関東 ・ 東北 の 諸大名 、 特に 関東 の 北条氏 と 東北 の 伊達氏 に対して 、 惣無事令 ( 私戦禁止令 ) を 発令 し た 。
 23しかし 、 政宗 は 秀吉 の 命令 を 無視 し て 戦争 を 続行 し た 。
 24天正 16 年 ( 1588 年 ) 、 北方 の 大崎氏 家中 の 内紛 に 介入 し て 兵 10,000 を 侵攻 さ せ た が 、 黒川晴氏 の 離反 と 大崎方 の 頑強 な 抵抗 に 遭い 敗北 。
 25さらに 政宗 へ の 反感 を 強め て い た 伯父 ・ 最上義光 が 大崎側 に 立っ て 参戦 し 、 伊達領 各地 を 最上勢 に 攻め落とさ れ た が 、 両軍 の 間 に 割っ て 入っ た 母 ・ 義姫 の 懇願 により 和議 が 成立 し 窮地 を 脱し た 。
 26一方 、 これ に 乗じ て 伊達領南部 に 蘆名氏 ・ 相馬氏 が 侵攻 し て き た が 防衛 し 、 愛姫 の 実家 ・ 田村氏領 の 確保 に 成功 し た 。
 27天正 17 年 ( 1589 年 ) に は 会津 の 蘆名義広 を 磐梯山麓 の 摺上原 で 破っ た 。
 28敗れ た 義広 は 黒川城 を 放棄 し て 実家 の 佐竹家 に 逃れ 、 ここ に 戦国大名 として の 蘆名氏 は 滅亡 し た 。
 29この 後 、 政宗 は さらに 兵 を 須賀川 へ 進め 二階堂氏 を 滅ぼし た 。
 30この 頃 に なる と 惣無事令 を 遵守 し て 奥州 へ の 介入 に 及び腰 に なっ て い た 佐竹氏側 から 結城義親 ・ 石川昭光 ・ 岩城常隆 ら が 次々 と 伊達方 に 転じ て 政宗 に 服属 し た 。
 31この とき 政宗 は 現在 の 福島県 の 中通り地方 と 会津地方 、 及び 山形県 の 南部 、 宮城県 の 南部 を 領し 全国的 に も 屈指 の 領国規模 を 築い た 。
 32これ に加え 上述 の 白河氏 といった 南陸奥 の 諸豪族 や 、 また 今 の 宮城県 や 岩手県 の 一部 を 支配 し て い た 大崎氏 ・ 葛西氏 も 政宗 の 勢力下 に あっ た 。
 33小田原合戦 と 豊臣政権下
 34この 頃 、 中央 で は 豊臣秀吉 が 織田信長 の 統一事業 を 継承 し て い た 。
 35伊達家 に も 秀吉 から 上洛 し て 恭順 の 意 を 示す よう 促す 書状 が 幾 度 か 届け られ て おり 、 政宗 は これ を 黙殺 し て い た 。
 36政宗 は 父 ・ 輝宗 の 時代 から 後北条氏 と 同盟関係 に あっ た ため 、 秀吉 と 戦う べき か 小田原 に 参陣 す べき か 、 直前 まで 迷っ て い た と いう 。
 37秀吉 の 小田原攻囲 ( 小田原征伐 ) 中 で ある 1590 年 ( 天正 18 年 ) 5 月 に は 、 豊臣政権 の 五奉行筆頭 の 浅野長政 から 小田原参陣 を 催促 さ れ 、 政宗 は 5 月 9 日 に 会津 を 出立 する と 米沢 ・ 小国 を 経 て 同盟国 上杉景勝 の 所領 で ある 越後国 ・ 信濃国 を 経由 し て 小田原 に 至っ た 。
 38秀吉 の 兵動員数 を 考慮 し た 政宗 は 秀吉 に 服属 し 、 秀吉 は 会津領 を 没収 し た ものの 、 伊達家 の 本領 72万 石 ( おおむね 家督相続時 の 所領 ) を 安堵 し た 。
 39この とき 遅参 の 詰問 に 来 た 前田利家ら に 千利休 の 茶 の 指導 を 受け たい と 申し出 、 秀吉ら を 感嘆 さ せ た と いう 。
 40この 行為 は 秀吉 の 派手好み の 性格 を 知っ て の 行い と 伝え られる 。
 41政宗 が 秀吉 に 服属 し て ほどなく 、 北条氏政 ・ 北条氏直 親子 は 秀吉 に 降伏 し 、 政宗 の 居城 ・ 黒川城 へ 入城 し た 秀吉 は 奥州仕置 を 行っ た 。
 42ここ に 秀吉 の 日本統一 が 達成 さ れ た 。
 43江戸時代 に 仙台藩 第4 代 藩主 ・ 伊達綱村 ( 政宗 の 曾孫 ) が 作ら せ た 『 伊達治家記録 』 に は 、 小田原参陣前 に 兄 の 最上義光 に そそのかさ れ た 義姫 によって 毒殺 さ れ そう に なり 、 義姫 を 成敗 する 代わり に 弟 の 伊達小次郎 を 斬殺 し た ため 義姫 は 実家 に 逃走 し た と 書か れ て おり 、 これ が 通説 と なっ て い た 。
 44しかし 実際 に は 義姫 は その後 も 伊達家 に とどまっ て おり 、 政宗 の 朝鮮出兵 の 頃 から 母子 は 親しく 手紙 の やりとり を し て いる 。
 45義姫 が 実家 の 山形城 へ 突如 出奔 し た の は この 4 年後 で ある こと が 一 次 史料 から すでに 明らか に なっ て いる 。
 46この 「 毒殺未遂事件 」 の 正体 は 、 反政宗派一掃 の ため の 自作自演 説 も ある 。
 47翌 天正 19 年 ( 1591 年 ) に は 蒲生氏郷 とともに 葛西大崎一揆 を 平定 する が 、 政宗 自身 が 一揆 を 煽動 し て い た こと が 露見 する 。
 48これ は 氏郷 が 「 政宗 が 書い た 」 と さ れる 一揆勢宛 の 書状 を 入手 し た 事 に 端 を 発する 。
