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Context for wikipedia_KYOTO_9

title:Article from Japanese-English Bilingual Corpus of Wikipedia's Kyoto Articles (Version 2.01)
date:2011/01/13
source:CLT_00002.xml (Available from https://alaginrc.nict.go.jp/WikiCorpus/index.html).
genre:wikipedia
subcorpus:wikipedia Kyoto
terms of use:Creative Commons Attribution-Share-Alike License 3.0


 1狩野派
 2狩野派 ( かのうは ) は 、 日本絵画史上最大 の 画派 で あり 、 室町時代中期 ( 15 世紀 ) から 江戸時代末期 ( 19 世紀 ) まで 、 約400 年 にわたって 活動 し 、 常に 画壇 の 中心 に あっ た 専門画家集団 で ある 。
 3室町幕府 の 御用絵師 と なっ た 狩野正信 を 始祖 と し 、 その 子孫 は 、 室町幕府崩壊後 は 織田信長 、 豊臣秀吉 、 徳川将軍 など に 絵師 として 仕え 、 その 時々 の 権力者 と 結び付い て 常に 画壇 の 中心 を 占め 、 内裏 、 城郭 、 大寺院 など の 障壁画 から 扇面 など の 小画面 に 至る まで 、 あらゆる ジャンル の 絵画 を 手掛ける 職業画家集団 として 、 日本美術界 に 多大 な 影響 を 及ぼし た 。
 4概要
 5狩野派 は 、 親 ・ 兄弟 など の 血族関係 を 主軸 と し た 画家集団 で 、 約4 世紀間 の 長期 にわたって 一 国 の 画壇 に 君臨 し た という 点 で 、 世界的 に も 他 に ほとんど 例 を 見 ない もの で ある 。
 6狩野派 の 代表的 な 絵師 として は 、 室町幕府 8 代 将軍 足利義政 に 仕え た 初 代 狩野正信 と その 嫡男 ・ 狩野元信 、 元信 の 孫 で 安土城 や 大坂城 の 障壁画 を 制作 し た 狩野永徳 、 永徳 の 孫 で 京都 から 江戸 に 本拠 を 移し 、 江戸城 、 二条城 など の 障壁画制作 を 指揮 し た 狩野探幽 、 京都 に とどまっ て 「 京狩野 」 と 称さ れ た 一派 を 代表 する 狩野山楽 など が 挙げ られる 。
 7江戸幕府 の 体制 が 安定 し て 以後 の 狩野派 は 、 幕府 の 御用絵師 として 、 内裏 、 城郭 など の 障壁画 の 大量注文 を こなす 必要 に 迫ら れ た 。
 8膨大 な 量 の 障壁画 の 注文 に 応える ため 、 狩野家 の 当主 は 、 一門 の 絵師たち を 率い て 集団 で 制作 に あたる 必要 が あっ た 。
 9その ため 、 狩野派 の 絵師 に は 、 絵師個人 の 個性 の 表出 で は なく 、 先祖伝来 の 粉本 ( 絵手本 ) や 筆法 を 忠実 に 学ぶ こと が 求め られ た 。
 10こうした 時代背景 から 、 狩野探幽 以降 の 狩野派 は 伝統 の 維持 と 御用絵師 として の 勢力保持 に もっぱら 努め 、 芸術的創造性 を 失っ て いっ た という 見方 も ある 。
 11芸術家 の 個性 の 表現 や 内面 の 表出 を 尊重 する 現代 において 、 狩野派 の 絵画 へ の 評価 は 必ずしも 高い と は 言え ない 。
 12しかしながら 、 狩野派 が 約4 世紀 にわたって 日本 の 画壇 を リード し 、 そこ から 多く の 画家 が 育っ て いっ た こと も 事実 で あり 、 良き につけ 悪しき につけ 、 狩野派 を 抜き にして 日本 の 絵画史 を 語る こと は でき ない 。
