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title:Article from Japanese-English Bilingual Corpus of Wikipedia's Kyoto Articles (Version 2.01)
date:2011/01/13
source:BDS_00007.xml (Available from https://alaginrc.nict.go.jp/WikiCorpus/index.html).
genre:wikipedia
subcorpus:wikipedia Kyoto
terms of use:Creative Commons Attribution-Share-Alike License 3.0


 1親鸞
 2親鸞 ( しんらん ) は 、 鎌倉時代初期 の 日本 の 僧 。
 3浄土真宗 の 開祖 ( 宗祖 ) と さ れる 。
 4明治 9 年 ( 1876 年 ) 11 月 28 日 に 明治天皇 より 「 見真大師 ( けんしんだいし ) 」 の 諡 を 追贈 さ れ て いる 。
 5人物
 6親鸞 は 、 法然 ( 浄土宗開祖 ) を 師 と 仰い で から の 生涯 に 渡り 、 「 真 の 宗教 で ある 浄土宗 の 教え 」 を 継承 し 、 さらに 高め て 行く 事 に 力 を 注い だ 。
 7自ら が 開宗 する 意志 は 無かっ た と 考え られる 。
 8独自 の 寺院 を 持つ 事 は せ ず 、 各地 に つつましい 念仏道場 を 設け て 教化 する 形 で あっ た 。
 9親鸞 の 念仏集団 の 隆盛 が 、 既成 の 仏教教団 や 浄土宗他派 から の 攻撃 を 受ける など する 中 で 、 宗派 として の 教義 の 相違 が 明確 と なっ て 、 親鸞 の 没後 に 宗旨 として 確立 さ れる 事 に なる 。
 10浄土真宗 の 立教 開宗 の 年 は 、 『 顕浄土真実教行証文類 』 ( 教行信証 ) が 完成 し た 寛元 5 年 ( 1247 年 ) と さ れる が 、 定め られ た の は 親鸞 の 没後 で ある 。
 11影響 を 与え た 人物 ・ 書物
 12七高僧 …
 13称名念仏 の 教え を 説き示し 、 受け伝え た 高僧 として 、 以下 の 7 人 を 選定 し た 。
 14聖徳太子 …
 15「 和国 の 教主 」 として 尊敬 し 、 観音菩薩 の 化身 として 崇拝 し た 。
 16教え
 17「 浄土三部経 」 と 総称 さ れる 、 釈尊 により 説か れ た 『 無量寿経仏説無量寿経 』 、 『 観無量寿経 』 、 『 阿弥陀経 』 を 、 拠り所 の 経典 と 定める 。
 18特に 『 佛説無量寿経 』 を 『 大無量寿経 』 ( 大経 ) と 呼び 、 教え の 中心 と なる 経典 として 最重要視 し た 。
 19阿弥陀如来 に この 世 で 救わ れ て 「 南無阿弥陀仏 」 と 報謝 の 念仏 を 称える ( 称名 ) 身 に なれ ば 、 阿弥陀仏 の 浄土 ( 極楽 ) へ 往っ て 、 阿弥陀仏 の 元 で 仏 として 生まれる こと が できる と さ れる 。
 20なぜなら 法蔵菩薩 ( 阿弥陀仏 の 修行時 の 名 ) が 、 48 の 誓願 ( 四十八 願 ) を 建立 し 、 その 第18 番目 の 願 ( 本願 ) で ある 第十八 願 に 「 すべて の 人 が 救わ れ なけれ ば 、 わたし は 仏 と は なら ぬ 」 と 誓わ れ 、 それら の 願 が すべて 成就 し て 仏 に なら れ て いる から で ある 。