 49また 、 京都 で は 政宗 から 京都 に 人質 として 差出し た 夫人 は 偽者 で ある とか 、 一揆勢 が 立て篭もる 城 に は 政宗 の 幟 ( のぼり ) や 旗 が 立て られ て いる など の 噂 が 立ち 、 秀吉 の 耳 に も 届い て い た 。
 50喚問 さ れ た 政宗 は 上洛 し 、 一揆扇動 の 書状 は 偽物 で ある 旨 秀吉 に 弁明 し 許さ れる が 、 米沢城 72万 石 から 玉造郡岩手沢城 ( 城名 を 岩出山城 に 変え た ) へ 58万 石 に 減転封 さ れ た 。
 51この ころ 、 秀吉 から 羽柴 の 名字 を 与え られ 、 本拠 の 岩出山城 が 大崎氏旧領 で あっ た こと から 、 政宗 は 「 羽柴大崎侍従 」 と 称し た 。
 52文禄 2 年 ( 1593 年 ) 秀吉 の 文禄の役 に 従軍 。
 53従軍時 に 政宗 が 伊達家 の 部隊 に あつらえ させ た 戦装束 は 非常 に 絢爛豪華 な もの で 、 上洛 の 道中 において 巷間 の 噂 と なっ た 。
 543000 人 もしくは 1500 人 の 軍勢 で あっ た との 記録 が ある 。
 55他 の 軍勢 が 通過 する 際 、 静か に 見守っ て い た 京都 の 住民 も 伊達勢 の 軍装 の 見事さ に 歓声 を 上げ た と いう 。
 56これ 以来 派手 な 装い を 好み 着こなす 人 を 指し て 「 伊達者 ( だてもの ) 」 と 呼ぶ よう に なっ た 、 と 伝え られる 。
 57朝鮮半島 で は 明 と の 和平交渉中 の 日本軍 による 朝鮮南部沿岸 の 築城 に際して 、 普請 を 免除 さ れ て い た にも関わらず 秀吉 から の 兵糧 の 支給 を 断っ て 積極的 に 参加 する など し て 活躍 し た 。
 58ちなみに 政宗 は 、 慶長の役 に は 参加 し て い ない 。
 59文禄 2 年 以降 浅野長政 が 取次 として 伊達政宗 と 豊臣政権 の パイプ と なっ て い た が 、 文禄 5 年 8 月 14 付け の 書状 で 政宗 は 長政 の 態度 に 我慢 が なら ずに 絶縁状 を 送りつけ て 絶交 を 宣言 し た 。
 60秀吉 に 早くから 服属 し て 五大老 に 選ば れ た 大名たち と は 異なり 、 政宗 は 北条氏 と 同盟 し て 秀吉 と 対立 し た ため 、 五大老 に は 選ば れ なかっ た 。
 61文禄 4 年 ( 1595 年 ) 、 秀吉 から 謀反 の 疑い を かけ られ た 関白 ・ 豊臣秀次 が 切腹 し た 。
 62秀次 と 親しかっ た 政宗 の 周辺 は 緊迫 し た 状況 と なり 、 この 時 母方 の 従姉妹 に 当たる 最上義光 の 娘 ・ 駒姫 は 、 秀次 の 側室 に なる 為 に 上京 し た ばかり で あっ た が 、 秀次 の 妻子ら と共に 処刑 さ れ て しまう 。
 63政宗 も 秀吉 から 謀反 へ の 関与 を 疑わ れる も 、 最終的 に は 無関係 で ある と さ れ 連座 の 難 を 逃れ た 。
 64秀吉 の 死後 、 政宗 と 五大老 ・ 徳川家康 は 天下人 で あっ た 秀吉 の 遺言 を 破り 、 慶長 4 年 ( 1599 年 ) 、 政宗 の 長女 ・ 五郎八姫 と 家康 の 六男 ・ 松平忠輝 を 婚約 さ せ た 。
 65関ヶ原の戦い と 最上陣
 66豊臣秀吉死後 の 慶長 5 年 ( 1600 年 ) 、 家康 が 会津 の 上杉景勝 討伐 を 行う と 、 これ に 従い 7 月 25 日 に は 登坂勝乃 が 守る 白石城 を 奪還 し た 。
 67家康 が 畿内 を 離れ た 隙 を つい て 五奉行 の 石田三成ら が 毛利輝元 を 総大将 と し て 家康 に対して 挙兵 し た ため 、 小山 まで 北上 し て い た 家康 は 西 へ 向かう が 、 この 翌月 、 家康 は 政宗 に対して 岩出山転封封時 に 没収 さ れ この 時点 で は 上杉領 と なっ て い た 旧領 6 郡 49万 石 の 領土 の 自力回復 を 許す 旨 の 書状 ( 「 百万石のお墨付き 」 仙台市博物館 ・ 蔵 ) を 送っ て いる 。
 68これ は 政宗 が 南部利直領 の 和賀 ・ 稗貫 ・ 閉伊 へ の 侵攻許可 を 得る ため 、 南部氏 が 西軍 に 通じ て いる と しきりに 家康 に 訴え て い た こと から 、 お墨付き を 与える こと で 政宗 が 対上杉戦 に 集中 する よう 仕向け た もの で あっ た 。
 69同年 9 月 、 関ヶ原の戦い が 勃発 する と 、 西軍 の 上杉家 重臣 直江兼続 率いる 軍 が 東軍 の 最上氏 の 居城 山形城 を 攻撃 する 。
 70東軍 に 属し た 政宗 は 、 最上氏 から の 救援要請 を 受け て 叔父 ・ 伊達政景 率いる 3,000 の 兵 を 派遣 し 、 9 月 25 日 に は 茂庭綱元 が 上杉領 の 刈田郡湯原城 を 攻略 し た 。
 71関ヶ原の戦い が 徳川方 の 勝利 に 終わり 、 直江兼続 も また 最上義光 に 敗れ て 米沢 に 逃げ帰る と 、 政宗 は 自ら 兵 を 率い て 伊達・信夫群奪還 の ため 国見峠 を 越え て 南進 し 、 10 月 6 日 に 福島城主 本庄繁長 の 軍勢 と 衝突 する 。