 13近世以降 の 日本 の 画家 の 多く が 狩野派 の 影響 を 受け 、 狩野派 の 影響 から 出発 し た こと も 事実 で あり 、 琳派 の 尾形光琳 、 写生派 の 円山応挙 など も 初期 に は 狩野派 に 学ん で いる 。
 14室町時代
 15狩野派 の 祖 は 室町幕府 の 御用絵師 として 活動 し た 狩野正信 ( 1434?-1530 ) で ある 。
 16彼 は 当時 の 日本人 として は 長寿 を 保ち ( 通説 で は 97 歳 で 没 ) 、 15 世紀 半ば から 16 世紀 前半 まで 活動 し た 。
 17正信 の 出自 は 伊豆方面 と さ れ て いる が 定か で は ない 。
 1820 世紀 後半 以降 の 研究 の 進展 により 、 狩野家 は 下野国足利 ( 栃木県足利市 ) の 長尾氏 と 何ら か の 関係 が あっ た もの と 推定 さ れ て おり 、 足利市 の 長林寺 に 残る 墨画 の 『 観瀑図 』 は 正信 の 比較的初期 の 作品 と 考え られ て いる 。
 19正信 の 画業 として 記録 に 残る 最初 の 事例 は 、 応仁の乱 ( 1467-1477 ) の 直前 の 寛正 4 年 ( 1463 年 ) 、 30 歳 の 時 に 京都 の 雲頂院 ( 相国寺塔頭 ) に 観音 と 羅漢図 の 壁画 を 制作 し た という もの で ( 『 蔭涼軒日録 』 所載 ) 、 この 時点 で 正信 が すでに 京都 において 画家 として 活動 し て い た こと が わかる 。
 20正信 が 壁画 を 描い た 雲頂院 の 本寺 で ある 相国寺 は 室町幕府 3 代 将軍 足利義満 創建 の 禅寺 で 、 如拙 、 周文 、 雪舟 ら の 画僧 を 輩出 し た 室町画壇 の 中心的存在 で あり 、 この 当時 は 周文 の 弟子 に あたる 画僧 ・ 宗湛 ( 小栗宗湛 、 1413-1481 ) が 御用絵師 として 活動 し て い た 。
 21狩野正信 が いつ 上京 し 、 誰 に 師事 し 、 いつ 室町幕府 の 御用絵師 と なっ た か 、 正確 な ところ は 不明 で ある が 、 室町幕府 8 代 将軍 ・ 足利義政 に 重用 さ れ て い た こと は 諸記録 から 明らか で ある 。
 2210 年 に わたっ た 応仁の乱 ( 1467-1477 ) 終結 の 数 年後 の 文明 ( 日本 ) 13 年 ( 1481 年 ) 、 室町幕府 の 御用絵師 で あっ た 宗湛 が 死去 し て おり 、 狩野正信 は 、 宗湛 の 跡 を 継い で 幕府 の 御用絵師 に 任命 さ れ た もの と 思わ れる 。
 23これ 以後 は 、 宮廷 の 絵所預 ( えどころあずかり ) の 職 に あっ た 大和絵系 の 土佐光信 と 、 漢画系 の 狩野正信 の 両者 が 画壇 の 二 大 勢力 と なっ た 。
 24文明 14 年 ( 1482 年 ) 、 前将軍 ・ 足利義政 は 、 東山殿 ( 銀閣寺 の 前身 ) の 造営 を 始め 、 正信 が その 障壁画 を 担当 する こと と なっ た 。
 25延徳 2 年 ( 1490 年 ) の 義政 の 没後 、 正信 は 当時 政治 の 実権 を 握っ て い た 細川氏 に 仕える よう に なる 。
 26正信 は この よう に 、 時 の 権力者 と の 結び付き を 深め つつ 画壇 で の 地位 を 固め 、 後 の 狩野派隆盛 の 基礎 を 築い た 。
 27記録 によれば 、 正信 は 障壁画 、 仏画 を 含め 、 多様 な 形式 ・ 題材 の 作品 を 手掛け た こと が 知ら れる が 、 障壁画 は ことごとく 失わ れ 、 現存 する 確実 な 作品 は 掛軸 など の 小画面 に 限ら れ て いる 。