 21この 為 、 人 ( 凡夫 ) が 極楽浄土 へ 往生 出来る の は 阿弥陀仏 の 本願 による もの で あり 、 この 理 ( ことわり ) を 賜る ( 信心 を いただく ) こと により 、 往生 へ の 道 が ひらける ( 易行道 ) 。
 22信心正因称名報恩 と いう 。
 23前述 し た 通り 、 信心 も 自分 から 信ずる 心 の 意味 で は なく 、 阿弥陀仏 から 賜っ た もの で あるり 、 すべて が 阿弥陀仏 の 働き で ある と する 。
 24これ を 他力本願 ( たりきほんがん ) と 呼ぶ 。
 25ここ で 言う 人 ( 凡夫 ) とは 、 仏 の よう な 智慧 を 持ち合わせ ない 末法 の 世 に 生きる すべて の 人 を 言う 。
 26しかし 、 自力 で 悟り を 開こ う と する 人 ( 難行道 を 選ぶ 人 ) を 否定 する もの で は ない 。
 27他力 とは 阿弥陀仏 の 働き ( 力 ) を 指す 。
 28「 他人まかせ 」 や 「 太陽 の 働き や 雨 や 風 や 空気 、 その ほか の 自然 の 働き 」 という 意味 で の 使用 は 、 本来 の 意味 の 誤用 から 転じ 一般化 し た もの で あり 、 敬虔 な 浄土真宗信者 ( 門徒 ) は 、 後者 の 表現 を 嫌悪・忌避 する 。
 29「 悪人正機 」 と 呼ば れる 思想 も 親鸞 独自 の もの として 知ら れ て いる 。
 30既に 親鸞 の 師 ・ 法然 に 見 られる 思想 で ある が 、 これ を 教義的 に 整備 し た の が 親鸞 で ある と も いわ れる 。
 31人 ( 凡夫 ) は すべて 悪 ( 往生 の 手段 と なら ない 行為 ) しか 成せ ない 。
 32だから 、 悪人 と 自覚 し て いる 人 の 方 が 、 自分 は 善人 だ と 思っ て いる 人 より 、 本願 により 救わ れる 道 を 自覚 し て いる 事 に なる > という 逆説的 な 表現 で ある 。
 33大乗無我思想 の ひと つ の 到達点 と いえる 。
 34阿弥陀仏 に 救わ れ て いる 私 で ある と し て 、 信一念時 に 、 極楽浄土 に 往生 出来る 身 に 定まっ た 現生正定聚 ( げんしょうしょうじょうじゅ ) の 身 と なり 、 浄土 の 功徳 を 現生 に 感得 し 証明 し ながら 生き て いく こと と し た 。
 35この 考え方 は 法然 を 超え た もの で 、 浄土宗 と 浄土真宗 の 教義上 の 違い の 一 つ で ある 。
 36生涯
 37年齢 は 、 数え年 。
 38年月日 は 、 暦 の 正確性 ・ 著作 と の 整合 を 保つ 為 、 旧暦表示 ( 性歿年月日 を 除く ) と し た 。
 39誕生
 40治承 5 年 ( 1181 年 ) 9 歳 、 京都青蓮院 ( しょうれんいん ) において 、 後 の 天台座主 ・ 慈円 の もと 得度 し 、 「 範宴 ( はんねん ) 」 と 称する 。
 41叡山 で の 修行
 42出家後 は 延暦寺 ( 比叡山延暦寺 ) に 登り 、 慈円 が 検校 ( けんぎょう ) を 勤める 横川 ( よかわ ) の 首楞厳院 ( しゅりょうごんいん ) の 常行堂 において 、 天台宗 の 堂僧 として 不断念仏 ( ふだんねんぶつ ) の 修行 を し た と さ れる 。
 43比叡山 において 20 年 に 渡り 厳しい 修行 を 積む が 、 自力修行 の 限界 を 感じる よう に なる 。