 72宮代表の野戦 で は 威力偵察 に 出 た 大宝寺義勝 ( 繁長 の 子 ) 率いる 上杉軍 を 破っ た ものの 、 つづく 福島城包囲戦 で は 繁長 の 堅い 守り に 阻ま れ て 攻城 に 失敗 、 さらに 上杉軍 の 別働隊 に 補給線 を 断た れ た ため 、 翌日 に は 北目城 へ と 撤退 し た 。
 73この 後 、 翌年春頃 まで 幾 度 か 福島城攻略 の ため に 出兵 し た が 、 結局 は 緒戦 の 失敗 を 取り戻せ ず 、 旧領 6 郡 の うち 奪還 出来 た の は 陸奥国刈田郡 2万 石 のみ で あっ た 。
 74加えて 、 政宗 が 南部領内 で 発生 し た 和賀忠親 による 一揆 を 煽動 し 、 白石宗直ら に 命じ て 忠親 を 支援 する ため 南部領 に 4,000 の 兵 を 侵攻 さ せ て い た こと が 発覚 し た 。
 75この 一 件 は 最終的 に は 不問 に 付さ れ た ものの 、 政宗 が 希望 し た 恩賞 の 追加 は ことごとく 却下 さ れ 、 領地 は 60万 石 と なっ た ( 後 に 近江国 と 常陸国 に 小領土 の 飛び地 2万 石 の 加増 で 62万 石 と なる ) 。
 76仙台開府 と 慶長遣欧使節
 77慶長 6 年 ( 1601 年 ) に は 仙台城 、 仙台城下町 の 建設 を 始め 、 居城 を 移す 。
 78ここ に 、 伊達政宗 を 藩祖 と する 仙台藩 が 誕生 し た 。
 79石高 62万 石 は 加賀 ・ 前田氏 、 薩摩 ・ 島津氏 に 次ぐ 全国 第3 位 で ある 。
 80徳川幕府 から は 松平 の 名字 を 与え られ 「 松平陸奥守 」 を 称し た 。
 81仙台城 は 山城 で 天然 の 地形 を 利用 し た 防御 で ある ものの 、 仙台 の 城下町 は 全面的 な 開発 で ある ため 、 のべ 100万 人 を 動員 し た 大工事 と なっ た 。
 82藩内 の 統治 に は 48 ヶ所 の 館 を 置き 家臣 を 配置 し た 。
 83政宗 は 仙台藩 と エスパーニャ と の 通商 ( 太平洋貿易 ) を 企図 し 、 慶長 18 年 ( 1613 年 ) 、 仙台領内 において 、 エスパーニャ国王 ・ フェリペ 3 世 の 使節 セバスティアン・ビスカイノ の 協力 によって ガレオン船 ・ サン・フアン・バウティスタ号 を 建造 し た 。
 84政宗 は 家康 の 承認 を 得る と 、 ルイス・ソテロ を 外交使節 に 任命 し 、 家臣 ・ 支倉常長ら 一行 180余 人 を ヌエバ・エスパーニャ ( メキシコ ) 、 エスパーニャ 、 および ローマ へ 派遣 し た 。
 85大坂の役
 86慶長 19 年 ( 1614 年 ) の 大坂の役 ( 冬の陣 ) で は 大和口方面軍 として 布陣 し た 。
 87和議成立後 、 伊達軍 は 外堀埋め立て工事 の 任 に あたる 。
 88その 年 の 12 月 、 将軍 秀忠 より 伊予宇和郡 に 領地 を 賜る 。
 89翌年 、 慶長 20 年 ( 1615 年 ) の 大坂の役 ( 夏の陣 ) 道明寺の戦い で は 後藤基次ら と 戦っ た 。
 90基次 は 伊達家家中 ・ 片倉重長 の 攻撃 を 受け て 負傷 し 自刃 し た と いわ れる 。
 91道明寺口 の 要衝 小松山 に 布陣 を する 後藤隊 を 壊滅 さ せ た 大和方面軍 は 誉田村 に 兵 を 進める が 、 ここ で 伊達隊 は 真田信繁 ( 幸村 ) の 反撃 を 受け て 後退 を 余儀なくされ た 。
 92これ に対し 先鋒大将 の 水野勝成 は 政宗 に 真田隊 へ の 再攻撃 を 再三 に 渡り 要請 する が 、 政宗 は 弾薬 の 不足 や 兵 の 負傷 など を 理由 に これ を 悉く 拒否 し 、 最後 は 政宗 自ら 勝成 の 陣 に 赴き 要請 を 断っ た 。
 93なお 、 誉田村 で の 戦闘中 に 政宗勢 は 水野家家中 3 人 を 味方討ち に し 、 水野家 の 馬 を 奪っ て いる が 、 勝成 は 政宗 の 軍勢 を 待ち伏せ に し 兵 を 斬り殺し て 馬 を 奪い返し た 。
 94しかし 、 これ に 政宗 が 異議 を 唱える こと は なかっ た 。
 95一説 によれば 、 翌 5 月 7 日 の 天王寺の戦い で 政宗 は 船場口 に 進軍 し 明石全登隊 と 交戦 し て い た 水野勝成勢 の 神保相茂隊 約300 人 を 味方討ち に し た と いう ( 6 日 の 道明寺の戦い で 発生 し た と する 説 も ある ) 。
 96神保隊 は 全滅 し 、 相茂 自身 も 討ち死に し て 遺臣 が 水野勝成ら を通じて 政宗 に 抗議 する が 、 政宗 は 開き直り 「 神保隊 が 明石隊 によって 総崩れ に なっ た ため 、 これ に 自軍 が 巻き込ま れる の を 防ぐ ため 仕方なく 処分 し た 。 伊達 の 軍法 に は 敵味方 の 区別 は ない 」 と 主張 し た と ある 。
 97この 風聞 は 直後 から 様々 な 興味 と 憶測 を 生み 、 講談本 ( 『 難波戦記 』 ) で は 後藤隊休息中 の 神保隊 に 有無 を 言わ さ ずに 銃撃 を 加え た と する 説 や 、 手柄 を 妬ん で の 味方討ち と する 説 も 書か れ て いる 。