 28その 画風 は 、 同時代人 の 土佐光信 の 伝統的 な 大和絵風 と は 対照的 に 、 水墨 を 基調 と し 、 中国 宋 ・ 元 の 画法 を 元 に し た 「 漢画 」 で あっ た 。
 29正信 は 97 歳 の 長寿 を 保っ た が 、 晩年 の 約30 年間 の 事績 は 明らか で なく 、 嫡男 の 元信 に 画業 を 継が せ て 引退生活 を 送っ て い た 模様 で ある 。
 30狩野派隆盛 の 基盤 を 築い た 、 2 代目 ・ 狩野元信 ( 1476-1559 ) は 正信 の 嫡男 で 、 文明 8 年 ( 1476 年 ) に 生まれ た 。
 31現存 する 代表作 は 大徳寺大仙院方丈 の 障壁画 ( 方丈 は 永正 10 年 ( 1513 年 ) に 完成 ) 、 天文 ( 元号 ) 12 年 ( 1543 年 ) の 妙心寺霊雲院 障壁画 など で ある ( 大仙院 障壁画 について は 、 方丈竣工時 の 作品 で は なく 、 やや 後 の 年代 の 作 と する 見方 が 有力 で ある ) 。
 32大仙院方丈 障壁画 は 相阿弥 、 元信 と 弟 ・ 狩野之信 が 部屋 ごと に 制作 を 分担 し て おり 、 元信 が 担当 し た の は 「 檀那の間 」 の 『 四季花鳥図 』 と 、 「 衣鉢の間 」 の 『 禅宗祖師図 』 など で あっ た 。
 33この うち 、 『 禅宗祖師図 』 は 典型的 な 水墨画 で ある が 、 『 四季花鳥図 』 は 水墨 を 基調 と し つつ 、 草花 や 鳥 の 部分 に のみ 濃彩 を 用い て 新しい 感覚 を 示し て いる 。
 34元信 は 時 の 権力者 で あっ た 足利将軍 や 細川家 と の 結び付き を 強め 、 多く の 門弟 を 抱え て 、 画家集団 として の 狩野派 の 基盤 を 確か な もの に し た 。
 35武家 だけ で なく 、 公家 、 寺社 など から の 注文 に も 応え 、 寺社関係 で は 、 大坂 に あっ た 石山本願寺 の 障壁画 を 元信 が 手掛け た こと が 記録 から 分かっ て いる が 、 これ は 現存 し ない 。
 36元信 は 晩年 に は 「 越前守 」 を 名乗り 、 また 「 法眼 ( ほうげん ) 」 という 僧位 を 与え られ た こと から 、 後世 に は 「 古法眼 」 「 越前法眼 」 など と 称さ れ て いる 。
 37作品 の レパートリー は 幅広く 、 障壁画 の ほか 、 寺社 の 縁起絵巻 、 絵馬 、 大和絵風 の 金屏風 、 肖像画 など も 手掛け て いる 。
 38元信 は 父 正信 の 得意 と し た 漢画 、 水墨画 に 大和絵 の 画法 を 取り入れ 、 襖 、 屏風 など の 装飾的 な 大画面 を 得意 と し 、 狩野派様式 の 基礎 を 築い た 。
 39また 、 書道 の 楷書 、 行書 、 草書 に ならっ て 、 絵画 における 「 真体 、 行体 、 草体 」 という 画体 の 概念 を 確立 し 、 近世障壁画 の 祖 と も 言わ れ て いる 。
 40安土桃山時代
 41元信 に は 宗信 、 秀頼 、 直信 の 3 人 の 男子 が あっ た が 、 長男 の 宗信 は 早世 し た ため 、 宗家 を 継い だ の は 三男 の 直信 ( 1519-1592 ) で あっ た 。
 42なぜ 二男 の 秀頼 で なく 三男 の 直信 に 家督 を 継が せ た の か は 定か で ない 。
 43直信 は 、 道名 の 狩野松栄 の 名 で 広く 知ら れ 、 室町 から 桃山 に 至る 時代 に 活動 し た 。
 44代表作 として は 、 大徳寺 に 残る 巨大 な 『 涅槃図 』 ( 縦 約6 m ) が ある 。