 44夢告
 45建仁 元 年 ( 1201 年 ) の 春頃 、 親鸞 29 歳 の 時 に 叡山 と 決別 し て 下山 し 、 後世 の 祈念 の 為 に 聖徳太子 の 建立 と さ れる 頂法寺 ( 京都市 中京区 ) へ 百日参籠 を 行う 。
 46そして 95 日目 ( 同年 4 月 5 日 ) の 暁 の 夢中 に 、 聖徳太子 が 示現 さ れ ( 観音菩薩 の 化身 が 現れ ) 、 「 行者 が これ まで の 因縁 によって たとい 女犯 が あっ て も 私 ( 観音 ) が 玉女 の 身 と なっ て 、 肉体 の 交わり を 受け よう 。 一生 の 間 、 よく 荘厳 し て その 死 に際して 引き導い て 極楽 に 生じ させ よう 」 という 偈句 を 得る 。
 47この 夢告 に 従い 、 夜明け とともに 東山吉水 ( 京都市 東山区 円山町 ) の 法然 の 草庵 現在 の 安養寺付近 を 訪ねる 。
 48( この 時 、 法然 は 69 歳 。 )
 49そして 岡崎 の 地 ( 左京区 岡崎東天王町 ) に 草庵 現在 の 真宗大谷派岡崎別院付近 を 結び 、 百 日 に わたり 法然 の 元 へ 通い 聴聞 する 出典 : 『 恵信尼消息 』 。
 50入門
 51法然 の 「 専修念仏 」 の 教え に 触れ 、 入門 を 決意 する 。
 52これ を 機 に 法然 より 、 「 綽空 ( しゃっくう ) 「 綽 」 は 、 中国 の 道綽禅師 より 、 「 空 」 は 源空〈法然〉上人 より 。 」 の 名 を 与え られる 。
 53親鸞 は 研鑽 を 積み 、 しだいに 法然 に 高く 評価 さ れる よう に なる 。
 54元久 2 年 ( 1205 年 ) 4 月 14 日 ( 旧暦 ) ( 入門 より 5 年後 ) 、 『 選択本願念仏集 』 ( 選択集 ) の 書写 と 、 法然 の 肖像画 の 制作 を 許さ れる 。
 55法然 は 『 選択集 』 の 書写 は 、 門弟 の 中 で も ごく 一部 の 者 に しか 許さ なかっ た 。
 56この 頃 、 親鸞 より 法然 に 改名 を 願い出 て 、 「 善信 ( ぜんしん ) 「 善 」 は 、 中国 の 善導大師 より 、 「 信 」 は 源信和尚 より 。 」 の 名 を 与え られる 。
 57法然 の 元 で 学ぶ 間 に 九条兼実 の 娘 ・ 玉日 、 又は 三善氏 の 娘 ・ 後 の 恵信尼 と 結婚 し た と する 説 が ある 。
 58当時 は 、 配流 さ れる 罪人 に は 妻帯 さ せる の が 一般的 で あり 、 近年 で は この 説 が 有力視 さ れ て いる 。
 59また 、 玉日 = 恵信尼 、 同一人物説 など 、 親鸞 の 婚姻 に は 多数 の 説 が ある 。
 60一般 に 『 御伝鈔 』 の 記述 は 、 覚如 の 誤記 と 考え られる 。
 61同様 に 「 六角告命 」 「 吉水入室 」 とも に 、 建仁 3 年 と 記さ れ て いる 写本 が ある が 、 これ も 建仁 元 年 の 誤記 と 考え られる 。
 62( 西本願寺本 は 、 「 六角告命 」 のみ 建仁 3 年 と 記さ れる 。 )
 63流罪 、 師 と の 別れ
 64この 時 、 法然 ・ 親鸞 は 僧籍 を 剥奪 さ れる 。
 65法然 は 「 藤井元彦 」 の 俗名 を 与え られ 、 親鸞 は 「 藤井善信 ( ふじいよしざね ) 」 を 与え られる 。
 66法然 は 、 土佐国 ( 現・高知県 ) へ 、 親鸞 は 越後国府 ( 現・新潟県 ) に 配流 さ れ た 。