 98ただし 、 政宗 が この 事件 について 咎め を 受け た 記録 は 無く 、 幕府 の 記録 ( 寛政重修諸家譜 ) に も 「 ( 神保相茂 は ) 奮戦 し て 死す 」 と のみ 記述 さ れ て おり 、 幕府 が 政宗 に 配慮 し 抗議 を 黙殺 し た 、 あるいは 水野家家中 へ の 味方討ち に 尾ひれ が 付い た 伝聞 が 広まっ た 可能性 など が 考え られる 。
 99( 詳細 は 神保相茂 の 項 を 参照 )
 100戦後 の 論功行賞 で 伊予国 の 内 で 10万 石 が 政宗 の 庶長子 で ある 伊達秀宗 に 与え られ た 。
 101晩年
 102世情 が 落ち着い て から は 、 もっぱら 領国 の 開発 に 力 を 入れ 、 後 に 貞山堀 と 呼ば れる 運河 を 整備 し た 。
 103北上川水系 の 流域 を 整理 し 開拓 、 現代 まで 続く 穀倉地帯 と し た 。
 104この 結果 、 仙台藩 は 表高 62万 石 に対し 、 内高 74万5千 石 相当 ( 寛永惣検地 ) の 農業生産高 を 確保 し た 。
 105文化的 に は 上方 の 文化 を 積極的 に 導入 し 、 技師 ・ 大工 ら の 招聘 を 行い 、 桃山文化 に 特徴的 な 荘厳華麗さ に 北国 の 特性 が 加わっ た 様式 を 生み出し 、 国宝 の 大崎八幡宮 、 瑞巌寺 、 また 鹽竈神社 、 陸奥国分寺薬師堂 など の 建造物 を 残し た 。
 106さらに 近江在住 の 技師 ・ 川村孫兵衛 を 招き 、 北上川 の 河口 に 石巻港 を 設け た 。
 107これ により 北上川流域水運 を通じ 石巻 から 海路 江戸 へ 米 を 移出 する 体制 が 整う 。
 108寛永 9 年 ( 1632 年 ) より 仙台米 が 江戸 に 輸出 さ れ 、 最盛期 に は 「 今 江戸 三分一 は 奥州米 なり 」 と 『 煙霞綺談 』 に 記述 さ れる ほど に なる 。
 1092 代 将軍 徳川秀忠 、 3 代 徳川家光 の 頃 まで 仕え た 。
 110寛永 12 年 に 家光 が 参勤交代制 を 発布 し 、 「 今後 は 諸大名 を 家臣 として 遇す 」 と 述べる と 、 政宗 は いち早く 進み出 て 「 命 に 背く 者 あれ ば 、 政宗め に 討伐 を 仰せ付け くだされ 」 と 申し出 た ため 、 誰 も 反対 でき なく なっ た 。
 111家光 は 下城 する 政宗 に 護身用 に 10 挺 の 火縄銃 を 与え た 。
 112健康 に 気 を 使う 政宗 だっ た が 、 寛永 11 年 ( 1634 年 ) 頃 から 食事不振 や 嚥下 に 難 を 抱える といった 体調不良 を 訴え 始め て い た 。
 113寛永 13 年 ( 1636 年 ) 4 月 18 日 、 母 義姫 を 弔う 保春院 の 落慶式 を 終え た 後 城下 を 散策 し た 政宗 は 、 経ヶ峰 に 杖 を 立て 、 「 死後 は ここ に 埋葬 せよ 」 と 言っ た 。
 114そこ が 後 の 瑞鳳殿 で ある 。
 1152 日 後 の 20 日 に 参勤交代 に 出発 し た 政宗 は 急 に 病状 を 悪化 さ せ 、 宿泊 し た 郡山 で は 嚥下困難 に 嘔吐 が 伴い 何 も 食べ られ なく なっ て い た 。
 11628 日 に 江戸 に 入っ た 頃 に は 絶食状態 が 続い た 上 、 腹 に 腫れ が 生じ て い た 。
 117病 をおして 参府 し た 政宗 に 家光 は 、 5 月 21 日 に 伊達家上屋敷 に 赴き 政宗 を 見舞っ た 。
 118政宗 は 行水 し て 身 を 整え 、 家光 を 迎え た 。
 119しかし お目見え後 に 奥 へ 戻る 時 に は 杖 を 頼り に 何 度 も 休み ながら 進ま ざる を え なかっ た 。
 1205 月 24 日 卯の刻 ( 午前 6 時 ) 死去 。
 121死因 は 癌性腹膜炎 あるいは 食道癌 ( 食道噴門癌 ) と 推定 さ れ て いる 。
 122「 伊達男 」 の 名 に ふさわしく 、 臨終 の 際 、 妻子 に も 死に顔 を 見せ ない 心意気 で あっ た と いう 。
 1235 月 26 日 に は 嫡男 ・ 伊達忠宗 へ の 遺領相続 が 許さ れ た 。
 124遺体 は 束帯姿 で 木棺 に 納め られ 、 防腐処置 の ため 水銀 、 石灰 、 塩 を 詰め た 上 で 駕籠 に 載せ られ 、 生前 そのまま の 大名行列 により 6 月 3 日 に 仙台 へ 戻っ た 。
 125殉死者 は 家臣 15 名 、 陪臣 5 名 。
 126「 たとえ 病 で 失っ た とはいえ 、 親 より 頂い た 片目 を 失っ た の は 不孝 で ある 」 という 政宗 の 考え から 死後 作ら れ た 木像 や 画 に は やや 右目 を 小さく し て 両目 が 入れ られ て いる 。
 127将軍家 は 、 江戸 で 7 日 、 京都 で 3 日 人々 に 服喪 する よう 命令 を 発し た 。
 128これ は 御三家 以外 で 異例 の こと で あっ た 。
 129辞世 の 句 は 、 「 曇り なき 心 の 月 を 先だて て 浮世 の 闇 を 照し て ぞ 行く 」 。
 130法名 から 、 没後 は 貞山公 と 尊称 さ れ た 。
 131遺訓
 132一 、 仁 に 過ぐれ ば 弱く なる 。