 45また 、 父 ・ 元信 とともに 石山本願寺障壁画制作 に 参加 し て おり 、 大徳寺聚光院 ( じゅこういん ) 障壁画制作 に は 息子 の 永徳 とともに 参加 し て いる が 、 父 ・ 元信 と 息子 ・ 永徳 が それぞれ に 高名 で ある ため に 、 やや 地味 な 存在 と なっ て いる 。
 46松栄 の 嫡男 ・ 狩野永徳 ( 1543-1590 ) は 州信 ( くにのぶ ) と も 称し 、 桃山時代 の 日本画壇 を 代表 する 人物 で ある 。
 47織田信長 、 豊臣秀吉 といった 乱世 を 生き抜い た 権力者 の 意向 に 敏感 に 応え 、 多く の 障壁画 を 描い た が 、 これら 障壁画 は 建物 とともに 消滅 し 、 現存 する 永徳 の 作品 は 比較的 少ない 。
 48現存 する 代表作 の 一 つ で ある 大徳寺聚光院方丈障壁画 は 永徳 と 父 ・ 松栄 の 分担制作 で ある が 、 父 ・ 松栄 は 方丈南側正面 の 主要 な 部屋 の 襖絵 を 息子 の 永徳 に まかせ 、 自分 は 脇役 に 回っ て いる 。
 49封建社会 の 当時 にあって は 、 家門 の 長 が 主要 な 部屋 の 襖絵 を 描く の が 常識 で あり 、 この 障壁画制作時 に は 松栄 は 才能 豊か な 永徳 に 家督 を 譲っ て 、 自身 は すでに 隠居 の 身 で あっ た と 考証 さ れ て いる 。
 50聚光院方丈障壁画 の うち 、 室中 ( しっちゅう 、 方丈正面中央 の 部屋 ) を 飾る 『 花鳥図 』 は 特に 評価 が 高い 。
 51その 後 、 永徳 は 天正 4-7 年 ( 1576-1579 年 ) 、 織田信長 が 建立 し た 安土城天守 の 障壁画制作 に 携わっ た 。
 52信長 亡き 後 は 豊臣秀吉 の 大坂城 や 聚楽第 の 障壁画 を 制作 し 、 晩年 に は 内裏 の 障壁画制作 に も 携わっ た 。
 53これら の 作品群 は 、 当時 の 日記 や 記録類 に その 斬新さ を 高く 評価 さ れ て おり 、 現存 し て いれ ば 永徳 の 代表作 と なっ た であろう が 、 建物 とともに 障壁画 も 消滅 し て しまっ た 。
 54現存 する 永徳 の 代表作 として は 、 前述 の 聚光院方丈障壁画 の ほか 、 旧御物 の 『 唐獅子図屏風 』 、 上杉氏伝来 の 『 洛中洛外図屏風 』 が 名高く 、 東京国立博物館 の 『 檜図屏風 』 も 古来 永徳筆 と 伝える もの で ある 。
 55永徳 は 細画 ( さいが ) と 大画 ( たいが ) の いずれ を も 得意 と し た が 、 大量 の 障壁画 の 注文 を こなす ため に 、 大画様式 で 描か ざる を え なかっ た と いう 。
 56細画 とは 細部 まで 細かく 描き込ん だ 絵 、 大画 は 豪放 な 作風 の 絵 と 解釈 さ れ て いる 。
 57近世初期 の 狩野派 に は 他 に も 重要 な 画家 が 多い 。
 58国宝 の 『 高雄観楓図 』 に は 「 秀頼 」 の 印 が あり 、 古来 、 狩野元信 の 次男 ・ 狩野秀頼 ( 生没年未詳 ) の 作 と さ れ て いる が 、 『 高雄観楓図 』 の 筆者 の 「 秀頼 」 は 別人 で 、 元信 の 孫 に あたる 真笑秀頼 という 絵師 だ と も 言わ れ て いる 。
 59狩野宗秀 ( そうしゅう 、 1551-1601 ) は 元秀 ( もとひで ) と も 称し 永徳 の 弟 で 、 安土城障壁画制作 など で 永徳 の 助手 として 働い た 。
 60屏風 、 肖像画 など の 現存作 が ある 。
 61やはり 永徳 の 弟 で ある 狩野長信 ( 1577-1654 ) は 『 花下遊楽図 』 ( 国宝 ) の 筆者 として 名高い 。
 62狩野家直系 以外 の 絵師 として は 、 川越・喜多院 の 『 職人尽図屏風 』 の 筆者 で ある 狩野吉信 ( 1552-1640 ) 、 京都・豊国神社 ( 京都市 ) の 『 豊国祭図屏風 』 の 筆者 で ある 狩野内膳 ( 1570-1616 ) ら が 知ら れる 。