 67親鸞 は 「 善信 」 の 名 を 俗名 に 使わ れ た 事 も あり 、 「 愚禿釋親鸞 ( ぐとくしゃくしんらん ) 「 親 」 は 、 インド の 天親菩薩 より 、 「 鸞 」 は 曇鸞大師 より 。 」 と 名乗り 、 非僧卑俗非俗 ( ひそうひぞく ) の 生活 を 開始 する 。
 68この 頃 に 豪族 ・ 三善為則 の 娘 、 恵信尼 ( えしんに ) と 結婚 し た 説 も ある 。
 69また 、 配流中 に 子 を もうけ て いる 。
 70建暦 元 年 ( 1211 年 ) 11 月 ( 流罪 より 5 年後 ) 、 法然 とともに 罪 を 赦さ れ た 。
 71建暦 2 年 ( 1212 年 ) 1 月 25 日 ( 旧暦 ) に 、 法然 は 京都 で 80 歳 をもって 入滅 。
 72親鸞 は 二 度 と 師 ・ 法然 に 会う 事 は 出来 なかっ た 。
 73その 事 も あり 親鸞 は 、 京都 に 帰ら ず 越後 に とどまっ た 。
 74関東 で の 布教
 75建保 2 年 ( 1214 年 ) ( 流罪 を 赦免 より 3 年後 ) 、 関東 で の 布教活動 の 為 、 家族 や 性信 ( しょうしん ) など の 門弟 と共に 越後 を 出発 し 、 信濃国 の 善光寺 から 上野国佐貫庄 を 経 て 、 常陸 ( 茨城県北東部 ) に 向かう 。
 76建保 4 年 ( 1216 年 ) に 、 「 大山の草庵 」 ( 茨城県 城里町 ) を 開く の を 皮切り に 、 「 小島の草庵 」 ( 茨城県 下妻市 小島 ) を 開き 、 稲田郷 ( 茨城県笠間市稲田 ) に 「 西念寺 ( 笠間市 ) 「 稲田の草庵 」 を 由緒 と する 寺院 は いく つ か あり 、 西念寺 の 他 に 、 浄興寺 ( 現在 は 、 新潟県 上越市 に 移転 ) など が ある 。
 77親鸞 は 、 ここ を 拠点 に 精力的 な 布教活動 を 行う 。
 78東国 ( 関東 ) で の 布教 は 、 約20 年間 及ぶ 。
 79また 、 主著 で ある 『 顕浄土真実教行証文類 』 ( 教行信証 ) は 、 稲田の草庵 にて 4 年 の 歳月 を かけ 、 草稿本 を 撰述 し た と さ れる 。
 80西念寺 の 寺伝 によると 、 妻 の 恵信尼 は 、 京 に は 同行 せ ず 「 稲田の草庵 」 に 残っ た と さ れ 、 文永 9 年 ( 1272 年 ) に 、 ここ で 没し た と さ れる 。
 81この 関東布教時代 の 高弟 は 、 後 に 「 関東二十四輩 」 と 呼ば れる よう に なる 。
 82その 24 人 の 高弟たち が 、 常陸 や 下野 など で 開山 する 。
 83それら の 寺院 は 、 現在 43 ヶ寺 あり 「 二十四輩寺院 」 と 呼ば れ 存続 し て いる 。
 84帰京
 85天福 ( 日本 ) 2 年 ( 1234 年 ) 鎌倉幕府 が 、 念仏者取締令 を 出す 。
 86その 為 、 62 、 3 歳 の 頃 に 帰京 する 。
 87帰京後 は 、 著作活動 に 励む よう に なる 。
 88親鸞 が 帰京 し た 後 の 東国 ( 関東 ) で は 、 様々 な 異義 異端 が 取り沙汰 さ れる 様 に なる 。
 89寛元 5 年 ( 1247 年 ) 75 歳 の 頃 に は 、 補足 ・ 改訂 を 続け て き た 『 教行信証 』 を 完成 し た と さ れ 、 尊蓮 に 書写 を 許す 。