 133義 に 過ぐれ ば 固く なる 。
 134礼 に 過ぐれ ば 諂 ( へつらい ) と なる 。
 135智 に 過ぐれ ば 嘘 を 吐く 。
 136信 に 過ぐれ ば 損 を する 。
 137一 、 気 長く 心 穏やか に し て 、 よろず に 倹約 を 用い 金銀 を 備ふ べし 。
 138倹約 の 仕方 は 不自由 なる を 忍ぶ に あり 、 この世 に 客 に 来 た と 思へ ば 何 の 苦しみ も なし 。
 139一 、 朝夕 の 食事 は うまから ず とも 褒め て 食ふ べし 。
 140元来 客 の 身 に 成れ ば 好き嫌ひ は 申さ れ まじ 。
 141一 、 今日 行く を おくり 、 子孫兄弟 に よく 挨拶 し て 、 娑婆 の 御暇 申す が よし 。
 142人物 ・ 逸話
 143「 独眼竜 」 の 由来
 144独眼竜 は 、 元々 唐 の 李克用 の あだ名 で 、 江戸時代 の 頼山陽 の 漢詩 によって 政宗 に あて られる よう に なっ た 。
 145右目 を 失っ た 原因 は 天然痘 で あっ た 。
 146政宗 が 隻眼 の 行者 ・ 満海上人 の 生まれ変わり で ある という 逸話 は 、 政宗 の 存命中 から 広く 知れ 渡っ て おり 、 東北地方 の 昔話 の 中 に は 「 仙台様 ( 政宗 の こと ) の 霊力 で 母親 の 病気 を 治し て もらう ため に 旅 に 出る 農民 の 話 」 など が 伝わっ て いる 。
 147( 東北放送ラジオ 「 みちのくむかしばなし 」 で 語ら れ た )
 148処世 など
 149衆道関係 において は 、 小姓 の 只野作十郎 ( 只野伊賀勝吉 ) へ 宛て た 書状 が 残さ れ て いる 。
 150大崎一揆煽動 の 疑惑 で 豊臣秀吉 に 呼び出さ れ 、 白 の 死装束 に 金箔 を 塗っ た 磔柱 ( 十字架 ) を 背負っ た 姿 で 秀吉 の 前 に 出頭 し た 。
 151証拠 の 文書 を 突きつけ られ た 際 は 、 証拠文書 の 鶺鴒 の 花押 に 針 の 穴 が ない 事 を 理由 に 言い逃れ を 行ない 、 それ まで 送ら れ た 他 の 文書 と の 比較 で 証拠文書 のみ に 穴 が なかっ た ため 、 やり過ごす 事 が 出来 た 。
 152実際 に は 2 種類 の 花押 を 使い分け て い た 可能性 が 高く 、 秀吉 も 疑っ た らしい の だ が 確証 が 得 られ なかっ た 。
 153但し 、 現存 する 政宗 の 書状 の 中 に 花押 に 穴 の 開い た もの は ない 。
 154隠居所 で ある 若林城 ( 現宮城刑務所 ) や 政宗 が 再建 し た 瑞厳寺 、 瑞鳳殿 の ある 経ヶ峰歴史公園 に 朝鮮 から 持ち帰ら せ た 「 臥龍梅 」 が 残っ て いる 。
 155この うち 、 経ヶ峰歴史公園 の 「 臥龍梅 」 は 1979 年 ( 昭和 54 年 ) の 瑞鳳殿 の 再建 に際して 、 若林城跡 から 移植 し た もの で ある 。
 156大悲願寺 13 世 海譽 の 弟子 として 在山 し て い た 弟 ・ 秀雄 の 元 を 政宗 が 訪れ 四方山話 を し 庭 に あっ た 白萩 を 気に入り 所望 し た 際 に かわり に 臥龍梅 を 大悲願寺 に 贈っ て いる 。
 157ある 日 、 秀吉 は 政宗 に こう 言っ た 。
 158「 汝 が 予 を 裏切ろ う と し て おる こと を 予 は 熟知 し て いる 。
 159よって 汝 は 殺さ れ て しかるべき だ 。
 160だが 汝 は 名護屋 に 赴き 、 朝鮮 に 渡り 、 よく 尽くし た ゆえ 、 生命 を 助け て やる こと に し た 。
 161ただし 汝 を 奥州 に は 帰ら せ ず 、 予 の 近く に 留め置く であろう 」
 162そして 人々 は 、 秀吉 は すでに 政宗 の 俸禄 を 没収 し た 、 あるいは し て い ない と 噂 し た と いう 。
 163明和 7 年 ( 1770 年 ) に 仙台藩士 ・ 飯田道時 が 著し た 軍記物 『 伊達秘鑑 』 に は 、 政宗 の 下 に は 離間 ・ 扇動 工作 に 従事 し た 黒脛巾組 という 忍者集団 が い た と し て いる 。
 164黒脛巾組関連 の 人物名 に は 実在 の 伊達家臣 の 名 が 借用 さ れ て いる が 、 上級史料 に は 黒脛巾組 という 名称 や 類似 の 集団 の 記述 は 見当たら ない 。
 165徳川家 と の 関係
 166徳川家光 から は 非常 に 尊敬 さ れ て おり 、 「 伊達の親父殿 」 と 呼ば れ た こと も ある 。
 167政宗 本人 の 器量 に加え 、 自ら を 将軍 として 立て て くれ た 後見人 で あり 、 また 敬神 する 祖父 ・ 家康 と も 渡り合っ た 戦国 の 雄 で も あっ て 、 家光 にしてみれば あらゆる 面 で 父親替わり だっ た の であろう 。
 168幕府 の 意向 は どう あれ 、 家光個人 が 政宗 に 向け た 処遇 は 、 明らか に 外様 を 遇する 程度 を 超え て い た 。
 169将軍 の 前 で の 脇差帯刀 を 許さ れ て い た が 、 側近 が 酔っ て 居眠り する 政宗 の 刀 を 調べる と 、 中身 は 木刀 で あっ た と いう 。