 63江戸時代 前期
 64狩野永徳 は 父 の 松栄 ( 直信 ) に 先立っ て 48 歳 で 没し た 。
 65その 後 を 継い だ の は 永徳 の 長男 ・ 狩野光信 ( 1565?-1608 ) と 次男 ・ 狩野孝信 ( 1571-1618 ) で ある 。
 66光信 は 、 園城寺勧学院客殿障壁画 など を 残し 、 永徳 と は 対照的 な 、 大和絵風 の 繊細 な 画風 を 特色 と し た 。
 67こうした 画風 が 制作当時 の 一般的 な 好み に 合致 し なかっ た ため か 、 『 本朝画史 』 など の 近世 の 画論 は 一様 に 光信 を 低く 評価 し て いる 。
 68狩野家 の 頭領 で ある 光信 が 死去 し た 時 、 その 子 の 狩野貞信 ( 1597-1623 ) は まだ 12 歳 の 若年 で あっ た ので 、 光信 の 弟 で ある 孝信 が 狩野派 を 率いる こと と なっ た 。
 69封建制度 の 下 で は 、 光信 の 長男 で ある 貞信 の 家系 が 宗家 と なる はず で あっ た が 、 貞信 が 27 歳 で 早世 し 後継ぎ が なかっ た ため 、 以後 、 幕末 に 至る 狩野家 の 正系 は 孝信 の 子孫 と なっ て いる 。
 70孝信 に は 守信 ( 探幽 、 1602-1674 ) 、 狩野尚信 ( 1607-1650 ) 、 狩野安信 ( 1613-1685 ) の 3 人 の 男子 が あり 、 この 3 人 は それぞれ 鍛冶橋狩野家 、 木挽町 ( こびきちょう ) 狩野家 、 中橋狩野家 ( 宗家 ) の 祖 と なっ た 。
 71末弟 の 安信 は 前述 の 貞信 の 養子 という 扱い で 狩野 の 宗家 を 継ぐ こと に なっ た が 、 絵師 として 最も 名高い の は 探幽 こと 守信 で ある 。
 72守信 は 、 後 に 出家 し て 探幽斎 と 称し 、 画家 として は 狩野探幽 の 名 で 知ら れる 。
 73後 に 江戸 に 本拠 を 移し 、 江戸幕府 の 御用絵師 として 、 画壇 における 狩野派 の 地位 を ますます 不動 の もの と し た 。
 74探幽 は 幼少時 より 画才 を 発揮 し 、 慶長 17 年 ( 1612 年 ) 、 11 歳 の 時 に 駿府 で 徳川家康 に 対面 、 元和 ( 日本 ) 7 年 ( 1621 年 ) に は 江戸鍛冶橋門外 に 屋敷 を 得 て 、 以後 江戸 を 拠点 に 活動 し 、 城郭 や 大寺院 など の 障壁画 を 精力的 に 制作 し た 。
 75探幽 の 作品 の うち 、 江戸城 と 大坂城 の 障壁画 は 建物 とともに 消滅 し た が 、 名古屋城上洛殿 の 障壁画 ( 水墨 ) は 第二次大戦時 に は 建物 から 取り外し て 疎開 さ せ て あっ た ため 空襲 を まぬがれ て 現存 し て おり 、 他 に 二条城二の丸御殿 や 大徳寺方丈 の 障壁画 が 現存 する 代表作 で ある 。
 76これら 大画面 の ほか に も 、 掛軸 、 絵巻 、 屏風 など あらゆる ジャンル の 作品 を 残し て いる 。
 77二条城二の丸御殿障壁画 は 25 歳 の 若描き で 、 永徳風 の 豪壮 な 画風 を 示す が 、 後年 の 大徳寺 の 障壁画 は 水墨 を 主体 と し 、 余白 を たっぷり と 取っ た 穏やか な 画風 の もの で ある 。
 78絵巻 や 屏風 に は 大和絵風 の 作品 も ある 。
 79探幽 は 写生 ( スケッチ ) や 古画 の 模写 を 重視 し 、 写生図集 や 模写画集 を 多数 残し て いる 。