 90宝治 2 年 ( 1248 年 ) 、 『 浄土和讃 』 と 『 高僧和讃 』 を 撰述 する 。
 91建長 2 年 ( 1250 年 ) 、 『 唯信鈔文意 』 ( 盛岡本誓寺 蔵本 ) を 撰述 する 。
 92建長 3 年 ( 1251 年 ) 、 常陸 の 「 有念無念の諍 」 を 書状 を 送っ て 制止 する 。
 93建長 4 年 ( 1252 年 ) 、 『 浄土文類聚鈔 』 ( じょうどもんるいじゅしょう ) を 撰述 する 。
 94建長 5 年 ( 1253 年 ) 頃 、 善鸞 ( 親鸞 の 息子 ) と その 息子 如信 ( 親鸞 の 孫 ) を 正統 な 宗義布教 の 為 に 東国 ( 関東 ) へ 派遣 し た 。
 95しかし 善鸞 は 、 邪義 で ある 「 専修賢善 」 ( せんじゅけんぜん ) に 傾い た と も いわ れ 、 正しい 念仏者 に も 異義 異端 を 説き 、 混乱 さ せ た 。
 96如信 は 、 陸奥国 の 大網 にて 布教 を 続け 、 「 大網門徒 」 と 呼ば れる 大規模 な 門徒集団 を 築く 。
 97妻 、 恵信尼 と の 別れ
 98建長 6 年 ( 1254 年 ) 、 恵信尼 は 、 親鸞 の 身の回り の 世話 を 末娘 の 覚信尼 に 任せ 、 故郷 の 越後 に 帰っ た と 伝え られる 。
 99帰郷 の 理由 は 、 親族 の 世話 や 生家 で ある 三善家 の 土地 の 管理 など で あっ た と さ れる 。
 100建長 7 年 ( 1255 年 ) 、 『 尊号真像銘文 』 ( 略本 ・ 福井県 ・ 法雲寺本 ) 、 『 浄土三経往生文類 』 ( 略本 ・ 建長本 ) 、 『 愚禿鈔 』 ( 二巻鈔 ) 、 『 皇太子聖徳奉讃 』 ( 七十五 首 ) 『 正像末和讃 』 ( 「 皇太子聖徳奉讃 〈 十一 首 〉 」 ) に 収録 さ れ て いる 物 と は 、 別 の 和讃集 を 撰述 する 。
 101建長 8 年 ( 1256 年 ) 、 『 入出二門偈 』 ( 福井県 ・ 法雲寺本 ) を 撰述 する 。
 102同年 5 月 29 日付 の 手紙 で 、 東国 ( 関東 ) にて 異義 異端 を 説い た 善鸞 を 義絶 する 。
 103『 歎異抄 』 第二 条 に 想起 さ れる 関東衆 の 訪問 は 、 これ に 前後 する と 思わ れる 。
 104康元 元 年 ( 1256 年 ) 、 『 如来二種回向文 』 ( 往相回向還相回向文類 ) を 撰述 する 。
 105康元 2 年 ( 1257 年 ) 、 『 一念多念文意 』 、 『 大日本国粟散王聖徳太子奉讃 』 を 撰述 し 、 『 浄土三経往生分類 』 ( 広本 ・ 康元本 ) を 転写 する 。
 106正嘉 2 年 ( 1258 年 ) 、 『 尊号真像銘文 』 ( 広本 ) 、 『 正像末和讃 』 を 撰述 する 。
 107『 浄土和讃 』 『 高僧和讃 』 『 正像末和讃 』 を 、 「 三帖和讃 」 と 総称 する 。
 108この 頃 の 書簡 は 、 後 に 『 末燈抄 』 ( 編纂 従覚 ) 、 『 親鸞聖人御消息集 』 ( 編纂 善性 ) など に 編纂 さ れる 。
 109往生
 110弘長 2 年 ( 1262 年 ) 11 月 28 日 ( 旧暦 ) 1263 年 1 月 16 日 〈 新暦 〉 ( 浄土真宗本願寺派 ・ 真宗高田派 など で は 、 明治 5 年 11 月 の 改暦 ( グレゴリオ暦〈新暦〉 導入 ) に 合わせ て 、 生歿 の 日付 を 新暦 に 換算 し 、 生誕日 を 5 月 21 日 に 、 入滅日 を 1 月 16 日 に 改め た 。 真宗大谷派 ・ 真宗佛光寺派 ・ 真宗興正派 など で は 、 旧暦 の 日付 を そのまま 新暦 の 日付 に 改め た 。 ) 押小路 ( おしこうじ ) 南 、 万里 ( までの ) 小路東 の 「 善法院 ( 弟 の 尋有 が 院主 の 坊 ) 」 にて 、 享年 90 ( 満89 歳 ) をもって 入滅 する 。