 170二条城 へ と 参内 する 際 、 御三家 でも 許さ れ なかっ た 紫 の 馬 の 総 を 伊達 に 与え た 。
 171政宗 が 病床 に つい た 際 は 、 医者 を 手配 し た 上 で 江戸中 の 寺社 に 快癒 の 祈祷 を 行わ せ 、 死 の 3 日 前 に は 家光 自ら が 見舞い に 来 た 。
 172政宗 が 亡くなる と 、 父 ・ 秀忠 が 死ん だ 時 よりも 嘆き入り 、 江戸 で 7 日 、 京都 で 3 日 の 間 殺生 や 遊興 が 禁止 さ れ た 。
 173実戦経験 が ない 家光 は 、 しばしば 政宗 など 実戦経験 豊か な 大名 に 合戦 について 質問 を し た 。
 174ある 日 、 政宗 と 佐竹義宣 を 招い て 摺上原の戦い について 色々 質問 し た が 、 勝者 で あっ た 政宗 が 雄弁 で あっ た の に対し 、 敗者 の 佐竹義宣 は 始終 無言 で 、 唇 を 噛みしめ て いる だけ で あっ た と いう 。
 175老年期 、 徳川秀忠 を 屋敷 に 招い た 際 、 秀忠 に 生前 の 豊臣秀吉 から 下賜 さ れ 常に 差し て い た 刀 を 譲る よう に 要求 さ れ た 際 、 「 殿 に 御献上 する 品 を 選ぶ の は 家臣 で ある 私 の 勤め です 。 殿 自ら 子供 の よう に 品 を 所望 さ れる の は 、 将軍家 の 品位 を 大きく 損なう もの で ござい ます 」 と 反駁 し た と 伝え られる 。
 176政宗 は 幕府転覆 を 図る ため に 、 支倉常長 を 使者 として ローマ に 派遣 し た 。
 177この とき の こと を 示す 有力 な 史料 も ある 。
 178支倉常長 は ローマ と の 軍事同盟交渉 の とき 、 国王 ・ フェリペ3世 に対して 、 「 政宗 は 勢力 あり 。 また 勇武 にして 、 諸人 が 皆 、 皇帝 と なる べし と 認める 人 なり 。 けだし 日本 において は 、 継承 の 権 は 一に 武力 によりて 得る もの なり 」 と 発言 し て いる 。
 179また 、 仙台藩 の 庇護 を 受け て い た 宣教師 の ジェロニモ・デ・アンジェリス も 、 次 の よう な 手紙 を 本国 に 送っ て いる 。
 180テンカドノ ( 家康 ) は 政宗 が スペイン国王 に 遣わし た 使節 の こと を 知っ て おり 、 政宗 は テンカ に対して 謀反 を 起こす 気 で ある と 考え て い た 。
 181彼ら ( 家康 ・ 秀忠 父子 ) は 政宗 が テンカ に対して 謀反 を 起こす ため 、 スペイン国王 および キリシタン と 手 を 結ぶ 目的 で 大使 ( 支倉常長 ) を 派遣 し た と 考え た 。
 182支倉常長 は ローマ教皇 に も 謁見 し た 。
 183この 時代 の 日本人 が ローマ教皇 に 謁見 し た 史実 は 、 日本 の 外交史 の 中 で 特筆 さ れる 実績 で あり 、 今 でも スペイン の コリア・デル・リオ に は 現地 に 留まっ た 仙台藩士 の 末裔 と 推測 さ れる 人たち が 存在 し て いる 。
 184彼ら は 「 日本 」 を 意味 する 「 ハポン 」 を 姓 として 名乗っ て いる 。
 185軍記物 『 東奥老子夜話 』 に は 、 政宗 は 幕府軍 と 天下 を 賭け て 戦う こと に なっ た 場合 に は 、 「 仙台御陣 の 御触 に付 御内試 」 という 、 幕府軍 と の 決戦 に 備え た 図上演習 、 すなわち 作戦立案 を し て い た と さ れる 。
 186幕府 は 政宗存命中 は 、 政宗 が いつ 謀叛 を 起こす か と 常に 警戒 し て い た と いわ れ て いる 。
 187家康晩年 の 1616 年 ( 元和 2 年 ) 1 月 23 日 の イギリス商館長 ・ リチャード・コックス の 日記 で は 、 「 風評 によれば 、 戦争 は 今や 皇帝 ( 家康 ) と その 子 カルサ様 ( 松平上総介忠輝 ) と の 間 で 起こら ん と し 、 義父 政宗殿 は 、 カルサ殿 の 後援 を なす べし 云々 」 と 記さ れ て いる 。
 1881628 年 ( 寛永 5 年 ) 3 月 12 日 、 政宗 は 徳川秀忠 を 仙台藩江戸屋敷 に 招待 し て 供応 し た 。
 189この とき 、 政宗 自ら が 秀忠 の 前 に 膳 を 運ん だ の だ が 、 その とき 秀忠側近 の 内藤正重 が 、 「 伊達殿 に 鬼見 ( 毒見 ) を し て ほしい 」 と 声 を かけ た 。
 190つまり 、 10 年 前 の 1618 年 ( 元和 4 年 ) なら 、 ( 徳川幕府 の 基盤 が まだ 磐石 で は なかっ た ため ) 謀反 を 起こす 気 も あっ た が 、 その 時 でさえ 、 この 政宗 は 毒殺 など という せせこましい こと は せ ず 、 一 槍 交え て 戦お う と し た だろう と 正重 を 厳しく 叱責 し て いる の で ある 。
 191秀忠 は 御簾 の 向こう で この やりとり を 聞き 、 「 さすが は 伊達の親父殿 よ 」 と 涙し た と いう 。
 192徳川秀忠 は 1632 年 ( 寛永 9 年 ) 1 月 に 死去 し た が 、 この とき 秀忠 は 政宗 を 枕元 に 呼び 、 次 の よう に 述べ た と 『 政宗公御名語集 』 に は ある 。