 80「 探幽縮図 」 と 称さ れる 探幽筆 の 古画模写 は 多数 現存 し て おり 、 各地 の 美術館 や 収集家 が 所蔵 し て いる が 、 これら に は 今日 では 原画 が 失わ れ て しまっ た 古画 の 模写 も 多数 含ま れ て おり 、 日本絵画史 研究上 、 貴重 な 資料 と なっ て いる 。
 81江戸時代 中期以降
 82江戸時代 の 狩野派 は 、 狩野家 の 宗家 を 中心 と し た 血族集団 と 、 全国 に いる 多数 の 門人 から なる 巨大 な 画家集団 で あり 、 ピラミッド型 の 組織 を 形成 し て い た 。
 83「 奥絵師 」 と 呼ば れる 、 もっとも 格式 の 高い 4 家 を 筆頭 に 、 それ に 次い で 格式 の 高い 「 表絵師 」 が 約15 家 あり 、 その 下 に は 公儀 や 寺社 の 画事 で は なく 、 一般町人 の 需要 に 応える 「 町狩野 」 が 位置 する という よう に 、 明確 に 格付け が さ れ 、 その 影響力 は 日本 全国 に 及ん で い た 。
 84この 時代 の 権力者 は 封建社会 の 安定継続 を 望み 、 江戸城 の よう な 公 の 場 に 描か れる 絵画 は 、 新奇 な もの より 伝統的 な 粉本 に 則っ て 描か れ た もの が 良し と さ れ た 。
 85また 、 大量 の 障壁画制作 を こなす に は 、 弟子一門 を 率い て 集団 で 制作 する 必要 が あり 、 集団制作 を 容易 に する ため に も 絵師個人 の 個性 よりも 粉本 ( 絵手本 ) を 学習 する こと が 重視 さ れ た 。
 86こうした 点 から 、 狩野派 の 絵画 は 、 個性 や 新味 に 乏しい もの に なっ て いっ た こと は 否め ない 。
 87奥絵師 は 旗本 と 同格 で 、 将軍 へ の 「 お目見え 」 と 帯刀 が 許さ れ た と いう から 、 その 格式 の 高さ が うかがえる 。
 88奥絵師 の 4 家 とは 探幽 ( 狩野孝信 の 長男 ) の 系統 の 鍛冶橋家 、 尚信 ( 孝信 の 次男 ) の 系統 の 木挽町家 ( 当初 は 「 竹川町家 」 ) 、 安信 ( 孝信 の 三男 ) の 系統 の 中橋家 、 それに 狩野岑信 ( みねのぶ 、 1662-1708 ) の 系統 の 浜町家 で ある ( 岑信 は 、 狩野尚信 の 長男 で ある 狩野常信 の 次男 ) 。
 89探幽 に は 初め 実子 が なかっ た ため 、 刀剣金工家 の 後藤立乗 の 息子 の 洞雲 ( 狩野益信 、 1625-1694 ) を 養子 と し た 。
 90後 に 探幽 が 50 歳 を 過ぎ て 生まれ た 実子 で ある 狩野守政 ( 1653-1718 ) が 跡 を 継ぐ が 、 この 系統 から は その 後 見る べき 画家 は 出 なかっ た 。
 91探幽 に は 多く の 弟子 が い た が 、 中 で は 『 夕顔棚納涼図 』 を 残し た 久隅守景 ( くすみもりかげ 、 生没年未詳 ) が 著名 で ある 。
 92守景 は 何ら か の 事情 で 狩野派 を 破門 に なり 、 後 に は 金沢方面 で 制作 し た が 、 経歴 について 不明 な 点 が 多い 。
 93前述 の とおり 、 狩野家 の 宗家 は 、 探幽 の 弟 ・ 安信 の 中橋家 が 継ぐ こと に なっ た 。
 94安信 の 子 の 狩野時信 ( 1642-1678 ) は 30 代 で 没し 、 その 子 の 狩野主信 ( うじのぶ 、 1675-1724 ) が 家督 を 継ぐ が 、 この 系統 から も その 後 目立っ た 画人 は 出 て い ない 。
 95都会的 な 画風 で 人気 を 博し た 英一蝶 ( はなぶさいっちょう 、 1652-1724 ) は 安信 の 弟子 で あっ た 。
 96奥絵師 4 家 の 中 で 、 幕末 まで 比較的 高名 な 画人 を 輩出 し た の は 、 尚信 の 系統 の 木挽町家 で ある 。