 111入滅 の 地 で ある 、 「 押小路南 ・ 万里小路東 の 善法院 〈 善法坊 〉 」 に は 諸説 ある 。
 112本願寺派 は 、 「 善法坊 」 の 場所 を 西 の 万里小路 と し 、 善法院 を 再興 する ( 現 、 本願寺派角坊別院 ) 。
 113大谷派 は 、 「 善法院 」 の 場所 を 「 親鸞ヶ原 」 と 呼ば れる よう に なっ た 地 に 建立 さ れ た 法泉寺 の 跡地 ( 現 、 京都市立京都御池中学校 〈 虎石町 〉 ) 付近 と 推定 し て 、 「 見真大師遷化之旧跡 」 の 石碑 を 建立 する 。
 114〔 また 、 光円寺 ( 京都市 下京区 ) で 入滅 さ れ 、 何等 か の 理由 により 善法院 に 御遺体 を 移さ れ た と する 説 も ある 。 〕
 115臨終 は 、 親鸞 の 弟 の 尋有僧都 ( じんうそうず ) や 末娘 の 覚信尼 ら が 見取っ た 。
 116遺骨 は 、 鳥部野北辺 の 「 大谷 」 に 納め られ た 。
 117流罪 より 生涯 に 渡り 、 非僧非俗 の 立場 を 貫い た 。
 118現在 でも 親鸞 へ の 報恩 感謝 の 為 、 祥月命日 に は 「 報恩講 」 と 呼ば れる 法要 が 営ま れ て いる 。
 119本願寺派 は 、 鳥辺山南辺 ( 現在 の 大谷本廟 〈 西大谷 〉 の 「 御荼毘所 」 ) にて 荼毘 に 付さ れ た と する 。
 120大谷派 は 、 延仁寺 ( 京都市 東山区 今熊野 ) にて 荼毘 に 付さ れ た と し て いる 。
 121( 現在 の 延仁寺 は 、 東本願寺 第二十一 世 大谷光勝 が 再興 し た もの 。 )
 122頂骨 と 遺品 の 多く は 弟子 の 善性ら によって 東国 ( 関東 ) に 運ば れ 、 東国布教 の 聖地 で ある 「 稲田の草庵 」 に 納め られ た と も 伝え られる 。
 123本願寺 の 成立
 124文久 9 年 ( 1272 年 ) ( 親鸞入滅 より 10 年後 ) 、 親鸞 の 弟子たち の 協力 を 得 た 覚信尼 により 、 「 大谷 」 の 地 より 吉水の北辺 ( 現 、 崇泰院 ( そうたいいん ) 〔 知恩院塔頭 〕 付近 ) に 改葬 し 「 大谷廟堂 」 を 建立 する 。
 125( 永仁 3 年 ( 1295 年 ) 親鸞 の 御影像 を 安置 し 、 「 大谷影堂 」 と なる 。 )
 126元応 3 年 ( 1321 年 ) 、 本願寺 三 世 覚如 により 、 「 大谷廟堂 」 を 「 本願寺 ( 大谷本願寺 ) 」 と 名乗り 寺院化 し 成立 する 。
 127( 応長 2 年 〈 1312 年 〉 に 、 「 専修寺 」 と 額 を 掲げる が 、 叡山 の 反対 により 撤去 する 。 )
 128寛正 6 年 ( 1465 年 ) に 、 延暦寺西塔 の 衆徒 により 破却 さ れる ( 寛正の法難 ) まで 、 本願寺 は この 地 に あっ た ( 本願寺 八 世 蓮如 が 宗主 の 時代 ) 。
 129「 正信念仏偈 」 は 、 『 教行信証 』 の 「 行巻 」 の 末尾 に ある 、 七 言 百二十 句 から なる 偈文 。