 193( 家康 が 駿府城 で 死 の 床 に 臥し て い た とき 、 政宗 が 謀反 を 起こす という 噂 が 立っ た ので 、 家康 は 自分 の 病気 に かまわ ず 奥州討伐 の ため の 軍 を 起こそ う と し て い た )
 194晩年 の 政宗 は 、 『 酔余口号 』 という 漢詩 を 残し て いる 。
 195政宗 自身 が どちら と も とれる よう に 作っ た 可能性 も ある が 、 政宗 の 残し た 大きな 謎 と なっ て いる 。
 196詩才 に関して は 、 司馬遼太郎 も 短編小説 『 馬上少年過ぐ 』 の 中 で 、 歴史上 高名 な 武将 の もの として は 古代中国 の 曹操 に も 比肩 す べき もの と し て おり 、 政治家 として の 側面 に は その 詩心 が 反映 さ れ て い ない こと も 二人 の 共通点 で ある と し て いる 。
 197仙台城 は 山城 で 平和 な 世 の 治世 に は 適さ ぬ と し て 、 自分 の 死後 、 平城 へ 移る こと を 奨め て い た 。
 198逆 に 言え ば 生前 は 死 の 前 まで 天下 を 取る 野心 を 捨て て い なかっ た と いわ れる 。
 199家光 の 就任 の 宣言 は 「 祖父 、 父 と は 違い 、 自分 は 生まれながら の 将軍 で ある から 、 大名方 は 今後 は 臣従 の 礼 を とる べき だ 。 異論 が ある ならば 国 へ 帰り 戦 の 準備 を されよ 」 という 大変 威圧的 な もの で あっ た 。
 200政宗 は これ に対し 「 政宗 はもとより 、 異論 の ある 者 など おる はず が あり ませ ぬ 」 と 即座 に 継ぎ 、 その 場 の 皆 が 平伏 し た と さ れ て いる 。
 201家光 が 鷹狩 に 没頭 し 、 下宿 ( 外泊 ) を 頻繁 に 行う の に 困っ た 幕閣 が 政宗 に 説得 を 頼ん だ 時 の こと 、 政宗 が 「 下宿 は お止め 下さい 。 私 も 家康公 の 御首 を 何 度 か 狙っ た こと が ござい ます 」 と 家光 を 説得 、 以後 下宿 を 行わ なく なっ た と いう 。
 202元和 6 年 ( 1620 年 ) に 息子 の 秀宗 が 家臣 の 山家公頼 を 殺害 する という 事件 ( 和霊騒動 ) を 起こし た 際 、 政宗 は 激怒 し て 秀宗 を 勘当 し 、 さらに 老中 の 土井利勝 に対して 「 秀宗 は 大虚け で 到底 10万 石 を 治める 器 で は 無い ので 召し上げ て ほしい 」 と 幕府 に 願い出 た 。
 203この 件 は 秀宗 の 義兄 井伊直孝 と 利勝 、 柳生宗矩 ら により 収拾 さ れ た が 、 この 勘当 と 改易願い は 宇和島藩改易 を 回避 する ため の 政宗捨て身 の 大芝居 と いわ れる 。
 204趣向 など
 205料理 が 趣味 。
 206元々 は 兵糧開発 が 主眼 で あり 、 岩出山名物 の 凍り豆腐 と 納豆 は 政宗 の 研究 の 末 に 開発 さ れ た もの で あっ た 。
 207仙台城下 に は 味噌倉 を 建て て い た が 、 味噌 の 大規模 な 生産体制 が 確立 さ れ た の は これ が 最初 と いわ れる 。
 208太平 の 世 に なる と 美食 を 極める こと に 目的 を 変え て 料理研究 を 続け た 。
 209『 政宗公御名語集 』 に は 「 馳走 とは 旬 の 品 を さり気なく 出し 、 主人 自ら 調理 し て 、 もてなす 事 で ある 」 という 政宗 の 料理観 が 残さ れ て いる 。
 210この 金言 は 和・洋・中 を 問わ ず 後世 の 多く の 料理人 に 感銘 を 与え 、 伊達家御用蔵 が 母体 と なっ て いる 宮城調理製菓専門学校 の ほか 、 服部栄養専門学校 など で も 校訓 に 引用 さ れ て いる 。
 211こうした 料理 に対する 政宗 の 情熱 から 、 今日 の 仙台名物 が 政宗 の 考案 による もの だ と する 説 が ある 。
 212ずんだ餅 や 笹かまぼこ が 代表例 だ が 、 笹かまぼこ について は 、 宮城県水産試験場 の 資料 で は 、 江戸時代中期 に 生まれ た 物 と 書か れ て ある 。
 213料理 の 他 に も 多く の 趣味 を 持ち 、 晩年 は 一 日 たりとも 無駄 に 過ごす こと が なかっ た と いう 。
 214特に 若年 から 習っ て い た 能 に は 傾倒 し て おり 、 奥小姓 を 太鼓 の 名人 に 弟子入り さ せ たり 、 自身 も 豊臣秀吉 や 徳川家光 の 前 で 太鼓 を 打つ など し て いる 。
 215政宗 が 晩年 、 能 に 使用 し た 費用 は 年間 3万 石 余 に 及ん だ と いう 。
 216秀吉 が 吉野 で 歌会 を 開き 武将達 は それぞれ 詩歌 を 詠ん だ 時 、 政宗 が 最も 和歌 に 精通 し 優れ て い た 。
 217その ため 秀吉 も 「 鄙 の 華人 」 と 褒め讃え た 。
 218隙 の ない 印象 の 政宗 で ある が 、 酒 に は 滅法 弱く 、 酔っ て 失敗 し た 逸話 が いく つ か 残さ れ て いる 。