 97この 家系 から は 尚信 の 嫡男 の 狩野常信 ( 1636-1713 ) 、 その 子 の 狩野周信 ( ちかのぶ 、 1660-1728 ) と 狩野岑信 ( みねのぶ 、 1662-1708 ) ら が 出 て いる 。
 98岑信 は 将軍 ・ 徳川家宣 の 寵愛 を 受け 、 後 に 「 浜町家 」 として 独立 し 、 「 奥絵師家 」 の 1 つ に 数え られる よう に なっ た 。
 99この ほか 、 狩野興以 ( ?-1636 ) は 狩野家 の 血族 で は ない が 、 探幽ら 3 兄弟 の 師匠筋 に あたる 人物 で 、 その 功績 によって 狩野姓 を 与え られ 、 後 に 紀州徳川家 に 仕え て いる 。
 100一方 、 京都 に 残っ て 活動 を 続け た 「 京狩野 」 という 一派 も あり 、 狩野永徳 の 弟子 で あっ た 狩野山楽 ( 1559-1635 ) が その 中心人物 で ある 。
 101山楽 は 豊臣秀吉 の 家臣 で あっ た 近江 の 木村家 の 出 で 、 元 の 名 を 木村光頼 と 言っ た 。
 102京都・大覚寺宸殿 の 障壁画 『 牡丹図 』 『 紅白梅図 』 が 代表作 で 、 金地 に 色彩 豊か で 装飾的 な 画面 を 展開 し て いる 。
 103山楽 の 娘婿 で 養子 の 狩野山雪 ( 1589/90-1651 ) は 、 妙心寺天球院 障壁画 の ほか 、 屏風絵 など の 現存作 が ある 。
 104樹木 、 岩 など の 独特 の 形態 、 徹底 し た 細部描写 など 、 狩野派 の 絵師 の 中 で は 異色 の 個性的 な 画風 を もつ 。
 105山雪 の 残し た 画論 を 、 子 の 狩野永納 ( 1631-1697 ) が まとめ た もの が 、 日本人 による 本格的 な 絵画史 として は 最初 の もの と さ れる 『 本朝画史 』 で ある 。
 106木挽町家 から は 、 江戸時代後期 に 狩野典信 ( えいせんいんみちのぶ 、 1730-1790 ) 、 狩野惟信 ( ようせんいんこれのぶ 、 1753-1808 ) 、 狩野栄信 ( いせんいんながのぶ 、 1775-1828 ) 、 狩野養信 ( せいせんいんおさのぶ 、 1786-1846 ) など が 出 て いる 。
 107晴川院養信 は 、 天保 9 年 ( 1838 年 ) と 同 15 年 ( 1844 年 ) に 相次い で 焼失 し た 江戸城 の 西の丸 および 本丸御殿 の 再建 に際し 、 膨大 な 障壁画 の 制作 を 狩野派 の 棟梁 として 指揮 し た 。
 108障壁画 そのもの は 現存 し ない が 、 膨大 な 下絵 が 東京国立博物館 に 所蔵 さ れ て いる 。
 109晴川院 は 古画 の 模写 や 収集 に も 尽力 し た 。
 110一般 に 、 江戸時代後期 の 狩野派絵師 に対する 評価 は あまり 高く ない が 、 20 世紀 後半 以降 の 研究 の 進展 により 、 晴川院 は 古典絵画 から 幕末 の 新しい 絵画 の 動き まで 熱心 に 研究 し た 、 高い 技術 を もっ た 絵師 で あっ た こと が 認識 さ れる よう に なり 、 再評価 の 動き が ある 。
 111晴川院 の 次代 の 狩野雅信 ( しょうせんいんただのぶ 、 1823-1880 ) の 門下 に は 、 明治初期 の 日本画壇 の 重鎮 と なっ た 狩野芳崖 ( 下関出身 、 1828-1888 ) と 橋本雅邦 ( 川越出身 、 1835-1908 ) が い た 。
 112芳崖 と 雅邦 は とも に 地方 の 狩野派系絵師 の 家 の 出身 で あっ た 。
 113職業絵師集団 として の 狩野派 は 、 パトロン で あっ た 江戸幕府 の 終焉 とともに その 歴史的役目 を 終え た 。