 219中 に は 将軍 秀忠 と の 約束 を 二日酔い で すっぽかし 、 仮病 を 使っ て 言い抜け た という 話 まで ある 。
 220養生法 が 変わっ て い て 、 冬 に 炬燵 の 片側 を 開け させ て い た 。
 221朝 は 早く 目 が 覚め て も 、 定時 に 側 の 者 が 起こし に 行く まで は 起床 し ない という 拘り が あっ た 。
 222身体 の 健康 を 常に 気遣っ て い た 。
 223喫煙者 で 、 毎日 起床後 ・ 昼 ・ 睡眠前 と 、 規則正しく 3 回 煙草 を 吸っ て い た ( 当時 の 人々 は 煙草 を 薬 として 服用 し た ) 。
 224遺品 に 、 愛用 の キセル が ある 。
 225遺品 に ロザリオ が あっ た こと など から 、 政宗 は 密か に キリスト教 に 帰依 し て い た の で は ない か と する 説 も ある 。
 226政宗 の 長女 の 五郎八姫 は 一時期 キリシタン だっ た こと が ある 。
 227その 他
 228映画 『 スター・ウォーズ 』 の ダース・ベイダー の マスク は 仙台市博物館所蔵 の 「 黒漆五枚胴具足伊達政宗所用 」 の 兜 を モチーフ に デザイン さ れ た 。
 229伊達邦宗 ( 政宗 の 直系子孫 ) が 著し た 『 伊達家史叢談 』 に 、 明治天皇 が 政宗 を 「 政宗 は 、 武将 の 道 を 修め 、 学問 に も 通じ 、 外国 の 事情 に も 思い を 馳せ て 交渉 を 命じ た 。 文武 に 秀で た 武将 とは 、 実に 政宗 の 事 で ある 」 と 評し た と 記さ れ て いる 。
 230宮城県宮城郡松島町 に ある 伊達光宗 ( 政宗 の 孫 ) の 菩提寺円通院 に は 、 伊達一本締め という 仙台藩祖 ・ 伊達政宗 ゆかり の 一本締め が 伝承 さ れ て いる 。
 231「 いよ~っ 、 パパパン ! 、 いよ~っ 、 パン ! 」 という 「 3 」 と 「 1 」 の 拍子 の 組み合わせ が 「 三国一 」 を 表し て おり 天下 を 狙っ た 政宗 の 夢 が 込め られ 、 慶長遣欧使節 の 支倉常長 も この 伊達一本締め で 見送ら れ 、 徳川政権 が 安定 し て から は 秘め た 意味 が 露見 し ない よう 姿 を 消し た と 言わ れ て いる 。
 232その ため 資料 が 一切 残っ て おら ず 、 伊達家所縁 の 円通院 に 代々 人づて に 伝え られ て い た 。
 233仙台 で は 「 伊達家戦勝三本締め 」 が 仙台伊達家 の 正統 な 作法 として 現在 最も 広く 行わ れ て いる と いう 。
 234奥州仙台おもてなし集団!伊達武将隊 は 仙台伊達家 18 代 当主 直々 に 「 伊達家戦勝三本締め 」 を 伝授 さ れ た と いう 。
 235また 仙台伊達家 で は 乾杯時 の 発声 が 通常 の 「 乾杯 〜 ! 」 で は なく 、 「 戦勝 〜 ! 万歳 〜 ! 」 と 甲冑 を 身 に つけ た 時 の 姿勢 で 堂々 と 胸 を 張っ て 腹 から 発声 する という 全国的 に 見 て 独特 な 振る舞い で 執り行う と いう 。
 236これ は 伊達家 における 戦勝祈願 ・ 出陣式 および 戦勝祝い の 御作法 から き て いる と いう 。
 237墓所 等
 238瑞鳳殿 に 安置 さ れ て いる 政宗 の 木像 。
 239普段 、 扉 は 閉じ て いる が 、 政宗 の 命日 ( 5 月 24 日 ) など 年 に 数 回 開帳 さ れ 、 木像 を 拝む こと が できる 。
 240墓所 は 、 仙台市青葉区霊屋下 の 瑞鳳殿 。
 241その 他 、 位牌 が 若林区荒町 の 昌傳庵 と 松島町 の 瑞巌寺 に あり 、 神 として 青葉区青葉町 の 青葉神社 に 祀ら れ て いる 。
 242また 、 供養墓 が 他 の 大名 など と 同様 に 高野山奥の院 に ある 。
 243瑞鳳殿 は 政宗 の 死後 、 伊達忠宗 によって 寛永 14 年 ( 1637 年 ) 10 月 に 建立 さ れ た 。
 244昭和 6 年 ( 1931 年 ) に 国宝 に 指定 さ れ た が 、 昭和 20 年 ( 1945 年 ) の 戦災 で 焼失 し 、 現在 の 瑞鳳殿 は 昭和 54 年 ( 1979 年 ) に 再建 さ れ た もの で ある 。
 245再建 に 先駆け て 、 昭和 49 年 ( 1974 年 ) に は 発掘調査 が 行わ れ 、 遺骨 の 学術的調査 から 身長 は 159.4 cm ( 当時 の 平均的身長 ) で ある こと や 、 遺骸毛髪 から 血液型 が B型 で ある こと が 判明 し た 。
 246歯周病 により 上あご の 左右 の 犬歯 以外 は すべて 抜け落ち て い た 。
 247天正 17 年 ( 1589 年 ) に 米沢 で 落馬 し 、 骨折 し た 時 の もの と 思わ れる 、 左腓骨 の 骨折 の 跡 も 見つかっ た 。
 248また 、 副葬品 として 太刀 、 具足 、 蒔絵 を 施し た 硯箱 、 鉛筆 、 懐中日時計兼磁石 、 懐中鏡 、 煙管 、 銀製ペンダント 、 黄金製 の ロザリオ など 、 30余 点 が 確認 さ れ て いる 。